月と笛

 小夜の部屋。
 ちりん、と鳴る風鈴と、本をめくる音だけが響く。
 真太郎が小夜の手元をのぞいた。

「できましたか? 次はこれ」

 淡々とした指示だけが飛び、いつものような雑談は一切ない。

「文字も読めるようになってきましたね。よかったです」

 完璧な棒読みで、小夜の顔は一切見ない。
 あの夏祭りの日から、真太郎の態度は一貫してこうだった。表面上はいつも通りなものの、完全に線が引かれている。

(やっぱり怒ってる……)

 まれに祐樹も、こんなふうに機嫌が悪くなることはあった。どうしたのと聞くこともできず、自分のせいかと思いめぐらしているうちに、なんとなく元に戻っていったのだけれど。

(それにしても)

 康平くんのものだという狐のお面は、真太郎が持ち帰った。屋敷の奥様はこれを「餞別」だと言った。
 問題を考えるふりをして手を止め、頬杖をつく。

(餞別って、旅立つ人に渡す贈り物のことだよね。でもあのタイミングで、康平くんに引き取り手が現れたなんて考えにくい。やっぱり、康平くんの協力で拓と会っていたことがばれて、罰として捨てられたってこと……)

 筆を握る手に力を込める。

(なんで彼が罰を受けるの? 見せしめ? そんなことって……)

「……ずいぶんと長い時間、お考えのようで。難しいですか?」

 真太郎が教科書に視線を落としたまま聞く。言い方が冷たい。
 機嫌を直してもらわないと、と小夜は口を開いた。彼はきっと、小夜から言い出すのを待っている。

「真太郎――」
「そういえば、この界隈で山賊の被害がでています。夜は危険なので、ひとりで出かけないように」

 ぴしゃりと遮られ、小夜は絶句してしまう。
 満月の夜は、明後日にせまっている。
 
(どうしよう……この状況じゃあ、真太郎に付き添いを頼めない。でも、拓と約束したし……)

 戸惑う小夜を横目に、真太郎は読んでいた教科書を閉じた。

「今日はもう終わり。その問題は宿題にします」

 荷物をまとめて立ち上がる。

「約束ですよ? 夜は出歩かないって」

 見下ろした顔は怒ってはおらず、むしろすがるような視線に、小夜は頷くことしかできない。

(真太郎の心配はわかる。でも、拓との約束は守りたい……!)

 小夜の嘘が、またひとつ重なってしまった。
 遠ざかる足音に見捨てられたような寂しさを覚えつつも、拓の屋敷のある方角を見据え、彼に会いにいくことを誓った。




「着物部屋を見せて欲しい?」

 女中が目を丸くするも、小夜はにっこり笑って頷いた。
 夜、少女ひとり山賊のうろつく場所に行くことなど命取りだ。この体は借り物なゆえ、いかなる傷もつけてはならない。
 ならば男装するしかない。それがたどり着いた結論だった。ただ、着物は一括して女中が管理している。勝手に部屋に入るわけにもいかず、小夜が考えた口実はこうだ。

「夏祭りのとき、お母さんが昔着ていた浴衣を出してくれたでしょう? とても嬉しかったの。他にも着られるものがないかなと思って」
「でしたら、いくつか見繕いますよ?」
「ううん。まずはわたしひとりで見て思い出に浸りたいのもあって……。だめかな……?」

 しゅんとしながら上目遣いに窺う。
 女中は小夜の肩を掴み、涙目になりながら何度も頷いた。

「まったく問題ございません! ぜひ心ゆくまで!」

(よかった……。ちょっと心は痛むけど……)

 小夜が通された着物部屋には、たくさんの箪笥が並んでいた。引き出しの中はすべて着物だそうだ。数に滅入りそうになるものの、気合いを入れ直し取り掛かる。
 
「使えそうなものないかなぁ……」

 男性用の袴が欲しかったけれど、どれも大きすぎて着られそうにない。半ばあきらめつつ開いた引き出しに、黒い着物を見つけた。広げてみると、それは羽織りもののようだった。
 試しに着てみると、着物がすっぽりと覆われた。

(これだ……!)

