月と笛

「……よし、書けた!」

 小夜は筆を置き、大きく伸びをした。文机(ふみづくえ)の上には、日記帳が開かれている。この世界に来てから起こったことを、全て書き記していたのだ。
 真太郎が勉強を教えにこなくなって二週間が経とうとしていた。父親経由で「試験勉強のため来られない」と聞かされたが、本当の理由は小夜に会いたくないのだろう。
 ひとりきりで何もすることがないと気分が落ち込んでしまいそうなので、教科書を開き、文字の読み書きを練習してみた。真太郎との勉強で読みはましになったものの、書くことはあきらめていたのだ。しかし、この世界から抜けられない可能性がでてきたので、身につけなければならない。

(どれだけやっても書くのは苦手……)

 自分が書いた文字をなぞりながら苦笑いする。
 正座をくずし、足を伸ばした。
 ふいに窓から吹き込んだ風が、日記帳をめくっていく。 
 開かれた(ページ)に目がいく。

――家のちかくに 男の子がこしてきた
――名前は拓 わたしと同じ 七さい
――かみは絹糸のよう 目はビイドロ玉みたい
――わたしと同じ 目じりに ほくろ
――こんど 真太郎もさそって あそぶやくそくをした

 次の頁をめくる。

――三人で花かるた 西洋かるたをしてあそんだ
――拓は 花かるたが強い
――外では かけっこ
――真太郎を追いかけて ころんでしまったけど 泣かずにがまん
――真太郎だったらきっと 自分のせいだと思ってしまうから
――だけど 拓に見つかってしまい 真太郎には言わないでとたのんだら
――強いな と笑ってくれた
――わたしのほしい 言葉をくれた

 優しい真太郎は、自分が早く走りすぎたからだと責任を感じてしまうだろう。
 ならば転んだことは黙っていよう。痛む膝を抱えて涙を堪えるわたし。

「ほんと、なんていうか……」

 ため息がこぼれる。
 拓がただ、「強いな」と言って笑ってくれたことが、とても嬉しかったのもわかる。
 強がりな自分を認めてくれる。だからこそ【小夜】には拓だったのだ。
 でも真太郎からしてみれば、痛い思いをしたことを隠さずに言って欲しかったはず。
 それもまた【小夜】を想うゆえの愛。

 小夜は日記帳を置き、後ろ手をついて天井を見上げた。

「これから、どうしようかな……」

【小夜】の声は途絶えたままだ。
 彼女の声は、聞こえてくるというより内側から響き渡るものだったので、自分のなかに【小夜】が閉じ込められていると思っていた。
 声がしないということはつまり、彼女はいなくなってしまったのか。
 この体も心も自分のものとなり、この世界で生きていく……。 

 文机の上に突っ伏す。墨の匂い、古い紙の匂いには、もう慣れてしまった。
 涙は出ない。
 絶望とも、この世界で生きていく覚悟とも違う、妙にひんやりとしたものが胸の奥に居座っていた。


「小夜さん。真太郎さんがみえました」

 急に呼ばれ、がばっと起き上がる。

「お通ししても、よろしいでしょうか」
「ええっと、ごめんなさい、ちょっと待って! わたしが開ける。大丈夫だから、行っていいよ!」
「はい、ではお願いいたします」

 日記帳を引き出しにしまい、立ち上がり着物の裾を整える。

(何の話だろう……)

 襖を開けられずに立ちすくむ。
 扉越しに、咳払いがひとつ聞こえてきた。

「……小夜さん。急に来てしまい、申し訳ありません。どうしても、発つ前に話がしたくて」

 発つ。
 その意味を理解すると同時に、勢いよく襖を開けていた。
 泣き笑いみたいな真太郎の顔があった。

「良かった。最後に会えて」




 外で駆け回る子どもたちの嬌声が聞こえてきた。冷たく静かな部屋が、わずかに温度を上げ明るさを増す。
 真太郎は正座し、小夜もまた正座をして向き合っていた。沈黙が重くのしかかる。

(発つって、どこへ? 最後って、どういうこと?)

