命取り

「しかし、社長からの指示というのは本当の話で」
「何、何、怖い顔しないでよ、私が悪者みたいになっちゃうじゃない」
 怖いんですけど、なんて言って井上は両手を頬に当てながら後ずさった。怖いから、というより怖がっている自分が可哀想というパフォーマンスだ。適当に会話をしているのはどちらなのかと言いたくもなる。井上はいつもこうだった。他人に厳しく自分には甘いという性質、常に我が身は被害者であり、機嫌を損ねる周囲の全ては加害者という認識を疑わず、信じ切っている。悲劇のお姫様は自分なのだとつゆほども疑っちゃいない。僕はこの井上を嫌いに思っている。もう年齢は五〇を過ぎ、顔にはシワが刻まれ始めている。肩まで伸ばした髪は手入れをされていないのかパサパサとしていてちっとも潤いみたいなものを感じさせない。おまけに若者の真似をしているのか紫色に染めていて、今はそれが脱色してきている時期だ。僕は染髪など試したこともないのだが、普通人が髪を染める時には染めるなりに気を遣わなくてはいけないのだろう。この女は髪の毛に対する気遣いらしいものがちっとも感じ取れない。
 そして何より厄介なのが、この事務所が創業した当時から働いているベテランだという点だ。現社長が事務所を興したのが大体二〇年程前と聞いている。自転車操業で細々とやってきているようだが、二〇年ずっと社長の隣を離れなかったらしい。なら社長の妻か、と疑いたくもなるが左手に指輪はしていない。一方で社長の薬指には指輪がしっかりとはまっている。
 その後も面倒臭いやりとりがのべつ幕なしと繰り広げられ、余計な時間を使う羽目になった。社長へ打撃を与えているのはどちらなのか、もはや判別つかないだろう。いくつかの資料と財布、スマートフォンを助手席に置いて僕は車を発進させた。