 これを上から羽織れば、夜の闇に溶け込める。この時代の夏の夜ならば、着込んでもそこまで暑くはないだろう。
 これだけ持っていくと怪しまれそうなので、他に何着か持っていくことにした。父親の黒い帽子と併せて風呂敷に包む。

「いくつか着たいものがあったから自分の部屋に持っていくね。しばらく手元に置いておきたくて。機会があったら、また着せてください」
「どうぞどうぞ。小夜さんの寂しさが癒されるならば」

 女中の気遣いにちくりと胸が痛みつつ、風呂敷を胸に抱き、自分の部屋へと急いだ。



 次は安全な道の確保だ。
 夜でも迷わずに待ち合わせの場所まで行くため、地図を作る必要がある。小夜は方位磁石と懐中時計、紙と鉛筆(鉛筆はとても高価なものらしく、ためらったけれど、持ち運びに便利なため借用……)を持ち、そうっと外に出た。
 前回、拓を待つ間にした真太郎との会話と道順を思い出す。待ち合わせたのは開けた田んぼ。そんな場所は、この辺りにはあそこしかないと言っていた。帰り道は、しばらく森のなかを歩いたら、宿屋や民家が連なる人里に出た。そこからいくつかの分かれ道を経て家に着いたはず。
 とりあえず、家の門の前の道を左に行く。迷子にならないよう、家からの道と目印になるものを紙に書き込みながら歩く。民家が立ち並ぶ道をしばらく歩くと、橋のかかった川に着いた。

(ちがう。橋は渡らなかった。じゃあ、家の前を右か!)

 小夜は急いで来た道を戻った。
 家の前を右に行くと、今度はすぐに分かれ道になった。一方はゆるやかな上り坂になっている。帰ってくるときに坂を下った記憶はないものの、勾配がゆるやかで気にならなかっただけかもしれない。とりあえず、上り坂のほうに行ってみることにした。
 民家やお店が並ぶ道を行く。いくつかの分かれ道を選択し、その都度方角や目印を紙に書き込みながら歩く。ただ、どこまで行っても越えたはずの森に辿り着かない。

(おかしい……。どこかで道を間違えた?)

 勇気を出してお団子屋さんの店主に訊く。自分の書いた地図を見せながら森への道を訊ねると、なんとふたつ前の分かれ道まで戻る必要があるとわかった。
 お礼を言い、来た道を戻る。小夜はその後もそうやって、人に訊いたり何度か戻ったりしながら、森への地図を完成させた。

「森までは来たけど……本当にこれを越えたら開けた田んぼに出るのかな?」

 この森を通ってきた人に聞けばわかるかもしれないと思い、人が来るまで道の端で待つことにした。
 しばらくして、荷台を引いたおじさんが現れたので聞いてみる。すると、たしかにこの森を越えれば開けた田んぼに出られるという。

「ここからどれくらいですか?」
「一里もないよ」

 一里と言われても、小夜にはどれほどか見当もつかない。

「ちなみに一本道ですか? この森は山賊が出るとか、危険な動物が潜んでるとか、注意すべきことはあります?」
「こっからは一本道だ。昼間は人通りも多いから心配無用だなぁ。ただし夜はわかんねぇ。ここんとこ物騒だからな」

 背筋に冷たいものがはしる。しかし昼間なら安全だということで、正確な距離と時間を把握するため、思い切って森に入ることにした。
 森のなかは、夏の昼間にも関わらずひんやりとしていた。前は真太郎といたのでこわくはなかったけれど、この道を夜ひとりで歩くとなると、立派な肝試しになりそうだ。
 遠くのほうの茂みが動いたかと思うと、鹿が飛び出してきた。山賊が気になるからといって灯りを消して歩くと、今度は獣に襲われそうだ。

(どうしよう。一気に走り抜ける?)

 足元を見る。舗装された道ではなく、どちらかといえば、けもの道にちかい。走り抜ける場合は、転ばないよう気をつけないといけないだろう。
 いろいろと考えながら歩いていると、開けた場所に出た。拓と待ち合わせた田んぼに出た。

「やった……!!」

 懐中時計で時間を確認する。森に入ってから三十分ほどで着いたことになるが、走ればもっと早く着けるはずだ。
 地図に時間を書き込む。これで完成だ。

(これでなんとか拓に会える……!)