 疑問が膨れ上がってきたとき、真太郎が畳に手をついて頭を下げた。

「申し訳ありません! 僕が、拓を岸川家の養子にすることに反対しました」

 急にあやまられ驚いたものの、次第に胸の奥が冷えていく。

「……知ってる。中秋の名月の会のときに、お父さんたちから聞いたから。でも、岸川真太郎として生き抜きたいって気持ちもわかる。ずっと岸川でいたいんだったら、反対すべきはわたしとの結婚だったんじゃない? 真太郎だったらきっと、わたしなんかより素敵な人と結婚できるはずなのに。どちらにしてもさ、もう終わったことだから」

 小夜は自分自身に言い聞かせるように、努めて明るく返す。
 真太郎は頭を下げたままだ。

「もういいから、頭を上げて――」
「……ちがうんです」

 絞り出すような苦しい声のあと、真太郎が顔を上げた。

「僕は、拓に医師としての名声も、小夜さんとの結婚もとられたくなかった。それが理由です」
「拓に? どういうこと……?」
「拓を岸川家の養子として迎える。賢い拓は、いずれ僕よりも優れた医師になる。そして小夜さんと結婚し、藤ヶ谷の婿養子となる。僕の欲しかったものを全部手に入れるんです。それが許せなかった」
 
 理解が追いつかない。真太郎が、これほどまでに拓に劣等感を抱いていたとは思わなかった。むしろ憎んでいるともいえる。
 小夜は混乱する頭で必死に考える。

「拓のことをそんな風に思ってたんなら、なんで満月の日の約束に協力してくれたの? 放っておけばいいのに」
「負い目があったからです。だからせめて、満月の逢瀬には協力しようと思いました。拓は遠くない未来、声変わりする。長くは続かないだろうと思っていた。けれど、状況が変わりました」
 
 真太郎が目を細める。

「小夜さんの渡した笛のおかげで、拓は生きながらえた。どんなことでもできる彼だ、素晴らしい笛吹きになるでしょう。彼は強く生き抜いて、いずれあの屋敷から出て小夜さんと結婚する。僕はそう確信した」

 額に手を当て、苦しそうに顔をゆがめた。

「……月と笛。これがなければと、どれだけ恨んだかわかりません。そんなとき、拓と小夜さんの逢瀬のため、犠牲になった少年がでてきた。自分が拓の命を危険にさらしたことを棚に上げたまま、少年の命の代償として、ふたりに『もう会うな』と告げました。ひとつ弁解すれば、小夜さんの幸せを願っていたのも本当です。なので、拓に小夜さんを幸せにできる確信があるのなら、あの場で刺されてもいいと――」
「もういいよ」

 真太郎の言葉を遮る。つらそうに告白をする真太郎のことを、見ていられなくなってしまった。

「真太郎が悪いと思っていることは、もうよくわかったから――」
「聞いてください! 僕はもう、ごまかしたくはないんだ。つらいと思うけど、向き合ってください」

 真太郎の勢いに、肩がびくんと跳ねる。真太郎が小さく「……すみません」と呟き、頭を下げた。

「僕もあなたも、自分の気持ちに向き合うことが苦手です。相手のためと思って、本音をごまかす癖もある。線を引かれた側の人間の気持ち、あなたもわかるでしょう」

 ふいと背中を向けられたとき、視線を外されたとき。
 真太郎に、祐樹に。その度に感じていた寂しさを思い出す。

――本当の強さは、自分の感情にも向き合って、必要な行動を選び取る勇気。
――大切な人に、自分を明かすことを厭わないで。

 拓の声が頭をめぐる。
 逃げてはいけないと思い直す。
 真太郎の気持ちと、自分の気持ちから目を背けてはいけない。

「拓の代わりとして、あなたを生涯守りたい。そのために自分を変える決意をしました。言いたいことは言う、訊きたいことは訊く。自分の弱さをさらけ出す。僕は、あなたにもそうして欲しいと願った」

 小夜はこくりと頷いた。

「どうしても無理でした。僕を責めたい場面でも、あなたは何も言わない。むしろこちらを気遣って……僕はそれが苦しくて」

 頭を抱えてうめく真太郎に、思わず手を伸ばす。

「ごめんなさい。真太郎を苦しめるつもりはなくて」
「小夜さんは悪くない。自分のしたように返してもらえないことに耐えられなかったんです。僕はとても弱い人間です。いつも強くあろうとする、小夜さんに釣り合う人間にはなれない」
「そんなことないよ。わたしは強がってるだけで――」

