夏の勢いが消え、やかましく鳴いていた蝉の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。道端に転がる蝉を、そっと避けて歩く。
金木犀の香りを連れてきた風が、小夜の頬を撫でていった。
真太郎の手には、菓子屋の袋が握られている。中秋の名月の日に藤ヶ谷家で開かれる祝いの会のお菓子を、ふたりで買いに行ったのだった。
「当日は、ご両親も来られるって?」
「ええ。三人で参ります。父が酔っ払わないといいのですが……」
「あはは。まぁ、帰れなくなったら泊まればいいんじゃない?」
「とんでもない。藤ヶ谷のみなさんにご迷惑をかけるようなこと、あってはなりません」
毎年、中秋の名月の会には真太郎のみが来ていたが、今年は彼の両親も来られるらしい。
「月はいつも綺麗だけど、その日はもっと綺麗なのかなぁ……」
夕暮れの空を見上げる。拓と会っていたころは、あと何日で満月と指折り数えていた。今はもう、そんなことはしない。
先月の満月の日は、部屋の窓をぴたりと閉めた。月も見えない、笛の音も聞こえない部屋でひとり、膝をきつく抱えていた。
真太郎が、ふいに小夜の手を取った。
「こちらへ」
連れられるまま歩いていくと、一面のススキ野原に出た。
「わぁ……」
西陽を受け風に揺れるススキは黄金の波のようだ。
「すごい。こんなに綺麗なススキ野原、見たことない」
真太郎はススキ野原でなく、小夜の横顔を見つめ優しく目を細める。
「……月の話をしていたから、彼のことを思い出されたのでは? あの日、家に行こうと思ったのですが、どうしても出られず」
「ううん。大丈夫だよ、わたしは――」
小夜が笑って首を振ると、真太郎も同じように首を振った。けれど顔は笑っていない。
「寂しかったんでしょ?」
「……」
小夜は言葉に詰まる。
ひとり締め切った部屋で膝を抱え、朝が来るまで耐えた夜。寂しくなかったわけではない。ただ本当の気持ちを口には出せない。
小夜のなかではもう終わったことだった。悲しい気持ちを蒸し返したくないし、なによりも真太郎に「行けばよかった」と後悔してほしくなかった。
「……気持ちを口に出さない理由、わからなくもないです。だけど僕は、すこし寂しい。どんなことでも話してほしいんです。受け止めるから。どんな気持ちも」
優しい言葉が、温もりを保ったまま小夜の心に溶けていく。
「次の満月の日は一緒にいましょう」
微笑む真太郎の背後で、秋の風が黄金のススキを撫でていった。
♦︎
開け放たれた障子窓から月を望む。
わずかに欠けた月に、小夜は「あれ」と思った。
「満月じゃない……?」
「明治の初めに暦が変わりましたからね。中秋の名月といっても、満月が望めるとは限らないのですよ」
小夜は、そうなのかと驚いたと同時に、今日が満月でなくてほっとしていた。
満月ならば、笛の音がしないか耳を澄ませてしまいそうだった。
月を見ても、拓に想いを馳せない日がやってくるのだろうか。そのとき自分はどこにいて、誰を想っているのか。
月は綺麗に輝くだけで、何も答えてはくれない。
宴会が終わり、近所の人たちが帰っていく。小夜の父親は真太郎の両親と話し込んでいるので、代わりに真太郎とふたりで見送る。
彼らのうちのひとりが、思い出したように真太郎に話しかけた。
「そういえば、真太郎くん。君は医学校に通っているんだったね」
「はい」
「わたしの叔父も医者で――」
共通の知り合いがいたようで話が盛り上がってきたので、小夜はひとり客間へと戻った。
話し込んでいる父親たちの邪魔にならないよう、静かに食器を片付け始める。
すると、食器を重ねる音に混じって「縁談」という言葉が聞こえてきた。
手を止める。胸騒ぎがして、会話に耳を澄ませた。
「小夜の気持ちもじきに固まるだろう。真太郎くんさえ良ければ、話を進めてもよろしいでしょうか」
「真太郎の気持ちは把握しています。小夜さんが岸川家に嫁いでくれるのであれば、我々は大歓迎です」
(ちょっとお父さん! わたしはまだ何も!)
止めなければと、立ち上がろうとしたときだ。
「拓くんを引き取り、岸川家の養子にして跡を継がせ、真太郎は藤ヶ谷家の婿養子に……なんてことを考えていたが、その必要はありませんでしたな」
(――え……?)
そんな話、初めて聞いた。
小夜は息をひそめて話の続きを待つ。
「拓くんを養子に? 長男が家督を継がなくても問題ないのですか?」
「本来であればそうですが。拓くんの物怖じしない性格や細やかな気遣い、頭の回転の速さには目を見張るものがありましたから。いい医師になれると思った。一方、幼いころから小夜さんを想う真太郎の気持ちに寄り添いたくもありました。たださすがに、代々続く医者の家系の岸川が途絶えてはならない。結果考えたのが、拓くんを養子にすることでした」
「しかし……ではなぜ、彼を養子にしなかったのか」
「真太郎が反対したんです」
残酷な真実に体を貫かれ、めまいがした。
心臓がドクンドクンと音をたて、視界が波打つ。
これ以上、聞いてはだめだ。
そう思うのに体が動かない。
「『岸川医院は長男の僕が継ぐ。岸川真太郎として、最後まで生き抜きたい』と言われました。それでも、あの屋敷の噂は耳に入っていましたから、わたしは拓くんを養子にしたいと口論になってね……。あのころの小夜さんは拓くん一筋でしたので、小夜さんとの結婚が現実味をもった話として信じられなかったようだ。拓くんに対する劣等感もあったんでしょう。最後は、わたしが折れました。真太郎がこんな状態なら、拓くんを引き取ったとしても、お互いにつらいと思ったのです」
「そうでしたか……。うちも、拓くんの年齢がもうすこし上ならば婿養子として迎えることも考えたが……。こればっかりは」
「わかります。仕方がない。真太郎も苦渋の選択だったと思うのです。とはいえ、拓くんには申し訳ないことをしてしまった……」
(なにそれ……)
真太郎は、拓がいなくなって心が痛いと言っていた。この世の中にはどうしようもないことがあるのだと嘆いていた。
でも実際は、真太郎が反対していた。
唐突に、真太郎の家でご馳走になったときを思い出す。帰り際、真太郎の父親が拓について触れた際に、途中で話を遮った理由は――
(わたしに真実を知られたらいけないと思って……?)
