小夜は夢を見ていた。
暗闇のなか【小夜】の前を歩く真太郎。背格好から、まだ十三歳くらいに見える。
【小夜】は呑み込まれそうな深い闇に怯えている。手も足も震えているのに、こわいのだと言い出せない。
(こわいって言ったらきっと、蛍狩りはやめましょう、戻りましょうって言われちゃう。真太郎がせっかく誘ってくれたんだから。我慢しなきゃ。暗いのなんて、こわくない。こわくない!)
すると、しっとりとして少し大きな手が【小夜】の手に重なった。
拓だった。目が合うと、八重歯をのぞかせて笑う。頑張ってるねとだけ目で語る。
【小夜】は安心して進むことができる。
強い自分のままで。
しかし次の瞬間、足元が抜け落ち、水のなかに落ちた。
ゆるやかに色を変える水。
深く、深く沈んでいく。
やがて豊かな色は失われ、黒一色に染まっていく。
何も見えず、自分の存在さえも隠される世界。
「拓を取り戻して」
【小夜】の叫びはもう、聞こえてこなかった。
小夜の目が、ゆっくりと開く。
体が熱く、顔をしかめるほど頭も痛いけれど、汗を拭いながら起き上がった。
向かいの壁にもたれかかりながら、真太郎が眠っているのが見えた。行燈の明かりが、ほのかに寝顔を照らしている。
(あれ……わたし、どうして)
自分の部屋でないことはわかる。
清潔に整えられた部屋と気配。見覚えがあった。ここは真太郎の家だ。
枕元には水の入った桶と布巾、水差しなどが置いてある。
「ん……」
真太郎が目を覚まし、こちらを見つめている小夜をみとめた。
「小夜さん、どうしました。なにか……」
「わたし……」
頭にずきんと痛みがはしり額を押さえると、真太郎が慌ててそばに寄る。
背中に手を当てられ、寝ているよう促される。
小夜はされるがまま布団に横たわり、荒い呼吸を繰り返した。
「どうして……なんで……」
聞きたいことが尽きないのに、口が回らなかった。視界がまわり、目を開けているのも辛い。
額に冷たい布巾が触れた。
「帰り道、急に倒れてしまったんですよ。すごい熱で、僕の家のほうが近かったのでここに運びました。御父上には、僕が事情を説明して参りました。しばらくの間、父に診てもらいながらここにいることの了承も得ました。安心して寝ていてください」
「そうなんだ……ごめんね、迷惑かけて」
真太郎が、ゆっくりと首を横に振る。
「こうなったのも僕に責任があります。申し訳ありません。もう大丈夫だから」
(真太郎……)
目を瞑り、荒い呼吸を繰り返すうち、小夜は眠ってしまった。
すうすうと寝息が聞こえてきたことに安心して、真太郎の口元がほころんだとき、小夜の眉間に皺が寄り苦しそうな顔に変わる。
「小夜さん、大丈夫――」
次の瞬間、涙がすうっと頬を伝っていった。
ぎゅっと閉じられた瞼から、あとからあとから流れてくる。
真太郎が初めて見た、小夜の涙だった。
震える手で小夜の頭を撫でる。
「僕は一生をかけて罪を償います。だから……僕を赦して……」
♦︎
次に目が覚めたときには明るく、障子窓から滲む光の濃さから、昼にちかい時間になっていることが窺えた。
たくさん汗をかいて熱が下がったのだろう。疲れてはいたが体は軽い。
(喉、渇いた……)
水を求めて起き上がろうとすると、向かいの壁にもたれて座っている真太郎と目が合った。
うなされて夜中に目が覚めたときも、今と同じ位置で眠る真太郎を見た気がする。
「おはようございます」
「おはよう……。もしかして、ずっとここに……?」
真太郎は質問には答えず、微笑みながら小夜のそばに寄った。前髪を上げて、額に手を置く。
「熱、下がってますね。良かった。何か食べられそうですか?」
「……なんでも食べられそう」
胃の不快感はなく、むしろお腹が空いていた。
真太郎が目を細め、立ち上がる。
「では、母に言って参ります。あと、着替えたほうがいいですよね。女中に言って、体を拭くものと替えの着物を持って来させます。お待ちください」
「ありがとう……」
遠ざかる足音を聞きながら、よみがえってくるのはあの日の光景だった。
蛍の光に包まれた拓。
ふたりで逃げるなら自分を刺してから行けと、刀を差し出した真太郎。
別れの口づけ……。
小夜は苦しげに息を吐き、布団のなかにうずくまった。取り返しのつかないことをしてしまった後悔に苛まれる。
(真太郎のしたことは正しい。そう思うのに)
離れたくなかった。
自分の半身を失ったような痛みと心細さ、元の世界へと戻る希望が絶たれたことの絶望感が抜けない。それはふたりを引き離した真太郎への怒りに変わってしまいそうで、小夜は何度も首を横に振り自分をなだめる。
(真太郎は悪くない。彼を責めちゃだめだ。別の道を考えなきゃ。わたしは強い、わたしは強い……!)