 真太郎はうつむいたまま、激しく首を横に振る。
 傷ついている真太郎を前に、どんな言葉をかければいいか。自分がどう動けば収まるかじゃなくて、どうしたいのか、気持ちに向き合って考える。
 うなだれた真太郎の肩に、そっと手を置いた。

「……実はね、先月の満月の日に、拓に会えたんだけど」
「拓に……?」

 真太郎が顔を上げた。潤んだ瞳と目が合う。

「うん。事情があって……許可を得て出てこられたみたいで、すこし話ができたの。本当の強さについて教えてくれた」
「本当の強さ……」
「わたし、自分の気持ちを置き去りにして、求められていることに応えることが強さだと思ってた。そうやって生きてきた自分を否定したくないし、これからも強がっちゃうことあるかもだけど……大切な人に、自分の気持ちを隠すことはもうやめる。真太郎のように悲しむ人を増やしたくないから」

 真太郎のすがるような視線と小夜の視線が交わる。

「……真太郎が拓を犠牲にしたって聞いて、裏切られたと思った。小夜と拓が想い合ってることを知ってて、どうしてそんなことをしたのって、すごく責めたよ」

 言葉にしてみると、怒りと悲しみが湧きあがってくるようで、思わず胸をおさえた。

「わたしは家の存続とか責任とかよくわからない。だけど、人の命より大切なものはないと思う。ましてや幼なじみとして一緒に過ごしてきた拓を見捨てるなんて……」

 真太郎は耐えきれないといったように視線を外したけれど、激しく首を横に振ってから再び小夜を見据えた。

「でも……真太郎も悩んだはずで、自分の大切なものを守るための苦しい選択だったって信じたい。だって今まで過ごしてきたなかで、真太郎が優しくて素敵な人なんだってことはわかってたから」

 抱えてきた気持ちを打ち明けることは、心細さと痛みを伴った。
 真太郎は、震える声で話すわたしに伸ばした手を途中で止め、再び畳に手をつき頭を下げた。

「申し訳ありません。そして……ありがとうございます。苦しい気持ちを抱えながらも、僕のことをそんな風に思ってくださって……」

 ふっと力が抜けていく。
 もう自分だけで抱えるものはない。想いが届き、受け止められたことの安心感が沁みていく。

「さっき真太郎が言った『ごまかさずに相手と向き合う』ことは、わたしが変えるべきところだよ。思ってる気持ちを言わなかったら、相手がひとりきりになってしまうもんね。ちゃんと言ってくれて、ありがとう」

 祐樹も寂しかったのかもしれない――
 上辺だけのつきあいで、表面だけ整えるような関係。それじゃ続ける意味がない。
 目の前の真太郎に、祐樹の顔が重なる。

「……来世では」
 
 真太郎が潤んだ瞳で続ける。

「来世では、良い人間になりたいです。そのために、この世で自分の罪を償い、より精進して参ります。そして願わくは、来世で、あなたの特別な存在になりたい。たとえ最後に結ばれるのが拓でも、会えてよかったと思えるような、そんな存在になれたらと思います」
「真太郎……それは」
 
 真太郎は祐樹として生まれ変わって、わたしの初めての彼氏になるんだよ。
 初めて手を繋いだのも、キスをしたのも、その先も……全部あなたとだったんだよ。
 特別な存在だった。今も、この先もずっと。

「どうかされましたか?」
「……ううん。楽しみにしてる」

 祐樹と過ごした日々を思い出しながら、真太郎を見つめる。

(最後くらい、祐樹と向き合えばよかった……)

 祐樹と話がしたい衝動に駆られるも、元の世界には戻れそうにないという絶望が打ち消す。
 気持ちがしぼんだところで、真太郎が「本題ですが」と改まった。

「拓を取り戻しにいきましょう!」
「え!?」
「拓を岸川家の養子に迎えます。父と母には了解をとりました」
「えええ! でも、真太郎は大丈夫なの? その、拓と働くことになっても」
「僕は来月より東京に行きます。西洋医学を学ぶうち、臨床より研究に興味が湧いてきました。中秋の名月の会のとき、近所の方たちを見送った際、僕に話しかけてくれた方がいらっしゃったでしょう。その方の親戚が医師で、僕が興味のある分野を担当されていて。さくさくと話が進みました。正直、拓と小夜さんのことを見続けるのはつらいし、いい機会だなと思ったんです。拓は岸川拓として、医院を継いでもらいます」

