月と笛

 暗く深い海のなかを沈んでいく。
 目は閉じられ、耳も塞がれたように何も聞こえない。
 熱さも冷たさも感じず、自分の体の輪郭さえつかむことができない。
 暗闇と一体化していく途中で、一筋の細い糸のような光が差し込んだ。
 体を撫でていくように揺れる、あたたかい光。


――……。

 かすかに、でもたしかに聞こえてきた。


――……けて。拓のこと、助けて。


――拓。わたしの愛おしい人。運命の人。


――拓を返して。わたしのところに。そうしたら、きっと……。

 
 幾度となく繰り返した夢。
 いつも同じところで途切れてしまい、目が覚めると、自分ではない体と変わらない現実に嘆いていた日々。
 祐樹そのものだった真太郎。
 初めて会ったはずなのに、懐かしいと感じてしまう拓。
 ふたりの顔が浮かび、消えていく。
 
 静かに沈む小夜を呼ぶように、光が揺れる。 

――ありがとう。真太郎の秘密を明らかにしてくれて。

――ありがとう。拓を取り戻してくれて。


(真太郎……拓……)

 小夜が目を開くと、揺れる光が遠ざかっていくのが見えた。
 手繰り寄せるように、暗い海を上っていく。
 光はだんだんと濃く、また太さを増していった。
 やがて、まばゆい光のなかに吸い込まれていく。


――ありがとう。菜々美。さようなら。




♦︎


 拓の髪から水が滴り落ち、小夜の頬を伝っていった。

「小夜……!」
「小夜さん、しっかり!」

 冷たい水の感触とふたりの声に呼ばれるようにして、小夜は目を覚ます。
 かすむ視界越し、心配そうに見つめる拓と真太郎がいた。

(わたし……どうして)
 
 とてつもなく寒く、体を震わせる。
 何がどうなったのか聞きたいのに、口元が震えて言葉にならない。

「小夜! よかった!」

 拓が小夜を抱きしめる。
 拓は上半身裸だった。直に感じる体温が、冷え切った体を温めていくようだった。

「川から引き揚げたときには呼吸が止まっていて……。真太郎が蘇生してくれた。笛も無事だ。小夜が生きていてくれて、本当によかった……」

(わたし、笛を追って川に入ったら溺れてしまって……)

 拓の体も濡れていた。彼が泳いで助けてくれたのだと知り、温かな胸に顔をうずめた。

「小夜さん」

 顔を上げると、泣き笑いみたいな表情をした真太郎がいた。
 彼の手が小夜の頭に伸びる。

「頑張りましたね」

 ふわりと髪を撫でられたとき、夢のなかで見た、あたたかな光を思い出した。
 あれは真太郎が吹きかけてくれた息だったのかもしれない。

「ありがとう……」
「どういたしまして」
 
 気持ちは温かいのに、濡れた体に風が吹くたび、体温が奪われていく。

「このままだと二人とも体が冷えてしまうな……」

 困り果てた真太郎がふと塀のほうを見たとき、こちらを心配そうに眺めている庭師と目が合った。

「屋敷の人に言ってこようか?」
「いえ、あ……」

 大事(おおごと)にしたくない真太郎が言いよどんだところで、「おじさん、なにがみえるのー?」と、子どもの声がした。
 声に反応した拓が、壁に向かって話しかける。

「翔太? 拓だ。部屋に、ほつれて捨てる予定だった着物があるだろう。いくつか持ってきてくれないか?」
「拓兄ちゃん? なにしてるの。ごはんのお手伝いはー?」
「ごめん。話はあとだ。お願いできるか?」
「わかったー」