中腰の状態のまま固まっていたところで、背後から声をかけられた。
「小夜さん」
真太郎の声だったが、振り向けなかった。どんな顔を向けたらいいかわからず、聞こえないふりをして食器を片付ける。
指先が震えてしまい上手く重ねられない。陶器がぶつかる音が耳につく。
「手伝います」
「あ……ありがとう」
かろうじてお礼は口に出せたものの、顔は見られない。どうして、なぜという気持ちが滲み出てしまい、うまく笑えるかわからないのだった。
食器を盆の上にのせているところで、小夜の手元がくるい、汁の残った椀をひっくり返してしまった。
「大丈夫ですか? もう熱くはないとは思いますが……」
真太郎が手ぬぐいで小夜の手を拭う。
「大丈夫、ありがとう」
必死で笑顔をつくる。これ以上、近くにいたら胸の内を悟られそうで、小夜は盆を持ち立ち上がった。逃げ込むように台所に入る。忙しなく食器を洗っている女中の前に、わざとらしく盆を置く。
「まだお皿が残っているの。わたしだと一度に持てる量に限りがあって……真太郎も手伝ってくれてるんだけど」
「とんでもない! お二人に手伝わせてしまって申し訳ございません。わたしたちがやりますので、小夜さんは部屋でお休みになってください」
小夜は内心ほっとした。小夜が片付けをしていると知れば、女中たちは「そんなことをしなくてもいい」と言うだろう。そうはいってもと、いつもは無理に手伝う小夜も、今日はあっさりと引き下がる。忙しく洗い物をしている女中たちには申し訳ないが、小夜は部屋に戻ることにした。
しかし、廊下に出たところで父親につかまってしまう。真太郎たちが帰るという。結局、玄関で見送ることになってしまった。
「本日は、ありがとうございました」
「ごちそうさまでした。小夜さん、またうちにご飯食べにいらしてね」
「はい。ありがとうございます」
小夜は愛想良く笑いながらも、真太郎のほうは見られなかった。
結局、真太郎とは一言も交わさないまま、彼らは出て行った。
「さてと、小夜は――」
「わたし疲れちゃったから、もう寝ます! おやすみなさい!」
早くひとりになりたかった小夜は、父親の言葉を遮り、自分の部屋へと走って行った。
部屋の襖を開き、勢いよく閉める。灯りもつけないまま、襖を背にずるずると座り込んだ。
指先の震えが止まらない。
これは怒りなのだと自覚する。
拓をあの屋敷に行かせるということは、彼の死を意味する。
小夜はどうしても、拓の命を犠牲にしたことが許せないのだった。
一方で、真太郎の選択を分かりたくもあった。彼にとって、岸川真太郎として生き抜くことは何よりも大切なものだった。自分の人生をどう生きていくか、それを他人がどうこう言うことはできない。
それに、真太郎はいつでも小夜の気持ちに寄り添い、心の内まで理解しようとしてくれた。彼を責めたくはない。
だけど。でも。
(どうしよう……。どうしたらいいの……)
暗闇のなか膝を抱え、ぎゅっと目を瞑った。
♦︎
中秋の名月の会から三日後の夕暮れどき。
真太郎が小夜の家を訪ねてきた。
彼は「満月の日は一緒にいよう」という約束を忘れてはくれなかった。
小夜は気の進まない気持ちを悟られないよう、笑顔で押し通すことに決めた。
「部屋で花札でもする?」
「それもいいですが……風が気持ちいいので、すこし外を歩きませんか?」
「じゃあ、散歩しよっか!」
風は涼しさを通り越し、冷たさを感じさせた。緊張して変な汗をかいているせいかもしれない。ひきつった笑顔を貼り付けて、明るい声を出さなければならないことがしんどかった。
「……小夜さん」
橋を渡ろうとしたところで、真太郎が立ち止まる。
「僕に聞きたいこと、ありませんか?」
真太郎の顔は追い詰められたように真剣だった。
小夜が全てを知ったことに、勘づいたのか。
ただ単に、態度がおかしいと思っただけなのか。
わからなくて、小夜はただ瞳を揺らした。
「ありませんか?」
「あ、えっと……」
聞きたいことならたくさんある。けれど、言っていいものかわからない。
(拓の命より、自分の未来を優先したの? 小夜と拓が想い合ってることを知ってて――)
ごくり、と唾を飲む。
目の前に立つ真太郎が、とてもおそろしい人に思えてくる。
(でも……)
真太郎は以前、「どんな気持ちも受け止める」と言ってくれた。矛盾する今の気持ちごと全部、彼に話すべきかもしれない。
ただどうしても、喉のあたりに言葉が引っかかり、出てこないのだ。
何も聞かないと決めた証に、目を伏せた。
立ち尽くすふたりの横を、何人もの人が通り過ぎて行った。
「……あなたが、何も言ってくれないのなら」
真太郎が、絞り出すようにして声を出す。
「ごめん。もう無理」
小夜は目を見開き、弾かれたように顔を上げた。
それは、祐樹が告げた最後の言葉だったから。
五月、よく晴れた日だった。
菜々美と祐樹は、横浜にある山下公園から海を眺めていた。今日のために買ったワンピースの裾が、風を受けてふわりと膨らんだ。
一ヶ月ぶりに会った祐樹は、すこし大人びて見えた。菜々美の知らない環境で、知らない仲間に囲まれている祐樹。
なんだか遠くに感じたが、彼が充実していればそれでいいと思う気持ちにも嘘はなかった。
別々の場所にいるだけ。寂しくても、しかたない。また会えるから。
会っている間は楽しい時間を過ごしたい。菜々美が笑顔を向けると、祐樹はうつむいて言ったのだ。
――ごめん、もう無理。続けられない。
あのときのように、胸の奥が冷たくなっていく。景色が灰色に変わり、息が苦しくなっていく。
けれど、そんなときでさえ思ってしまうのだ。
このままではいけない、と。
わたしは強い。わたしは強い。
絶望の淵に立たされても、相手のことは責められない。自分の気持ちを言えない。
そして笑顔で返す。
「……今まで、ありがとう」
真太郎の顔が暗く沈んでいく。
そのまま目を伏せ、背を向けて静かに橋を渡って行った。
小夜は遠ざかる背中を見つめるだけで、その場から動けないでいた。
笑顔でいれば、相手とぶつからなければ、全て平穏に収まっていくと信じていた。実際に衝突は起きなかった。
けれど真太郎の様子から、確実に彼を傷つけたことが伝わってきた。傷つけたくなかったのに。
(……どうして)
なにもかもがあの時と同じで、でもなぜだかわからない。
