(ユウキくんの襟足、ちょっと限界かも。)
そう思ったのは、たぶん三日くらい前だった。
マットレスの縁に座って煙草を吸っていたユウキが、片手で後ろ髪をぐしゃぐしゃとかき上げたとき、ネオンの色が首の後ろに落ちて、そこだけ妙に長く見えた。
首筋に沿って跳ねた毛先が、なんか、だらしない。
いや、だらしないっていうか。
ユウキくんって、そういう“ちょっと崩れてる感じ”が似合う人ではあるんだけど、それにも限度がある。
その一歩手前くらいで止めておかないと、ただ生活終わってる人みたいになる。
それは違う。
「ユウキくん、襟足うざくない?」
冷蔵庫の前でしゃがみながら言うと、マットレスの方から「別に」と気のない声が返ってきた。
「うざいよ、絶対。寝癖つくと一気に終わる長さ入ってる」
「終わってんのはおまえの言い方だろ」
「耳周りも重いし」
「はいはい」
「前髪も、もうちょいで目に刺さる」
「おまえほんと人の頭ばっか見てんな」
カイは缶チューハイを一本抜いて、振り返った。
「見る仕事なんで」
ユウキが煙を吐きながら、くだらなそうに鼻で笑う。
その時点では、まあいつもの軽口で終わった。
でもそれからも、カイは気になって仕方なかった。
朝、洗面台の前で顔を洗ってる時も。
BARに出る前、ユウキがワックスもつけずに適当に髪をいじっている時も。
ソファに寝転んでスマホを見てる横顔も。
伸びてきた毛が、絶妙に邪魔だ。
ユウキは、作り込まない方がいい。
ちゃんとセットして、分け目なんか作ったらだめだ。
急に夜の男っぽくなるし、気取って見えるし、何よりつまらない。
ちょっと前髪が落ちて、耳周りだけすっきりしてて、手ぐしで崩した時に一番かっこいいくらいがいい。
そういうの、たぶん本人は一生わからない。
わからなくていいけど。
わからないまま放っておかれるのは、なんか嫌だった。
「……あ、やっぱ無理。切りたい」
風呂上がりのユウキを見て、カイは言った。
洗面台の前で、ユウキがタオルを頭にかぶせたまま雑にわしゃわしゃ拭いている。
濡れた髪が首筋に張りついて、余計に長さが目立っていた。
「は?」
「襟足」
「急になに」
「今すぐ切りたい」
「美容師の発作?」
「そう」
即答すると、ユウキが鏡越しにちらっとこっちを見る。
「いや、店行けばよくね」
「もったいないじゃん」
「何が」
「この程度なら家でいけるし」
カイはユウキの後ろに回って、濡れた襟足を指先でつまんだ。
思ったより長い。
首に張りついた毛を軽く払うと、ユウキが少しだけ肩をすくめる。
「ちょっとツーブロック寄り、試してみない?」
「やだよ、急にチャラくなんの」
「ガッツリじゃなくて。耳周りと襟足だけ軽くして、上は残すやつ」
「今の感じでも別によくね?」
「今も悪くないけど、絶対そっちのが似合う」
「なんでおまえが断言すんだよ」
「毎日見てるからですけど」
ユウキが鏡の中で、ちょっとだけ嫌そうな顔をする。
でも本気で拒否してる感じではない。
カイはそれを見逃さなかった。
「分け目作る感じにはしないし」
「……分け目?」
「うん。ユウキくん、分けると急に“やってる男”感出る」
「なんだそれ」
「悪い意味で」
「ひど」
「ちゃんとしすぎるっていうか。つまんない」
「つまんないってなんだよ」
「今くらいの、ちょっと落ちてくる感じが一番いいの」
「おまえ、ほんと人の頭にうるせえな」
「だって大事だし」
言ってから、自分でもちょっとだけ変なことを言った気がした。
けどユウキはそこを拾わず、タオルを肩にかけたまま鏡の中の自分を見ている。
「……どんくらい切るんだよ」
「任せてくれたらいい感じにする」
「その台詞、美容院で言われるやつじゃん」
「だって美容師だし」
「家だけど」
「むしろ家のが本気出る」
ユウキが、はあ、と息を吐いた。
「失敗したらどうすんの」
「しない」
「その自信どっから来んだよ」
「俺がユウキくんの頭、一番見てるから」
今度は、さっきより少しだけ長く沈黙が落ちた。
ユウキが鏡越しにカイを見る。
その視線が一瞬だけまっすぐで、カイは先に逸らした。
ユニットバスの浴槽の縁にユウキを座らせる。
シャンプーをどけて、それを置いていた場所に、霧吹きとコームとクリップとハサミを並べたら、急にそこだけ仕事場みたいになった。
