月と笛

 絶え間なく続く雨の季節が終わり、陽の光が濃くなってきた。
 小夜は、うちわを扇ぎながら厚い雲を眺めていた。蝉の声はもう、耳に馴染んでしまった。元の世界に戻れないまま季節が変わってしまった現実に、うっすらと胸の奥が冷えていく。
 窓に吊るした風鈴が、ちりん、と音をたてて揺れた。

(あの日、拓と会えなかったけど、あきらめずに翌日も行くべきだったのかな)

(でも、もう二度とあんな目に遭いたくない。お父さんにばれることも避けたい)

(とはいっても、毎月、真太郎にお願いするのも気が引けるし……)

 うちわを扇ぐ手が止まる。

(そもそも拓と会えたところで、どうするの? 束の間、愛を確かめ合うだけで、その先は?)

 風鈴の音が、むなしく響き渡った。


「あ~もう! どうしたらいいの!?」

 声を張り上げ、畳の上にごろごろと転がる。
 い草のにおいが鼻につく。ふかふかのクッションや、ソファが懐かしい。
 本当なら今ごろ、京都で大学生活を満喫しているはずだった。興味のあった情報工学を学びながら、バイトもして、将来就きたい仕事をゆっくり考えるつもりだったのに。どういうわけか、明治時代にタイムリープしてしまった運命を呪う。

「……そういえば、大学の試験って」

 はっとして起き上がる。
 七月には春学期の試験が行われるはずだ。

(わたしがこの世界にいるってことは、誰が試験を受けてるの? まさか【小夜】!? いや、でも、彼女はわたしのなかに閉じ込められてるんだよね……。もしかして)

 さっと体温が下がる。

(誰もいない……? 必修の科目を落としたら留年なんだけど? ていうかその前に、捜索願いとか出されてるよね!?)

 頭を抱えて深いため息をつく。再び畳の上に寝転がった。天井に向けて手をかざす。
 小さな手を左右に振ろうとすると、当たり前のようにひらひらと揺れる。それは紛れもない、小夜(じぶん)の手なのだ。

(もう二度と、わたしは菜々美(わたし)に戻れないのかな……)




 いつの間にか、小夜は眠ってしまっていた。寝落ちしている小夜に気づき、女中がかけてくれたのだろう薄い布を畳んで立ち上がる。そして思い切り背伸びをした。
 窓を開け、西の空をのぞきこむ。沈む陽を追いかけるように、細い月が浮かんでいた。
 赤く染まる夕空に溶けてしまいそうな三日月。

(綺麗……)

 見惚れていると、下のほうから楽しげな笑い声が流れてきた。
 和服姿の青年が三人、家の前を通るところだった。そのなかに真太郎を見つけた小夜は、思わず「あ」と声をもらす。

「小夜さん?」

 真太郎が小夜の方を見上げて立ち止まる。その場にいた二人の青年も、同じく小夜に目を遣る。

「こんばんは」
「こんばんは、お嬢さん」
「こ……こんばんは」

 青年たちは、真太郎と雰囲気がよく似ていた。学校の友達なのかもしれない。

「こんばんは、小夜さん。これから祭りに行くのですが――」
「夏祭り!? わたしも行きたい!」

 口をついて出てしまった。きょとんとしている三人を見て後悔し、「ごめんごめん、真太郎はお友達と行くんだもんね」と慌てて訂正する。
 ふっと青年たちが笑った。

「いえいえ、我々は大丈夫ですよ。真太郎、お嬢さんと一緒に行ってこいよ」
「こんな可愛らしいお嬢さんとだなんて羨ましい。今度、氷でも奢れ」
「氷なんて高価なものは奢れないが……すまない、ありがとう」
「あの……ごめんなさい、ありがとう!」

 青年たちが手を振りながら去っていく。申し訳ないと頭を下げつつも、内心は夏祭りに行けることの嬉しさで溢れていた。
 小夜の父親には、真太郎が話をしてくれた。無事に了承され、そのままの姿で出て行こうとしたところを女中たちに止められる。

「夏祭りに行くのなら、とっておきの浴衣があるんです! 着てみませんか?」
「でも、真太郎を待たせてしまうし」
「僕なら大丈夫ですよ。待っています」
「真太郎さんもそうおっしゃってくれてますし、是非♪」
「あ……うん。ごめんね、真太郎。すこし待っていて」
「ええ。ごゆっくり」

