名前さえ呼んでくれない。社長が僕に手招きをした。井上は満足そうに、にたにた笑いを浮かべながら退散していった。他の部屋に移るつもりはないだろう、きっと同じ空間にとどまって、どこか僕の視界の外で社長との話を堪能するに相違ない。果たして社長は、僕のこれまでの業務態度についてあれやこれやと苦言を呈するに至った。僕としては仕事に手を抜いていないのだと反駁したい気持ちだったが黙って聞いた。決して社長の言葉に納得するような真似はしないようにと気を強く持ち、一方顔面には悲壮さを漂わせ、こちらから放つ言葉にも同様の気配を滲ませた。面だけ謝るのが得意。これまで生きてきて、僕の獲得した特技の一つであった。あまり喜ばしいものでない。この特技が判明したのも、学生時分に級友だった男子に後ろ指を指されたからである。「あいつは外面だけ立派に反省していやがるぞ」と、聞こえるように言われたのだ。しばらくはこの特技を呪ったが、いつからか武器に転用するまでになった。
やがて社長からのありがたい話が済んで、時刻は昼食時をとうに過ぎてしまっていた。僕は周囲から人が立ち去っていくのを背後に感じながら社長の言葉に耳を傾けていた。立ち上がる物音の聞こえる度ごとに、その人物が内心僕に閉口するような気持ちでいるのではないかと気になってしかたなかった。ここでも僕は、違うんですと反論したいのを懸命に抑え込んだ。そもそも、全て根の葉もない噂話みたいなものなのだ。僕について語られる、それまでの怠惰。これは僕が意識的に排除してきた愚かしい行為そのものであった。僕は忌避した、不真面目な社会人にはならないことを。おそらく全ては井上の入れ知恵なのだろうと合点した。あの女は、あることないこと社長の耳に語りかけて虚偽の罪にて僕を罰しようという、およそ人の取るべきでない選択をしている。白髪で少し太った社長などは、この年増女の囁きにうっかり耳を貸してしまった。なんという愚行か。傀儡に成り果て、抱く必要のない疑念と激昂に駆られている。阿呆だと、僕は社長に対してそう思った。踊らされている。ウグイス鳴かせたこともある、とどこかの辞書で読んだ記憶がある。この場合、井上とかいう女は社長という名のウグイスを鳴かせたということになるのか。ことわざの意味など、もう頭の中に残留してはいなかった。
やがて社長からのありがたい話が済んで、時刻は昼食時をとうに過ぎてしまっていた。僕は周囲から人が立ち去っていくのを背後に感じながら社長の言葉に耳を傾けていた。立ち上がる物音の聞こえる度ごとに、その人物が内心僕に閉口するような気持ちでいるのではないかと気になってしかたなかった。ここでも僕は、違うんですと反論したいのを懸命に抑え込んだ。そもそも、全て根の葉もない噂話みたいなものなのだ。僕について語られる、それまでの怠惰。これは僕が意識的に排除してきた愚かしい行為そのものであった。僕は忌避した、不真面目な社会人にはならないことを。おそらく全ては井上の入れ知恵なのだろうと合点した。あの女は、あることないこと社長の耳に語りかけて虚偽の罪にて僕を罰しようという、およそ人の取るべきでない選択をしている。白髪で少し太った社長などは、この年増女の囁きにうっかり耳を貸してしまった。なんという愚行か。傀儡に成り果て、抱く必要のない疑念と激昂に駆られている。阿呆だと、僕は社長に対してそう思った。踊らされている。ウグイス鳴かせたこともある、とどこかの辞書で読んだ記憶がある。この場合、井上とかいう女は社長という名のウグイスを鳴かせたということになるのか。ことわざの意味など、もう頭の中に残留してはいなかった。