「なんかいやだな、この感じ」
「何が」
「逃げられない感」
「逃げないでよ。左右ズレるから」
「もう客みたいに言うじゃん」
「気になるなら鏡持ってていいよ、見ながら」
普段は使わない、小さい卓上用鏡をユウキに手渡す。
カイはタオルを細く折って、ユウキの首に巻いた。
その上からもう一枚肩にかける。
首元に指が触れると、ユウキの喉が小さく上下した。
狭いユニットバスに、シャンプーと洗剤の匂いが混ざっている。
風呂上がりの湿気がまだ少し残っていて、鏡の端がうっすら曇っていた。
カイは霧吹きで、ユウキの髪をもう一度湿らせる。
「前向いて」
「はいはい」
コームを通すと、濡れた毛が素直に落ちた。
やっぱりちょうどいい長さを超えている。
耳の後ろも、襟足も、少しだけ余計だ。
こういう“少しだけ”が、一番気になる。
「動かないでね」
「おまえ、その言い方ほんと病院みたい」
「じゃあ喋らないで」
「横暴だな」
カイはまず、耳周りから入った。
はさみを入れるたび、細い髪がぱらぱら落ちる。
ユウキの髪は柔らかい。
でも細すぎなくて、ちょっとだけ癖がある。
この人は、寝不足とか、煙草とか、酒とか、そういうのが全部少しずつ髪に出る。
乾いてるとか、重いとか、妙にまとまりすぎてるとか。
今日のこれは、たぶん少し放っておかれた髪だ。
それを今、自分が整えている。
「ねえ」
「なに」
「ほんとに変なことすんなよ」
「しないって」
「おまえ、たまに攻めたくなる時あるじゃん」
「あるけどユウキくんにはやんないよ」
「今の一瞬安心していいのかわかんなかった」
「ユウキくんは盛るより崩した方がかっこいいし」
「言い方」
耳の上を少しだけ軽くして、サイドの内側を整える。
表面の長さは落とさず、下だけをすっきりさせると、形が急に締まった。
うん、やっぱりこっちだ。
「ちょっと顎引いて」
「ん」
ユウキが素直に従う。
そのまま襟足にハサミを入れていく。
うなじの生え際が近い。
濡れた毛を持ち上げるたび、首の後ろの皮膚が薄く見えて、変に意識しそうになるのをカイは無視した。
仕事中と同じだ。
いつもやってること。
ただ、いつもより静かで、近いだけ。
「……なんかさ」
「うん」
「そこ触られると変な感じする」
「どこ」
「襟足」
「くすぐったい?」
「それもある」
カイはちょっと笑った。
「子どもかよ」
「うるせえ」
そのまま、軽く首元の毛を払う。
ユウキがまた少し肩をすくめる。
その反応が面白くて、でも面白がりすぎると怒られそうで、カイは口元だけで笑った。
上の髪をクリップで留めて、サイドの内側を整えていく。
「思ったよりちゃんとしてんじゃん」
「何だと思ってたの」
「家だし、適当にバチバチいくのかと」
「そんな床屋みたいなことしないし」
「床屋に謝れよ」
「謝んない。俺の方がうまいし」
「言うねえ」
小さい鏡越しに目が合って、カイはちょっとだけ眉を上げる。
「ほら。今の角度とか、絶対こっちのがいい」
「まだ切ってる途中だろ」
「途中でもわかる」
「自信すご」
カイは前髪に手を伸ばして、軽くつまんだ。
重さは残す。
でも落ちすぎると野暮ったいから、ほんの少しだけ先を整える。
ユウキは額を全部出さない方がいい。
前髪が少し視界にかかるくらいが、一番ユウキらしい。
その“らしい”を、自分だけがわかっているみたいで、少し嫌だった。
でも、少しだけ気分もよかった。
「前髪切りすぎんなよ」
「切りすぎないよ。ここ命だから」
「どこが」
「全部」
「雑」
霧吹きを置いて、カイは少し離れて全体を見る。
耳周り、襟足、前髪、トップの重さ。
全部のバランスを見て、もう一度だけ細かく毛先を整える。
ユウキの頭の形はきれいだ。
だから変に作り込まなくていい。
何もしてないように見えて、ちゃんと整ってるくらいがちょうどいい。
そのちょうどよさを保つのが、自分の仕事みたいに思えてしまう。
別に頼まれてもないのに。
「よし、終わり」
「早」
「見ていいよ」
ユウキが首元のタオルを少しずらして、鏡を見る。
濡れたままでも、輪郭がすっきりして見えた。
耳周りが軽くなって、襟足の余分な重さがなくなった分、前髪の落ち方がちょうどいい。
無造作なのに、ちゃんとしてる。
ちゃんとしてるのに、やりすぎてない。