 小夜は女中に連れられ部屋へと戻った。
 彼女たちから差し出されたのは、市松模様に菊の花が描かれた浴衣。小夜の母親が小さいころに着ていたものだという。

「さて、髪型はいかがいたしましょうか♪」

 女中たちが本を開く。どうやらそれは、この時代のヘアカタログのようなものだった。

「これはどうかしら?」
「絶対にこっちでしょう!」
「いやでも、これは……」

 彼女たちのほうが浮かれているようで、小夜はされるがままになってしまった。


♦︎


 真太郎は、玄関の上がり框に腰掛けて待っていた。

「ごめんね、遅くなっちゃった」

 声をかけると振り返り、そして弾かれたように立ち上がる。
 小夜の長い髪は結い上げられ、しっとりとまとめられていた。涼しげで艶っぽく、菊の花模様の浴衣によく似合っている。
 ほうけたように見つめるだけで何も言わない真太郎に、小夜が「変かな?」と窺うと、彼は首を勢いよく横に振る。そして静かに「……素敵ですね」と呟いた。

 外に出る。
 風がうなじを撫でて、涼しさに目を細めた。夕暮れ時でも暑さを失わない現代を懐かしく思いながらも、この時代の過ごしやすさに感動していた。

「ごめんね。お友達と行く予定だったのに」
「いえいえ。小夜さんと祭りに来られてよかったです」
「そういえば、さっき言ってた氷って?」
「ああ、それは削った氷を……」
「かき氷のこと!? おいしいよねぇ。わたし、レモンシロップで……」

 真太郎のぽかんとした顔に、我にかえる。

(しまった! またやっちゃった……微妙に現代と一緒のものがあるから、ついつい盛り上がっちゃって……)

「小夜さんは氷も食べ慣れているのですね。さすがだなぁ」
「あははは」

 小夜が笑ってごまかすと、つられるように真太郎も笑いだした。

「今日は楽しみましょうね」
「うん!」
 

 歩くうちだんだんと人が増えていき、軒先で揺れる風鈴の音に、お囃子と人の声が混ざるようになった。
 参道に入る。並ぶ夜店をのぞきながら歩いていくと、拝殿前の広場についた。やぐらが組まれていて、お囃子が奏でられていた。

「あれ、盆踊りとかはしないの?」
「盆踊り? 政府が禁止してるじゃないですか」
「禁止? 盆踊りを?」
「ええ。風紀を乱すものだとされて、ずいぶん前に禁止されましたよ」
「盆踊りが風紀を乱す?」

 この時代の盆踊りは、現代のものとは違うのだろうか。小夜が首を傾げていると、真太郎は言いにくそうにしながらも「夜通し騒ぎ、猥雑なこともあったようなので……」と教えてくれた。
 話によると、猥雑な歌とともに変装した男女が入り乱れ、淫らな行為をすることがあったため、明治のはじめに盆踊り禁止令が発令されたらしい。
 盆踊りといえば、老若男女が楽しく踊る平和なイメージしかない。小夜は驚き、口を開けたまま瞬きを繰り返す。
 
「とにかくそういうことがあったので、祭りだからとあまり浮かれないこと。僕から離れないようにしてください。御父上からもきつく言われていますから」
「はーい」

 お囃子だけでも楽しもうとやぐらを見上げたとき、音が止んだ。囃子方が交代する時間らしく、やぐらの上で人が動いているのが見えた。
 そのとき、不思議な感覚が小夜をおそった。

(なにこれ……この感じ)

 ざわつく胸をおさえる。見たわけでも触ったわけでもないのに、確実に何かを捉えた感じがしたのだ。
 しばらくしてお囃子が再開したとき、小夜は動くことができなくなった。
 耳が、笛の音を捉えて離さない。



――拓。拓がいる。



【小夜】の声が聞こえて、心臓がドクンと鳴った。
 笛の音に、体と心の全てが反応している。

「どうかしました?」
「……拓がいる。この笛……絶対に拓なの」
「拓が?」
 
 ふたりはやぐらを見上げた。空気を震わす太鼓の音が、胸の鼓動に重なる。
 やぐらの上にいるのは少年たちのようだ。
 笛を吹く少年の姿は、歌をうたう人や太鼓を叩いている人に隠れてしまい、よく見えない。
 小夜がやぐらの近くに寄ろうとすると、腕を掴まれた。真太郎だった。

