雨は降っていないものの、星も月も見えない夜だった。
「ぬかるんだ道を歩かせられない」と、中止になりそうだった真太郎の家での食事会は、彼がご両親を説得してくれて予定通り開かれることになった。
「行ってまいります。帰りはまた、僕が責任をもって送りますので」
「ん。あまり遅くならないように」
「大丈夫! 行ってきます!」
どことなく寂しそうな父親に笑顔で手を振る。
道すがら崩れかけた家に目が留まった。見覚えなんてないはずなのに、懐かしい。
小夜の足が止まったことに気づいた真太郎が、視線の先をたどって目を細めた。
「……拓の家ですね」
「すこし見てもいい?」
「ええ。気をつけてくださいね」
門から灯りを照らすと、玄関の戸が破られていて、家の中が見えた。廊下のところどころに水溜まりがあり、腐った木材のにおいがする。割れて転がった花瓶が痛々しかった。
「政府による見世物の取り締まりが厳しくなりましたからね。なにか別の職に就ければよかったのですが……」
「見世物?」
「小夜さんはご存知なかったでしょうか……。まぁ、人前で芸を披露する職業というか」
真太郎が言いよどむ。あまり品のある芸ではないのかなと想像して、うつむいた。
「お父さんはよく認めてたね。わたしとその……見世物をしている家系の拓が遊ぶことを」
「御父上は、家で人を判断されません。小夜さんもよくわかっているでしょう? 御父上自身も藤ヶ谷のような良家の出ではなく、結婚のときは親戚筋に色々と言われたそうですから……。それに拓は養子なので、正式にはこの家の子どもではないですし」
「養子……」
「なにより彼は、人を惹きつける魅力に溢れていましたもんね。小夜さんとの相性も良かった。何でも人並み以上にできて見た目もいい。厳しい環境で育ったはずなのに、なぜあれほど不思議な魅力があるのか……」
真太郎の声はだんだんと小さくなり、最後のほうはひとり言のようになっていた。わずかな陰りを感じて、真太郎の顔をのぞく。
提灯の灯りから逃げるように、ふいと顔を逸らされた。
「さ、行きましょう。遅くなってしまう」
小夜は、歩き出した真太郎の背中を眺めていた。祐樹と同じで、真太郎も小夜との間に線を引くことがある。
引かれた線を越えようとは思わない。けれどすこし寂しくなるのは、この世界でも同じだった。
♦︎
真太郎の家は小夜の家に比べればこぢんまりとしていて、派手な調度品もなく、女中もひとりしかいなかった。ただ、全ての空間に温もりが添えられているようで、とても落ち着いた。
真太郎の両親は、この人たちから彼が生まれたことがとても自然なことだと納得できるほど、穏やかで品があった。
江戸時代から続く医者の家系で、岸川医院という診療所を開いているという。ゆくゆくはひとり息子である真太郎が継ぐ予定だけれど、西洋医学を学ばなければ医者ではないという時代になってしまったため(真太郎の父親は漢方医だった)、日々勉強をしなければならないらしい。
「小夜さんも、お勉強がんばってらっしゃるんでしょう。真太郎も知らない算術の解き方を会得していると聞いたわ」
「すばらしい。わたしはこれからの時代、女性であっても学問を身につける必要があると思っていてね。小夜さんの将来は有望ですね」
「いやぁ、まぁ、どうなんでしょうか」
