命取り

 僕は仕事を残さないたちの人間であり、言われたことは必ずこなすようにしている。幸い事務所では、先輩の持ってくる仕事量も同輩から持ち込まれる相談案件も数としては多くなかった。抱え込めるぎりぎりの、例えるなら表面張力で辛うじて溢れてしまわない程度の水量におさまっている。だから僕は、僕の能力の限りを持って定時退社することに毎日成功している。糸をぴんと張って、千切れそうになる寸前で緩める。そんな仕事の毎日だ。いつかはこれも千切れて何の役にも立たなくなるかもしれない。
 帰りの車の運転で、僕は思い立って昨日の山に行こうと決意した。特に持ち物はなかった。今夜は縄も脚立もない。両方ともアパートの部屋の隅で休憩をとっているところだ。
 僕の他に、山の入り口の駐車場には二台の軽自動車があった。二台ともエンジンを切られている様子で、こんな日没した頃に山を訪れる好事家もいるものだとちょっとだけ感心した。二台の車は数台分の隙間を開けて行儀良く飼い主の帰りを待ち侘びている。僕は二台の間に割り込むような形で車を落ち着けた。エンジンを切って、何事かをしきりに考える時間をとった。しかし、風呂やトイレでは流れ込んでくる濁流のような悩みや不安はここでは去来しないらしかった。どれだけ思案に集中しようと心を決めても、頭がそれを拒んでいるかのようだった。悩むなら今だぞ、と叱りつけるように頭を回転させようとしたがどうにも上手く行かない。毛布を被ったあの時間には、どっと押し寄せてくるくせに。
 時間の経過とともに車内の温度は上がっていき、ついには耐えられないところにまで達した。僕はスーツの上着とネクタイを無造作に後部座席に投げ込み、「これは敵わん」みたいな独り言を漏らしながら外に出た。日は落ち、あたりは闇一色に染まる寸前まで来ていた。僕はあの登山道の入り口から山を登ろうと、ふらふら歩いて行った。革靴で登るには無理があるのではないかと思われたが、存外この黒くて無駄にてかてかした靴でも歩けるものだと思った。ある程度整備の行き届いた道では、外見だけを重視したような靴でも進んでいけるらしい。そうとは言え足には一歩ごとに痛みが蓄積されていく。わずかなものの積み重ねでも、一時間後にはどうなっているだろうか。