 しばらくして、八歳くらいの少年が塀から顔をのぞかせた。どうやら庭師さんが担いでいるようだ。

「これでいいー?」

 落ちてきた数枚の着物を受け取る。

「ありがとう!」
「どうして外にいるのー? またおこられちゃうよ?」

 わずかな間のあと、拓が「兄ちゃんは出ていく」と静かな声で告げた。
 今にも泣き出しそうな表情に変わった少年に、拓が笑いかける。

「言ったろ? 必ずまた会える」
「ほんとうに?」
「約束だ」
「やくそく! ぜったいね! ゆびきりーって届かないよ、おじさんもっとー!」
「これ以上は無理だよ、坊や」
「無理だってー。じゃあまたね、拓兄ちゃん!」

 拓が着物を羽織る。小夜も脱げるだけ濡れた着物を脱いでから、着物を羽織った。
 真太郎が濡れた着物をまとめながら聞く。

「案外すんなりと別れたが、事前に話していたのか? 会える約束なんてして大丈夫なのか」
「それについてはあとで。とりあえず行こう」

 小夜は真太郎に支えられながら門まで歩き、馬車に乗り込んだ。
 ほどなくして馬車が走り出し、小さくなっていく屋敷を見つめた。

「……はっくしゅ」
「大丈夫ですか?」
「うーん、風邪ひきそう」

 濡れた肌着が気持ち悪い。上に羽織った着物を、じわりと濡らしていく。

「肌着まで脱いだほうがよかったのかな。せっかくの着物が濡れちゃった」 
「まぁ、そういうわけにもいきませんからね……。僕の家に寄りましょう。こんな状態で帰せない。場合によっては泊まってください」

 陽は沈み、馬車は暗い森のなかを進んでいく。
 小夜は半狂乱になった奥様のことを思い出した。

「あの人どうなったの……?」
「しばらく暴れていましたが、やっと落ち着いたので部屋から出ようとすると、今度は拓にすがりついてきました。蹴り飛ばすわけにもいかず、説得するのに時間がかかってしまった。小夜さんをひとりきりにしてしまい、申し訳ありません」
「……あの人さ、生きていればちょうど俺くらいの歳の子どもがいたんだって。生まれてすぐに亡くなったらしいんだけど。名前も知らない客の子どもでも、ちゃんと育てようと思ったんだって嘆いてた」
「遊女だったってことか? 名高い芸者だったと聞いたが」
「芸者として成り上がる前は、私娼として生活してたらしい。俺もどこの誰から生まれたかわからない身分だし、いろいろと重ねたんだろうな」
「そう……なんだ……」

――気高いお嬢様にはわからないさ。底辺を生きてきた女の人生なんて!!

 小夜は、奥様が吐き捨てるように放った言葉と、絶望と嫉妬で溢れた表情を思い出していた。
 明るい未来が描けるのは、叶えられると信じられる環境があるからだ。
 幾度となく希望を打ち砕かれてきた人生では、明るい未来を信じ続けることは酷だろう。
 国が人権を守ってくれる現代に生き、またこの明治の世においても、恵まれた良家の娘に生まれた自分が言えることはないのかもしれない。

「声変わり前の少年を集めてたってことも、ある意味で亡くした子どもの代わりだったってわけか……」
「そんな風に大切に思ってたんなら、なぜ捨ててしまうの?」
「そうするよう主人に強く言われていたから。言うとおりにできなければ離縁すると詰められていたらしい」
「彼女もつらかったんだね……」

 物悲しく響く犬の遠吠えが、彼女の嘆きに聞こえた。
 
「そういえば、康平のことなんだけど」

 拓と小夜の逢瀬に関わったことにより、その罰として捨てられた少年、康平。二度と聞くはずのなかった名前に、小夜と真太郎が反応する。

「生きてるの?」
「もしかして、別れ際交わした約束とも関わっているのか?」

 拓が頷く。

「ああ。康平は生き抜いたらしい。比較的、年齢が上だったこともあって自力で命を繋げられたようだ。山を越えたところにある教会の手伝いをしながら、屋敷に連れて行かれそうな少年に声をかけ『連れて行かれてもここに来れば助ける』と話してまわっているらしい。定期的に自分の捨てられた森に入り、少年がいないか探している、とも」
「なぜそれがわかった?」
「数日前、康平の話を聞いた少年がここに来たのさ。もちろん、康平だけで全ての少年の命を救うことは難しい。だから俺もやる。この後の人生を使って、あの屋敷の少年を救える手はないか考える。康平にも会いにいくよ」