 小夜は瞬きを繰り返す。真太郎がそこまで話を進めているとは夢にも思わなかった。
 
(だけど、もう拓は……)

「……いろいろと考えてくれて、ありがとう。でも、あの屋敷から拓は追放されてしまう」

 小夜の言葉に、真太郎の顔色が変わる。

「追放? どういうことです?」
「拓に聞いたの。屋敷のご主人が、拓と奥さんの仲を疑っていて、出ていけと言われているって。追放は死を意味するって……」
「死……? それは大変だ……!」

 真太郎が弾かれたように立ち上がる。

「今から行ってきます」
「今から!?」
「間に合わなかったら意味がないでしょう。小夜さんは待っていてください。先方を刺激するとよくない」

 行こうとした真太郎の腕を引っ張る。

「わたしも行く! 状況次第では外で待ってるから行かせて! お願いします!」

 小夜の必死さに、真太郎の瞳が揺らぐ。

「……僕が御父上に話を通しますから、すぐに準備を」
「ありがとう!」

 真太郎はすぐに父親の部屋に入った。
 小夜は玄関で待つ。
 廊下の奥、台所のほうから出汁の匂いが漂ってきた。もうすぐ夕暮れだ。自分も行けるだろうかと、小夜は不安でたまらない。
 しばらくして、真太郎と父親が部屋から出てきた。

「話は聞いた。本当にこれでいいのか? 真太郎くんが東京に行ってしまっても……」
「御父上」

 悲しそうなお父さんを、真太郎が笑顔でさりげなく制す。

「真太郎とは、きちんと話をしました。拓のところに、わたしも行ってきていいですか?」
「行くな、と言っても行くんだろう?」
「ありがとうございます! 行ってきます!」

 真太郎が草履を履きながら「急ぎましょう」と耳打ちする。小夜も素早く頷いた。
 父親に「行ってまいります」と挨拶し、扉を閉めた途端、ふたりは走り出した。

「この先の店で馬車を出してもらいましょう。御父上からお金をいただきました。隣町まで歩いていくには時間がかかりますから」
「わかった」

 店に着き、真太郎が手早く馬車の手配をする。小夜は弾む息を整えながら真太郎を見つめた。祐樹も一度決断すると、驚くほどの行動力で目標に向かっていったことを思い出す。
 馬車に乗り、隣町を目指す前に、岸川医院に寄ることになった。拓を引き取りにいくことを話しておくという。
 しばらくして真太郎が戻ってきた。

「大丈夫だった?」
「ええ、了解をとりました。診察中で出てこられませんでしたが、小夜さんによろしく、と」

 町が夕暮れに赤く染まっていく。
 馬車がガタゴトと揺れる音と、心臓の音が重なっていく。
 真太郎は緊張した表情で前を見据えていた。

 小夜は改めて思った。
 この世界に来てから、自分ひとりでは何も解決できなかった。常に真太郎が隣にいてくれた。
 初めて会ったときも、夜中の外出を叱られないよう計らってくれたし、泥棒から助けてくれたり、山賊に襲われないよう、こっそり跡をつけてきてくれた夜もあった。
 思えば祐樹も、困ったときは隣にいてくれたのだ。

「真太郎」
「なんですか?」
「来世で会ったら、わたし、ちゃんと未来の真太郎と向き合うよ。自分をごまかしたりしない」
「……ええ。では、約束ですよ」
「うん。約束」

 指切りをするように視線を結ぶ。

「来世が楽しみだなぁ。そのためにも、僕は僕の役目を全うしないと。必ず、拓を取り戻します」
「でも……すでにいなかったらどうしよう。いたとしても、変な交渉を持ちかけられる場合もあるんじゃ……」

