命取り

 驚くべきことに、硬直した体の唇だけは動いた。僕は情けない、小さな声で挨拶を交わせないか半分無意識に試みていた。女性は反応しなかった。月が一旦は雲に隠れ、やがてまた顔を出した。白い光に照らし出された姿をもう一度下から上へと観察していると、彼女が登山服のようなものを身に纏っているのに気がついた。背中には荷物が詰め込まれ巨大化したバックパックがあり、彼女が並の山好きでないことを暗に語っている。さらりと伸びて長い髪の毛は頭の後ろでまとめられていた。顔立ちがよく整い、化粧気もないのに妙な色っぽさを醸し出している。そして目は、やはり月の目だった。
「こんばんは」
 優しく声が響いた。一瞬鈴でも鳴ったのかと勘違いそうになる声だった。響きが美しい。これだけで楽器として成立するような声だ。
「ここで、何をしているのですか」
 誰が言っているのだ、という質問を僕はした。女性は困ったような顔をするでもなく返答してくれる。
「生き物を探しているんです。生き物を」
 まるでやましいところは何もないのだと主張するかのように「生き物を」という部分だけ繰り返した。
「生き物を探すというのは、よくわからないのですが。専門家というのはそのように、つまり木にしがみついて生き物を探しているのですか」
「これは、好きでやっていることなので」
 全く意味をなさない回答だった。僕は改めて彼女の瞳を覗き込んだ。もうあの、月のような光はどこかに消え去ってしまっていた。代わりに現れたのは、どこか怯える小動物の目だった。
「あなたこそ、何をしているのですか。こんな真夜中に、何をしているのですか」
 おどおどしたような声で問う。返答に窮し、その間隙によって女性は自らで答えを得たのだという顔をした。そして背中の荷物をがちゃがちゃ言わせながらこちらに近づいてきた。
「死んでしまおうなどと考えていたのでしょうが、あなたの考えは間違っています。あなたはまだ、死ぬべきではありません。下を見てみてください」
 言われるがまま、彼女の指差した地面を見やった。 
「土の中の分解者もあなたの亡骸を食べたくない、まだ美味しくないと言っています。彼らの言い分によれば、分解者の喜ぶ亡骸は歳を食った老体であると。老体でなければ食べる甲斐もないのだと主張しています。よって、あなたはまだ死んではいけません。死んだところで、歓迎する者はいないのですから」
 彼女の言を否定もできず、ただ喉につっかえた言葉に窒息しそうになりながら懸命に頷いた。とりあえず頷いて見せた。
「自死は犯罪だと私は確信しています」女性はなおも続ける。