ユウキの良さが、一番出る形だ。
「……お」
「でしょ」
「なんか」
「うん」
「思ったより、いいかも」
浴槽内に落ちた髪の毛を軽く集めながら、
カイはふっと笑った。
「思ったよりって何」
「もっと攻めてくるかと思った」
「ユウキくんには攻めないって」
「それもそれで腹立つな」
ユウキが鏡に近づいて、前髪を指で少しかき上げる。
「あ、だめ」
反射で声が出た。
「は?」
「そこ崩さないで」
「うるせえな」
「今めっちゃいいから」
「自分で生きてく髪なんだけど」
「いや、そこは俺が整えたい」
「こわ」
言われてから、カイは自分でもちょっと怖いことを言った気がした。
でももう遅い。
ユウキは笑ってるのか呆れてるのかわからない顔で鏡を見て、それから首元に落ちた毛を払った。
黒い髪が、肩から何本か床に落ちる。
その量を見て、カイはなんとなく思った。
少ない。
昔より、ずっと。
落ちる髪の量も。
風呂場に残るシャンプーの減りも。
洗濯機の中にたまる服の数も。
何もかも、少なくなった。
それなのに、部屋だけがまだ時々、四人分の顔をしている。
「なに見てんの」
ユウキの声で、カイは我に返った。
「いや、別に」
「変なとこ切ってないよな」
「切ってないし」
「じゃあその顔なんだよ」
「満足してるだけ」
ユウキが立ち上がって、ユニットバス内の角にある洗面台の鏡を見ながら横髪を触っている。
「でもこれ、すぐ伸びるだろ」
「うん」
「めんどくさ」
「だから月一くらいで見せて」
「美容院かよ」
「いや、俺が見るから」
「勝手に定期メンテにすんな」
カイは軽く集めた髪を用意していたコンビニ袋にいれて、入り口を縛った。
「伸びたらすぐ言って」
「言わなくてもおまえが勝手に気づくだろ」
「まあ、それはそう」
ユウキが、鏡越しに少しだけ笑う。
その顔が、切る前よりちゃんとユウキに見えて、カイは少しだけ安心した。
シャワーの水滴がまだぽつ、ぽつ、と落ちている音がする。
狭い洗面所に二人分の湿気がこもっていて、鏡の曇りの向こうに並んだ顔がぼんやり滲んで見えた。
「シャワーで流しなよ」
「首かゆい」
「でしょ」
「おまえが切ったんだろ」
「文句言うなら次から店で有料でやるけど」
「それはだるい」
ユウキがそう言って、タオルを首から外す。
そのまま風呂場のドアを開けて、振り返りもせずに言った。
「……次も頼むわ」
一瞬、カイは何も言えなかった。
たぶんユウキにとっては、本当に何でもない一言だった。
でもそれでよかった。
「ん」
短く返して、カイは床に残った細い髪をもう一度集めた。
指先にまとわりつく黒い毛を見ながら、少しだけ息を吐く。
次がある。
それだけで、今夜は充分だった。
ユウキがシャワーで首元を流して戻ってくる。
洗面台の前で、タオルを頭にかぶったまま雑に髪を拭いている。
「ちょ、待って」
カイが反射で声をかける。
「何」
「その拭き方やめて」
「なんでだよ」
「今せっかくいい感じに切ったのに」
「まだ濡れてるだけだろ」
「濡れてる時が一番大事なんだけど」
ユウキが面倒くさそうに、タオルを頭に乗せたまま鏡越しにこっちを見る。
「美容師うるせえ」
「うるさいよ、そこは」
カイは笑いながら、ドライヤーを引っ張り出した。
「こっち来て」
「いや、自分でやる」
「絶対適当に乾かすじゃん」
「乾けば同じだろ」
「同じじゃない」
「めんどくせえな」
そう言いながらも、ユウキは完全には拒まない。
カイはその隙にドライヤーのコードを引き出して、コンセントを差し込んだ。
「座って」
「ここで?」
「うん。前向いて」
ユウキが小さく息を吐いて、さっきまで自分が座っていた浴槽の縁の水気を軽くはらって、もう一度腰を下ろす。
耳周りも、襟足も、ちゃんとすっきりしていて、濡れたままでも形がわかる。
やっぱりこっちで正解だった。
「ほら、タオル貸して、あと鏡持って」
ユウキの頭に手を伸ばして、濡れた髪を軽く押さえるように拭く。
さっきまで切っていた流れのまま、指が自然に動いた。
「……おまえ、ほんと最後までやる気だな」
「当たり前じゃん。乾かすまでがセットだから」
「歯医者みたいに言うな」
「それは知らない」
ユウキの髪は、まだ首筋のあたりが少し濡れている。