「屋敷の奥方が近くにいるはずです。見つかったら、あまりよろしくない」

 街で会った、おそろしい女性の顔が浮かぶ。

「でも……会いたいの」

 今の小夜は【小夜】でないので、拓に対する特別な感情など持ち合わせていないはずだ。けれど強く、一瞬でも会いたいと願ってしまっていた。
 真太郎の瞳が揺れて、眉間に皺が寄る。なにかを考えるように空を仰いでから、しぶしぶ受け入れる。「一目見るだけなら」

 ふたりは人をかき分け、やぐら横の階段に向かった。
 ある程度の時間が経てば、囃子方も交代する。そのとき必ず階段をつかうので、下り口にいれば顔は見られるだろう。
 声もかけられるかもしれない。それを奥様に見られたからといって、連れだしたりする仕草を見せなければ見逃してくれるにちがいない。

 小夜は笛の音に耳を澄ませた。淀みなく、どこまでも澄み切った音色。
【小夜】の記憶が流れてくる。
 笛が得意な【小夜】の母親は、病気で床に臥せてしまっても、息の続く限り笛を吹いていた。たとえ消え入りそうな細い音でも、それはどこまでも清らかで【小夜】の心を癒してくれた。
 傍らにはいつも拓がいて、【小夜】を支えてくれていた――

 お囃子が途切れて、人がざわめく。やぐらの上のほうで、楽器を片付けている気配がする。

(拓が下りてくる……! 会えるんだ……!)

 もどかしい気持ちを抑えられずに、小夜は首が痛くなるほど見上げる。
 階段がしなり、上のほうから人が下りてきた。
 鼓動が激しくなって、視界が波打つ。

(一人目……)
 小夜よりも少し年上にみえる少年が、腕をまわしながら通り過ぎる。

(二人目……)
 小柄な少年が、きょろきょろと辺りを見回しながら下りてくる。
 
(三人目……)

 ざわめきが遠のいていく。
 人の動きがスローモーションに変わる。


 小夜と三人目の少年の目が合った瞬間、周りから人が消えた。
 世界が、ふたりだけのものに変わったのだ。
 

 小夜がはっきりと拓の姿を見たのは、このときが初めてだった。

 提灯の灯りに照らされて、拓の髪は赤褐色に揺れていた。
 浴衣からのぞく腕は遠目にみてもしなやかに長く、しっかりと笛を握っている。
 
 視線をかたく結んだまま、だんだんとふたりの距離が短くなる。
 そのとき突然、小石のようなものが落ちてきた。
 手すりの下を抜け、それは小夜の足元に転がり落ちた。
 拾い上げると、花が彫られた丸い小物だった。

「すみません」

 低く通った青年の声がして、小夜は顔を上げる。
 手すり越しに、拓が手を伸ばしていた。

「あ……」

 近づいて差し出すと、くいっと腕を引かれた。反動で体ごと寄り掛かる。

「……ありがとう、小夜。また」

 耳元でささやかれたあと、袖に隠すようにして小物ごと手のひらで包まれる。名残惜しむように指先が絡む。
 とびきり優しい笑顔を残して、拓が通り過ぎる。

「なんて美しい男」
「まるで若くて美しい獅子の化身ね」
 拓を見た女性たちのうっとりした呟きが耳に届く。みんなが彼のことを盗み見ていた。

 小夜は、拓と握った手を胸に抱いた。
 熱を持ち、喜びに震えている。
 待ち焦がれていたものに会えた昂揚感で、頭がふわふわとしていた。

「……拓、元気そうでしたね」

 はっとして振り向く。真太郎がいたことを忘れてしまっていた。
 のぼせているような小夜を見て、真太郎が眉をハの字に下げて笑った。

「良かったですね。彼はちゃんと生きている」

 小夜は何度も頷く。
 拓の声は低くかったので、声変わりはしたようだ。けれど彼が言っていたとおり、笛を吹くことで強く生きていた。

(それに……)

 また、という拓の声が脳裏に蘇る。
 
(次の約束がある。あとどれくらいで満月だろう)

 夕暮れ時、西の空に沈む三日月を見たことも忘れて、満天の星空のなか月を探し続けていた。


♦︎


 拓と会えたあと、小夜と真太郎は会場の隅の石に腰掛け、祭りに来た人たちを眺めていた。
 のぼせたようにぼうっとしている小夜を見かねて、真太郎が「すこし休みましょう」と座らせたのだった。
 頬に触れるとわずかに熱く、ふわふわとした気分が続いていた。
 小夜のなかに【小夜】がいて、彼女は拓のことが好きなのだから、その感覚が伝染することはわかる。
 ただそれ以上の、もっと強い気持ちが小夜自身を離さないのだ。
 まるで恋に落ちてしまったような。夢心地な気分から抜けられないでいた。