 馬車は森を抜け、小夜の住む町に入った。
 歓声を上げながら懐かしい景色を楽しむ拓に、小夜と真太郎が目を細める。
 真太郎の家の前で馬車を降りた。真太郎が玄関の戸を開け、母親を呼ぶ。
 奥から現れた母親が、成長した拓の姿に目を潤ませたあと、濡れた着物で震える小夜を見て悲鳴を上げた。
 
「すぐお風呂の準備をします!」
「母上、待って! 今夜は小夜さんを泊めたい。その旨を藤ヶ谷の御父上に言って参ります」
「わかりました、お願いね。小夜さん、拓ちゃん、こちらへ」
「……お邪魔します」
「あら。『ただいま』でいいのよ?」

 拓の目が見開かれた後、潤む。緊張しながら「……ただいま」と呟き、敷居を跨いだ。
 微笑んでいた小夜から、くしゃみが漏れる。

「大変! 小夜さん、こちらへ!」

 小夜は女中に抱えられるようにして、お風呂に連れて行かれた。

 交代で拓が風呂に入り、湯上がりの支度が整うころに真太郎が帰ってきた。
 真太郎の両親をふくめ、みんなで夕飯を食べる。心のこもったもてなしに、拓はところどころ言葉を詰まらせた。真太郎が東京に行くことが告げられ、代わりに岸川医院を継いでほしいという願いには、「もちろんです。一生懸命、勉強いたします」と力強く誓っていた。


 
 夕飯のあとは、新しく拓のものになるという部屋に案内された。
 壁一面に、医学書をはじめ分厚い本が並んでいる。
 
「父が書斎として使っていた部屋だ。戸棚にある書物は、自由に読んでくれていい」
「すごい数だな……。ありがたいよ。たくさん勉強するから」 

 小夜と拓が戸棚の本をめくっていると、「拓」と呼ぶ声がした。
 振り向くと、真太郎が畳に手をついて頭を下げていた。

「君をあの屋敷に売るよう仕向けたのは僕だ。本当に申し訳なかった……。いま、君に赦しを乞うなんて傲慢なことはしない。君の命を犠牲にした罪を償うため、これから多くの人の命を救う。償い終えたら、どうか……この僕を赦してほしい……」

 小夜はいたたまれなくなり、真太郎の背中に手を添えた。
 拓が静かに本を戻し、真太郎の前に正座する。
 感情が読み取れない表情をしていた。

「……頭を上げて」

 真太郎がゆっくりと頭を上げる。
 衣が擦れる音が、静かな部屋に響いた。

「真太郎にも、そうしなければならない理由があったはず。それに今、俺がここにいられるのも真太郎のおかげだ。それに」

 拓が小夜に視線を移し、優しく目を細める。

「屋敷に売られずに小夜のそばにいたら、俺は自分の欲望のまま小夜を支配していたかもしれない。真太郎が本当の愛を教えてくれて、心から小夜の幸せを願えるようになった。だから頭を下げるのは俺のほうだ、ありがとう」

 拓が頭を下げる。
 真太郎の肩が小刻みに震えはじめた。
 拓が頭を上げ、震える肩に手を伸ばす。

「俺は赦すよ。約束する」







 その後は女中が運んできてくれたお茶を飲みながら、真太郎の今後について話を聞いていた。

「それにしても……せっかくまた三人でいられると思ったのに、真太郎がいなくなってしまうのは悲しいな……」
「また帰ってくるさ。僕の家はここなんだから」

 小夜はお茶をすすりながら、ふたりのやり取りを上目遣いで眺める。

(拓を取り戻したけど、何も起こらない……)

