命取り

 頂上を目指そうなどという野心には欠けていたので、適当なあたりで道を外れ、昨夜のあの、死のうとした場所に似たところを探し求めていた。昨日とは異なり月が出ている。月明かりに照らされた大地は、嫌によそよそしく、冷たい雰囲気であった。しかしこれこそ真実なのだと直覚した。人の持つ、歪んだ感情の渦などではなく素直であること。自然環境においては素直さが前面に押し出されているのだなと心が休まる思いだった。人は、このようにはできない。人は何らかの企みや、意図や、謀略によって動く。人体を動かしているのは筋肉ではない、欲望なのだ。己が求る利益追求に勤しむべく、欲望という見えない糸に手足を持ち上げられて動くのだ。自然に住まう動植物たちには、おそらくそれが、ない。二面性などという面倒臭い単語は、自然環境の辞書には一切の記載がないのだろう。だから拒絶され、見下されたとしても僕は、生き物たちに睥睨することは決してない。
 多分あの蝶々も、きっと素直な感情があって、その上で僕を手助けしたのに違いない。僕は蝶に助けられた、蝶は僕に心臓をもう一つ提供した。確かに駆動する赤い肉塊を不思議なやり方を持って与えた。あの蝶々に、礼を言わねば。
 僕は茂った雑草や、張り巡らされた蜘蛛の巣を払いのけ、どうにかこうにか視界のひらけた地点に出た。そこで、出会ったのである。一人の女性に。
 女性は、木の幹に抱きつくようにしていた。僕がやってきたのを背後に感じ、振り向く時も樹木から手を離さず顔だけで振り向いた。音の鳴る方に、右斜後方に、彼女の眼力は注ぎ込まれた。僕は立ちすくんでその場から動けなくなってしまった。その女性の目が、まるで月のように冷たく輝いていたからだ。生気を宿しているが、どこか怖い目。僕を動けなくさせる目だ。
 月は太陽と反対の役割を持っている。太陽はあらゆるものに熱を与え活力を漲らせるが、月は反対に培ったエネルギーを吸収してなお飽き足らない性格をしている。温度を下げ、まるで生き物に深刻なダメージを与えるが如く地上を照らす。いや、ダメージとは表現がいささか適切でない。凍らせる、そうだ、凍らせると表現した方が実際に近しいかもしれない。冷酷な冷たい光は、人という存在そのものをよく体現しているかのように思える。そんな目をしている女性と視線を交差させたのだから、僕は動けなくなったのである。あくまで、人の内側に潜む正体を見てしまったという意味において、僕は恐れた。決して夜中に人間と出くわすことに驚いたのではない。蓋し目の前の女性の方が恐怖心に満ちているかもしれない。
「こんばんは」