――強い小夜が好きだ
拓の最後の言葉が重なる。切なさに呑まれないよう、震える口元をぎゅっと引き結んだ。
「ごちそうさまでした」
小夜は出されたお粥を平らげた。その食べっぷりに、真太郎がやわらかな笑顔をつくる。
「すっかり元気になりましたね」
「うん! 真太郎、一晩中いてくれたんだよね? ありがとう!」
小夜の笑顔から逃れるように、真太郎は目を伏せる。
「拓とのこと……すみませんでした。あんな風に彼を苦しめるつもりはなかったのに、ふたりで逃げても明るい未来はないと思って……」
自分を刺してから行きなさい。真太郎の鬼気迫る姿を思い出す。
「ううん、いいの。わたしのために体を張ってくれたんだよね。それに、わたしが危険な目に遭わないように、ついてきてくれたんでしょう? 偶然居合わせたんじゃないよね?」
真太郎は、ばつの悪そうな顔で頷いた。
「学校からの帰り道、橋を渡り終えたところで、小夜さんが書き物をしながら走り去るのを見ました。気になったので跡をつけたんです。そうしたら、地図らしきものを作っていた。満月の日、ひとりで迷わずに待ち合わせ場所に行けるように、紙に道順を記していたんですよね」
「うん……」
「山賊が出るからと言ったのに……危険を冒してでも、拓に会いたかったのですか?」
「……うん。満月の約束しか、わたしたちを繋ぐものはないから」
未来がないからといって、いま会いたいと思う気持ちは止められない。
会えるかどうかわからない不確実な逢瀬でも、あきらめてしまったら本当に終わる気がしていた。
小夜と拓の未来についても。元の世界に戻ることについても。
「拓への想いは、そんなに強いものなのですか? ずっと変わらないと断言できます?」
「それは……」
小夜は言いよどむ。【小夜】ではないので、正確な気持ちはわからない。熱にうなされながら見た夢では、「拓を取り戻して」という声は聞こえてこなかったけれど……。
真太郎が、見定めるように目を細める。
そして決意を込めて言った。
「小夜さん。僕は、あなたのことをお慕いしています」
小夜の瞳が、驚きと戸惑いで揺れる。
真太郎は構わず続けた。
「小夜さんにとって、拓は特別な存在だった。それは今後も変わらないことでしょう。僕はそれを受け入れます。それでも僕は、小夜さんにとっての一番になりたい」
真太郎の真っ直ぐで切ない視線が、小夜を捉えて離さない。
「僕のことを、もっと知ってください。僕にも、小夜さんのことを教えてほしい。なぜ、強がろうとするのか。あなたの弱い部分も全部、僕には見せてほしい。そうやって、お互いに無くてはならない存在になれたら――」
真太郎は視線を外し、深呼吸をした。
再び小夜を見つめる。
その眼差しは、すべてを受け止めようとする強さと優しさで溢れていた。
「結婚しましょう」
♦
小夜は、岸川医院で診察待ちをしていた。
稀に熱がぶり返すこともあるから、家に戻る前に診察を受けたほうがいい、というすすめがあったからだ。
真太郎は学校があったので、小夜はひとり待合室の椅子に腰掛け、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
診察室は磨り硝子の引き戸で仕切られていて、その先で動く人の姿をぼんやりと透かしていた。
戸の向こうの灯りが、やわらかくゆらめいて見える。
真太郎からの告白には「すこし考えたい」と伝えた。
【小夜】の未来は、今の小夜では決められない。受け入れることも断ることもできないのだ。
(だけど元の世界に戻れないなら、わたしはずっとこのままで……)
膝に置かれた小さな手を広げる。
ため息をつき、磨り硝子越しにゆらめく灯りを見つめた。
曖昧な輪郭。掴めない光。
(もういっそ、このまま……。いや、そもそも、この世界こそが真実で――)
菜々美としての人生は全て夢だったのではないか。
だとしたらなぜ、菜々美としての人生は覚えていて、小夜としての記憶がないのか。
それは、ただの記憶喪失じゃないのか。やはり、本当の人生は小夜としてのもので――
頭を抱える。
自分がどうすべきかがわからなくなってしまった。
元の世界に戻りたいのか。
菜々美と祐樹との関係を、小夜と真太郎としてやり直したほうがいいのか。
拓のことを、あきらめたくないのか。
度重なる困難に心が折れてしまいそうで、自分のすべきことがわからなくなっていた。
「藤ヶ谷小夜さん、どうぞ」
名前を呼ばれて顔を上げる。立ち上がり、診察室に入った。
「こんにちは、小夜さん。具合はどうですか」
「すっかり良くなりました。ありがとうございました」
真太郎の父親による簡単な診察が終わり、家に戻ってもよいと診断が下りた。
「実は、小夜さんが高熱で苦しんでいた三日間、真太郎が看病していたんだよ。昼夜問わず、ずっと」
「三日間も?」
三日間も寝込んでいたこと、つきっきりで看病されていたことなど初めて知った。
「学校の勉強もそっちのけで……『医師になる者として当然の行いだから』なんて言ってね。なにを一丁前なことを、と思ったんだが、それだけ小夜さんのことを想っているんだね。なんだか昔を思い出してしまった」
「昔?」
「ええ。拓くんが来たころだから……真太郎が十歳だったかな。急に『ほくろって、作れるの』と聞かれてね。作りたくて作るものじゃない。病気でできてしまう人もいるし、生まれつきある人もいるけれど、と答えたんだ。そうしたら、とても悲しそうに『どうして僕だけほくろがないんだ』と。拓くんと小夜さんの目尻にあるほくろが羨ましかったんだろうね」
真太郎の父親が笑っていたので小夜も笑い返したが、彼の想いが痛いくらい伝わってきて胸がひきつった。
「小夜さんさえよければ、いつでも嫁に来てくれていいのだけれど」
「ええっと、あの」
「ははは。まぁでも、うちに嫁に来たら、藤ヶ谷家が途絶えてしまうから無理かな」
「それについてはお母さんの遺言で、結婚については家の存続よりわたしの意思を尊重するって」
「それは……そうなのか?」
真太郎の父親が目を丸くして驚いている。やはり、この時代、小夜の母親のような考え方は特異なのだろう。
「そういえば、ふたりの結婚は駆け落ち同然のものだったと聞いたことが……。そうか、だから……。では、わたしがあんなことを考えなくてもよかったのか……」
「あんなこと……?」
急に背後の硝子戸が開いた。
「先生、大変です! 真太郎さんが」
小夜の前では言いにくいことなのか、看護師らしき女性がちらちらと窺っていたので診察室を出た。