 山賊や獣に襲われたら……と不安要素はあるものの、今できることはやりきった達成感が満ちていく。
 書き込んだことが間違っていないか、戻りがてら確認しようと、きびすを返して走り去った。


♦︎


 満月の日、夕暮れ時の近所の見回りが終わると夕食会が開かれる。女中総出でてんやわんやしていて、小夜に構う者はいない。
 小夜は、持っていくものを畳の上に広げた。
 黒い羽織、黒い帽子、脱げやすい草履を固定する麻の紐、懐中電灯のように使える夜回り用の提灯、自分の書いた地図、方位磁石、懐中時計、山賊や獣に襲われたときのための手刀。
 獣対策の鈴はやめておいた。山賊に自分の居場所を知らせるようなものだから。
 待ち合わせ時刻は夜八時。田んぼまでは一時間弱。
 七時になったことを確認してから、小夜はそうっと草履を履き、音がしないようゆっくりと戸を閉めた。
 目の前に広がる夜と、のぼりかけた満月。風は冷たく、どこか他人行儀だ。心細さに足がすくみそうになる。

(大丈夫! わたしは強い、わたしは強い……! 【小夜】と拓を逢わせてあげないと!)

 ぱんっと両頬を叩いて気合いを入れる。羽織を着て、深く帽子を被る。すっと息を吸ってから走り出した。
 
 地図どおりに道をたどる。誰かにつけられていないか周りに注意しつつ、慎重に足を進める。
 たしかに昼間より人は少ないが、民家から漏れる明かりや人の声があったので、そこまでこわくはなかった。
 森への入り口に着いた。問題はここからだ。
 夜の森は、昼間とまるで様子がちがう。魔物の体内へと入っていく気分だ。
 麻の紐で草履と足を固定する。提灯を持っているので、全速力で走るのは無理だけれど、小走りくらいはできる。

(準備はできた……と)

 緊張と恐怖で震える足を叩き、小夜は森へと入った。
 夜回り用の提灯は釣鐘式で、前方のみを照らし、相手から自分の姿は見えない。
 けれど灯りが動いている以上、ここに人がいることの証明にもなってしまう。
 小走りしつつも、自分以外の音と動きには注意しなければならない。
 息を潜めながら急ぐ。喉が、からからに渇いていた。

(早く、はやく……!)

 そのとき。
 進もうとした方向にある茂みが、がさごそと動いた。連動するように、背後で何かが動く気配もする。

「!?」

(もしかして、山賊……!?)

 小夜は恐怖でどうしようもなくなり、道を外れて走り出してしまった。
 茂みの間を抜けていく。枝が着物をかすめていく。
 執拗に誰かが追ってくる気配があり、振り向くこともできず、ただひたすら無我夢中で走る。
 次の瞬間、ふわりと体が浮いた。

「わっ!!」

 地面に体を打ちつけ、膝や肘、頬に痛みがはしる。
 木の根か石につまずいたようだ。泣きそうになるのを耐えて起き上がった。
 転がった提灯に手を伸ばし、袂にいれた懐中時計と方位磁石が割れていないか、灯りのもとで確認する。
 どちらも無事だった。安心して体の力が抜けると、体に痛みが戻ってきた。
 すり傷くらいはできているだろうが、折れたりはしていないだろう。
 たいした怪我じゃなくてよかった。手刀が自分に突き刺さっていたら大惨事だったと、胸を撫で下ろす。
 追われる気配もなくなっていた。周りはしんとしている。

(……ここ、どこ……?)

 小夜は完全に迷ってしまっていた。黒い塊と化した枝葉が頭上を覆う。心細さに涙がこみ上げる。

(……泣くな。このくらい大丈夫。とりあえず、走ってきた道を戻ればなんとかなる。わたしは強い、わたしは強い)

 涙を堪えて目を瞑る。限界まで息を吐く。
 夜の冷たい空気が肺を満たす。ただそれだけで、自分が新しくなる気がするから不思議だ。

 目を開いたとき、目の前をちらつく光に目を細めた。
 ふわふわと浮かぶ、小さくてやわらかい明かり。
 もしかして……

「蛍?」

 耳を澄ますと、水が流れる音もする。川が近いのかもしれない。
 蛍の光に誘われるように歩いていく。
 川辺にでると、光の洪水に息を呑んだ。
 こんなにたくさんの蛍、見たことがない。
 光に包まれる。星が落ちてきたみたい。
 きれい……


――……


 笛の音が聞こえる。
 近づいてくる。
 間違いない。この笛の音は……


「小夜?」

 川の向こうに拓がいた。
 幻かと目を疑う。だってここは、待ち合わせた場所じゃない。
 けれど、蛍の光に包まれているのは紛れもなく拓だった。
 初めて会ったときのように、白地に赤い刺繍の着物。胸も裾もはだけて、着ているというより羽織っているにちかい。唇の端と手の甲は、薔薇の花を散らしたかのように赤く染まっている。
 