 代わりに真太郎が行ってしまうからだろうか。
【小夜】が望んでいたのは三人が変わらずここにいることで、誰かひとりでも欠けてはならないのだろうか。
 やはり【小夜】は消えてしまったのだろうか。

(もう無理なのかな……)

 この世界に留まるか、現世に戻るか。
 選択できるなら、現世に戻りたかった。
 ふたりと別れ難くても、自分は【小夜】ではないし、祐樹と向き合うという、真太郎とした約束を果たしたくもあった。
 そして。

 拓の横顔を見つめる。

 祐樹が真太郎の生まれ変わりなら、同じように生まれ変わった拓に出会えるんじゃないか。
 彼がきっと、菜々美(じぶん)にとっての運命の人……

「小夜? どうかした?」
「ううん! 拓の言うとおり、三人一緒にいられないのは寂しいなぁって……」
「小夜さんまで……。僕はいつでも、あなたと共にいます」

 拓が口を尖らせる。「どういうこと?」

「言葉のままの意味です。僕はずっと小夜さんのことを想っていますから」
「小夜は俺のだよ。運命の人なんだ」
「僕にとっても運命の人さ。たとえ結ばれなくとも、出会えたことに意味があるはず。すくなくとも僕は、そう思っています」

 真太郎が小夜を真っ直ぐに見つめる。
 拓が妬き、小夜と真太郎との間に割って入る。

「おしまいだ!」
「終わりなんてない。来世でも続く関係だからな。僕はこの世で罪を償い、徳を積み、きっと小夜さんの――」
「運命は変わらない!」

 仲の良い兄弟がじゃれ合っているようにしかみえない言い争いに笑いがこぼれたとき、背後にある窓から一筋の光が差した。
 拓と真太郎は気づいていなかった。小夜は振り返り、光の正体を探ろうと窓から身を乗り出した。
 
「え……」

 なんということか、遠くに高架橋が見える。
 ここには鉄道は走っていない。あんな現代的なものなど、この時代にはありえない。

「拓、真太郎! 見てよ、なんであそこに高架橋が――」

 ふたりのほうを振り向いて、小夜は言葉を失った。

【小夜】がいた。
 つい先ほどまで小夜がいた場所に、【小夜】が座っているのだった。
 拓と真太郎は相変わらず言い争っているようで、そのやり取りを笑いながら眺めている【小夜】。
 
 ゴォッ
 轟音が響き、光が近づいてきた。

 まばゆい光に呑まれる瞬間、こちらに引かれるようにして拓と目が合った。
 薄茶色のさらさらとした髪、ビー玉のような澄んだ瞳、左目尻のほくろ。
 自分の全てに刻みつけるようにしてから、眩しさに耐えられなくなった瞳を閉じた。



――ありがとう。菜々美。さようなら。


 

◻︎◻︎◻︎

「……なんだか今、窓の外が光ってなかった?」

 拓が外を見たままで、ぼんやりと呟く。

「そうか? 月明かりじゃないか?」
「そんな風に感じなかったけど。……あ、思い出した。初めて屋敷から抜け出した夜、小夜を見つけたときも、あんな光を見たような……」
 
 真太郎は首を傾げて、同じように窓の外へと目を遣った。
 
「……ふたりとも、また会えるはずよ」

 拓と真太郎が、同時に【小夜】を見る。
「誰に」と拓が聞く。

「わたしに。ふたりとも」

 拓と真太郎が顔を見合わせる。
【小夜】は微笑みながら、心のなかでもう一度、ありがとうと呟いた。




♦♦♦





 ぼんやりとした意識を押しやるようにして、機械的な音が聞こえてくる。

「まもなく、京都です。東海道線、山陰線、湖西線、奈良線と近鉄線、地下鉄線は――」

 それが京都到着を告げるアナウンスだと認識した途端、小夜は飛び跳ねるようにして立ち上がった。
 車内の電光掲示板には「次は 京都」の文字。
 通路を挟んで座るスーツ姿の男性は、しかめっ面のままでパソコンを片付けている。
 後ろのほうの席で、飲み終えた缶を集める音がする。

(戻ってきたんだ……!)