 お囃子の交代があるたび、拓たちの番かと目を輝かす。けれど、彼らが出てくることはなかった。
 真太郎が仕切り直すように立ち上がった。

「夜店でもまわります?」
「そうだねぇ……どうしよう……」

 心ここにあらずの小夜を見て、真太郎が口をつぐむ。小夜は、すこしだけ変わった真太郎の雰囲気に勘づいた。

(連れてきてくれた真太郎にも悪いし、お祭りを楽しまなきゃ。また拓が笛を吹くことがあれば、どこにいても気づけるはずだから)

「うん、お店みにいこうか」

 笑顔で立ち上がる小夜を見て、真太郎が口元だけで笑った。
 
 参道を歩きながら夜店をのぞく。お面やだるま、太鼓など、子どものおもちゃが目に留まった。
 かわいい、と寄っていこうとしたとき、小柄な少年が小夜を追い越し店へと走って行った。

(あれ、あの子って……)

 紺色の浴衣と背格好に見覚えがあった。拓の前に階段を下りていった少年と重なる。

(この子が自由に動けているのなら、拓も同じようにどこかにいるってこと?)

 真太郎も同じように思ったのか、辺りを見回している。

「この子がここにいるんだったら、拓もどこかにいるよね?」
「ええ、きっと」

 小夜と真太郎が必死で探すものの、人が多すぎて見つからない。たくさんの提灯が辺りを照らしているといっても、昼のような明るさではないので見にくいのもある。

(拓、どこにいるの?)

「おや。真太郎くんじゃないか」
「師範!」

 師範と言われた老人は、真太郎を感心するように眺めて「大きくなりましたね」と目を細めた。

「小夜さん、こちら剣道の師範なんです。師範、この女性は僕が勉強を教えている方」
「こんばんは」
「こんばんは、お嬢さん」

 会釈すると、目尻に皺の入った優しげな微笑みが返ってくる。

「真太郎くんは医学校に通っているのかな」
「ええ。西洋医学を勉強していて――」

 話が盛り上がってきてしまった。拓を探したい小夜は、話に夢中なふたりから少しずつ距離を取っていった。
 迷子になってはいけないから、あまり遠くにはいけないけれど、拓を見つけたい。
 子どもの背丈だから目線が常に低く、顔まで届かない。いっそどこか高いところに登ってと思っていると、後ろから手を引かれた。

「……!」

 狐のお面を被った人が立っていた。おそろしさで掴まれた腕を振り払おうとしたとき、ずらされたお面からのぞく顔に釘付けになった。

「拓――」

「しっ」と口元に人差し指を立てたあと、再びお面を被る拓。
 そのまま手を引かれ、拝殿の横を抜けていった。





 お祭りの喧騒が遠のいたころには、小夜と拓は手を繋ぎ、寄り添って歩いていた。
 拓の手はしっとりとしていて、小夜のものより一回り大きく骨ばっている。
 ふたりは無言のまま歩き、小さな社の近くに腰を下ろした。
 拓がお面を外す。束ねられていた髪をほどく仕草が色っぽく、小夜の目を釘付けにする。

「はぁー苦しかった……」

 解放感にうっとりとしている拓。圧倒的な存在感と雰囲気から目が離せない。
 一方で、また別の感覚が持ち上がる。

(この感じ……なんだろう)

 彼の存在に自分が馴染んでいく感覚がある。
 菜々美として、なぜだか懐かしいと感じるのだった。

「……どうかした?」
「う、ううん。ここで会えるなんて思わなかったから、驚いて」
「友達が協力してくれたんだ。俺たちの逢瀬に」

 拓がゆっくりと目を細める。小夜の頬に手が伸びる。

「前の月、どうしても抜けられなくて……。ごめん。小夜は来ていた?」

 触れられた部分が熱を帯びていく。指先が吸いついてくるようだ。のぼせるように、頭がぼうっとしていく。

「……小夜?」

 両頬を挟まれ、小夜と拓の顔が近づく。そのとき小夜は初めて、拓の左目尻にあるほくろに気がついた。

(わたしと同じ位置に……!)