小夜は曖昧に笑いながら、これからはどんな問題もわからないふりをしようと誓った。これでは、いざ元に戻ったときに【小夜】が困ってしまう。
「真太郎、今日はあまり食べないじゃないか。どうした」
「そんなことありませんよ」
「わかった。小夜さんがいらっしゃるから緊張してるのね!」
「母上……! 小夜さんが反応に困ることをおっしゃらないでくださいっ」
「あらあら。ごめんなさいねぇ」
うふふ、と口元を隠しながら笑う母親が小夜に目配せした。照れる真太郎を見て、父親が豪快に笑う。
(いいなぁ。この感じ)
真太郎と結婚した自分を想像してみる。
真太郎の母親と料理をしたり、父親と話をしたり。彼の家族の一員になっていることが、とても簡単に想像できた。
(なんで【小夜】は、真太郎じゃなくて拓が好きなんだろう。彼はそんなに素敵な人なのかな……)
そう思ったところで、はっとして首を横に振る。
(なに考えてるんだろう。わたしは拓を取り戻すことだけを考えなくちゃ)
「小夜さん、大丈夫ですか?」
真太郎に顔をのぞかれて驚き、目をさまよわせた。
「ごめんなさい。こんなときに考えごとしちゃって」
「いえいえ。このあとのことは、心配しなくても大丈夫です」
拓と、ちゃんと会えるから大丈夫。
優しげな瞳から語られた言葉は、温かさを保ったまま小夜に届く。
「そうよ、小夜さん。帰りは真太郎がちゃんと送っていきますから」
「頼りなく思えるだろうが、小さいころから剣道や護身術など習わせているんだ。安心してくれたまえ」
「父上、頼りないは余計ですよ」
真太郎のすねたような言い方に、みんなが笑う。
外は暗く灰色一色でも、ここは明るくて温かい。
この世界に来てからずっと張り詰めていたものが、ゆるやかにほどけていくのを感じた。
帰り支度をしていたところで、真太郎がお母さんに呼ばれ、小夜と真太郎の父親のふたりきりになる。
父親は赤い顔をしながら、酔い覚ましのお茶をすすっていた。
「楽しくて飲みすぎてしまった」
「わたしも楽しかったです」
小夜がそう返すと、父親は昔を懐かしむように天井を見上げた。唇が音もなく動いたあと小夜を見据える。
「小夜さんも、拓くんがいなくなって寂しい思いをしただろう。ずいぶんと塞ぎ込んでしまって、食事もろくに喉を通らないと聞いていた。元気になって本当によかった」
彼が【小夜】だと思っているのは菜々美だ。罪悪感に胸がちくりと痛み、言葉に詰まる。
「当時は、真太郎も相当落ち込んでいて……。わたしも拓くんのことは可愛がっていたから、本当にどうすべきだったのか――」
襖が勢いよく開けられた。「父さん、その話はやめてもらえますか」
突然、話に入ってきた真太郎の勢いに、父親が口をつぐむ。
そのとき、ドクンという心臓の音とともに、視界がぐらりと揺れた。
――その続き。その続きが知りたい。
叫びにちかいほどの強さで【小夜】の声が頭に響く。勢いに押されて口を開いた途端、「小夜さんも僕も、もう大丈夫ですから」と話を切られてしまった。
「さて、そろそろ時間かな?」
「ええ。小夜さん、行きましょう」
「あ、はい……」
(どうしよう。続きが聞きたいのに)
話の切り出し方に意識をとられ、帰りの支度が進まない。
その様子を見ていた真太郎が小夜の近くに寄り、「早く行って待っていないと、会えないかもしれません」と、ささやく。
(……また次の機会に聞くから!)