 新幹線は速度を落とし、京都駅のホームへと滑り込んでいく。
 慌てて荷物をまとめ、座席を元の位置に戻す。
 車窓に反射する自分の姿は、ずいぶんと久しぶりに見る、菜々美としての自分。
 和服の帯に締め付けられる感覚はなく、洋服の軽快感が逆にたよりなかった。
 でこぼこ道を草履で歩くのとは違い、靴で平坦な床を歩く感覚が懐かしい。

 新幹線を降り、ホームに降り立つ。
 夜遅い時間ということもあり、ホームには人が少ない。ほてった頬にあたる風が気持ち良かった。
 変に興奮していて、このまま祖父母の待つ家に帰っては心配されそうだ。
 まずは落ち着こうと、ベンチに腰を下ろす。

(戻って……きたんだよね? それとも、これは夢のなか?)

 手の甲をつねってみる。頬を叩いてみる。
 どれもこれも、ちゃんと痛かった。

「戻って……これた……」

 自分が生まれ育った現代。
 どういうわけか、時間も進んではいない。
 念のため持っていた鞄を開けてみたけれど、見慣れたものが入っていただけで、白い煙が立ち上り老女に……なんてことは起こらなかった。
 
(拓と真太郎に、ちゃんとお別れを言いたかったけど……)

 ふたりの顔が浮かんだところで、祐樹のことを思い出した。

「そうだ、祐樹が……!」

 スマホを手に取る。大学の友達からメッセージがきていた。
 それは開かずに、祐樹のアイコンを押す。
 電話をかけるか、メッセージを送るか。
 迷っていたところで、新幹線の到着を告げるアナウンスが響き渡る。

(ここじゃ無理か……)

 菜々美は鞄を手に、ホームを走り抜けた。
 JRへの乗り換え改札を目指し、奈良線に乗った。

 宇治駅で降りる。
 菜々美の祖父母の家は、別の街にある。宇治駅で降りたのは、宇治川沿いを散歩したかったからだ。
 以前に一度だけ、ここに来たことがある。平等院あたりは観光客で混雑しているが、京都市内ほどではないし、なにより宇治川沿いは人が少なく、落ち着いた印象があった。
 今の菜々美は、できるだけ人の少ない場所で、あてどなく歩きたい気分だったのだ。

 宇治橋の上に立つ。
 宇治川は川幅が広く、流れも速い。夜はさらに凄みを増して、眺めているだけで吸い込まれてしまいそうだ。
 付近の店のほとんどが早い時間に閉まるため、ほとんど人がいない。電車の走る音と、水の流れる音が響く。
 紫式部像の隣にある階段を下り、川べりを歩くことにした。石が埋め込まれた路を行く。
 辺りは暗く、靴の底からごつごつとした石の感触がする。明治の外の暗さと道の悪さに慣れきった菜々美にとっては、何の問題もなかった。
 中洲の島を結ぶ橘橋(たちばなばし)の近くまで来た。誰ともすれ違わないどころか、対岸を見ても歩いている人はいない。
 静けさが、菜々美を過去に戻していく。
 
――来世で真太郎と会ったら、ちゃんと向き合う。

 指切りをするように視線を結んだ、真太郎との約束。
 祐樹に「もう無理」とだけ言われ、自分がどれだけ傷ついたか話したい。別れの理由が自分を傷つけるものであっても知りたい。
 そして、心から「今までありがとう」と伝えたい。
 
 橋を渡り終えたところにある、大理石のベンチに座る。スマホを手に取った。一度深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
 