 拓の言い方から、追放されるのはそう遠くない未来という感じがした。
 拓がいたとしても、代わりに多額の金銭を要求されるかもしれない。

「すでに拓がいなかった場合は、いつどこで彼を手放したか聞くしかないです。そして彼を探す。まだ屋敷にいた場合ですが、交渉を持ちかけられる可能性は低いと思います」
「なんで?」
「僕の父は、過去に屋敷の主人の命を救っています。事故のため、瀕死の状態でした。今も後遺症で苦しむ主人を時折、回診しています。なので、岸川の人間の言うことには従うと思います。あくまで想定ですが」
「でも……以前、横浜の街で女性に会ったとき、真太郎やたらと怯えてたじゃない。岸川の人間のほうが立場が上なのになんで?」
「あれは自分の犯した罪を自覚し、震えていたのです」
「そうだったんだ……」

 真太郎のほうが立場が上であることを知り安心したものの、胸騒ぎが止まらない。

「ある程度のことは考え、対策を練っています。ただ、想定外のことが出てきた場合は……。奥方は拓に惚れこんでるんですよね?」
「そこまでは言ってなかった。拓は『関係を疑われてる』とだけ言ってたけど……」
「火のないところに煙は立たないですからね。おそらく、拓に惚れたのは間違いないでしょう。僕たちが拓を取り戻したいと言った場合にどうなるか……。恋は時に人を狂わせますからね」

 真太郎が自嘲気味に笑った。
 馬車は森を抜け、満月の日、拓と待ち合わせをしていた田んぼに出た。
 初めて拓と真太郎に会った日が、ついこの間のことのように蘇る。

「もう半分は来ました。緊張してますか?」
「うん……。それに、胸騒ぎが止まらないの」
「そうですか……。しかしあとはもう、やるしかないです。僕のことを信じてください」

 馬車が人里に入っていく。店の立ち並ぶ通りを抜け、しばらく走ったところで止まった。

「……着きましたね」

 高い塀に囲われた屋敷。ふたりの門番が、こちらを睨みつけている。

「何用ですか」
「こんばんは。岸川医院の者です。旦那さまと、奥様にお話があって参りました」
「先生ではないようだが」
「急患があり、父は来られませんでした。ですが、急ぎ話したいことなので僕と彼女で参りました」

 門番にぎろりと睨まれ、小夜の手に汗が滲む。

「これを」

 真太郎は懐から紙を取り出し、門番の目の前に広げた。

「承知いたしました。どうぞ」

 大きな門が、ギィギィと音を立てて開かれた。
 門番の視線を感じながら、真太郎と敷地に入る。
 広い庭があり、法被を着た庭師が剪定した落ち葉を片付けていた。
 
 隣を歩く真太郎に、「あの紙って」と耳打ちする。

「診療所に寄った際、岸川の家紋の入っている紙で、父に訪問の目的を書いてもらったのです。僕ひとりが来たところで、岸川家の証明がなければ追い返されますからね」

 真太郎の抜け目なさに感心しながら歩いていると、屋敷の扉の前に来た。
 洋風と和風が混ざったような屋敷だった。
 扉の前に立つ女性が、屋敷のなかへと入れてくれる。
 内装は洋風だった。アーチ状の窓が並び、床には緋色の絨毯が敷かれていた。ただ、住宅なのに人の住んでいる温もりは一切なく、どことなく冷たくて不気味だ。
 奥からエプロンをした女性が出てきた。真太郎が手紙を見せると「こちらへ」と案内してくれる。

 洋風の広間に通され、しばらく待つように言われた。置かれている調度品はどれも高価そうで、物珍しげに小夜が部屋のなかを歩き回っている間、真太郎は椅子に座り、話の運び方を整理しているようだった。

 女中がお茶を運んできてしばらくした後、杖をついた和服姿の男性が部屋に入ってきた。
 屋敷の主人だった。
 立ち上がり一礼した真太郎にならい、小夜も同じように頭を下げる。
 歳は六十代後半くらいに見えた。見た目は老人だが、眼光の鋭さと体の大きさからくる威圧感が凄まじい。
 主人が、わたしたちに座るよう促す。
 女中の介添で、主人も椅子に座る。ゆっくりと背もたれに体を預けて、ふぅと息を吐いた。

「話、とは」

 鋭い視線が突き刺さる。
 真太郎は臆せず、背筋を伸ばしたまま言った。

「はじめまして、岸川真太郎と申します。早速、本題に入らせていただきますが、拓という少年はいますか? もしいるなら、岸川医院の養子として迎え入れたいのです」
「拓……はて。そんな少年はいたかな」
「異国の血が混じったような見た目の少年です。常に笛とともにいます」
「笛……。もしその少年がいたとして、君の話、断ったらどうなるのかな?」

 値踏みするような視線を投げてくる。

(やっぱり交渉してくるじゃない……!)