突きつけられた現実を前に、立ち尽くした。
家までの道を、力なくたどる。
拓を取り戻さなければ元の世界に戻れないのに、それはもう叶いそうにない。
こうなってしまっては真太郎との結婚もなくなるだろう。
拓との別れを最後に【小夜】の声も聞こえなくなっていた。繰り返し見ていた夢も見ない。
自分はこのまま、この世界で命を終えるのだろうか。
家の前まで来て、空を見上げた。
東の空に満月が浮かんでいた。
――……。
「……拓?」
夕暮れの雑踏に混じる笛の音。
まだ日が暮れて久しく、待ち合わせていた時刻とは程遠い。けれども確かに、笛の音がするのだった。
小夜は耳だけを頼りに、細い糸を手繰り寄せるように、笛の音をたどっていった。
次第に輪郭を増していく音が小夜を導く。
そして、見つけた。
池のほとりに立つ木にもたれ、笛を吹いている少年。
紺色の浴衣が、忍び寄る闇に溶け込みそうだ。
「拓……!」
「小夜」
拓が微笑み、ゆっくりと歩み寄る。
「もう二度と会えないと思ってた。どうしたの? また抜け出してきたの?」
「いや。許可を得て来ている」
「許可を得て? じゃあ、これからも会えるってこと?」
拓は、ゆっくりと首を横に振った。
「これで最後」
口元は笑っていたけれど、瞳は悲しげに揺れている。
「どう……して」
「屋敷の主人が、俺のことを気に入らない。声が変わっても笛を吹くことで生き抜けたのは、奥方の計らいもあった。主人はそれが気に食わないらしい。奥方と俺の関係を疑っているんだ。もうすぐ俺は追放される」
「追放……?」
「ああ。屋敷からの追放は死を意味する。だから、これで最後なんだ」
死。
さっと体温が下がる。
目の前にいるはずの拓が、急に遠くに感じてしまい、思わず彼の両腕を掴む。どこにも行かないようにと。
「だめだよ。真太郎のお父さんに話に行こう。真太郎のお父さん、拓のことを引き取る予定だったって。この状態を聞いたら、助けてくれるかもしれない。せっかく出られたんだし、このまま逃げよう」
拓は一瞬、面食らった顔をしたが、再び表情を沈ませる。
「無理だ。今だって逃げないよう見張りがついている。それに、現に俺は屋敷に引き取られたんだ。真太郎の父上が俺を引き取れなかったのには理由があるはず。それは解決しているの?」
「それは……!」
解決していないどころか、真太郎との仲がこじれた以上、岸川家の養子になることは不可能にちかい。
「だろ? だから……最後に話をしないか?」
拓が小夜の髪を撫でる。悲しいくらい優しく。
(わたし相手に、最後だなんて……)
【小夜】のことを想った。拓の運命が変えられないなら、せめて直接話をさせてあげたかった。なのに、彼女の声は聞こえてこない。
「だめだよ! 真太郎は、わたしが説得する! お父さんにもお願いしてみる! なんとかするから、だから最後だなんて言わないで……!」
涙声になりながら訴えるも、泣きたくないと目元を拭う小夜を見て、拓がほどけたように笑った。
「小夜」
腕を伸ばし、小夜をきゅっと抱きしめる。
「強い小夜。俺の大好きな小夜。ありがとう」
「拓……」
小夜の手を引き、ちょうどふたりが座れるほどの板の上に腰掛ける。
「小夜も座って」
言われるがまま腰を下ろすと、拓が背中合わせに座った。
「こうしていれば見えないよ。だけど俺はここにいる。そうだ、笛を吹こう。言葉にできない感情と、悲しい気持ちをさらってくれるだろうから」
拓が笛を吹く。その音色はどこまでも澄んでいて、どうにもならない現実を優しく撫でていくようだった。
涙が頬を伝う。
背中から伝わる温もりが、頑な自分を溶かしていくようだった。
他人に涙は見られたくない。だからといって、ひとりで泣くとどこまでも落ちていきそうでこわかった。
強い自分を保っていないと、絶望に足をすくわれそうな気がしていた。
お母さんを亡くしてからずっと……。
悲しいと、苦しいと、泣いていたところで変わるものは何もない。お母さんは戻らない。
しっかりしなければ。お父さんも苦しいんだ、悲しいんだ。だから、寂しい気持ちには蓋をする。
わたしが笑顔だと、お父さんは安心する。わたしが我慢すれば、周りはうまく回っていく。
遠距離恋愛がつらいと言えば、祐樹は自分の選択が間違っていたと後悔してしまう。だから、言わない。ずっとそばにいて欲しかったから。
ごめん無理だと別れを告げられても、いやだとすがることはできない。理由を聞くことさえできない。面倒だと思われたくないから。
相手を傷つけたくないと、言えなかった本当の気持ち。
でもそれは単に、自分が傷つきたくなかっただけ。
涙がとめどなく流れ落ちる。
小夜は思う。
自分はとても弱い。
強くなんてない、と。
いつの間にか、笛の音は止んでいた。
「……小夜と会って、小夜のことを知って、俺はすごく驚いたんだ。いつも自分を保って、俺の前でさえ涙を見せずに――」
「それは」
拓のほうに向き直る。
小夜の頭のなかでは「ありのままを見せてほしい」という真太郎の言葉が浮かんでいた。
「弱い自分を隠してるだけ。否定されるのがこわくて、自分の気持ち、言いたい言葉、全部隠してしまう。ありのままを見せてほしい人にとったら、一緒にいる意味がないよね……」
拓のビー玉のような瞳が、すっと細くなった。
「真太郎にそう言われた?」
「あ……」
「たしかに、そう思う人もいる。本心を隠す人間とは一緒にいられないと、離れていく人もいるだろう。……白状するよ。俺は小夜がそうやって孤独になってもいいと思っていた。むしろ好都合だ。俺だけを頼ってくれるから」
「え……?」
小夜の目には幾分か非難するような色が混じっていたが、拓は目を逸らさなかった。
「俺はさ、記憶してる限り親も兄弟も知らないから、最初から守ってくれる人はいなかった。所有者はころころ変わり、そのたび俺を染めようとするから、何も持たないことに決めた。欲も感情も全部捨てるしかなかった。
だけど小夜に出会って、初めて欲しいと思った。小夜は、どんなに悲しいことがあっても、涙は見せずに耐えようとする。自分を必死に強く見せようとしている。いたいけで、どうしようもなく守りたいと思った。誰にも頼ろうとしなければ、いずれ限界がくるだろう。そんなとき、手を差し伸べるのは俺だけでありたかった」
拓は夜空を見上げた。