受付の女性から、迎えの者が待っていると言われ外に出る。
(真太郎が……どうしたんだろう)
胸のざわつきは収まらないまま家への道を歩いていると、前から真太郎が歩いてきた。
見るからに気分が悪そうで、足元がふらついている。
(もしかして……)
「真太郎!」
小夜が声をかけると、力のない笑顔が返ってきた。
「もしかして……わたし、うつしちゃった?」
「……僕の力不足です」
三日間ほぼ徹夜で小夜を看病したのだ。小夜の風邪は、見事に真太郎にうつってしまっていた。
「熱があるの?」
「おそらく……。父に診てもらい、寝ていればすぐ良くなりますから」
「ごめんなさい……」
ふらふらとした足取りで去っていく背中を眺めていたとき、小夜のなかである考えが浮かんだ。
「すみません、わたし戻ります!」
迎えに来てくれた女中に言い放ち、真太郎のほうへ走っていく。
「真太郎! 待って」
「小夜さん、どうし――」
「今度はわたしが看病します!」
「え……」
わずかに目を見開き、ふらついた真太郎を小夜が支える。
「とりあえず、お父さんの診療所まで行こう!」
「そんな」
「わたしだったら免疫ついてるから大丈夫だし、お父さんやお母さんにうつしたら大変でしょ?」
「で、でも」
「いいから、いいから!」
真太郎の腕をつかみ再び岸川医院へと戻ってきた小夜に、真太郎の父親は驚きつつも迎えてくれた。
診察の結果、小夜の風邪がうつったことでほぼ確定となった。そして半ば強引に、彼が快復するまで小夜が看病することが決まった。
♦︎
水を張った桶に布巾を浸したあと、強く絞る。形を整え、熱くなっている真太郎の額にのせる。
「冷たくて気持ちいい……」
うつろな目で呟く真太郎に目を細める。
「つらいよね、熱」
「はい……。小夜さんも、頑張りました……ね」
顔を歪め、額を押さえた拍子に布巾が落ちた。拾って水桶のなかに再び浸す。
「すみません、熱のせいか頭痛が」
「そうだよね、頭痛いよね。わたしもそうだった。すこしの間つらいけど、寝てればすぐに良くなるはず! わたしもホラ! こんなに元気だし」
小夜がにこりと笑うと、つられて真太郎からも笑顔がこぼれる。
「小夜さんは、ほんとに……いつも元気で、強くて、素敵な女性ですね」
「そう……かな」
照れながら額に布巾をのせた手に、真太郎が自身の手を重ねた。
熱く、骨ばった大きな手のひらだった。
「……せっかく冷たくしたのに、熱くなっちゃうよ」
「すこしの間だけでいいから」
かすれた声、うつろに開かれた瞳、熱い体。
祐樹との記憶がよみがえり、顔を赤くして視線を外した。
「どうかしました?」
「ううん……! 真太郎は、けっこう甘えん坊なんだなぁって」
「あー……そう……なのかもしれない」
そんなことないです、という反応を期待していた。素直な反応に、思わず真太郎の顔を見つめる。
「小夜さんより年上だからと、いつも格好をつけていますが、本当は寂しがり屋で甘えたがりなやつなんです」
「……そうなの?」
小夜はいま、はじめて真太郎と会話している気がしていた。
真太郎は祐樹と一緒でいつも完璧で隙がなかった。そこが自分と似ていると思っていた。こんな風に、自分の弱さについて語ることはなかった。
「小夜さんもそうでしょ?」
「え……」
「弱味は人に見せない。いつも強くありたいと願う」
いつも強くありたい。
小夜がいちばん大切にしていることだ。
小夜が頷くと、力の抜けた笑いが返ってきた。
「僕と一緒。でもそれは……苦しくありませんか? ありのままを受け入れてほしいと思いませんか?」
「ありのまま……」
「弱いままの自分を――」
真太郎の顔が苦しげに歪む。
「大丈夫!?」
「……しゃべりすぎました。すこし休みますね」
真太郎は小夜から手をほどき、目を瞑った。
小夜が冷たい布巾を額にのせると、眉間の皺がほどけ、口元がほころぶ。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。何度か見た、祐樹の寝顔そのものだった。
新たに始まった真太郎との関係。それは、もしかしたらあったかもしれない祐樹との未来でもある。
掴めなかった未来を選ぶべきなのかどうか、小夜は迷っていた。
それに、この世界に来てからずっと隣で支えてくれたのは真太郎だ。拓といる時に感じたような不思議な安心感はなくとも、真太郎が素敵な人だということは十分わかる。
浅く息を吐き、救いを求めるように窓の外に視線を移す。夕暮れどき、山間にほのかに光る集落がある。
月も見えず、笛の音も聞こえてこなかった。
♦︎
真太郎の家に泊まり、迎えた翌日の朝。
声をかけて真太郎の部屋の戸を開けると、なんと彼は布団の上に座り教科書を開いていた。
「え!? 熱、下がったの? もう?」
「ええ。お陰様で――」
言い終わらないうちに、こんこんと咳き込む。
「大丈夫?」
「すみませんっ。熱の次は咳ですね。己の身をもって、病の移り変わりと快復を勉強させてもらっています」
再び咳き込む。「空咳だなぁ。明日あたり痰が絡んでくるか……」ぶつぶつと言いながら教科書をめくる。
小夜の頭のなかで、熱冷ましのシートを額に貼りながらテスト勉強している祐樹の姿が浮かんでいた。熱があるので保健室で休むと言っていたのに、カーテンを開けると、ベッドの上で生物の教科書を開いている祐樹がいたのだ。
「どうかしました?」
真太郎が、思い出し笑いをしている小夜に声をかける。こんこん、と控えめな咳が続いた。
「ううん。別に――」
「誰か別の男のことでも考えてました?」
「へ!?」
真太郎らしからぬ発言に、変な声が出てしまった。
いつもの彼なら、首を傾げ微笑んで終わりなはず。そうやって表面をなぞるだけで終える会話が多かった。
答えを求めじっと見つめてくる真太郎に、小夜は戸惑い、あたふたとする。
「ええっと、し……真太郎のことを考えてました」
「僕のこと?」
(嘘をついているわけじゃない。祐樹はきっと、真太郎なんだから)
自分のなかで必死に弁解しながら、しどろもどろに続ける。
「風邪ひいたときくらい休めばいいのに、真面目だなぁって。きっとこれからも、自分の体調より未来の自分にとって必要なことを優先するんだなって……」
しばらくして、くすくすと笑う声が流れてきた。
「どうぞ見届けてください」
「それ……どういう……」
「そのままの意味です。難しくはない問題ですよ。解けますか?」
真太郎は頬杖をつき、小夜の反応を楽しげに窺っている。
(いつもの真太郎とちがうー!!!)
