命取り

 車外に歌声が漏れ聞こえているだろうというのも承知のまま、ひっそりとした県道を走り終え、右にウィンカーを出して駐車場に入ると、ほとんど無意識にただいまと言っていた。そのすぐ後には、目を大きく見開いていた。見覚えのある軽自動車が一台、ぽつんと駐車してあったからだ。すぐさまハンドルを捌いてその隣に駐車し、急いで道具をかき集めて準備を整えると足早に登山道に向かった。いつもの通り、適当に道を外れて人の世界から脱した。
 やはりこの顔だ、と思った。この顔で、白い顔で植物たちは迎えてくれる。音もなく羽ばたく蛾でさえも、心からの歓迎の意を示してくれているように、僕には感じられた。なるべく奥の方へは行かず、あの、一年近く前に菓彩愛菜と会偶した付近を、まるで犬の川端歩きみたいにしてそぞろ歩いた。やがて一筋の光線が空間を切り裂くように差し込まれて、光の帯に心臓が高く跳ねた。何者かが、ライトを照らして近くを徘徊しているというのがわかった。
 これまでにも、いわゆる『同業者』とばったり山で出くわす経験はあったのだが、やはり慣れるものでない。こればかりは、なるべくなら避けたい。こんな場所でも他人と接触をするなど冗談じゃない。僕は蝶と、名の知らぬ生き物と、菓彩愛菜についての可能性をひっそり抱いてられればそれで満足なのである。だが、しかし。この光が菓彩愛菜のものであるという公算も小さくない。光の帯は持ち主の手の動きに左右され、あっちでもなくこっちでもなく、出鱈目に動いている気配だった。僕は一層足音を大きく立てながら、光のある方角へ足を向けた。
 すっかり手に馴染んだ少々大きめのライトを片手に保持しながら、今にも暗がりに菓彩愛菜の顔が浮かび上がらないかと思った。沈魚落雁閉月羞花の、顔。脳裏に浮かんでこびりつき、離れないあの顔。イメージははっきりしているのに、決して現れてくれない彼女の姿。
 どさどさと、いくらか体重を増したようにして歩いていると不意に「こんばんは」と声がした。あの透き通る声、と言ったらありきたりな表現なのだが、実に数ヶ月ぶりの声が鼓膜を震わせた。
「こんばんは」と、僕も返した。けれど菓彩のいる場所がどこかわからない。
「もしかして、菓彩さんですか」
 ライトの光は漏れているのに、そのきっかけとなる部分、つまり彼女の手が草木に隠されよく見えないのだ。また月が出ているとはいえ宵闇の中だ、距離感も正確には掴みづらい。僕は慎重になって二人の間を迂闊に狭めないよう留意した。彼女は今、止むに止まれぬ事情で人に顔を見せられないのかもしれないのだから。
「その声は、もしかして去年のあの人ですか。会社帰りに蝶を探しにきていた」
 菓彩が僕のことを思い出してくれた。「そうです」と二度か三度繰り返し、僕は嬉しくなった。