 動揺を悟られないようにしながら、隣に座る真太郎の顔を盗み見る。
 
「岸川医院を継ぐ者がいなくなります。僕が継ぐ予定でしたが、予定が変わりました。西洋医学を本格的に学ぶため、僕は東京に行きます。父も高齢です。いつまで臨床医ができるかどうかわからない。そのため、かねてより父が是非医師にと期待している聡明な拓を養子にし、医院で働いてもらいたいと考えています。父の代わりに回診することになるでしょう。翻せば、彼を養子にできなければ、あなたの体を診る医師がいなくなります」

 主人の眉がぴくりと上がった。どうやら響くものがあったようだ。

「……承知した。拓という少年がいたら、岸川家の養子にやろう。先生に代わり、末永くよろしく頼むよ」
「かしこまりました」

(やった……!)

 想定よりも早く話がまとまったと、思わず口元がほころんだとき、主人と小夜の目が合った。

「このお嬢さんは、藤ヶ谷家のひとり娘かい?」
「彼女になにか?」  
「いやぁ、なんというか……」

 小夜は、まとわりつく視線から逃れるように目を伏せた。
 真太郎を取り巻く空気が、張り詰めていくのがわかる。

「……こんな若い娘に張り合おうなんて、うちのはどうかしてるなぁ」

 主人は蔑むように鼻で笑い、ふぅと息をついた。

(張り合う……? 『うちの』ってまさか奥さんのこと? この人、わたしと拓の関係を知っているの?)

「……お手数をおかけして申し訳ありませんが、拓を連れて来ていただけますでしょうか。東京に発つ日が近づいておりますがゆえ、一刻も早く彼に岸川家の息子としての振る舞いを教えたいのです」
 
 真太郎は主人の発言の真意には触れず、話題を変えた。
 主人が頷き、女中に指示を出す。
 拓がまだ屋敷にいますようにと願ったときだった。
  

 ガシャン!!
 

 廊下のほうから、硝子や陶器の割れる音がした。
 女中たちの叫び声が続く。
 主人が席を立ち、小夜と真太郎も顔を見合わせた。

「返してください!」

(この声……拓!?)

 たしかに聞こえた拓の声に、小夜は立ち上がり部屋から飛び出す。

「返してください!」
 
 廊下に出ると、二階から声がした。
 急な勾配の階段を上っていく。
「小夜さん!」真太郎もまた、小夜を追いかけてきていた。

「大切なものなのです! お願いですから、返してください!」

 声のするほうへと走る。突き当たりの部屋に人だかりができていた。
「どいて! 通してください!」かき分けて部屋のなかに入ると、そこは寝室のようで、壁際に大きなベッドがひとつ置かれていた。
 奥様が何かを抱えている。向かいには、見張りに羽交い締めにされた拓がいた。

「拓!」
「小夜!?」

 小夜の姿に驚いた拓が、小夜の方に行こうとしたものの、見張りから逃れられない。

 追いついた真太郎が、奥様と拓を交互に見つめる。
 奥様が、小夜と真太郎を睨みつけながら吐き捨てた。

「あんたたち、わたしから拓を奪おうとして来たんだろ!? 拓は岸川のところなんかに出さないよ! わたしと共に生きるんだ!」

 真太郎は顔をしかめ、小夜の胸は震え上がった。
 
「だからもう、こんな笛は不要なんだよ!」

 そのとき初めて、奥様が抱えているものが拓の笛だとわかった。
 母親の形見の笛が彼女に握られていることに、とてつもない恐怖心と怒りが湧く。

「返してよ! 拓のものでしょう!」
「藤ヶ谷のひとり娘か……これ、おまえの母さんの笛なんだろ? 使い古された汚い笛だ……拓にはもっといい物を買ってやろう」
「はぁ!? 何言って――」