本来の自分を隠さないと決めた真太郎。彼はどうやらSっ気があるようだ。
小夜はなんと答えたらいいのかわからなくなり立ち上がる。
「お腹、空いたよね。ごはん運んできます!」
「……」
真太郎のほうは見ないようにして、足早に部屋から立ち去った。
台所をのぞくと、そこにいるはずの真太郎の母親の姿がなかった。
すると勝手口から女中が入ってきた。抱えている籠に、たくさんの野菜が入っている。
「あの、真太郎のお母さんは?」
「急なご用事で診療所のほうへ行かれました。すみません、すぐにお昼の支度をしますので」
女中は籠を下ろし、急いで野菜を洗いだした。
真太郎の家は、小夜の家のように、たくさんの女中がいるわけではない。食事の準備をはじめ家事は母親もするらしく、しかし診療所の仕事が重なるときは女中が全てしているようだ。休む間もなく動く姿が気の毒になった。
「あの……よければわたし、昼ごはんを作ってもいいですか?」
「え? 藤ヶ谷のご令嬢が?」
そんなことはさせられない、料理を作るなど無理では、と、いろいろな気持ちが見て取れる。そのなかにすこし、助かります、という気持ちも混じっているように思えた。
「任せてください! ひと通りの家事はできますから」
父親とのふたり暮らしが長いので、家事全般はできるようになっていた。平日のごはん作りは、朝ごはんも含めて小夜がしていた。最初のうちは簡単な料理を作るだけだったが、だんだんと上達し、それなりの腕前になっていた。
とはいえ、明治時代の食事となると勝手がちがう。米の炊き方など教わりながら、真太郎用の消化に良さそうな食事と、真太郎の家族のための昼食を完成させた。
「真太郎、入るよ」
「はい」
戸を開ける。相変わらず教科書を開いて勉強をしていた真太郎が、小夜の持つ盆を見て歓声を上げた。
「ちょうど腹が空いていたところなんです」
「よかった。これ、わたしが作ったんだよ」
「ほんとうに?」と、割烹着姿の小夜と盆の上の椀を交互に見やる。
小夜は笑って、真太郎の布団の前に盆を置いた。
真太郎が半ば夢心地で「いただきます」と呟く。
「……おいしい」
お粥を一口食べたあと、目を輝かせながら呟かれた一言に、小夜はほっとして足を崩した。
体調が万全でないときは食べ慣れた味がいいだろうと、真太郎の母親の味付けを教えてもらいながら試行錯誤したのだった。
「本当に、小夜さんが作ったのですか?」
「うん。あとは、真太郎のお父さんとお母さんと、女中さん用の食事も作ったよ」
真太郎が感動で胸を詰まらせたようにして、小夜をじっと見つめる。
そして持っていた椀を置き、正座をした。
つられるようにして小夜も正座をする。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げてお礼を言われ、「何日間もお世話になったお礼です」と慌てて返す。
なかなか頭を上げない真太郎に「冷めちゃうからほら、食べて」と促した。
「……はい。改めて、いただきます」
さっと目元を拭ってから顔を上げ、手を合わせる。
「どうぞ、召し上がれ」
「おいしい」「幸せだ」と、呟きながら食べ進めていく。
小夜は、そんな一言一言をかみしめながら、真太郎のことを見つめ続けていた。
□□□
拓のいる屋敷。
空には下弦の月が、雲に隠れるようにしてひっそりと浮かんでいる。
少年たちは寝静まり、見張りたちも居眠りを始める。静かな夜だ。
「……捨ててこい」
冷たい声が、静けさを切り裂くように響く。
主人の前には、奥様が畳に額がつくほど深々と頭を下げている。
「人工物の音には飽きた。わたしの聞きたいのは生きた声だ。どれだけ美しくとも、楽器の音色ではない」
「おっしゃることもわかります。ですが神主も、我が音楽隊の音色は神の声のごとし、との言葉をいただいておりますがゆえ――」
「黙れ!!」
奥様の肩が跳ねる。冷や汗が伝い、畳の上に垂れていく。
「わたしはわたしのための夜会を開くため、美しい声の少年を集めているのだ。そうだ、今度は少女にしよう。いつか声の変わる少年ではなく、いつまでも美しい少女を集めろ」
少女という声に弾かれるようにして、奥様が顔を上げる。美しい声の少女などを集めたら、主人の愛情が彼女たちに移ってしまうかもしれない。ゆえに奥様は、少年たちの声のほうが美しいとして、彼らだけを集めていたのだ。
「なんだ? 不満か?」
「それは……」
「少女が不服ならば、音楽隊を解散せよ」
「……」
奥様は動かない。なぜならば、彼女のなかにひとりの少年が棲んでいるからだ。
「……おまえ、まさか、あの少年に心を奪われているのか?」
奥様の顔つきが変わる。
「一際、目を引く少年だ。男にしておくには惜しいくらいの。まるで自分の体の一部のように笛を扱い、声のように音を出すあの少年。名前は……拓といったか?」
奥様が唾をのむ。少年たちの名前さえ覚えようとしない主人が、拓の名前は覚えていたことに嫌な予感しかしなかった。
「捨ててこい」
抗うことのできない響き。
「できなくば、おまえもろともあの世行きだ」
奥様の体は震え、ついに首を縦に振ってしまった。
主人から乾いた笑いが漏れる。満足したことの証だった。
主人の手が奥様の頭を撫でる。ごつごつとした厚い手により、今まで何人の命が失われたかわからない。
けれどこの手により、自分は救われたのだった。声を見初められ、身請けしてもらったことで、金持ちの奥様として何不自由ない生活を享受できている。
この手から逃れるなんてできない。
わかっていても、彼女の心のなかには拓が棲んでいるのだった。
暗闇のなか【小夜】の前を歩く真太郎。背格好から、まだ十三歳くらいに見える。
【小夜】は呑み込まれそうな深い闇に怯えている。手も足も震えているのに、こわいのだと言い出せない。
(こわいって言ったらきっと、蛍狩りはやめましょう、戻りましょうって言われちゃう。真太郎がせっかく誘ってくれたんだから。我慢しなきゃ。暗いのなんて、こわくない。こわくない!)