タオルでざっと水気を取ってから、カイはドライヤーのスイッチを入れた。
低い音が、狭い風呂場に広がる。
温風を後ろから当てると、ユウキの濡れた髪がふわっと持ち上がった。
「顎ちょっと引いて」
「はいはい」
「耳出して」
「注文多」
ユウキが片手で耳を押さえる。
その仕草が妙に素直で、カイは少しだけ笑った。
襟足から乾かしていく。
さっき切ったばかりの生え際に風を通すと、短くなった毛先がちゃんと首から離れていくのがわかる。
うん、やっぱりいい。
「そこ、跳ねやすいから」
「どこ」
「右の後ろ」
「わかんねえ」
「俺はわかる」
「こわ」
ユウキが眉をひそめる。
でも逃げる気はないみたいで、そのまま大人しく前を向いていた。
カイは指を入れて、根元を少し起こすように乾かしていく。
分け目がつかないように、前から後ろへ風を逃がして、トップは潰しすぎない。
こういうのは、たぶん本人には一生わからない。
でも、わからなくても困らないようにしておくのが、自分の役目みたいに思ってしまう。
「前髪、下ろしたままでいい?」
「知らね」
「いや、そこ一番大事なんだけど」
「おまえの中ではな」
「俺の中ではね」
前髪を指で持ち上げて、根元だけに風を入れる。
分け目がつかないように左右に散らしながら、落ちる位置を整えていく。
ユウキは、額を全部出さない方がいい。
少しだけ影が落ちてるくらいが、一番しっくりくる。
「……なんかさ」
「ん?」
「さっきから、ずっと楽しそうだな」
「そう?」
「そう」
「まあ、うん」
「なにその反応」
「いや、ちゃんと似合ってるから」
言うと、ユウキが少しだけ視線を上げて鏡の中でこっちを見る。
そのまま、何も言わずにまた前を向いた。
ドライヤーの音だけが、しばらく二人の間に残る。
耳の後ろ、横髪、前髪、最後に全体の形を手ぐしで整えて、カイは少し離れて見た。
濡れていた時より、ずっといい。
やりすぎてないのに、ちゃんとしてる。
その“ちょうどいい”に、ちゃんと戻っている。
「はい、終わり」
ドライヤーの音が止まる。
急に静かになった洗面所で、ユウキが自分の前髪を指で軽く触った。
「あ、だめ」
「また?」
「今の崩し方ちがう」
カイは前から手を伸ばして、ユウキの前髪を少しだけ直した。
指先で毛流れを散らして、落ちる位置を整える。
ほんの数秒のことなのに、顔が近い。
でも今さらそこに意味をつけるのも違う気がして、カイは何も言わなかった。
「……細か」
「大事なんだよ、そこ」
ユウキが、鏡の中の自分を見ている。
耳周りを触って、襟足を指でなぞって、それから前髪を軽く揺らした。
「どう?」
「……まあ」
「なにその言い方」
「いいんじゃね」
「雑」
「でも、確かに軽い」
「でしょ」
「あと、なんか」
「うん」
「ちゃんとして見える」
「でも分け目ついてないでしょ」
「そこへのこだわり強すぎるだろ」
「そこ超大事」
ユウキが呆れたみたいに笑って、それからタオルで首元を押さえる。
その横顔を見ながら、カイはなんとなく思った。
こういうことなのかもしれない。
何かを大きく変えるんじゃなくて。
伸びた髪を切って、
乾かして、
ちゃんとその人に似合う形に戻す。
そういうことでしか、少しずつ進まないものもある。
「ありがと」
ぼそっと言われて、カイは一瞬だけ瞬きをした。
「……え、今ちゃんとお礼言った?」
「言ったけど」
「珍し」
「二度と言わない」
「ごめんごめん」
ユウキが立ち上がって、洗面台の端に置いてあった煙草を取る。
その時、さっき整えた前髪がちょうどよく揺れて、カイは少しだけ満足した。
「でもこれ、すぐ伸びるんだろ」
「うん」
「だる」
「だから言ったじゃん。ちょいツーブロ寄りだと頻度は増えるって」
「おまえの趣味じゃん、それ」
「そうだよ」
「開き直んな」
「でも、ちゃんとそこチェックするから」
「……勝手にしろ」
ユウキはそう言って、風呂場を出ていく。
その言い方が、嫌がってるんじゃなくて、もう半分許してるやつなのをカイは知っていた。
洗面所の鏡には、まだ少しだけ湿気が残っている。
さっきまでそこに映っていたユウキの頭の形を思い出しながら、カイは切り落とした髪の残りを指先で払った。
次も、たぶん自分が見るんだろう。
そう思ったら、少しだけ気分がよかった。