満月が、南の空へと昇り始めている。
「小夜の幸せを考えていなかった。屋敷に行ってからも、自分の欲を満たすことだけ考えて、いつまでも満月の約束に縛ろうとした。……でも、それじゃだめだと真太郎から教えられた。真太郎は自分の命を懸けてまで、小夜の幸せを願った。これこそが愛なんだとわかったんだ。小夜のことを想うなら、俺なしでは生きていけないようにするんじゃなくて、『俺なしでも』幸せに生きていけるようにすることが愛だって」
拓の指が、小夜の頬に伸びる。
「小夜、強くあろうとすることは悪いことじゃない。ただ、本当の強さは耐え抜くことじゃない。自分の感情にも向き合って、必要な行動を選び取る勇気だ。俺がずっとそばにいられたら、小夜がつらいときに声をかけられたけど、それはもう叶いそうにない。
強くあろうとすることを、やめなくていい。今までの自分を否定しなくてもいい。どんなときでも希望を失わず、頑張ることは小夜の良さだ。でも、時には人とぶつかり合って、そして本当につらいときは誰かに頼って。大切な人に、自分を明かすことを厭わないで。そうやって『強く』生き抜くんだ。これは俺の遺言だよ。だからずっと覚えていて」
拓の澄んだ瞳が潤んで揺れた。
静かで深い瞳は、数えきれないほどの悲惨な状況を映してきたのだろう。
それでも澄んだ光を失わないために、彼は多くを学び、強く生き抜いてきたにちがいない。
拓の指が離れる。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行かないと。小夜も」
「……」
小夜は立ち上がれないでいた。
拓の切ない告白に、なんと返したらいいのかわからない。
彼は小夜の弱さに気づきつつも、ずっと見守ってくれていた。
自分のことを、これほどまでにわかってくれる人を離したくない。
けれどここで駄々をこねても、拓を困らせるだけで何も変わらない。
だけど。
(たとえ何も変わらなくても……わたしの気持ちを……)
目を瞑り、深呼吸する。
顔を上げた。
「拓……なんて言ったらいいのか、いろんな想いが重なって言葉が出てこなくて……。本当はずっとそばにいて欲しいし、このままふたりで逃げられたらいいのだけれど……それができないこともわかってる」
「うん」
拓がそっと頭を寄せる。優しい温もりに泣きそうになる。
「わたし、自分の弱さを認めるのがいやで、でもそれじゃいけないんだって思って……。ただ、強がりな自分を否定したら、今までしてきたことが全部間違いだったのかなって悲しくて」
「うん」
「でもね、拓が『今までの自分を否定しなくていい』って言ってくれて、強がりなわたしを好きになってくれて嬉しかった。でもこれからは、自分の気持ちにも向き合って必要なことをしていく」
「うん」
小夜の頬を伝う涙を、拓がそっと指で拭う。
「拓、離れて行ってほしくないけど、別れの言葉はいつだって、これしか言いたくない。今までありがとう。拓……出会ってくれて、ありがとう」
笑顔をつくり、ひとつひとつの言葉に心を込めた。
とびきりの笑顔が返ってくる。
「強い小夜。いつまでも君のことを想ってる。来世では一緒になろう。月と笛。これさえあれば必ず会える」
拓の手が小夜の頬を包む。
南へと昇っていく満月が、目尻の対称的なほくろを重ねるように口づける、ふたりの姿を優しく見下ろしていた。
□□□
同じころ、真太郎の家。
真太郎は部屋に入り、後ろ手に襖を閉めたまま立ち尽くしていた。灯りをつける気にもなれない。
大きくため息をつく。
(小夜さんを困らせてしまって……最悪だ)
中秋の名月の会のとき、話が終わって部屋に戻ると、食器を片付けている小夜を見つけた。
手伝おうとそばに寄ろうとすると、父親たちの会話が聞こえてきた。
――しかし……ではなぜ、彼を引き取らなかったのか。
――真太郎が反対したんです。
全身が、ばらばらと砕け落ちていくようだった。
小夜には知られたくなかった秘密。
一生、背負っていくと決めた罪。
――『岸川医院は長男の僕が継ぐ。岸川真太郎として、最後まで生き抜きたい』と言われました。それでも、あの屋敷の噂は耳に入っていましたから、わたしは拓くんを養子にしたいと言って口論になってね……。あのころの小夜さんは拓くん一筋でしたので、小夜さんとの結婚が現実味をもった話として信じられなかったようだ。拓くんに対する劣等感もあったんでしょう。
岸川真太郎として生き抜きたいと思ったことに嘘はない。
この家に長男として生まれたからには、良家のひとり娘である小夜との結婚は望めなかった。家の存続のためならば、添い遂げられなくても仕方のないことだと思っていた。
いずれ小夜も婿養子をとるだろう。覚悟はできていたが、状況が変わった。
人望も才能もある拓を、岸川家の養子に迎える。ゆくゆくは医師として、岸川医院で共に働くだろう。才のなさを努力で補うしかない自分にとっては脅威になる。彼のほうが優れているのは誰の目にも明らかだ。
花かるたをしても走っても、拓が負けることは少ない。三つも年下の拓に負けることは、真太郎のなかでは屈辱だった。事実、幼い小夜の熱い視線は常に、真太郎ではなく拓に向けられていた。
小夜は拓との結婚を望む。そして彼は、藤ヶ谷の婿養子になるのだ。
小夜との結婚も、医師としての名声も、彼がひとりじめ。
そんな未来がはっきりと見えるのに、拓を養子に迎えることなど賛成できなかった。
たとえ、彼の命が懸っていようとも。
ふらふらと歩き、障子窓を開ける。満月が飛び込んできた。
差し込む月明りが、真太郎の全てを洗いざらい照らしていく。
「小夜さんは……なぜ何も訊かないんだ」
訊きたいこと、言いたいことは尽きないはずだ。
真太郎を責める言葉もあるだろう。全てを受け止め、懺悔するつもりだった。
人の命を救う医師になろうとする者が、己の欲のために少年の命を犠牲にしたのだ。
しかもそれは、彼女にとって最愛の人。
けれども小夜はなにひとつ、口には出さないのだ。懸命に耐える姿が痛々しくもあった。
彼女からぶつけられるはずの怒りがないので、あやまる機会さえ与えられず、赦されもしない。
途方に暮れ、挙句の果てに、自ら小夜のことを拒んでしまった。
(拓なら……こんなときどう言うのだろう)
小夜の絶対的存在である拓。まるで運命の契りのごとく、初めて会ったときから惹かれ合ったふたり。