「拓……」

 小夜が呟いたとき、拓の眉間に皺が寄った。

「転んだ? 頬、泥で汚れている」
「あ、えっと。これは」

 手の甲で頬の泥を拭っていると「ちょっと下がっていて」と言われ、後ずさった。
 助走をつけ、拓が川を飛び越えた。蛍の光に包まれて軽やかに飛ぶ姿は、美しい動物の化身にしか思えない。
 拓が着物の袖で小夜の頬を拭った。

「待っていてもこないから、辺りを探していたんだ。笛を吹けば気づいてくれると思って。そうしたら、こうして会えた」

 もう会えないのではないかと、あきらめかけた人に会えた。その奇跡が信じられず、ふわふわした気分に揺れる。
 ふいに、拓の視線が小夜の背後をなぞった。

「……真太郎は、蛍狩り?」
「え……?」

 振り向くと、木の影から真太郎が現れた。ばつの悪そうな顔をして、こちらを見つめている。

「どうして……」

 出歩かないという約束を守れるかどうか、見張っていたのだろうか。それならばきっと、家を出た時点で止めるはずだ。

(もしかして、何かあったときのためについてきてくれたの……?)

「理由はいくつかありますが……拓に、これについて聞きたくて来ました」

 真太郎は背負っていた風呂敷包みをといて、狐のお面を掲げた。
 拓の顔が歪む。

「あの方からいただきました。康平という少年の餞別だと」
 
 拓の顔が一層歪み、お面から目を逸らす。

「祭りの日、何があったんです?」

 真太郎が小夜を見る。
 すがるような視線に胸が痛み、口を開こうとしたのを拓に手で制される。

「……先月、屋敷を抜け出すことに失敗した。そんな俺を不憫に思った康平が、いい考えがあると言ったんだ。囃子方として祭りに参加する、と。俺たちは極力、外の人間と接触を待つことは禁止されているけれど、あの方は神社との関係を強くしたいと考えていた。俺たちが囃子方として手伝うことで、それが叶えられる。結果的に、康平の提案は受け入れられた。
 囃子方での仕事が終われば、小さい子どもたちがきっと、夜店に行きたいと騒ぐだろう。年長が年少の世話する、短時間のみという条件なら、あの方も許可してくれるはず。祭りに小夜が来るという保証はないけれど、この辺りでは大きな祭りだ。来ている可能性は高い。もしいたら、康平に年少の世話を任せている間、小夜に会えばいい。
 康平はそうやって、俺に協力してくれたんだ……。ただ……いつの時点からかわからないけど、あの方に勘づかれていたらしい。そして、なぜか康平だけが罰を受けた……」
「なぜ彼だけ? 彼はどうなった?」
「……わからない。控になっている小屋には、康平だけがいなかった。それ以来会えていない……」.

 拓が目元を抑えて、やりきれないと首を横に振った。
 悲惨な事実に何も言えず立ち尽くしていると、真太郎がこちらに歩いてきた。

「……君が、拓が、小夜さんと会わなければ、こんなことにならなかったんじゃないのか?」

 拓が後悔するように唇を噛んでうつむく。

「拓がいなくなって悲しいと思ってる。だから、小夜さんとの満月の逢瀬は、できるだけ叶えてあげたいとも思ってる。でも、そのために誰か別の人の命を犠牲にしてはならない。これからどうすべきかわかるか? 拓」

 手を伸ばせば届く距離まで近づいた真太郎を警戒してか、咄嗟に拓が小夜の肩を抱く。

「こうなった以上、会うのをやめるべきだ」

 肩を抱く手の力が強くなる。

「拓、君はとても頭がいい。だからわかっているはずだ。笛を吹いて生き抜くことはできても、あの屋敷から出られないのであれば意味がない。それとも、いつかふたりで逃げるつもり? それで小夜さんを幸せにできるとでも?」

 真太郎がそう言っても、小夜の肩を抱く手がほどけることはなかった。
 小さなため息をついたあと、真太郎が力を込めて言う。
 
「拓。小夜さんを離すんだ」

 拓が一層強く小夜を抱きしめて、激しく首を横に振る。独特なお香の香りが鼻につく。「小夜っ……!」苦しげな声が絞り出される。
 小夜はどうしたらいいかわからないまま、ただ拓の着物を掴む。
 真太郎の言っていることは正しい。わかっていても、ただふたりは会いたいのだ。いつまで会えるとか、これからどうする、ではなくて、ただ今、生きているならば会いたいと願ってしまう。

――拓、拓、拓!