(第10話「整える」おわり)
そう思ったのは、たぶん三日くらい前だった。
マットレスの縁に座って煙草を吸っていたユウキが、片手で後ろ髪をぐしゃぐしゃとかき上げたとき、ネオンの色が首の後ろに落ちて、そこだけ妙に長く見えた。
首筋に沿って跳ねた毛先が、なんか、だらしない。
いや、だらしないっていうか。
ユウキくんって、そういう“ちょっと崩れてる感じ”が似合う人ではあるんだけど、それにも限度がある。
その一歩手前くらいで止めておかないと、ただ生活終わってる人みたいになる。
それは違う。
「ユウキくん、襟足うざくない?」
冷蔵庫の前でしゃがみながら言うと、マットレスの方から「別に」と気のない声が返ってきた。
「うざいよ、絶対。寝癖つくと一気に終わる長さ入ってる」
「終わってんのはおまえの言い方だろ」
「耳周りも重いし」
「はいはい」
「前髪も、もうちょいで目に刺さる」
「おまえほんと人の頭ばっか見てんな」
カイは缶チューハイを一本抜いて、振り返った。
「見る仕事なんで」
ユウキが煙を吐きながら、くだらなそうに鼻で笑う。
その時点では、まあいつもの軽口で終わった。
でもそれからも、カイは気になって仕方なかった。
朝、洗面台の前で顔を洗ってる時も。
BARに出る前、ユウキがワックスもつけずに適当に髪をいじっている時も。
ソファに寝転んでスマホを見てる横顔も。
伸びてきた毛が、絶妙に邪魔だ。
ユウキは、作り込まない方がいい。
ちゃんとセットして、分け目なんか作ったらだめだ。
急に夜の男っぽくなるし、気取って見えるし、何よりつまらない。
ちょっと前髪が落ちて、耳周りだけすっきりしてて、手ぐしで崩した時に一番かっこいいくらいがいい。
そういうの、たぶん本人は一生わからない。
わからなくていいけど。
わからないまま放っておかれるのは、なんか嫌だった。
「……あ、やっぱ無理。切りたい」
風呂上がりのユウキを見て、カイは言った。
洗面台の前で、ユウキがタオルを頭にかぶせたまま雑にわしゃわしゃ拭いている。
濡れた髪が首筋に張りついて、余計に長さが目立っていた。
「は?」
「襟足」
「急になに」
「今すぐ切りたい」
「美容師の発作?」
「そう」
即答すると、ユウキが鏡越しにちらっとこっちを見る。
「いや、店行けばよくね」
「もったいないじゃん」
「何が」
「この程度なら家でいけるし」
カイはユウキの後ろに回って、濡れた襟足を指先でつまんだ。
思ったより長い。
首に張りついた毛を軽く払うと、ユウキが少しだけ肩をすくめる。
「ちょっとツーブロック寄り、試してみない?」
「やだよ、急にチャラくなんの」
「ガッツリじゃなくて。耳周りと襟足だけ軽くして、上は残すやつ」
「今の感じでも別によくね?」
「今も悪くないけど、絶対そっちのが似合う」
「なんでおまえが断言すんだよ」
「毎日見てるからですけど」
ユウキが鏡の中で、ちょっとだけ嫌そうな顔をする。
でも本気で拒否してる感じではない。
カイはそれを見逃さなかった。
「分け目作る感じにはしないし」
「……分け目?」
「うん。ユウキくん、分けると急に“やってる男”感出る」
「なんだそれ」
「悪い意味で」
「ひど」
「ちゃんとしすぎるっていうか。つまんない」
「つまんないってなんだよ」
「今くらいの、ちょっと落ちてくる感じが一番いいの」
「おまえ、ほんと人の頭にうるせえな」
「だって大事だし」
言ってから、自分でもちょっとだけ変なことを言った気がした。
けどユウキはそこを拾わず、タオルを肩にかけたまま鏡の中の自分を見ている。
「……どんくらい切るんだよ」
「任せてくれたらいい感じにする」
「その台詞、美容院で言われるやつじゃん」
「だって美容師だし」
「家だけど」
「むしろ家のが本気出る」
ユウキが、はあ、と息を吐いた。
「失敗したらどうすんの」
「しない」
「その自信どっから来んだよ」
「俺がユウキくんの頭、一番見てるから」
今度は、さっきより少しだけ長く沈黙が落ちた。
ユウキが鏡越しにカイを見る。
その視線が一瞬だけまっすぐで、カイは先に逸らした。
ユニットバスの浴槽の縁にユウキを座らせる。
シャンプーをどけて、それを置いていた場所に、霧吹きとコームとクリップとハサミを並べたら、急にそこだけ仕事場みたいになった。