ふたりの仲を引き裂いてもなお、彼女の心に残る拓の残像。
力なく、ずるずると座り込む。
「僕は、どうしたら……」
暗い部屋に、眩しいほどの月明りが差し込んでいた。
金木犀の香りを連れてきた風が、小夜の頬を撫でていった。
真太郎の手には、菓子屋の袋が握られている。中秋の名月の日に藤ヶ谷家で開かれる祝いの会のお菓子を、ふたりで買いに行ったのだった。
「当日は、ご両親も来られるって?」
「ええ。三人で参ります。父が酔っ払わないといいのですが……」
「あはは。まぁ、帰れなくなったら泊まればいいんじゃない?」
「とんでもない。藤ヶ谷のみなさんにご迷惑をかけるようなこと、あってはなりません」
毎年、中秋の名月の会には真太郎のみが来ていたが、今年は彼の両親も来られるらしい。
「月はいつも綺麗だけど、その日はもっと綺麗なのかなぁ……」
夕暮れの空を見上げる。拓と会っていたころは、あと何日で満月と指折り数えていた。今はもう、そんなことはしない。
先月の満月の日は、部屋の窓をぴたりと閉めた。月も見えない、笛の音も聞こえない部屋でひとり、膝をきつく抱えていた。
真太郎が、ふいに小夜の手を取った。
「こちらへ」
連れられるまま歩いていくと、一面のススキ野原に出た。
「わぁ……」
西陽を受け風に揺れるススキは黄金の波のようだ。
「すごい。こんなに綺麗なススキ野原、見たことない」
真太郎はススキ野原でなく、小夜の横顔を見つめ優しく目を細める。
「……月の話をしていたから、彼のことを思い出されたのでは? あの日、家に行こうと思ったのですが、どうしても出られず」
「ううん。大丈夫だよ、わたしは――」
小夜が笑って首を振ると、真太郎も同じように首を振った。けれど顔は笑っていない。
「寂しかったんでしょ?」
「……」
小夜は言葉に詰まる。
ひとり締め切った部屋で膝を抱え、朝が来るまで耐えた夜。寂しくなかったわけではない。ただ本当の気持ちを口には出せない。
小夜のなかではもう終わったことだった。悲しい気持ちを蒸し返したくないし、なによりも真太郎に「行けばよかった」と後悔してほしくなかった。
「……気持ちを口に出さない理由、わからなくもないです。だけど僕は、すこし寂しい。どんなことでも話してほしいんです。受け止めるから。どんな気持ちも」
優しい言葉が、温もりを保ったまま小夜の心に溶けていく。
「次の満月の日は一緒にいましょう」
微笑む真太郎の背後で、秋の風が黄金のススキを撫でていった。
♦︎
開け放たれた障子窓から月を望む。
わずかに欠けた月に、小夜は「あれ」と思った。
「満月じゃない……?」
「明治の初めに暦が変わりましたからね。中秋の名月といっても、満月が望めるとは限らないのですよ」
小夜は、そうなのかと驚いたと同時に、今日が満月でなくてほっとしていた。
満月ならば、笛の音がしないか耳を澄ませてしまいそうだった。
月を見ても、拓に想いを馳せない日がやってくるのだろうか。そのとき自分はどこにいて、誰を想っているのか。
月は綺麗に輝くだけで、何も答えてはくれない。
宴会が終わり、近所の人たちが帰っていく。小夜の父親は真太郎の両親と話し込んでいるので、代わりに真太郎とふたりで見送る。
彼らのうちのひとりが、思い出したように真太郎に話しかけた。
「そういえば、真太郎くん。君は医学校に通っているんだったね」
「はい」
「わたしの叔父も医者で――」
共通の知り合いがいたようで話が盛り上がってきたので、小夜はひとり客間へと戻った。
話し込んでいる父親たちの邪魔にならないよう、静かに食器を片付け始める。
すると、食器を重ねる音に混じって「縁談」という言葉が聞こえてきた。
手を止める。胸騒ぎがして、会話に耳を澄ませた。
「小夜の気持ちもじきに固まるだろう。真太郎くんさえ良ければ、話を進めてもよろしいでしょうか」
「真太郎の気持ちは把握しています。小夜さんが岸川家に嫁いでくれるのであれば、我々は大歓迎です」
(ちょっとお父さん! わたしはまだ何も!)
止めなければと、立ち上がろうとしたときだ。
「拓くんを引き取り、岸川家の養子にして跡を継がせ、真太郎は藤ヶ谷家の婿養子に……なんてことを考えていたが、その必要はありませんでしたな」
(――え……?)
そんな話、初めて聞いた。
小夜は息をひそめて話の続きを待つ。
「拓くんを養子に? 長男が家督を継がなくても問題ないのですか?」
「本来であればそうですが。拓くんの物怖じしない性格や細やかな気遣い、頭の回転の速さには目を見張るものがありましたから。いい医師になれると思った。一方、幼いころから小夜さんを想う真太郎の気持ちに寄り添いたくもありました。たださすがに、代々続く医者の家系の岸川が途絶えてはならない。結果考えたのが、拓くんを養子にすることでした」
「しかし……ではなぜ、彼を養子にしなかったのか」
「真太郎が反対したんです」
残酷な真実に体を貫かれ、めまいがした。
心臓がドクンドクンと音をたて、視界が波打つ。
これ以上、聞いてはだめだ。
そう思うのに体が動かない。
「『岸川医院は長男の僕が継ぐ。岸川真太郎として、最後まで生き抜きたい』と言われました。それでも、あの屋敷の噂は耳に入っていましたから、わたしは拓くんを養子にしたいと口論になってね……。あのころの小夜さんは拓くん一筋でしたので、小夜さんとの結婚が現実味をもった話として信じられなかったようだ。拓くんに対する劣等感もあったんでしょう。最後は、わたしが折れました。真太郎がこんな状態なら、拓くんを引き取ったとしても、お互いにつらいと思ったのです」
「そうでしたか……。うちも、拓くんの年齢がもうすこし上ならば婿養子として迎えることも考えたが……。こればっかりは」
「わかります。仕方がない。真太郎も苦渋の選択だったと思うのです。とはいえ、拓くんには申し訳ないことをしてしまった……」
(なにそれ……)
真太郎は、拓がいなくなって心が痛いと言っていた。この世の中にはどうしようもないことがあるのだと嘆いていた。
でも実際は、真太郎が反対していた。
唐突に、真太郎の家でご馳走になったときを思い出す。帰り際、真太郎の父親が拓について触れた際に、途中で話を遮った理由は――
(わたしに真実を知られたらいけないと思って……?)
