歌舞伎町残影ポリ

 ピンクのネオンが、部屋の壁でゆらゆら揺れていた。

 小さなミラーボールが窓の外の光を拾って、
 狭いワンルームの天井や床に、薄い色を砕いて散らしている。

 テーブルの上には、缶チューハイが四つ並んでいた。

 冷えた缶の表面に水滴が浮いて、
 丸テーブルの上に小さな輪をいくつも作っている。

「ねえ、ずっとこのままでいれたら最高だね」

 女の声がした。

 黒い髪が揺れて、
 誰かの笑い声がそれに重なる。

 缶を開ける音。
 ビーズクッションが沈む音。
 誰かの足が、誰かの足に触れる気配。
 ネオンのピンクが、四人の顔を同じ色に染めていた。

 ここだけが、完璧だった。

 その光景が、ぶつりと切れた。

 アラームの音が、耳の奥でうるさく鳴っている。
 カイは眉をしかめて飛び起きた。
 枕元のスマホを掴んで時間を見る。
 八時半。

「うわ、やば……」

 声が掠れる。
 美容院の開店準備まで、もう四十分もない。

 夢の中の声がまだ耳に残っていて、
 現実の部屋の狭さに頭がついていかない。

 布団を蹴って立ち上がろうとした瞬間、
 足がビーズクッションに引っかかった。

「っわ」

 積み上げていたクッションがどさっと崩れる。
 カイはよろけて、丸テーブルの角に膝をぶつけた。

「いっ……」

 ガラスの灰皿がカタンと鳴る。
 その横におかれた小さい空き缶の灰皿の底に沈んだ吸い殻が二本、朝の光を鈍く返した。

 マットレスの端で、ユウキが毛布から顔だけ出した。
 まだ半分寝ている顔で、カイの方を見る。

「……何してんだよ」
「ごめん、起こした」

 カイは膝をさすりながら、散らばったビーズクッションを蹴るようにして立ち上がる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 そもそも、この丸テーブルの配置からして邪魔だった。

 正面にソファ。その対面にクイーンサイズのマットレス。
 男二人の生活動線なんて無視して、寝床とくつろぎの場が無理やり向かい合っている。

「ゴミも出せなかった」

 カイが派手な色のリュックを引っ掴みながら言う。
 足元には、空き缶の入ったビニール袋が転がっていた。

「鍵、財布……あー、やば」

 玄関でごそごそやってから、カイが振り返る。

「ユウキくん、鍵お願い」
「ん」

 ユウキが短く返す。
 カイはそのままドアを開けて飛び出していった。

 雨の残りみたいな湿った空気が、一瞬だけ入ってきて、蝉の声が一瞬したがすぐにドアが閉まり、消えていった。

 部屋が静かになった。

 ユウキはしばらく天井を見ていた。
 それから、ゆっくり起き上がる。

 崩れたビーズクッションをひとつずつ持ち上げて、部屋の角へ戻す。

​ 一個、二個、三個。

 自然に積み上げてから、ふと手が止まった。
 三つもいらないだろ、と前にも思った気がする。

​ でも減らさないまま、ずっとそこにある。
 ユウキは思考を打ち切るように手を離した。

​ 次に、丸テーブルの灰皿へ手を伸ばす。
 ガラスの重い灰皿を中央へきっちり戻すと、その手前には、空き缶を潰して作った無造作な灰皿が取り残されていた。

 ユウキはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
 けれど何も言わず、そのままにした。

 ​視線を上げると、マットレスと壁の隙間にワードロープがぴったりと収まっている。
 吊るされた黒いミニワンピースが、朝の光の中で静かに揺れていた。
 その隣には、見覚えのある派手なカラーのジャケット。

​ ソファの真後ろの壁には『I♡歌舞伎町』のネオン。安っぽいピンクの光が、朝の部屋にはひどく場違いだった。

 その下の細い棚には、UFOキャッチャーの景品や、誰の趣味とも言い切れない小物が、整理されないまま並んでいた。

 棚の端にぶら下がったアクリルキーホルダーのひとつには、MIUの名前が入っている。

 もう誰も持ち歩かないのに、
 それだけがずっと、そのままだった。

 壁の写真は、朝の光の中だと少し見えにくかった。
 ネオンで色が飛んでいて、
 誰がどういう顔で笑っているのか、逆によくわからない。

 ユウキはシンクへ向かう。
 伏せてあったグラスを持ち上げる。

 一つ。
 二つ。
 三つ。
 四つ。

 それを食器棚へ戻していく。
 棚の一角だけ、少し空いていた。

 ユウキは四つ目のグラスを持ったまま、ほんの一瞬だけ止まる。

 その場所に置こうとして、やめた。
 少し手前へずらして置く。
 空いたままの奥に、薄く埃が溜まっていた。
 ユウキはそれを見なかったふりをして、棚を閉める。

 全部終わってから、部屋の鍵をかけ直す。

 それからまた、マットレスへ戻った。

 クイーンサイズの寝床は、男二人で使うには少し狭い。
 ユウキはタオルケットを引き寄せて、枕に顔を埋めた。
 マットレスが沈む。

 目を閉じる。

 部屋のどこかに、
 まだ誰かの体温が残っている気がした。

 もちろん、そんなはずはない。

 ピンクのネオンだけが、
 朝の光の中、静かに脈打っていた。
 まるでこの部屋だけ、夜を終われていないみたいだった。



(第1話「ふたり暮らし」おわり)