命取り

 それから、また僕は一ヶ月ほどを何もなく暮らした。空白だった。今月の出来事をノートに書き起こしてくださいと言われたら、一ヶ月の分を白紙のまま提出することになるだろう。あるいは一旦書いて、全てを消しゴムを使って消してから差し出す。
 イレイス。イレイスでなければ、イレイザー。心の内側で呪文のように唱えていた。
 夏はすっかり本番で、事務所はエアコンが故障して大変な苦労を強いられた。細いビニール紐を二本くくりつけた扇風機が、デスクの部屋にいくつか設置された。鯉のぼりでもするみたいに、扇風機はビニール紐を揺らしていた。窓はもちろん開けたが、時たま強く吹く風によって資料が飛んでいくような場面もあった。人々は苛立った。僕は、アサギマダラについて想いを巡らせ、ため息をついていた。そしてあの蝶々はもうどこか寒冷な地域に飛び立ってしまったのかもしれないと思った。北海道にでも行ってしまったのかもしれない。僕は上空から広大な北海道を見下ろす蝶の姿を何度も思い浮かべた。頭の中で蝶たちは、雲の上でどこに着地点を見出そうか思案顔だった。右でもない、左でもない、ならばこの先か。仲間がついてきているか、首を回してみてみると無数のアサギマダラたちが飛んでいる。さながら渡り鳥の群れのようだ。しかし、僕はアサギマダラがそんなに高く飛んでいるかどうか知らない。もしかしたらもっと低空を進んでいるのかもしれない。詳しいことを知りたかったが、図鑑で読んで詳しくなろうとはしなかった。僕は元来本を毛嫌いしているし、どうせ教わるなら無機質な書体の字によってではなく、あの菓彩愛菜から直接教わる方が良いのだと思っていた。
 ああ、これが恋かもしれない。僕はこの世に生を受けて、やっとの思いで本当の恋を手に入れたかもしれない。心臓はいよいよ昂った。小説ならこういう時、早鐘を打つと書くのだろうか。早鐘とはなんだ、一体どんな見た目をしているのだ、僕にはてんで想像つかない。ただ一つ言えるのは、苦しいという気持ちが無視できない箇所に芽生えているということだけだった。恋を知ったのだ、僕はもう、人間だ。

 やけになった。仕事の終わった後、休日などには、僕は山へ入るようになっていた。山へ入り、そうして例の蝶々を探し、そしてまた、菓彩愛菜の姿がどこかに見えないものかと期待を寄せていた。期待はことごく裏切られる結果になる日々だったが、山にはやはり、変化というものもあるらしい。登山道を離れて険しい傾斜や獣道を通るに従って、山の奥地へと安易に行進できるようになっていった。僕の見渡す景色は山に入る一度ごとに様相を異にしていくようだ。僕はいつしか景色を楽しんだ。景色を楽しんだ次は、植物たちを愛でた。植物の次には、月夜を愛した。僕は出来る限り月の出ている夜を狙って、白々しい光のある夜に山に入った。この無機質さが、冷たさがとても愛おしい。