すると、しっとりとして少し大きな手が【小夜】の手に重なった。
拓だった。目が合うと、八重歯をのぞかせて笑う。頑張ってるねとだけ目で語る。
【小夜】は安心して進むことができる。
強い自分のままで。
しかし次の瞬間、足元が抜け落ち、水のなかに落ちた。
ゆるやかに色を変える水。
深く、深く沈んでいく。
やがて豊かな色は失われ、黒一色に染まっていく。
何も見えず、自分の存在さえも隠される世界。
「拓を取り戻して」
【小夜】の叫びはもう、聞こえてこなかった。
小夜の目が、ゆっくりと開く。
体が熱く、顔をしかめるほど頭も痛いけれど、汗を拭いながら起き上がった。
向かいの壁にもたれかかりながら、真太郎が眠っているのが見えた。行燈の明かりが、ほのかに寝顔を照らしている。
(あれ……わたし、どうして)
自分の部屋でないことはわかる。
清潔に整えられた部屋と気配。見覚えがあった。ここは真太郎の家だ。
枕元には水の入った桶と布巾、水差しなどが置いてある。
「ん……」
真太郎が目を覚まし、こちらを見つめている小夜をみとめた。
「小夜さん、どうしました。なにか……」
「わたし……」
頭にずきんと痛みがはしり額を押さえると、真太郎が慌ててそばに寄る。
背中に手を当てられ、寝ているよう促される。
小夜はされるがまま布団に横たわり、荒い呼吸を繰り返した。
「どうして……なんで……」
聞きたいことが尽きないのに、口が回らなかった。視界がまわり、目を開けているのも辛い。
額に冷たい布巾が触れた。
「帰り道、急に倒れてしまったんですよ。すごい熱で、僕の家のほうが近かったのでここに運びました。御父上には、僕が事情を説明して参りました。しばらくの間、父に診てもらいながらここにいることの了承も得ました。安心して寝ていてください」
「そうなんだ……ごめんね、迷惑かけて」
真太郎が、ゆっくりと首を横に振る。
「こうなったのも僕に責任があります。申し訳ありません。もう大丈夫だから」
(真太郎……)
目を瞑り、荒い呼吸を繰り返すうち、小夜は眠ってしまった。
すうすうと寝息が聞こえてきたことに安心して、真太郎の口元がほころんだとき、小夜の眉間に皺が寄り苦しそうな顔に変わる。
「小夜さん、大丈夫――」
次の瞬間、涙がすうっと頬を伝っていった。
ぎゅっと閉じられた瞼から、あとからあとから流れてくる。
真太郎が初めて見た、小夜の涙だった。
震える手で小夜の頭を撫でる。
「僕は一生をかけて罪を償います。だから……僕を赦して……」
♦︎
次に目が覚めたときには明るく、障子窓から滲む光の濃さから、昼にちかい時間になっていることが窺えた。
たくさん汗をかいて熱が下がったのだろう。疲れてはいたが体は軽い。
(喉、渇いた……)
水を求めて起き上がろうとすると、向かいの壁にもたれて座っている真太郎と目が合った。
うなされて夜中に目が覚めたときも、今と同じ位置で眠る真太郎を見た気がする。
「おはようございます」
「おはよう……。もしかして、ずっとここに……?」
真太郎は質問には答えず、微笑みながら小夜のそばに寄った。前髪を上げて、額に手を置く。
「熱、下がってますね。良かった。何か食べられそうですか?」
「……なんでも食べられそう」
胃の不快感はなく、むしろお腹が空いていた。
真太郎が目を細め、立ち上がる。
「では、母に言って参ります。あと、着替えたほうがいいですよね。女中に言って、体を拭くものと替えの着物を持って来させます。お待ちください」
「ありがとう……」
遠ざかる足音を聞きながら、よみがえってくるのはあの日の光景だった。
蛍の光に包まれた拓。
ふたりで逃げるなら自分を刺してから行けと、刀を差し出した真太郎。
別れの口づけ……。
小夜は苦しげに息を吐き、布団のなかにうずくまった。取り返しのつかないことをしてしまった後悔に苛まれる。
(真太郎のしたことは正しい。そう思うのに)
離れたくなかった。
自分の半身を失ったような痛みと心細さ、元の世界へと戻る希望が絶たれたことの絶望感が抜けない。それはふたりを引き離した真太郎への怒りに変わってしまいそうで、小夜は何度も首を横に振り自分をなだめる。
(真太郎は悪くない。彼を責めちゃだめだ。別の道を考えなきゃ。わたしは強い、わたしは強い……!)