小夜は急いで荷物をまとめて立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「楽しかったわ。またどうぞ」
「御父上によろしく。真太郎、きちんと送り届けるんだぞ」
「はい、わかりました。行ってきます」
大事なものを忘れてきてしまったような、落ち着かない気持ちを鎮めようと深呼吸した。吐く息が震えている。
横目で見ていた真太郎が、事務的な口調で歩くよう促す。
「雨は止んだみたいですね。行きましょう」
「うん」
(切り替えなきゃ。とりあえず【小夜】を拓に会わせてあげないと)
提灯を握る手に力を込めた。
♦
「以前、会っていたのはこのあたりでしたよね」
両脇を田んぼに囲まれた、開けた場所に出た。以前は綺麗に月が見えたけれど、今日は空一面を灰色の雲が覆ってしまい、輪郭さえわからない。
真太郎が辺りを見渡す。
「座る場所もないですね」
「立ってるから大丈夫。真太郎はどこかで休んでいて」
「大丈夫です。拓が来るまで待ちましょう」
ふたりとも立ったままで、拓が来るのを待つことにした。
風が木々の葉を揺らす。蛙の声が響き渡る。
いくらか時間が経った。
どんなに耳を澄ましても、こちらに向かう足音は聞こえず、暗い森のなかに目を凝らしても、提灯の灯りは見つからない。
向かっている途中なのかもしれない。それか、何かの事情があって出てこられないのかもしれない。
当たり前に相手と連絡を取り合える時代が懐かしい。信じて待つということが、こんなにも苦しいものだと初めて知った。
「ほんとに、この場所だったっけ?」
小夜が痺れを切らしたように言い、真太郎は辺りを見渡す。
「ええ。これだけ開けた場所はここ以外ないですから。間違いないと思いますが……」
「ここ、拓の家からはけっこう遠いの?」
「いえ。拓のいる屋敷は隣町ですが、ここから小夜さんの家までとちょうど同じくらいの距離なので、そこまで遠くはないですよ」
「時間は? 前もこの時間だった?」
懐中時計を確認して真太郎が頷く。「ええ。夜の八時。前と同じです。ただ、拓のほうもそれがわかっていればいいのですが……」
小夜の表情が曇る。
待ち合わせの時間と場所について、拓と認識が違っていたら意味がない。
前に会ったとき、細かく決めておけばよかったと後悔した。満月の夜という曖昧な約束で、ちゃんと会えるなんて奇跡にちかい。
小夜は首を横に振る。今さら後悔しても仕方ないのだ。
時間がゆるすまで、ここで待つことしかできない。
どのくらいの時間、そうしていただろう。いよいよ足がだるくなってしまい、ふたりは座る場所を求めて森に入った。
座れるほどの切り株を見つけて腰掛ける。真太郎が提灯を上のほうの枝に引っ掛けると、辺りがほんのりと明るくなった。
小夜は足を伸ばしながら「あとどれくらいいられそう?」と聞く。
「あと……少しだけなら」
「そう……」
真太郎のためらいに、本当はもう帰らなくてはならない時間だと気づく。
夜空を見上げた。木々の切れ間からのぞく灰色に、ため息が遠のいていく。
「……そういえば、花かるたをしたときに『拓には笛がある』とおっしゃってましたよね。あれは?」
「前に会ったときに拓が言ってたの。歌えなくなったら、わたしが渡した笛を吹くって」
「小夜さんが渡した……?」
「うん」
視線をさまよわせて戸惑っている真太郎に、「どうしたの?」とおそるおそる聞く。
「その笛、御母上の形見ですよね。そんなに大切なものを、拓に渡されたことに驚いていて」
そうなの?という言葉をすんでのところで吞み込んだ。
知らなかった。
母親の形見を渡すなんて、小夜の必死さに胸の奥が苦しくなる。
「……小夜さんは優しいお方ですね」
「そう……だね。拓には生きていてほしいから」
「そうですね。しかし……生きていても、あそこから出られるんでしょうか?」
真太郎が、見定めるように目を細める。
小夜は核心を突かれた気がした。
拓が笛を吹くことで生きながらえていたとしても、引取先が見つからない限り今の家からは出られない。「満月の日に会おう」なんて約束をしていても現に彼は現れないし、仮に今日は会えたとしても、次会えるなんて保証はない。逃げたって、小夜も拓もまだ子どもで、一生身を隠して生きていくなんてできない。
希望を求めても、結局は見渡す限りの深い闇なのだ。
(やっぱり、拓を取り戻すことなんて――)
そのとき、森の深いところで灯りがちらついているのが見えた。
「あ!」
小夜は立ち上がり、飛び跳ねながら手を振る。
「拓! こっち、こっち!」
時折、木々に遮られながらゆっくりと近づいてくる灯り。
先ほどの不安が飛んでいき、なんとかなりそうな予感に溢れていく。
待っていた甲斐があったと、安堵のため息がこぼれたときだった。
「!!」
近づいてくるのは、大きな黒い影。
真太郎が立ち上がる。
(熊? 人? どっちにしても拓じゃない)
目を凝らすと、黒い影の正体は、ぼろぼろな着物を羽織った大柄の男だった。壊れかけた提灯を向け、小夜と真太郎の姿を認めたとき、男はとても満足そうに声を出して笑った。
奇妙に高い笑い声が鼓膜を震わせると同時に、全身をぞくりと撫でていく。
聞きたくない、見たくないのに、小夜の体は動かない。心臓だけが、ばくばくと音を立てて動いている。
「こりゃあ、すんばらしく美しい着物を着とる娘じゃ」
真太郎が小夜を庇うように前に立つ。
「こんばんは」
「これまた痩せっぽっちの兄ちゃんじゃのう。ふたりは兄妹か?」
「いえ。ちがいますが」
ぼさぼさと荒れた長い髪の隙間から、黄色く濁った目がのぞいた。
背筋に冷たいものが走る。
「その娘の着物をくれんか」
びくっとして、思わず襟元をぎゅっと掴む。
男は真太郎よりも大柄で、とてもじゃないけど太刀打ちできない。
背負っている風呂敷包みに目がいく。武器も持っているかもしれない。
(逃げられる? でも小夜の足じゃ追いつかれてしまう。どうしよう、どうしよう……!)