「なんかいやだな、この感じ」
「何が」
「逃げられない感」
「逃げないでよ。左右ズレるから」
「もう客みたいに言うじゃん」
「気になるなら鏡持ってていいよ、見ながら」
普段は使わない、小さい卓上用鏡をユウキに手渡す。
カイはタオルを細く折って、ユウキの首に巻いた。
その上からもう一枚肩にかける。
首元に指が触れると、ユウキの喉が小さく上下した。
狭いユニットバスに、シャンプーと洗剤の匂いが混ざっている。
風呂上がりの湿気がまだ少し残っていて、鏡の端がうっすら曇っていた。
カイは霧吹きで、ユウキの髪をもう一度湿らせる。
「前向いて」
「はいはい」
コームを通すと、濡れた毛が素直に落ちた。
やっぱりちょうどいい長さを超えている。
耳の後ろも、襟足も、少しだけ余計だ。
こういう“少しだけ”が、一番気になる。
「動かないでね」
「おまえ、その言い方ほんと病院みたい」
「じゃあ喋らないで」
「横暴だな」
カイはまず、耳周りから入った。
はさみを入れるたび、細い髪がぱらぱら落ちる。
ユウキの髪は柔らかい。
でも細すぎなくて、ちょっとだけ癖がある。
この人は、寝不足とか、煙草とか、酒とか、そういうのが全部少しずつ髪に出る。
乾いてるとか、重いとか、妙にまとまりすぎてるとか。
今日のこれは、たぶん少し放っておかれた髪だ。
それを今、自分が整えている。
「ねえ」
「なに」
「ほんとに変なことすんなよ」
「しないって」
「おまえ、たまに攻めたくなる時あるじゃん」
「あるけどユウキくんにはやんないよ」
「今の一瞬安心していいのかわかんなかった」
「ユウキくんは盛るより崩した方がかっこいいし」
「言い方」
耳の上を少しだけ軽くして、サイドの内側を整える。
表面の長さは落とさず、下だけをすっきりさせると、形が急に締まった。
うん、やっぱりこっちだ。
「ちょっと顎引いて」
「ん」
ユウキが素直に従う。
そのまま襟足にハサミを入れていく。
うなじの生え際が近い。
濡れた毛を持ち上げるたび、首の後ろの皮膚が薄く見えて、変に意識しそうになるのをカイは無視した。
仕事中と同じだ。
いつもやってること。
ただ、いつもより静かで、近いだけ。
「……なんかさ」
「うん」
「そこ触られると変な感じする」
「どこ」
「襟足」
「くすぐったい?」
「それもある」
カイはちょっと笑った。
「子どもかよ」
「うるせえ」
そのまま、軽く首元の毛を払う。
ユウキがまた少し肩をすくめる。
その反応が面白くて、でも面白がりすぎると怒られそうで、カイは口元だけで笑った。
上の髪をクリップで留めて、サイドの内側を整えていく。
「思ったよりちゃんとしてんじゃん」
「何だと思ってたの」
「家だし、適当にバチバチいくのかと」
「そんな床屋みたいなことしないし」
「床屋に謝れよ」
「謝んない。俺の方がうまいし」
「言うねえ」
小さい鏡越しに目が合って、カイはちょっとだけ眉を上げる。
「ほら。今の角度とか、絶対こっちのがいい」
「まだ切ってる途中だろ」
「途中でもわかる」
「自信すご」
カイは前髪に手を伸ばして、軽くつまんだ。
重さは残す。
でも落ちすぎると野暮ったいから、ほんの少しだけ先を整える。
ユウキは額を全部出さない方がいい。
前髪が少し視界にかかるくらいが、一番ユウキらしい。
その“らしい”を、自分だけがわかっているみたいで、少し嫌だった。
でも、少しだけ気分もよかった。
「前髪切りすぎんなよ」
「切りすぎないよ。ここ命だから」
「どこが」
「全部」
「雑」
霧吹きを置いて、カイは少し離れて全体を見る。
耳周り、襟足、前髪、トップの重さ。
全部のバランスを見て、もう一度だけ細かく毛先を整える。
ユウキの頭の形はきれいだ。
だから変に作り込まなくていい。
何もしてないように見えて、ちゃんと整ってるくらいがちょうどいい。
そのちょうどよさを保つのが、自分の仕事みたいに思えてしまう。
別に頼まれてもないのに。
「よし、終わり」
「早」
「見ていいよ」
ユウキが首元のタオルを少しずらして、鏡を見る。
濡れたままでも、輪郭がすっきりして見えた。
耳周りが軽くなって、襟足の余分な重さがなくなった分、前髪の落ち方がちょうどいい。
無造作なのに、ちゃんとしてる。
ちゃんとしてるのに、やりすぎてない。
ユウキの良さが、一番出る形だ。