――強い小夜が好きだ
拓の最後の言葉が重なる。切なさに呑まれないよう、震える口元をぎゅっと引き結んだ。
「ごちそうさまでした」
小夜は出されたお粥を平らげた。その食べっぷりに、真太郎がやわらかな笑顔をつくる。
「すっかり元気になりましたね」
「うん! 真太郎、一晩中いてくれたんだよね? ありがとう!」
小夜の笑顔から逃れるように、真太郎は目を伏せる。
「拓とのこと……すみませんでした。あんな風に彼を苦しめるつもりはなかったのに、ふたりで逃げても明るい未来はないと思って……」
自分を刺してから行きなさい。真太郎の鬼気迫る姿を思い出す。
「ううん、いいの。わたしのために体を張ってくれたんだよね。それに、わたしが危険な目に遭わないように、ついてきてくれたんでしょう? 偶然居合わせたんじゃないよね?」
真太郎は、ばつの悪そうな顔で頷いた。
「学校からの帰り道、橋を渡り終えたところで、小夜さんが書き物をしながら走り去るのを見ました。気になったので跡をつけたんです。そうしたら、地図らしきものを作っていた。満月の日、ひとりで迷わずに待ち合わせ場所に行けるように、紙に道順を記していたんですよね」
「うん……」
「山賊が出るからと言ったのに……危険を冒してでも、拓に会いたかったのですか?」
「……うん。満月の約束しか、わたしたちを繋ぐものはないから」
未来がないからといって、いま会いたいと思う気持ちは止められない。
会えるかどうかわからない不確実な逢瀬でも、あきらめてしまったら本当に終わる気がしていた。
小夜と拓の未来についても。元の世界に戻ることについても。
「拓への想いは、そんなに強いものなのですか? ずっと変わらないと断言できます?」
「それは……」
小夜は言いよどむ。【小夜】ではないので、正確な気持ちはわからない。熱にうなされながら見た夢では、「拓を取り戻して」という声は聞こえてこなかったけれど……。
真太郎が、見定めるように目を細める。
そして決意を込めて言った。
「小夜さん。僕は、あなたのことをお慕いしています」
小夜の瞳が、驚きと戸惑いで揺れる。
真太郎は構わず続けた。
「小夜さんにとって、拓は特別な存在だった。それは今後も変わらないことでしょう。僕はそれを受け入れます。それでも僕は、小夜さんにとっての一番になりたい」
真太郎の真っ直ぐで切ない視線が、小夜を捉えて離さない。
「僕のことを、もっと知ってください。僕にも、小夜さんのことを教えてほしい。なぜ、強がろうとするのか。あなたの弱い部分も全部、僕には見せてほしい。そうやって、お互いに無くてはならない存在になれたら――」
真太郎は視線を外し、深呼吸をした。
再び小夜を見つめる。
その眼差しは、すべてを受け止めようとする強さと優しさで溢れていた。
「結婚しましょう」
♦
小夜は、岸川医院で診察待ちをしていた。
稀に熱がぶり返すこともあるから、家に戻る前に診察を受けたほうがいい、というすすめがあったからだ。
真太郎は学校があったので、小夜はひとり待合室の椅子に腰掛け、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
診察室は磨り硝子の引き戸で仕切られていて、その先で動く人の姿をぼんやりと透かしていた。
戸の向こうの灯りが、やわらかくゆらめいて見える。
真太郎からの告白には「すこし考えたい」と伝えた。
【小夜】の未来は、今の小夜では決められない。受け入れることも断ることもできないのだ。
(だけど元の世界に戻れないなら、わたしはずっとこのままで……)
膝に置かれた小さな手を広げる。
ため息をつき、磨り硝子越しにゆらめく灯りを見つめた。
曖昧な輪郭。掴めない光。
(もういっそ、このまま……。いや、そもそも、この世界こそが真実で――)
菜々美としての人生は全て夢だったのではないか。
だとしたらなぜ、菜々美としての人生は覚えていて、小夜としての記憶がないのか。
それは、ただの記憶喪失じゃないのか。やはり、本当の人生は小夜としてのもので――
頭を抱える。
自分がどうすべきかがわからなくなってしまった。
元の世界に戻りたいのか。
菜々美と祐樹との関係を、小夜と真太郎としてやり直したほうがいいのか。
拓のことを、あきらめたくないのか。
度重なる困難に心が折れてしまいそうで、自分のすべきことがわからなくなっていた。
「藤ヶ谷小夜さん、どうぞ」
名前を呼ばれて顔を上げる。立ち上がり、診察室に入った。
「こんにちは、小夜さん。具合はどうですか」
「すっかり良くなりました。ありがとうございました」
真太郎の父親による簡単な診察が終わり、家に戻ってもよいと診断が下りた。
「実は、小夜さんが高熱で苦しんでいた三日間、真太郎が看病していたんだよ。昼夜問わず、ずっと」
「三日間も?」
三日間も寝込んでいたこと、つきっきりで看病されていたことなど初めて知った。
「学校の勉強もそっちのけで……『医師になる者として当然の行いだから』なんて言ってね。なにを一丁前なことを、と思ったんだが、それだけ小夜さんのことを想っているんだね。なんだか昔を思い出してしまった」
「昔?」
「ええ。拓くんが来たころだから……真太郎が十歳だったかな。急に『ほくろって、作れるの』と聞かれてね。作りたくて作るものじゃない。病気でできてしまう人もいるし、生まれつきある人もいるけれど、と答えたんだ。そうしたら、とても悲しそうに『どうして僕だけほくろがないんだ』と。拓くんと小夜さんの目尻にあるほくろが羨ましかったんだろうね」
真太郎の父親が笑っていたので小夜も笑い返したが、彼の想いが痛いくらい伝わってきて胸がひきつった。
「小夜さんさえよければ、いつでも嫁に来てくれていいのだけれど」
「ええっと、あの」
「ははは。まぁでも、うちに嫁に来たら、藤ヶ谷家が途絶えてしまうから無理かな」
「それについてはお母さんの遺言で、結婚については家の存続よりわたしの意思を尊重するって」
「それは……そうなのか?」
真太郎の父親が目を丸くして驚いている。やはり、この時代、小夜の母親のような考え方は特異なのだろう。
「そういえば、ふたりの結婚は駆け落ち同然のものだったと聞いたことが……。そうか、だから……。では、わたしがあんなことを考えなくてもよかったのか……」
「あんなこと……?」
急に背後の硝子戸が開いた。
「先生、大変です! 真太郎さんが」
小夜の前では言いにくいことなのか、看護師らしき女性がちらちらと窺っていたので診察室を出た。