中腰の状態のまま固まっていたところで、背後から声をかけられた。
「小夜さん」
真太郎の声だったが、振り向けなかった。どんな顔を向けたらいいかわからず、聞こえないふりをして食器を片付ける。
指先が震えてしまい上手く重ねられない。陶器がぶつかる音が耳につく。
「手伝います」
「あ……ありがとう」
かろうじてお礼は口に出せたものの、顔は見られない。どうして、なぜという気持ちが滲み出てしまい、うまく笑えるかわからないのだった。
食器を盆の上にのせているところで、小夜の手元がくるい、汁の残った椀をひっくり返してしまった。
「大丈夫ですか? もう熱くはないとは思いますが……」
真太郎が手ぬぐいで小夜の手を拭う。
「大丈夫、ありがとう」
必死で笑顔をつくる。これ以上、近くにいたら胸の内を悟られそうで、小夜は盆を持ち立ち上がった。逃げ込むように台所に入る。忙しなく食器を洗っている女中の前に、わざとらしく盆を置く。
「まだお皿が残っているの。わたしだと一度に持てる量に限りがあって……真太郎も手伝ってくれてるんだけど」
「とんでもない! お二人に手伝わせてしまって申し訳ございません。わたしたちがやりますので、小夜さんは部屋でお休みになってください」
小夜は内心ほっとした。小夜が片付けをしていると知れば、女中たちは「そんなことをしなくてもいい」と言うだろう。そうはいってもと、いつもは無理に手伝う小夜も、今日はあっさりと引き下がる。忙しく洗い物をしている女中たちには申し訳ないが、小夜は部屋に戻ることにした。
しかし、廊下に出たところで父親につかまってしまう。真太郎たちが帰るという。結局、玄関で見送ることになってしまった。
「本日は、ありがとうございました」
「ごちそうさまでした。小夜さん、またうちにご飯食べにいらしてね」
「はい。ありがとうございます」
小夜は愛想良く笑いながらも、真太郎のほうは見られなかった。
結局、真太郎とは一言も交わさないまま、彼らは出て行った。
「さてと、小夜は――」
「わたし疲れちゃったから、もう寝ます! おやすみなさい!」
早くひとりになりたかった小夜は、父親の言葉を遮り、自分の部屋へと走って行った。
部屋の襖を開き、勢いよく閉める。灯りもつけないまま、襖を背にずるずると座り込んだ。
指先の震えが止まらない。
これは怒りなのだと自覚する。
拓をあの屋敷に行かせるということは、彼の死を意味する。
小夜はどうしても、拓の命を犠牲にしたことが許せないのだった。
一方で、真太郎の選択を分かりたくもあった。彼にとって、岸川真太郎として生き抜くことは何よりも大切なものだった。自分の人生をどう生きていくか、それを他人がどうこう言うことはできない。
それに、真太郎はいつでも小夜の気持ちに寄り添い、心の内まで理解しようとしてくれた。彼を責めたくはない。
だけど。でも。
(どうしよう……。どうしたらいいの……)
暗闇のなか膝を抱え、ぎゅっと目を瞑った。
♦︎
中秋の名月の会から三日後の夕暮れどき。
真太郎が小夜の家を訪ねてきた。
彼は「満月の日は一緒にいよう」という約束を忘れてはくれなかった。
小夜は気の進まない気持ちを悟られないよう、笑顔で押し通すことに決めた。
「部屋で花札でもする?」
「それもいいですが……風が気持ちいいので、すこし外を歩きませんか?」
「じゃあ、散歩しよっか!」
風は涼しさを通り越し、冷たさを感じさせた。緊張して変な汗をかいているせいかもしれない。ひきつった笑顔を貼り付けて、明るい声を出さなければならないことがしんどかった。
「……小夜さん」
橋を渡ろうとしたところで、真太郎が立ち止まる。
「僕に聞きたいこと、ありませんか?」
真太郎の顔は追い詰められたように真剣だった。
小夜が全てを知ったことに、勘づいたのか。
ただ単に、態度がおかしいと思っただけなのか。
わからなくて、小夜はただ瞳を揺らした。
「ありませんか?」
「あ、えっと……」
聞きたいことならたくさんある。けれど、言っていいものかわからない。
(拓の命より、自分の未来を優先したの? 小夜と拓が想い合ってることを知ってて――)
ごくり、と唾を飲む。
目の前に立つ真太郎が、とてもおそろしい人に思えてくる。
(でも……)
真太郎は以前、「どんな気持ちも受け止める」と言ってくれた。矛盾する今の気持ちごと全部、彼に話すべきかもしれない。
ただどうしても、喉のあたりに言葉が引っかかり、出てこないのだ。
何も聞かないと決めた証に、目を伏せた。
立ち尽くすふたりの横を、何人もの人が通り過ぎて行った。
「……あなたが、何も言ってくれないのなら」
真太郎が、絞り出すようにして声を出す。
「ごめん。もう無理」
小夜は目を見開き、弾かれたように顔を上げた。
それは、祐樹が告げた最後の言葉だったから。
五月、よく晴れた日だった。
菜々美と祐樹は、横浜にある山下公園から海を眺めていた。今日のために買ったワンピースの裾が、風を受けてふわりと膨らんだ。
一ヶ月ぶりに会った祐樹は、すこし大人びて見えた。菜々美の知らない環境で、知らない仲間に囲まれている祐樹。
なんだか遠くに感じたが、彼が充実していればそれでいいと思う気持ちにも嘘はなかった。
別々の場所にいるだけ。寂しくても、しかたない。また会えるから。
会っている間は楽しい時間を過ごしたい。菜々美が笑顔を向けると、祐樹はうつむいて言ったのだ。
――ごめん、もう無理。続けられない。
あのときのように、胸の奥が冷たくなっていく。景色が灰色に変わり、息が苦しくなっていく。
けれど、そんなときでさえ思ってしまうのだ。
このままではいけない、と。
わたしは強い。わたしは強い。
絶望の淵に立たされても、相手のことは責められない。自分の気持ちを言えない。
そして笑顔で返す。
「……今まで、ありがとう」
真太郎の顔が暗く沈んでいく。
そのまま目を伏せ、背を向けて静かに橋を渡って行った。
小夜は遠ざかる背中を見つめるだけで、その場から動けないでいた。
笑顔でいれば、相手とぶつからなければ、全て平穏に収まっていくと信じていた。実際に衝突は起きなかった。
けれど真太郎の様子から、確実に彼を傷つけたことが伝わってきた。傷つけたくなかったのに。
(……どうして)
なにもかもがあの時と同じで、でもなぜだかわからない。
突きつけられた現実を前に、立ち尽くした。
家までの道を、力なくたどる。