 真太郎が小夜の口を塞ぐ。小夜が見上げると、戒めるように首を横に振った。

「『拓と共に生きる』ということですが……彼を連れて、この屋敷を出て行かれるということですか?」

 真太郎が冷静に問いかけると、女性が視線をさまよわせる。
 まるで、具体的にどうするかまだ決めていなかったというように。

「……どういうことだ?」

 割って入った声に、奥様の肩がびくりと跳ねる。
 振り返ると、そこには屋敷の主人が立っていた。

「『少年と共に生きる』とは、どういうことだ?」

 冷たい声の端々に、すさまじい怒りを感じる。
 空気は張りつめ、この場にいる人々を縛り付けていく。
 奥様は顔を青くして震え始め、今にも崩れ落ちそうだった。

「……あ……わたし……は」

 主人が深いため息をついた後、奥様を睨みつけた。

「この少年は岸川家へ出す。おまえは、この屋敷から出て行け!!」

 低く唸るような怒声に震えあがる。
 奥様は膝からその場に崩れ、肩を震わせて泣き始めた。
 主人は舌打ちをしながら去り、集まっていた大勢の女中もばらばらと散っていった。
 見張りの隙をついて逃れた拓が走り寄ってくる。

「小夜、大丈夫か? 真太郎、どういうこと」
「拓は岸川家で引き取る。話は通してあるから、もう大丈夫だ」

 拓がぱっと笑顔になり、小夜を強く抱きしめた。
 
「ああ、小夜! あの頃に戻れるなんて夢みたいだ」
「拓……」

 乱れた髪の隙間から、抱き合うふたりを見つめていた奥様が、ゆらゆらと立ち上がった。 
 これから行われることを察知したのか、真太郎が奥様のほうへと走り出す。
 窓枠に足をかけ飛び降りようとした奥様を、すんでのところで捕まえた。

「そんなことをしてはいけない!」
「放せ! 拓も、この生活も無くなるのなら、今ここで死ぬ!!」
 
 思いの外、彼女の力が強いのか、真太郎まで外に落ちてしまいそうになる。
 慌てて拓が加勢した。

「やめてください!」
「放せ! また無くなっていく、奪われていく……。生きていてもつらいだけなんだよ! この人生を手放して、全部やり直すんだ!」

(やり直す……?)

 小夜のなかで、ことん、と何かが動いたと思った瞬間、叫んでいた。

「やり直せるはずないじゃない!!」

 三人が動きを止め、小夜のほうを見る。

「そんな状態でこの世の中から去っても、また同じことの繰り返しだよ! 生まれ変わったら全部ちゃらになるなんて、そんな夢みたいなことないんだから!!」

 変わりたいと願うなら、いま、自分の力で変えなければならない。
 環境が変えてくれる、なんて他人事でいても何も変えられない。

「明治の女性は生きづらい。今回、本当に実感した。だけど、この先の時代だって、全て自分を受け入れてくれるわけじゃない。幸せに生き抜いていくには、自分で自分を強くしないといけないんだよ」

 奥様の力が弱まったタイミングで、真太郎と拓が一気に部屋へと引き戻した。
 小夜は、反動で床に倒れた彼女のそばにしゃがむ。

「大丈夫。これからの時代、女性はもっと生きやすくはなる。まずはこの世界を強く生き抜いて」

 奥様の瞳が潤み、目を伏せた。
 震える肩を眺めながら、この時代の厳しさを痛感していた。
 小夜のように、良家に生まれた女性と、貧しい家に生まれた女性との差。
 どちらにせよ、女性の人権については無いに等しく、国も味方してくれない。
 男性に従い、生きていくしかない人生。
 でも、今の自分にはわかる。そうやって悔しい思いをした女性たちが立ち上がってきたことを。
 いたずらに自分の命を絶つのではなく、この時代を強く生き抜いてほしかった。