 小夜の右目尻にもほくろがある。向かい合っているふたりの、ぴたりと重なる位置にあるほくろ。
 運命の契りのように、ふたりを結びつける目印に思えてならない。どこに居ても巡り会える。そう強く信じられるほどに。

「そんなに見つめなくても……。俺はここにいるよ、幻じゃない」

 ふわりとほどけるように笑う拓。
 頬杖をつき、目を細めながら片方の手で小夜の髪に触れる。

「すでに月は沈んでいるのに、こうして会えるなんて」

 うっとりとした視線と呟きに、小夜は照れてうつむいてしまう。
 若くて美しい獅子の化身。
 女性たちの呟きのごとく、この世のものに思えないくらいの美形。手足がしなやかに長く、どこか野生的かつ神秘的。
 どことなく日本人離れした顔立ちには、異国の血が入っているのかもしれない。拓の美貌と独特な雰囲気は、抗うことのできない魅力があるのだった。

 拓が、懐から笛を抜いた。

「俺、いまは小夜の笛を吹いてるよ」
「とっても綺麗な音色だった。お母さんの笛があってよかった……そうじゃなきゃ今ごろ……」

 声変わりをして少年の声を失ったら捨てられるなんてあんまりだ。現代を生きる小夜には信じられない。

「しかも、あんな格好させられて……」
「あの人たちの遊びさ。陰間(かげま)みたいなことはしてないから安心して」
「陰間?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げると、さらりと「男娼のこと」と言われ耳を疑った。
 子どもが相手となると、ただの文化では済まされない。

「そんなの最低だよ、あり得ない。遊びであんな格好させることも、わたしには信じられない」
「……ごめん、心配かけて。ただ、ここでは飯も食えるし布団もある。小夜が想像してるほど、最悪な生活ではないから」
「そんな……ご飯が食べられて寝る場所もあることが普通でしょ? しかも『ここでは』って……」

 拓は口元に薄い笑みを浮かべたまま目を伏せた。
 言わなければよかったと、後悔しても遅かった。
 現代生まれの自分の普通と、この時代の普通は違う。まして、拓の場合は……。見世物を仕事にしている家に養子に入る前も、怪しいところを転々としたにちがいない。
 拓の年齢にそぐわない色気や儚さ、危うさは、たしかに魅力のひとつだけれど、悲しい過去が作り出したものだと考えると胸がえぐられる。

「……大丈夫だよ。忘れるようにしてるから」

 拓が静かに言った。

「忘れる? 忘れられるの?」
「ああ、忘れる。勘違いしないで、赦したわけじゃない」

 澄んだ瞳に冷たい光が差したかと思うと、拓は目を閉じ、小夜の肩に頭を預けた。絹糸のような滑らかな髪が頬をくすぐる。

「今日の小夜、最高に綺麗」

 耳元でささやかれた甘い言葉に鳥肌が立ち、あたふたとしているうち「口づけしてもいい?」と聞かれ、完全に思考停止してしまった。
 首に熱い吐息が触れるも、次の瞬間には夜の風が抜けていく。
 体を離した拓が、八重歯をのぞかせて、いたずらっぽく笑っていた。

(……やられた!)

 小夜は火が吹いたように真っ赤な顔を覆った。

 


 手を繋ぎながら、かすかに聞こえてくるお囃子に耳を澄ませる。
 時折、目を合わせ微笑み合う。交わす言葉はなくても、触れているだけで落ち着く。顔色を窺うことも、自分の気持ちを隠すこともしなくていい。
 祐樹と一緒にいるときには感じられなかった安らぎだった。

「なんでこんなに落ち着くんだろう……」
「そんなの簡単さ」
「簡単……?」
「小夜が大切にしていること『涙は見せない。いつも強くあろうとする』それを俺も大切にしてるから」

 
――……

 
 ずっと、わからなかった。
 どうして【小夜】は、拓のことが好きなんだろうって。
 『わたしは強い、わたしは強い』
 小さいころから胸の内で繰り返してきた、おまじない。どんなときも、この言葉で前を向けた。
 自分が大切にしていることを、同じように大切に扱ってくれる。それでいいよと認めてくれる。
 だから【小夜】には拓なんだ。
 

 拓の指が、小夜の唇をなぞる。

「いつも強くあろうとする小夜が好きだ。信じて待っていて。いつか必ず結ばれる」

 拓の顔がゆっくりと近づいてくる。目を瞑ったとき、遠くのほうで「拓!」と声がした。
 灯篭で照らされた道を歩いてくる少年がいた。拓と同じお面をつけている彼は、やぐらから一番初めに下りてきた少年だった。

「もうそろそろ行かないと。彼女のことを探している人がいる」
「あ!」

(真太郎……!)
 
