もう少し粘るのかと尋ねられた。
「僕は、僕ももう帰ります。明日も仕事なので」
「翌日が仕事なのに、よくこんなことをしようと思いましたね。行動力は認めてあげます」
一体何様のつもりなのだろうと眉をひそめずにいられなかった。
「菓彩さんは、またここに来るつもりなのですか」
「ええ、そうよ。もう私にとっては縄張りみたいなものなの。きっと数日のうちにまた来る。ほとんど決定に近い」
また会えたら、その時はよろしくと僕は伝えた。付近には月明かりに照らし出された事物がくっきりと陰影をつけて浮かんでいた。樹木、駐車してある二台の車、そして菓彩愛菜の姿。どれもが夢の切れ端のようで、あまり現実感が湧いてこなかった。触れようと手を伸ばしたら、途端に消えて無くなってしまうのではないかと思えてならない。これが夢であったら、僕は不幸だろうか。それとも幸福だろうか。
僕と彼女とはほぼ同時に車に乗り込んで、僕の方が早く車を発車させた。僕の去った後で彼女が車内で何をしているのか、運転している最中ずっと想像していた。家についてシャワーを浴びながらもずっと頭には取り留めもなく思考の渦が巻いていた。思考がやがて肉体そのものにも伝染し、立ったままで僕は一度大きく震えた。この日は、これ以上には何もない。
その後一ヶ月もの期間、僕はあの夜の出来事を忘れきれずにどこか後ろ髪を引かれるような心境で過ごしていた。蝶々と菓彩愛菜、飲んだアイスコーヒーの味、座った椅子の感触、あともちろん月明かりのこと。何の関連性も持たないような事柄が一本の糸で繋がっているような不思議な感触がした。また面妖なことには、その糸が結んでいる物の中に僕自身が含まれていないような心地がするのだった。一ヶ月前のあの日に、僕は確かに山にいた。低い山で、照葉樹の山だ。菓彩という人はあの山に暮らしている。暮らしていなかったとしても、少なくとも心はあの山に残している、そのはずだ。彼女が山の全く外に出たのを僕は目にしなかった。彼女は心身を山に埋めたくて仕方のない性分だ、きっとそうに違いない。
なら、僕はどうか。
わからない。僕は山に興味関心を抱いていたのではない。一度目は首を括るため、二度目は命を救ってくれたあの蝶に、一目会いたいと切望した。他の生き物や植物にはてんで関心はない、そのはずだ。緑に囲まれて、そこで身を落ち着かせる? 心をすっかり沈めてあの自然と一体になる? とんでもない、僕の心はずっと決まって2DKの狭い部屋にある。そこから出ないことを願っている。あの月明かりの環境は確かに目を奪われてしまうし、事務所で働いているよりはずっと良いだろう。ただそれで全てというのは、やはり、厭だ。
「僕は、僕ももう帰ります。明日も仕事なので」
「翌日が仕事なのに、よくこんなことをしようと思いましたね。行動力は認めてあげます」
一体何様のつもりなのだろうと眉をひそめずにいられなかった。
「菓彩さんは、またここに来るつもりなのですか」
「ええ、そうよ。もう私にとっては縄張りみたいなものなの。きっと数日のうちにまた来る。ほとんど決定に近い」
また会えたら、その時はよろしくと僕は伝えた。付近には月明かりに照らし出された事物がくっきりと陰影をつけて浮かんでいた。樹木、駐車してある二台の車、そして菓彩愛菜の姿。どれもが夢の切れ端のようで、あまり現実感が湧いてこなかった。触れようと手を伸ばしたら、途端に消えて無くなってしまうのではないかと思えてならない。これが夢であったら、僕は不幸だろうか。それとも幸福だろうか。
僕と彼女とはほぼ同時に車に乗り込んで、僕の方が早く車を発車させた。僕の去った後で彼女が車内で何をしているのか、運転している最中ずっと想像していた。家についてシャワーを浴びながらもずっと頭には取り留めもなく思考の渦が巻いていた。思考がやがて肉体そのものにも伝染し、立ったままで僕は一度大きく震えた。この日は、これ以上には何もない。
その後一ヶ月もの期間、僕はあの夜の出来事を忘れきれずにどこか後ろ髪を引かれるような心境で過ごしていた。蝶々と菓彩愛菜、飲んだアイスコーヒーの味、座った椅子の感触、あともちろん月明かりのこと。何の関連性も持たないような事柄が一本の糸で繋がっているような不思議な感触がした。また面妖なことには、その糸が結んでいる物の中に僕自身が含まれていないような心地がするのだった。一ヶ月前のあの日に、僕は確かに山にいた。低い山で、照葉樹の山だ。菓彩という人はあの山に暮らしている。暮らしていなかったとしても、少なくとも心はあの山に残している、そのはずだ。彼女が山の全く外に出たのを僕は目にしなかった。彼女は心身を山に埋めたくて仕方のない性分だ、きっとそうに違いない。
なら、僕はどうか。
わからない。僕は山に興味関心を抱いていたのではない。一度目は首を括るため、二度目は命を救ってくれたあの蝶に、一目会いたいと切望した。他の生き物や植物にはてんで関心はない、そのはずだ。緑に囲まれて、そこで身を落ち着かせる? 心をすっかり沈めてあの自然と一体になる? とんでもない、僕の心はずっと決まって2DKの狭い部屋にある。そこから出ないことを願っている。あの月明かりの環境は確かに目を奪われてしまうし、事務所で働いているよりはずっと良いだろう。ただそれで全てというのは、やはり、厭だ。