「……お」
「でしょ」
「なんか」
「うん」
「思ったより、いいかも」
浴槽内に落ちた髪の毛を軽く集めながら、
カイはふっと笑った。
「思ったよりって何」
「もっと攻めてくるかと思った」
「ユウキくんには攻めないって」
「それもそれで腹立つな」
ユウキが鏡に近づいて、前髪を指で少しかき上げる。
「あ、だめ」
反射で声が出た。
「は?」
「そこ崩さないで」
「うるせえな」
「今めっちゃいいから」
「自分で生きてく髪なんだけど」
「いや、そこは俺が整えたい」
「こわ」
言われてから、カイは自分でもちょっと怖いことを言った気がした。
でももう遅い。
ユウキは笑ってるのか呆れてるのかわからない顔で鏡を見て、それから首元に落ちた毛を払った。
黒い髪が、肩から何本か床に落ちる。
その量を見て、カイはなんとなく思った。
少ない。
昔より、ずっと。
落ちる髪の量も。
風呂場に残るシャンプーの減りも。
洗濯機の中にたまる服の数も。
何もかも、少なくなった。
それなのに、部屋だけがまだ時々、四人分の顔をしている。
「なに見てんの」
ユウキの声で、カイは我に返った。
「いや、別に」
「変なとこ切ってないよな」
「切ってないし」
「じゃあその顔なんだよ」
「満足してるだけ」
ユウキが立ち上がって、ユニットバス内の角にある洗面台の鏡を見ながら横髪を触っている。
「でもこれ、すぐ伸びるだろ」
「うん」
「めんどくさ」
「だから月一くらいで見せて」
「美容院かよ」
「いや、俺が見るから」
「勝手に定期メンテにすんな」
カイは軽く集めた髪を用意していたコンビニ袋にいれて、入り口を縛った。
「伸びたらすぐ言って」
「言わなくてもおまえが勝手に気づくだろ」
「まあ、それはそう」
ユウキが、鏡越しに少しだけ笑う。
その顔が、切る前よりちゃんとユウキに見えて、カイは少しだけ安心した。
シャワーの水滴がまだぽつ、ぽつ、と落ちている音がする。
狭い洗面所に二人分の湿気がこもっていて、鏡の曇りの向こうに並んだ顔がぼんやり滲んで見えた。
「シャワーで流しなよ」
「首かゆい」
「でしょ」
「おまえが切ったんだろ」
「文句言うなら次から店で有料でやるけど」
「それはだるい」
ユウキがそう言って、タオルを首から外す。
そのまま風呂場のドアを開けて、振り返りもせずに言った。
「……次も頼むわ」
一瞬、カイは何も言えなかった。
たぶんユウキにとっては、本当に何でもない一言だった。
でもそれでよかった。
「ん」
短く返して、カイは床に残った細い髪をもう一度集めた。
指先にまとわりつく黒い毛を見ながら、少しだけ息を吐く。
次がある。
それだけで、今夜は充分だった。
ユウキがシャワーで首元を流して戻ってくる。
洗面台の前で、タオルを頭にかぶったまま雑に髪を拭いている。
「ちょ、待って」
カイが反射で声をかける。
「何」
「その拭き方やめて」
「なんでだよ」
「今せっかくいい感じに切ったのに」
「まだ濡れてるだけだろ」
「濡れてる時が一番大事なんだけど」
ユウキが面倒くさそうに、タオルを頭に乗せたまま鏡越しにこっちを見る。
「美容師うるせえ」
「うるさいよ、そこは」
カイは笑いながら、ドライヤーを引っ張り出した。
「こっち来て」
「いや、自分でやる」
「絶対適当に乾かすじゃん」
「乾けば同じだろ」
「同じじゃない」
「めんどくせえな」
そう言いながらも、ユウキは完全には拒まない。
カイはその隙にドライヤーのコードを引き出して、コンセントを差し込んだ。
「座って」
「ここで?」
「うん。前向いて」
ユウキが小さく息を吐いて、さっきまで自分が座っていた浴槽の縁の水気を軽くはらって、もう一度腰を下ろす。
耳周りも、襟足も、ちゃんとすっきりしていて、濡れたままでも形がわかる。
やっぱりこっちで正解だった。
「ほら、タオル貸して、あと鏡持って」
ユウキの頭に手を伸ばして、濡れた髪を軽く押さえるように拭く。
さっきまで切っていた流れのまま、指が自然に動いた。
「……おまえ、ほんと最後までやる気だな」
「当たり前じゃん。乾かすまでがセットだから」
「歯医者みたいに言うな」
「それは知らない」
ユウキの髪は、まだ首筋のあたりが少し濡れている。
タオルでざっと水気を取ってから、カイはドライヤーのスイッチを入れた。