拓を取り戻さなければ元の世界に戻れないのに、それはもう叶いそうにない。
こうなってしまっては真太郎との結婚もなくなるだろう。
拓との別れを最後に【小夜】の声も聞こえなくなっていた。繰り返し見ていた夢も見ない。
自分はこのまま、この世界で命を終えるのだろうか。
家の前まで来て、空を見上げた。
東の空に満月が浮かんでいた。
――……。
「……拓?」
夕暮れの雑踏に混じる笛の音。
まだ日が暮れて久しく、待ち合わせていた時刻とは程遠い。けれども確かに、笛の音がするのだった。
小夜は耳だけを頼りに、細い糸を手繰り寄せるように、笛の音をたどっていった。
次第に輪郭を増していく音が小夜を導く。
そして、見つけた。
池のほとりに立つ木にもたれ、笛を吹いている少年。
紺色の浴衣が、忍び寄る闇に溶け込みそうだ。
「拓……!」
「小夜」
拓が微笑み、ゆっくりと歩み寄る。
「もう二度と会えないと思ってた。どうしたの? また抜け出してきたの?」
「いや。許可を得て来ている」
「許可を得て? じゃあ、これからも会えるってこと?」
拓は、ゆっくりと首を横に振った。
「これで最後」
口元は笑っていたけれど、瞳は悲しげに揺れている。
「どう……して」
「屋敷の主人が、俺のことを気に入らない。声が変わっても笛を吹くことで生き抜けたのは、奥方の計らいもあった。主人はそれが気に食わないらしい。奥方と俺の関係を疑っているんだ。もうすぐ俺は追放される」
「追放……?」
「ああ。屋敷からの追放は死を意味する。だから、これで最後なんだ」
死。
さっと体温が下がる。
目の前にいるはずの拓が、急に遠くに感じてしまい、思わず彼の両腕を掴む。どこにも行かないようにと。
「だめだよ。真太郎のお父さんに話に行こう。真太郎のお父さん、拓のことを引き取る予定だったって。この状態を聞いたら、助けてくれるかもしれない。せっかく出られたんだし、このまま逃げよう」
拓は一瞬、面食らった顔をしたが、再び表情を沈ませる。
「無理だ。今だって逃げないよう見張りがついている。それに、現に俺は屋敷に引き取られたんだ。真太郎の父上が俺を引き取れなかったのには理由があるはず。それは解決しているの?」
「それは……!」
解決していないどころか、真太郎との仲がこじれた以上、岸川家の養子になることは不可能にちかい。
「だろ? だから……最後に話をしないか?」
拓が小夜の髪を撫でる。悲しいくらい優しく。
(わたし相手に、最後だなんて……)
【小夜】のことを想った。拓の運命が変えられないなら、せめて直接話をさせてあげたかった。なのに、彼女の声は聞こえてこない。
「だめだよ! 真太郎は、わたしが説得する! お父さんにもお願いしてみる! なんとかするから、だから最後だなんて言わないで……!」
涙声になりながら訴えるも、泣きたくないと目元を拭う小夜を見て、拓がほどけたように笑った。
「小夜」
腕を伸ばし、小夜をきゅっと抱きしめる。
「強い小夜。俺の大好きな小夜。ありがとう」
「拓……」
小夜の手を引き、ちょうどふたりが座れるほどの板の上に腰掛ける。
「小夜も座って」
言われるがまま腰を下ろすと、拓が背中合わせに座った。
「こうしていれば見えないよ。だけど俺はここにいる。そうだ、笛を吹こう。言葉にできない感情と、悲しい気持ちをさらってくれるだろうから」
拓が笛を吹く。その音色はどこまでも澄んでいて、どうにもならない現実を優しく撫でていくようだった。
涙が頬を伝う。
背中から伝わる温もりが、頑な自分を溶かしていくようだった。
他人に涙は見られたくない。だからといって、ひとりで泣くとどこまでも落ちていきそうでこわかった。
強い自分を保っていないと、絶望に足をすくわれそうな気がしていた。
お母さんを亡くしてからずっと……。
悲しいと、苦しいと、泣いていたところで変わるものは何もない。お母さんは戻らない。
しっかりしなければ。お父さんも苦しいんだ、悲しいんだ。だから、寂しい気持ちには蓋をする。
わたしが笑顔だと、お父さんは安心する。わたしが我慢すれば、周りはうまく回っていく。
遠距離恋愛がつらいと言えば、祐樹は自分の選択が間違っていたと後悔してしまう。だから、言わない。ずっとそばにいて欲しかったから。
ごめん無理だと別れを告げられても、いやだとすがることはできない。理由を聞くことさえできない。面倒だと思われたくないから。
相手を傷つけたくないと、言えなかった本当の気持ち。
でもそれは単に、自分が傷つきたくなかっただけ。
涙がとめどなく流れ落ちる。
小夜は思う。
自分はとても弱い。
強くなんてない、と。
いつの間にか、笛の音は止んでいた。
「……小夜と会って、小夜のことを知って、俺はすごく驚いたんだ。いつも自分を保って、俺の前でさえ涙を見せずに――」
「それは」
拓のほうに向き直る。
小夜の頭のなかでは「ありのままを見せてほしい」という真太郎の言葉が浮かんでいた。
「弱い自分を隠してるだけ。否定されるのがこわくて、自分の気持ち、言いたい言葉、全部隠してしまう。ありのままを見せてほしい人にとったら、一緒にいる意味がないよね……」
拓のビー玉のような瞳が、すっと細くなった。
「真太郎にそう言われた?」
「あ……」
「たしかに、そう思う人もいる。本心を隠す人間とは一緒にいられないと、離れていく人もいるだろう。……白状するよ。俺は小夜がそうやって孤独になってもいいと思っていた。むしろ好都合だ。俺だけを頼ってくれるから」
「え……?」
小夜の目には幾分か非難するような色が混じっていたが、拓は目を逸らさなかった。
「俺はさ、記憶してる限り親も兄弟も知らないから、最初から守ってくれる人はいなかった。所有者はころころ変わり、そのたび俺を染めようとするから、何も持たないことに決めた。欲も感情も全部捨てるしかなかった。
だけど小夜に出会って、初めて欲しいと思った。小夜は、どんなに悲しいことがあっても、涙は見せずに耐えようとする。自分を必死に強く見せようとしている。いたいけで、どうしようもなく守りたいと思った。誰にも頼ろうとしなければ、いずれ限界がくるだろう。そんなとき、手を差し伸べるのは俺だけでありたかった」
拓は夜空を見上げた。
満月が、南の空へと昇り始めている。