【小夜】の叫びが、頭のなかで響き渡る。拓を離してはならないと強く感じる。

「拓、逃げよう。このまま、ふたりで」
「小夜……!」
「小夜さん……!」

 伸びてきた真太郎の手を、拓が小夜を抱きながらかわした。

「君たちはっ……! 小夜さん、御父上のことを考えてみなさい! 母上もいなくなり、そのうえ君もいなくなったりしたら、どう思われるか!」

 父親の笑顔が頭をよぎり、小夜の瞳が揺れる。

「拓。小夜さんを愛しているなら、彼女の未来を一番に考えるんだ。どうしたら彼女は幸せになれる? そのために何ができる? 自分の心に問うんだ」

 拓の視線がさまよう。
 しかし迷いを振り払うように、ますます強く小夜を抱きしめた。
 それを見た真太郎が、小さくため息をつく。

「……わかった」

 一歩、二歩と後ずさりしてから、腰から刀を抜く。暗闇に浮かび上がる鋭い刃に、小夜と拓が息を呑む。
 真太郎は刀を地面に投げた。柄は小夜たちのほうに向いている。
 
「このまま二人で逃げるというなら、僕を刺してから行きなさい」
「!?」

(そんな……!)

 小夜も拓も動けないでいると、真太郎が刀を蹴って拓に近づける。

「早く刀を取れ。不幸に突き進む小夜さんを見るくらいなら、ここで君に刺し殺されたほうがマシだ!」

 真太郎と、小夜を抱きしめる拓の間を、ふわふわと蛍が通り過ぎる。
 拓が小夜を自分の後ろに隠し、おもむろに刀を拾った。

「本気か? 真太郎」

 拓が真太郎を見据える。淡々とした口調に、拓が本当に切りかかるのではないかと思い、小夜はおそろしくて足が震えた。

「本気だよ。それでも君が、小夜さんを連れていくと言うなら」
 
 真太郎が両手を広げる。
 拓が刀を構える音がして、思わず小夜は目を覆った。

 ザクッーー!!

 刀が何かに突き刺さる音がして、しばらくしたあと、うめき声が聞こえてきた。

(真太……郎……!?)

 震えながら、おそるおそる目を遣ると、刀は真太郎と拓の間の地面に突き刺さっていた。
 真太郎は黙ってこちらを見つめたまま、拓はうつむいて肩を震わせている。

「……俺にはできない。真太郎を刺してまで小夜をさらっていくなんて」
「そのくらいの覚悟がないと、小夜さんを幸せになんてできない。では、どうする? 君の選ぶ道は?」

 拓の髪の隙間からのぞく目と、小夜の目が合う。別れの予感がかすめた。

「……小夜」
 
 拓が小夜を抱きしめる。ふわりと、悲しいほどに優しく。

「生きてさえいれば、またどこかで会えると信じてる。俺は強く生きていく。だから小夜も強く生きていて。君が俺を忘れても、俺は忘れない。ずっと想っているよ」

(強く、生きる……)

 溢れそうな涙を堪えながら何度も頷く。胸がひきつれるように痛い。
 強くいなければと思うのに、どうやってもこの状況を変えることのできない虚しさに、心が打ち砕かれる。

「小夜。愛しているよ」

 次の瞬間、拓の手が頬に伸び、唇に何かが触れた。それが拓の唇なのだとわかったときには、小夜は真太郎の腕のなかにいた。
 拓に手を伸ばす。しかし今度は真太郎が小夜の肩を抱き、それ以上動けない。
 拓がわずかに目を細め、遠のいていく。
 蛍の光に包まれながら消えていく。

「やだ……拓……!」

 真太郎を振り切ろうとするけれど、後ろからがっしりと抱きしめられて身動きができない。

「……真太郎、離して! 拓が行っちゃう!」
「だめです。追いかけてどうするんです? 拓は選んだんですよ、小夜さんのために。その選択を尊重しようと思わないのですか?」

 小夜は何も返せなくなり、途方に暮れた。体の力が抜けていく。
 戸惑うように揺れる、蛍の光を見つめることしかできなかった。



♦︎


 帰り道、小夜の足取りは重く、何度もつまずいて転びそうになった。そのたび真太郎が支えてくれたものの、どうしても「ありがとう」と言えない。
 真太郎のしたことは正しい。小夜と拓の身勝手で、康平の命が犠牲になったのだ。ならばもう、会うべきじゃない。なにより小夜と拓には未来がない。

(でもそれじゃ、わたしは元の世界に戻れない。【小夜】も閉じ込められたままだ。考えなきゃ。落ち込んでいても変わらない……!)