低い音が、狭い風呂場に広がる。
温風を後ろから当てると、ユウキの濡れた髪がふわっと持ち上がった。
「顎ちょっと引いて」
「はいはい」
「耳出して」
「注文多」
ユウキが片手で耳を押さえる。
その仕草が妙に素直で、カイは少しだけ笑った。
襟足から乾かしていく。
さっき切ったばかりの生え際に風を通すと、短くなった毛先がちゃんと首から離れていくのがわかる。
うん、やっぱりいい。
「そこ、跳ねやすいから」
「どこ」
「右の後ろ」
「わかんねえ」
「俺はわかる」
「こわ」
ユウキが眉をひそめる。
でも逃げる気はないみたいで、そのまま大人しく前を向いていた。
カイは指を入れて、根元を少し起こすように乾かしていく。
分け目がつかないように、前から後ろへ風を逃がして、トップは潰しすぎない。
こういうのは、たぶん本人には一生わからない。
でも、わからなくても困らないようにしておくのが、自分の役目みたいに思ってしまう。
「前髪、下ろしたままでいい?」
「知らね」
「いや、そこ一番大事なんだけど」
「おまえの中ではな」
「俺の中ではね」
前髪を指で持ち上げて、根元だけに風を入れる。
分け目がつかないように左右に散らしながら、落ちる位置を整えていく。
ユウキは、額を全部出さない方がいい。
少しだけ影が落ちてるくらいが、一番しっくりくる。
「……なんかさ」
「ん?」
「さっきから、ずっと楽しそうだな」
「そう?」
「そう」
「まあ、うん」
「なにその反応」
「いや、ちゃんと似合ってるから」
言うと、ユウキが少しだけ視線を上げて鏡の中でこっちを見る。
そのまま、何も言わずにまた前を向いた。
ドライヤーの音だけが、しばらく二人の間に残る。
耳の後ろ、横髪、前髪、最後に全体の形を手ぐしで整えて、カイは少し離れて見た。
濡れていた時より、ずっといい。
やりすぎてないのに、ちゃんとしてる。
その“ちょうどいい”に、ちゃんと戻っている。
「はい、終わり」
ドライヤーの音が止まる。
急に静かになった洗面所で、ユウキが自分の前髪を指で軽く触った。
「あ、だめ」
「また?」
「今の崩し方ちがう」
カイは前から手を伸ばして、ユウキの前髪を少しだけ直した。
指先で毛流れを散らして、落ちる位置を整える。
ほんの数秒のことなのに、顔が近い。
でも今さらそこに意味をつけるのも違う気がして、カイは何も言わなかった。
「……細か」
「大事なんだよ、そこ」
ユウキが、鏡の中の自分を見ている。
耳周りを触って、襟足を指でなぞって、それから前髪を軽く揺らした。
「どう?」
「……まあ」
「なにその言い方」
「いいんじゃね」
「雑」
「でも、確かに軽い」
「でしょ」
「あと、なんか」
「うん」
「ちゃんとして見える」
「でも分け目ついてないでしょ」
「そこへのこだわり強すぎるだろ」
「そこ超大事」
ユウキが呆れたみたいに笑って、それからタオルで首元を押さえる。
その横顔を見ながら、カイはなんとなく思った。
こういうことなのかもしれない。
何かを大きく変えるんじゃなくて。
伸びた髪を切って、
乾かして、
ちゃんとその人に似合う形に戻す。
そういうことでしか、少しずつ進まないものもある。
「ありがと」
ぼそっと言われて、カイは一瞬だけ瞬きをした。
「……え、今ちゃんとお礼言った?」
「言ったけど」
「珍し」
「二度と言わない」
「ごめんごめん」
ユウキが立ち上がって、洗面台の端に置いてあった煙草を取る。
その時、さっき整えた前髪がちょうどよく揺れて、カイは少しだけ満足した。
「でもこれ、すぐ伸びるんだろ」
「うん」
「だる」
「だから言ったじゃん。ちょいツーブロ寄りだと頻度は増えるって」
「おまえの趣味じゃん、それ」
「そうだよ」
「開き直んな」
「でも、ちゃんとそこチェックするから」
「……勝手にしろ」
ユウキはそう言って、風呂場を出ていく。
その言い方が、嫌がってるんじゃなくて、もう半分許してるやつなのをカイは知っていた。
洗面所の鏡には、まだ少しだけ湿気が残っている。
さっきまでそこに映っていたユウキの頭の形を思い出しながら、カイは切り落とした髪の残りを指先で払った。
次も、たぶん自分が見るんだろう。
そう思ったら、少しだけ気分がよかった。
(第10話「整える」おわり)