「小夜の幸せを考えていなかった。屋敷に行ってからも、自分の欲を満たすことだけ考えて、いつまでも満月の約束に縛ろうとした。……でも、それじゃだめだと真太郎から教えられた。真太郎は自分の命を懸けてまで、小夜の幸せを願った。これこそが愛なんだとわかったんだ。小夜のことを想うなら、俺なしでは生きていけないようにするんじゃなくて、『俺なしでも』幸せに生きていけるようにすることが愛だって」
拓の指が、小夜の頬に伸びる。
「小夜、強くあろうとすることは悪いことじゃない。ただ、本当の強さは耐え抜くことじゃない。自分の感情にも向き合って、必要な行動を選び取る勇気だ。俺がずっとそばにいられたら、小夜がつらいときに声をかけられたけど、それはもう叶いそうにない。
強くあろうとすることを、やめなくていい。今までの自分を否定しなくてもいい。どんなときでも希望を失わず、頑張ることは小夜の良さだ。でも、時には人とぶつかり合って、そして本当につらいときは誰かに頼って。大切な人に、自分を明かすことを厭わないで。そうやって『強く』生き抜くんだ。これは俺の遺言だよ。だからずっと覚えていて」
拓の澄んだ瞳が潤んで揺れた。
静かで深い瞳は、数えきれないほどの悲惨な状況を映してきたのだろう。
それでも澄んだ光を失わないために、彼は多くを学び、強く生き抜いてきたにちがいない。
拓の指が離れる。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行かないと。小夜も」
「……」
小夜は立ち上がれないでいた。
拓の切ない告白に、なんと返したらいいのかわからない。
彼は小夜の弱さに気づきつつも、ずっと見守ってくれていた。
自分のことを、これほどまでにわかってくれる人を離したくない。
けれどここで駄々をこねても、拓を困らせるだけで何も変わらない。
だけど。
(たとえ何も変わらなくても……わたしの気持ちを……)
目を瞑り、深呼吸する。
顔を上げた。
「拓……なんて言ったらいいのか、いろんな想いが重なって言葉が出てこなくて……。本当はずっとそばにいて欲しいし、このままふたりで逃げられたらいいのだけれど……それができないこともわかってる」
「うん」
拓がそっと頭を寄せる。優しい温もりに泣きそうになる。
「わたし、自分の弱さを認めるのがいやで、でもそれじゃいけないんだって思って……。ただ、強がりな自分を否定したら、今までしてきたことが全部間違いだったのかなって悲しくて」
「うん」
「でもね、拓が『今までの自分を否定しなくていい』って言ってくれて、強がりなわたしを好きになってくれて嬉しかった。でもこれからは、自分の気持ちにも向き合って必要なことをしていく」
「うん」
小夜の頬を伝う涙を、拓がそっと指で拭う。
「拓、離れて行ってほしくないけど、別れの言葉はいつだって、これしか言いたくない。今までありがとう。拓……出会ってくれて、ありがとう」
笑顔をつくり、ひとつひとつの言葉に心を込めた。
とびきりの笑顔が返ってくる。
「強い小夜。いつまでも君のことを想ってる。来世では一緒になろう。月と笛。これさえあれば必ず会える」
拓の手が小夜の頬を包む。
南へと昇っていく満月が、目尻の対称的なほくろを重ねるように口づける、ふたりの姿を優しく見下ろしていた。
□□□
同じころ、真太郎の家。
真太郎は部屋に入り、後ろ手に襖を閉めたまま立ち尽くしていた。灯りをつける気にもなれない。
大きくため息をつく。
(小夜さんを困らせてしまって……最悪だ)
中秋の名月の会のとき、話が終わって部屋に戻ると、食器を片付けている小夜を見つけた。
手伝おうとそばに寄ろうとすると、父親たちの会話が聞こえてきた。
――しかし……ではなぜ、彼を引き取らなかったのか。
――真太郎が反対したんです。
全身が、ばらばらと砕け落ちていくようだった。
小夜には知られたくなかった秘密。
一生、背負っていくと決めた罪。
――『岸川医院は長男の僕が継ぐ。岸川真太郎として、最後まで生き抜きたい』と言われました。それでも、あの屋敷の噂は耳に入っていましたから、わたしは拓くんを養子にしたいと言って口論になってね……。あのころの小夜さんは拓くん一筋でしたので、小夜さんとの結婚が現実味をもった話として信じられなかったようだ。拓くんに対する劣等感もあったんでしょう。
岸川真太郎として生き抜きたいと思ったことに嘘はない。
この家に長男として生まれたからには、良家のひとり娘である小夜との結婚は望めなかった。家の存続のためならば、添い遂げられなくても仕方のないことだと思っていた。
いずれ小夜も婿養子をとるだろう。覚悟はできていたが、状況が変わった。
人望も才能もある拓を、岸川家の養子に迎える。ゆくゆくは医師として、岸川医院で共に働くだろう。才のなさを努力で補うしかない自分にとっては脅威になる。彼のほうが優れているのは誰の目にも明らかだ。
花かるたをしても走っても、拓が負けることは少ない。三つも年下の拓に負けることは、真太郎のなかでは屈辱だった。事実、幼い小夜の熱い視線は常に、真太郎ではなく拓に向けられていた。
小夜は拓との結婚を望む。そして彼は、藤ヶ谷の婿養子になるのだ。
小夜との結婚も、医師としての名声も、彼がひとりじめ。
そんな未来がはっきりと見えるのに、拓を養子に迎えることなど賛成できなかった。
たとえ、彼の命が懸っていようとも。
ふらふらと歩き、障子窓を開ける。満月が飛び込んできた。
差し込む月明りが、真太郎の全てを洗いざらい照らしていく。
「小夜さんは……なぜ何も訊かないんだ」
訊きたいこと、言いたいことは尽きないはずだ。
真太郎を責める言葉もあるだろう。全てを受け止め、懺悔するつもりだった。
人の命を救う医師になろうとする者が、己の欲のために少年の命を犠牲にしたのだ。
しかもそれは、彼女にとって最愛の人。
けれども小夜はなにひとつ、口には出さないのだ。懸命に耐える姿が痛々しくもあった。
彼女からぶつけられるはずの怒りがないので、あやまる機会さえ与えられず、赦されもしない。
途方に暮れ、挙句の果てに、自ら小夜のことを拒んでしまった。
(拓なら……こんなときどう言うのだろう)
小夜の絶対的存在である拓。まるで運命の契りのごとく、初めて会ったときから惹かれ合ったふたり。
ふたりの仲を引き裂いてもなお、彼女の心に残る拓の残像。
力なく、ずるずると座り込む。
「僕は、どうしたら……」
暗い部屋に、眩しいほどの月明りが差し込んでいた。