受付の女性から、迎えの者が待っていると言われ外に出る。
(真太郎が……どうしたんだろう)
胸のざわつきは収まらないまま家への道を歩いていると、前から真太郎が歩いてきた。
見るからに気分が悪そうで、足元がふらついている。
(もしかして……)
「真太郎!」
小夜が声をかけると、力のない笑顔が返ってきた。
「もしかして……わたし、うつしちゃった?」
「……僕の力不足です」
三日間ほぼ徹夜で小夜を看病したのだ。小夜の風邪は、見事に真太郎にうつってしまっていた。
「熱があるの?」
「おそらく……。父に診てもらい、寝ていればすぐ良くなりますから」
「ごめんなさい……」
ふらふらとした足取りで去っていく背中を眺めていたとき、小夜のなかである考えが浮かんだ。
「すみません、わたし戻ります!」
迎えに来てくれた女中に言い放ち、真太郎のほうへ走っていく。
「真太郎! 待って」
「小夜さん、どうし――」
「今度はわたしが看病します!」
「え……」
わずかに目を見開き、ふらついた真太郎を小夜が支える。
「とりあえず、お父さんの診療所まで行こう!」
「そんな」
「わたしだったら免疫ついてるから大丈夫だし、お父さんやお母さんにうつしたら大変でしょ?」
「で、でも」
「いいから、いいから!」
真太郎の腕をつかみ再び岸川医院へと戻ってきた小夜に、真太郎の父親は驚きつつも迎えてくれた。
診察の結果、小夜の風邪がうつったことでほぼ確定となった。そして半ば強引に、彼が快復するまで小夜が看病することが決まった。
♦︎
水を張った桶に布巾を浸したあと、強く絞る。形を整え、熱くなっている真太郎の額にのせる。
「冷たくて気持ちいい……」
うつろな目で呟く真太郎に目を細める。
「つらいよね、熱」
「はい……。小夜さんも、頑張りました……ね」
顔を歪め、額を押さえた拍子に布巾が落ちた。拾って水桶のなかに再び浸す。
「すみません、熱のせいか頭痛が」
「そうだよね、頭痛いよね。わたしもそうだった。すこしの間つらいけど、寝てればすぐに良くなるはず! わたしもホラ! こんなに元気だし」
小夜がにこりと笑うと、つられて真太郎からも笑顔がこぼれる。
「小夜さんは、ほんとに……いつも元気で、強くて、素敵な女性ですね」
「そう……かな」
照れながら額に布巾をのせた手に、真太郎が自身の手を重ねた。
熱く、骨ばった大きな手のひらだった。
「……せっかく冷たくしたのに、熱くなっちゃうよ」
「すこしの間だけでいいから」
かすれた声、うつろに開かれた瞳、熱い体。
祐樹との記憶がよみがえり、顔を赤くして視線を外した。
「どうかしました?」
「ううん……! 真太郎は、けっこう甘えん坊なんだなぁって」
「あー……そう……なのかもしれない」
そんなことないです、という反応を期待していた。素直な反応に、思わず真太郎の顔を見つめる。
「小夜さんより年上だからと、いつも格好をつけていますが、本当は寂しがり屋で甘えたがりなやつなんです」
「……そうなの?」
小夜はいま、はじめて真太郎と会話している気がしていた。
真太郎は祐樹と一緒でいつも完璧で隙がなかった。そこが自分と似ていると思っていた。こんな風に、自分の弱さについて語ることはなかった。
「小夜さんもそうでしょ?」
「え……」
「弱味は人に見せない。いつも強くありたいと願う」
いつも強くありたい。
小夜がいちばん大切にしていることだ。
小夜が頷くと、力の抜けた笑いが返ってきた。
「僕と一緒。でもそれは……苦しくありませんか? ありのままを受け入れてほしいと思いませんか?」
「ありのまま……」
「弱いままの自分を――」
真太郎の顔が苦しげに歪む。
「大丈夫!?」
「……しゃべりすぎました。すこし休みますね」
真太郎は小夜から手をほどき、目を瞑った。
小夜が冷たい布巾を額にのせると、眉間の皺がほどけ、口元がほころぶ。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。何度か見た、祐樹の寝顔そのものだった。
新たに始まった真太郎との関係。それは、もしかしたらあったかもしれない祐樹との未来でもある。
掴めなかった未来を選ぶべきなのかどうか、小夜は迷っていた。
それに、この世界に来てからずっと隣で支えてくれたのは真太郎だ。拓といる時に感じたような不思議な安心感はなくとも、真太郎が素敵な人だということは十分わかる。
浅く息を吐き、救いを求めるように窓の外に視線を移す。夕暮れどき、山間にほのかに光る集落がある。
月も見えず、笛の音も聞こえてこなかった。
♦︎
真太郎の家に泊まり、迎えた翌日の朝。
声をかけて真太郎の部屋の戸を開けると、なんと彼は布団の上に座り教科書を開いていた。
「え!? 熱、下がったの? もう?」
「ええ。お陰様で――」
言い終わらないうちに、こんこんと咳き込む。
「大丈夫?」
「すみませんっ。熱の次は咳ですね。己の身をもって、病の移り変わりと快復を勉強させてもらっています」
再び咳き込む。「空咳だなぁ。明日あたり痰が絡んでくるか……」ぶつぶつと言いながら教科書をめくる。
小夜の頭のなかで、熱冷ましのシートを額に貼りながらテスト勉強している祐樹の姿が浮かんでいた。熱があるので保健室で休むと言っていたのに、カーテンを開けると、ベッドの上で生物の教科書を開いている祐樹がいたのだ。
「どうかしました?」
真太郎が、思い出し笑いをしている小夜に声をかける。こんこん、と控えめな咳が続いた。
「ううん。別に――」
「誰か別の男のことでも考えてました?」
「へ!?」
真太郎らしからぬ発言に、変な声が出てしまった。
いつもの彼なら、首を傾げ微笑んで終わりなはず。そうやって表面をなぞるだけで終える会話が多かった。
答えを求めじっと見つめてくる真太郎に、小夜は戸惑い、あたふたとする。
「ええっと、し……真太郎のことを考えてました」
「僕のこと?」
(嘘をついているわけじゃない。祐樹はきっと、真太郎なんだから)
自分のなかで必死に弁解しながら、しどろもどろに続ける。
「風邪ひいたときくらい休めばいいのに、真面目だなぁって。きっとこれからも、自分の体調より未来の自分にとって必要なことを優先するんだなって……」
しばらくして、くすくすと笑う声が流れてきた。
「どうぞ見届けてください」
「それ……どういう……」
「そのままの意味です。難しくはない問題ですよ。解けますか?」
真太郎は頬杖をつき、小夜の反応を楽しげに窺っている。
(いつもの真太郎とちがうー!!!)