 何度目かのコール音のあと、
「……菜々美?」
 真太郎の声が、現代の小夜の名前を呼んだ。

「……祐樹……だよね?」

 聞きなれた真太郎の声に、本当に祐樹かと確認してしまう。

「そうだけど……どうした?」
「あの……」

 なんと切り出せばいいのだろう、言いたいこと聞きたいことが溢れてきて言葉にならないのだった。
 拓の命を犠牲にした罪を償うため、多くの人の命を救うと決意した真太郎。
 研究医として、この国の医療に貢献できたにちがいない。
 すごいよ、さすがだよ。
 自分も、真太郎とした約束を果たさなければいけない。

 そう思うのに、長い沈黙のほどき方がわからない。
 繋がっているのか繋がっていないのかわからなくなったところで、「……ごめん」静かに置くような声で祐樹が言った。
 その一言が、堰き止められていた言葉を溢れさせる。

「わたしのほうこそ、ごめんなさい!」

 祐樹がスマホ越しにびくんと反応したのが気配でわかった。
 菜々美が続ける。

「祐樹とつきあってる間、ずっと自分をごまかしてた。祐樹がいやな気持ちにならないようにってばっかり考えて、自分の気持ちを隠してた。気づいてたでしょ?」
「……うん」

 当たり障りのない日々は、一見穏やかだった。ただいつもどこか緊張していて、聞きたいことを呑み込む瞬間は、心がちりりと痛んだ。たとえ相手が笑顔でも、線を引かれたと気づいたときはうまく笑えなかった。近くにいるのになんだか遠くて……そう、寂しかった。

「『もう無理。続けられない』って言われて、なんでって思ったよ。理由があるなら言って欲しかった。そんな一言で終わっちゃうのって、祐樹のこと責めた」
「……ごめん。でも俺も、どうして何も言ってくれないんだって思って……。すんなりと終えられる関係だったのかなって悲しかった」

 うつむいた祐樹の横顔がよみがえる。
 あのときは、さよならさえも言ってくれないことが悲しかった。
 でもそんな一言、さらりと言えるはずはないのだ。

「菜々美のこと、好きじゃなくなったわけじゃない。本心を言えない関係に耐えられなかった。弱いところを見せられない自分にも苛立ってた。どんなところもさらけ出せる関係が理想なのに、真逆だよな」

 乾いた笑い声が流れてきた。

「……本当はさ、俺、遠距離恋愛不安だったんだ。カッコつけて言い出せなかったけど、離れて過ごしてみてわかった。彼女にはそばにいてほしくて……。本当は、寂しがり屋で甘えたがりなやつなんだ」

 知ってる、という言葉をのみこむ。

「ありがとう、ちゃんと話してくれて。最後になっちゃったけど、本音で話せてよかった。祐樹とつきあって気づいたこと、ちゃんと大事にしていくから」

 運命の恋だけが大切なんじゃない。
 どんな恋でも、出会えたこと、終わったことには理由があって、そこから目を背けたら次の恋に巡り合えない。

「……ありがとう。菜々美に出会えてよかった。一緒に過ごせてよかった」
「うん。わたしも、初めての彼氏が祐樹でよかった。今度こそ、本心から言うね。今までありがとう」

 スマホを膝の上に置き、夜空を見上げる。
 黄金色の月が、ひっそりと浮かんでいた。
 真太郎と祐樹と過ごした日々を思い浮かべ、その全てを放つように、夜空に向かって息を吐いた。








 戻りたいと焦がれた日々は、ゆるやかに過ぎていった。
 菜々美は我慢をやめ、少しずつ自分の気持ちを言えるようになった。自分の感情と相手に向き合うことは、痛みや衝突を生むことはあったけれど、今を大切に生きている感覚は心地よかった。
 一方、時が経つにつれ薄まっていくあの頃の景色、においに戸惑い、図書館で明治時代について書かれた本を借りたりもした。
 当たり前のように目に馴染んでいた景色を懐かしがりながら、未だ出会えない拓のことを想っていた。