「……わかったよ」

 絞り出された言葉に、小夜は笑顔を返した。

「あなたなら、きっと大丈夫!」
「わかったよ。おまえさんがなぜ、拓に愛されているのかという理由が」
「!?」

 思いきり体を押され、小夜は近くにあった家具に激突した。

「小夜!」
「小夜さん!」

 拓と真太郎が駆け寄ってくる。
 痛みに悶える小夜の姿を、女性が見下ろしている。

「気高いお嬢様にはわからないさ。底辺を生きてきた女の人生なんて!!」

 洋服も髪も、見るも無残なほどに乱れているものの、瞳だけはありったけの憎しみを込めて見開かれている。
 そして、はだけた胸元から笛を取り出した。
 拓が立ち上がり、笛に向かって突進していく。

「返せ!」
「こんなもの!!!」

 拓が掴みかかる前に、窓から笛が放り投げられる。
 笛は放物線を描き、高い塀の向こうへと吸い込まれていった。

「このくらい、いいじゃないか! もう笛は必要ないだろう? 拓がそばにいるのなら!」
「――なんてことを!」

 拓が奥様を蹴り飛ばし、馬乗りになる。振り下ろそうとした拳を真太郎が止めた。

「拓! なにがあっても乱暴はいけない!」
「離せ、真太郎!」

 小夜は痛む体を抱えながら立ち上がった。

(……お母さんの……笛!)

 絡み合う三人を置いて部屋を飛び出す。
 階段を転げ落ちるように下りて、女中たちにぶつかりながら外に出る。
 二階の窓から投げられた笛は、裏の塀の向こうに落ちていった。
 屋敷の裏側にまわる。高い塀はとても越えられそうにない。外に通じる扉は鍵がかかっていて開かない。
 水の音がして、向こう側が川ということがわかり、もし流れてしまっていたらと冷や汗が伝ったときだった。

「どうかされましたか?」

 衿に屋号の入った法被を着たおじさんが立っていた。梯子を肩にかけ、ハサミを手に持っている。庭師なのかもしれない。

「おじさん! その梯子、使わせてくれない?」
「ええ?」
「塀の向こう側に落とし物をしてしまって、すぐ取りにいきたいの」
「でしたら門番に言い、裏口を開けていただきましょう」
「急いでいるの! お願いだから梯子を貸して!」

 小夜の勢いに気圧された庭師が、塀に梯子を立てかける。
 すぐさま梯子を上る。ぎしぎしと音を立てて軋む梯子を、庭師が慌てておさえる。

「お嬢さん、大丈夫かい?」
「大丈夫!」

 塀から顔を覗かせたとき、川の中央にある石に引っかかりながら揺れている笛を見つけた。

「おじさん、もう大丈夫です!」
「大丈夫ったって、向こう側には梯子がないよ!」

 塀は厚さがあったので、慎重に体を持ち上げて腰掛ける。
 着地面を確認すると、こんもりと草が生えていた。ここから落ちても、軽い捻挫か、すり傷くらいで済ませられるだろう。
 
(せーの!)

「痛っ!!」

 着地したときに腰を打ってしまった。さすりながら立ち上がり、笛が揺れている川のそばまで来た。
 着物をたくし上げ、川のなかに足を入れる。ふくらはぎの真ん中くらいの深さだった。

(これならいける……!)

 じゃぶじゃぶと、川の中を歩いていく。
 興奮していたせいで、水の冷たさを感じない。
 もう少しでと思ったところで、笛が流れ出してしまった。

「待って!」

 真っ直ぐに流れていく笛を追いかける。着物が水を吸ってしまい、とにかく動きづらい。
 いつの間にか水嵩は増し、小夜の膝ほどになっていた。
 
(あと、あと少し……)

 精一杯手を伸ばす。笛の端に指が触れ、必死に掴んだとき、



――!!


 顎の高さまで、一気に水嵩が増した。驚いてバランスを崩す。
 足はつくはずなのに、流れが速く、パニックになってしまった。


「……夜! 小夜!」
「小夜さん!」


 遠くで拓と真太郎の叫ぶ声がする。



「拓、真太…郎……! うっ」



 川の中で暴れるうち、水を飲んでしまった。
 ひくひくと喉が鳴るだけで、呼吸することができなくなる。



(拓、真太郎……祐樹……)



 ふわっと体が軽くなる心地がした。
 苦しさから解放される。
 誘われるように、小夜は目を閉じた。