本来の自分を隠さないと決めた真太郎。彼はどうやらSっ気があるようだ。
小夜はなんと答えたらいいのかわからなくなり立ち上がる。
「お腹、空いたよね。ごはん運んできます!」
「……」
真太郎のほうは見ないようにして、足早に部屋から立ち去った。
台所をのぞくと、そこにいるはずの真太郎の母親の姿がなかった。
すると勝手口から女中が入ってきた。抱えている籠に、たくさんの野菜が入っている。
「あの、真太郎のお母さんは?」
「急なご用事で診療所のほうへ行かれました。すみません、すぐにお昼の支度をしますので」
女中は籠を下ろし、急いで野菜を洗いだした。
真太郎の家は、小夜の家のように、たくさんの女中がいるわけではない。食事の準備をはじめ家事は母親もするらしく、しかし診療所の仕事が重なるときは女中が全てしているようだ。休む間もなく動く姿が気の毒になった。
「あの……よければわたし、昼ごはんを作ってもいいですか?」
「え? 藤ヶ谷のご令嬢が?」
そんなことはさせられない、料理を作るなど無理では、と、いろいろな気持ちが見て取れる。そのなかにすこし、助かります、という気持ちも混じっているように思えた。
「任せてください! ひと通りの家事はできますから」
父親とのふたり暮らしが長いので、家事全般はできるようになっていた。平日のごはん作りは、朝ごはんも含めて小夜がしていた。最初のうちは簡単な料理を作るだけだったが、だんだんと上達し、それなりの腕前になっていた。
とはいえ、明治時代の食事となると勝手がちがう。米の炊き方など教わりながら、真太郎用の消化に良さそうな食事と、真太郎の家族のための昼食を完成させた。
「真太郎、入るよ」
「はい」
戸を開ける。相変わらず教科書を開いて勉強をしていた真太郎が、小夜の持つ盆を見て歓声を上げた。
「ちょうど腹が空いていたところなんです」
「よかった。これ、わたしが作ったんだよ」
「ほんとうに?」と、割烹着姿の小夜と盆の上の椀を交互に見やる。
小夜は笑って、真太郎の布団の前に盆を置いた。
真太郎が半ば夢心地で「いただきます」と呟く。
「……おいしい」
お粥を一口食べたあと、目を輝かせながら呟かれた一言に、小夜はほっとして足を崩した。
体調が万全でないときは食べ慣れた味がいいだろうと、真太郎の母親の味付けを教えてもらいながら試行錯誤したのだった。
「本当に、小夜さんが作ったのですか?」
「うん。あとは、真太郎のお父さんとお母さんと、女中さん用の食事も作ったよ」
真太郎が感動で胸を詰まらせたようにして、小夜をじっと見つめる。
そして持っていた椀を置き、正座をした。
つられるようにして小夜も正座をする。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げてお礼を言われ、「何日間もお世話になったお礼です」と慌てて返す。
なかなか頭を上げない真太郎に「冷めちゃうからほら、食べて」と促した。
「……はい。改めて、いただきます」
さっと目元を拭ってから顔を上げ、手を合わせる。
「どうぞ、召し上がれ」
「おいしい」「幸せだ」と、呟きながら食べ進めていく。
小夜は、そんな一言一言をかみしめながら、真太郎のことを見つめ続けていた。
□□□
拓のいる屋敷。
空には下弦の月が、雲に隠れるようにしてひっそりと浮かんでいる。
少年たちは寝静まり、見張りたちも居眠りを始める。静かな夜だ。
「……捨ててこい」
冷たい声が、静けさを切り裂くように響く。
主人の前には、奥様が畳に額がつくほど深々と頭を下げている。
「人工物の音には飽きた。わたしの聞きたいのは生きた声だ。どれだけ美しくとも、楽器の音色ではない」
「おっしゃることもわかります。ですが神主も、我が音楽隊の音色は神の声のごとし、との言葉をいただいておりますがゆえ――」
「黙れ!!」
奥様の肩が跳ねる。冷や汗が伝い、畳の上に垂れていく。
「わたしはわたしのための夜会を開くため、美しい声の少年を集めているのだ。そうだ、今度は少女にしよう。いつか声の変わる少年ではなく、いつまでも美しい少女を集めろ」
少女という声に弾かれるようにして、奥様が顔を上げる。美しい声の少女などを集めたら、主人の愛情が彼女たちに移ってしまうかもしれない。ゆえに奥様は、少年たちの声のほうが美しいとして、彼らだけを集めていたのだ。
「なんだ? 不満か?」
「それは……」
「少女が不服ならば、音楽隊を解散せよ」
「……」
奥様は動かない。なぜならば、彼女のなかにひとりの少年が棲んでいるからだ。
「……おまえ、まさか、あの少年に心を奪われているのか?」
奥様の顔つきが変わる。
「一際、目を引く少年だ。男にしておくには惜しいくらいの。まるで自分の体の一部のように笛を扱い、声のように音を出すあの少年。名前は……拓といったか?」
奥様が唾をのむ。少年たちの名前さえ覚えようとしない主人が、拓の名前は覚えていたことに嫌な予感しかしなかった。
「捨ててこい」
抗うことのできない響き。
「できなくば、おまえもろともあの世行きだ」
奥様の体は震え、ついに首を縦に振ってしまった。
主人から乾いた笑いが漏れる。満足したことの証だった。
主人の手が奥様の頭を撫でる。ごつごつとした厚い手により、今まで何人の命が失われたかわからない。
けれどこの手により、自分は救われたのだった。声を見初められ、身請けしてもらったことで、金持ちの奥様として何不自由ない生活を享受できている。
この手から逃れるなんてできない。
わかっていても、彼女の心のなかには拓が棲んでいるのだった。