 

 前日に降った雨のせいで、川が増水していた。流れも速い。
 突き落とされたらひとたまりもないと、思わず背後を確認する。
 人はおらず、数台の車だけが過ぎ去って行った。
 
 菜々美は再び、宇治に来ていた。
 あの時と同じように、紫式部像の隣にある階段を下りて川べりを歩く。
 橘橋を渡り、中洲の公園に降り立つ。大理石のベンチに腰掛けた。
 ここで祐樹と最後の電話をしたときが、随分と昔のことのように思える。
 
 雲の向こうで、満月が透けた。

 あの夜も満月だった。
「拓を取り戻して」という小夜の叫びに連れて行かれるようにして、明治時代にタイムリープしてしまった。
 なぜなのか。
 現世に戻ってきて、その理由がなんとなくわかった気がした。
 終わった恋に向き合うため。
 そして、運命の恋に出会うため。
 そう思うのに、日ごと薄れていく記憶に、もしかしたら全て夢だったのではないかと疑ってしまう。
 祐樹にふられたショックから、ただ都合のいい夢を見ていただけかもしれないと。
 前世に戻ったことが、本当に起こったことだと証明できるのは、ただひとつ。
 現世で、拓に出会えるのかどうか。
 

――月と笛。これさえあれば必ず会える。


 頭に響く拓の声。

(月はわかる。だけど笛は?)

 まさかこの現代で、笛を吹きながら歩く人がいるとは思えない。どうやったら彼と出会えるのかわからないのだった。

 拓。
 彼の視線、声、佇まいを思い出す。
 持って生まれた容姿の良さと、特異な生い立ちが作り出した独特な雰囲気は唯一無二だった。
 ただそれ以上に、彼の全てに自分が馴染んでいく感覚がある。
 ありのままの自分を受け入れてもらえる安心感、パズルのピースがぴたりと合うような。
 運命という言葉を信じてしまうほど、誰とも感じたことがない不思議な感覚に包まれるのだ。

「……会いたいなぁ……」

 切ない呟きが、夜の闇に吸い込まれていく。

 そのとき。


――……


 聞き間違いではないはずだ。
 水の音に消え入りそうになりながらも、たしかに聞こえてきた笛の音。
 
 視界が揺れるほどの鼓動を感じる。
 呼吸が早くなる。

 辺りを見渡すと、夜の闇に溶け込まない白いシャツを着た青年が、中州と対岸を結ぶ朝霧橋(あさぎりばし)を渡ってくる。
 
 立ち上がり、橋のほうへと歩いていく。
 耳を澄ます。
 間違いない。
 彼から聞こえてくる。

「これって……口笛……?」

 菜々美は橋に駆け寄る。
 彼が階段を下りてくる。
 下り口にある街灯が、シャツの白と朝霧橋の赤を浮かび上がらせる。初めて会ったとき拓が着ていた白地に赤い刺繍の着物を思わせた。
 青年が菜々美に気づき、目が合う。
 口笛が止まる。



(拓……!)
 


 ビー玉のように澄んだ瞳、薄茶色のさらさらとした髪の毛。左目尻にあるほくろ。
 髪はあのときほど長くはないし、背は高くなり少年っぽさも抜けている。
 けれど紛れもなく拓だった。



「……会いたかった……!」


 青年は目を細め、ゆっくりと首を傾げた。
 目を潤ませながら立ち尽くす菜々美に近づいていく。
 青年の瞳が、わずかに揺らぐ。


「……俺たち、どこかで……?」

 
 頭の中を何度も巡った声。
 菜々美は頷き、現世での拓へと手を伸ばす。


 いつの間にか雲は晴れていた。
 月明かりが水面に落ちて揺れている。
 再会するふたりを見守る今夜の月は、眩しいほどに光り輝く満月だった。




 








~完~