 焦りだけが支配していく。考えなければ、そう思うのに、なぜか頭が働かない。

「……蛍、きれいでしたね」

 背後で真太郎が呟く。

「小さいころ、よく三人で蛍狩りにでかけました。大きくなってからは、拓は見世物の仕事があったり、僕は勉強があったりで、なかなか来られませんでしたが……。初めて蛍狩りに行ったときのこと、覚えていますか?」

 小夜は答えず、背中で聞いたまま歩く。

「実は僕は暗いところが苦手で……でも、小夜さんに蛍を見せてあげたかった。小夜さんは震えながら夜道を歩いていました。決してこわいと言わなかったのは、それほど蛍が見たかったからか、弱い自分を見せるのがいやなのかはわかりませんが、僕と同じだと思ったんです」

 暗い森に、真太郎の声が響く。

「本音を隠して強がる。似た者同士ならわかり合えること、たくさんあると思うんです」

 誰かと何かをわかり合う。小夜がずっとしてこなかったことだった。
 そんなことができるだろうかと足を止めた。
 木々の隙間からのぞく満天の星空を、迷子の蛍が一匹横切っていく。

「そういえば小夜さんは、蛍狩りのことを蛍鑑賞ではなく、蛍捕りだと勘違いしていましたね。成虫の命はわずかだから捕るのはいけないと諭したこと、覚えていますか?」

 真太郎が小さくため息をついた。

「今の僕は、蛍を捕ってしまった気分です」

 風が吹いて、葉擦れの音が響く。
 迷子の蛍が、小夜の周りを舞う。

「見守っているうち、手に入れたいと願ってしまった。いつの間にか僕は、捕まえてしまったのでしょうか」

 小夜の耳には、真太郎の呟きがどこか遠いところで鳴っている音に聞こえた。
 内容を理解しようとしても追いつかず、そのうち自分がふわふわと揺れている心地がした。
 夏の夜空を舞う、儚い光。
 どこまでも続く闇を彷徨う、迷子の蛍。
 光、音、すべてが滲んでいく。

「……小夜さん?」

 真太郎が小夜の顔をのぞきこんだ瞬間、小夜が崩れ落ちた。すんでのところで抱き留め、そのままずるずるとしゃがみ込む。

「すごい熱だ……!」

 真太郎は肩で息をする小夜を抱えながら、助けを求めるように夜空を仰いだ。
 流れ星がひとつ、流れていった。


◻︎◻︎◻︎


 同じころ、拓のいる屋敷にて。
 戻ってきた拓の姿を認めた見張りが声を張り上げる。

「帰ってきたぞ!」
「奥様に報告を!」

 うつむいたまま見張りたちの前を通り過ぎると、肩を掴まれた。

「懲りないな、おまえは!」

 そのまま地面に叩きつけられる。
 歩いてきた奥様が、拓を見下ろすように立った。

「……会っていたのかい? あの女と」

 拓は押し黙ったまま、目を合わせようとしない。

「まだわからないのか? そんなことをしても意味がないのだと」
「奥様、こいつを追放しましょう!」
「何度も規則を破るようなやつを置いてはいけません!」

 見張りたちを制し、奥様が拓に手を伸ばす。

「おまえのいる場所は、ここ以外にないのだよ」

 拓はその手を払いのけ、ゆらゆらと立ち上がった。
 そのまま屋敷のなかへと入っていく。

「あいつ……!」
「いいんですか!? 奥様に対してあんな態度を――」
「黙れ!!」

 一喝された見張りが驚いて直立不動になる。

「あの子に傷をつけたりしたら、容赦しないからね!!」

 見張りたちが驚きを隠せない顔で敬礼した。
 動揺した足取りで持ち場にもどっていく。

 奥様は拓に払いのけられた手を胸に抱き、頬を赤く染めた。