 小夜が勢いよく立ち上がる。
 真太郎のことをすっかり忘れていた。

「康平、彼女をその人の近くに連れて行ってくれる?」
 
 拓が髪を結い上げ、お面を頭の横につけた。

「いいけど、俺たちももう帰る時間だ。控えの小屋で待ってるから」
「わかった、すぐに行く」

 話がまとまり康平は歩き出したものの、小夜の足は動かない。
 真太郎のことは気になるし、康平に早くと手招きされても、拓と離れがたいのだ。

「小夜」
 
 拓が小夜を抱き寄せ、額と額を合わせた。
 
「月と笛、これさえあれば必ず会える。次の、満月の日に」

 小夜はふわりと目を閉じた。
 不思議なことに、彼が告げたことは必ず叶う気がするのだった。
 額を離し、康平のもとへ走る。一度振り返って手を振ったあと、ふたりは沿道を走り抜けた。





 お祭りの人混みのなかを漂う。間もなくして、血相を変えた真太郎が走り寄ってきた。

「小夜さん! どこに行ってたんですか!? ずいぶんと探しましたよ!?」
「あーごめん。拓を探してたら人に酔っちゃって休んでたの」

 言い訳しながらちらりと見ると、雑踏のなかへと消えていく康平の背中が見えた。

(康平くん、ありがとう……)

「聞いてますか!?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「それで……拓には会えましたか?」

 小夜は開きかけた口をつぐむ。

(どうしよう。会えた、と本当のことを言いたいけれど、さっき言ったことが嘘になってしまうし)

 嘘を追及されることもつらく、咄嗟に「会えなかった」と再び嘘をついてしまった。

「……そう、ですか……」

 真太郎が目をすがめる。
 嘘がばれないよう、たたみかけるように続けた。

「探してもいなかったの。どこかで休んでいるのかもね」
「まぁ、それもそうかもしれませんね……。小夜さんも疲れているのなら、もう帰りましょう」
「うん。帰ろっか」

 祭りはまだ続くようで、陽気な音と声で溢れている。絶対にはぐれないようにと、真太郎が小夜の手を引きながら人混みをすり抜けていく。半ば強引に連れられていることに、先ほどの嘘が見透かされて怒っているのかもしれないと思うと、ただついていくだけしかできなかった。
 そのとき、小夜の袖を引く者がいた。

(拓……?)

 自然と口元をほころばせ、期待とともに見上げる。
 その先にあった、狐のお面に固まった。
 心臓が体から抜け落ちるかと思われるほどドクンと鳴る。

(この人……は……)

 着物に描かれた、椿の赤が目を刺す。
 派手な浴衣を着て狐のお面を被っていたのは、まちがいなく小夜が街で会った女性。拓を引き取った屋敷の奥様だ。

(どうして……)

 お面をつけているので表情がわからない。しかし、狐の目の奥が怒りと憎しみで揺れているのはわかる。
 体がすくむ。声が出せない。
 真太郎も、彼女が誰だかわかったようだ。奥様との間に体をすべらせる。

「こんばんは。なにか御用ですか」

 無骨な言い方に真太郎の怒りが伝わる。小夜の嘘に気づき、苛立っているのかもしれない。

「いつになくご立腹だね。お嬢様から誰か別の男のにおいでもするのかな?」
「というと?」

 図星を突かれたように、真太郎が奥様を睨みつける。

「こわい、こわい。わたしのせいではないよ? 傷心の坊っちゃんには、これをあげよう」

 奥様が、被っていたお面を外し差し出す。

「これ、誰の……」

 拓の抜け殻のようなお面を前に、恐怖で声がかすれる。
 真太郎がお面を受け取ると、奥様が甲高い笑い声を上げた。

「康平のさ。餞別だと思って受け取っておくれ」
「!!」
 
(康平くんの……餞別……?)

 いまの一言で、小夜と拓が密かに会っていたこと、それが康平の協力であったことが、すべて見透かされていることがわかった。
 そうでなければ、彼の名前をだす意味がわからない。
 真太郎の眉間に皺が寄る。

「言っていることの意味がわかりませんが?」
「お嬢さまに聞いておくれ。さようなら、よい夜を」

 奥様はひらひらと手を振りながら去って行った。
 刺すような赤が遠のいていく。

 真太郎が、うつむいて震える小夜を見つめた。しかし彼は何も言わず、また何も問わなかった。
 小夜の腕を一層強く掴み、引きずるようにしながら無言で祭りをあとにした。