男をじっと見つめていた真太郎が、またひとつ前に出た。
「申し訳ないですが、この子の着物はお渡しできません」
「欲しい、欲しいのじゃ。くれ」
「お受けできません」
「着物だけが欲しいのじゃ。娘はいらぬ」
「お受けできません」
「……仕方ないのう。その着物、剥ぎ取ることにするか」
にやにやと笑いながらにじり寄ってくる。
真太郎が顔を半分向けて「後ろに下がって」とささやいた。
小夜は言われたとおり後ずさる。
すると、竹刀を抜いた真太郎が男に飛びかかっていった。
「真太郎!?」
男の腹に向かって竹刀を振る。
「いてっ!!」
男が痛みにもだえて転がったとき、背負っていた風呂敷がするりと落ちた。金物が転がる音に驚いた動物たちが走り去る気配がする。
男が起き上がったとき、手には包丁が握られていた。わずかな明かりを吸い込んで、刃が不気味に光っている。喉の奥でひゅっと音がして、足が震えた。
真太郎は振り下ろされた包丁を避け、腕に向かって竹刀を振り下ろした。衝撃で包丁が飛んだあと、男を思い切り蹴飛ばす。そして倒れた男に馬乗りになった。
「これ以上やりますか? 今すぐ立ち去るのであれば、どうぞ。そうでなければ、この短刀で切りつけます」
短刀を首に突き立てながら問う。
男が悔しげに唾を吐いたのを合図に、真太郎が上からどいた。そして散らばったものを風呂敷にかき集めたあと、大急ぎで去って行った。
「小夜さん、大丈夫ですか?」
汗を拭いながら微笑む真太郎に走り寄る。
「真太郎こそ大丈夫? 竹刀なんて、いつ……」
「出かけに、念のためと母に持たされていたのです。羽織のなかに隠していました」
帰り際、たしかに母親に呼ばれていた。けれど、こんなことまで考えてくれていたとは思わなかった。
「剣道は得意なんですよ。でも、人を殴ったり乱暴をしたことはないので……こんなときは先手必勝ですね。とりあえず先に仕掛けなきゃと無我夢中でした。正当防衛じゃないと責められるかもしれないけど、仕方ないかなと。こわかったですか? もう大丈夫ですよ」
「わたしのことより……どこか怪我とか……」
肩が一部切れているのが見えた。「これ……大丈夫!?」
「着物が切れているだけです。大丈夫ですよ」
真太郎が小夜の頭を撫でる。どうしようもない気持ちになって、思わず抱きついてしまった。着物から香る真太郎の家のにおいが妙に切ない。
足元に、高価そうな金色のかんざしが転がっていた。あの男は泥棒だったんだろうか。
真太郎の手が小夜の背中に伸びる。
「こわい思いをさせてしまい、すみませんでした。今日はもう帰りましょう」
小夜は、自分のなかの【小夜】に耳を澄ませた。
(もういいよね? 今日は仕方ないよね?)
すると、声の代わりに水滴が頭に垂れた。
見上げると、雨が降ってきていた。ぱらぱらと、まるでこぼれ落ちたみたいに。
「涙雨かな」
「涙雨?」
「涙のように細い雨です。悲しみが化けた雨ともいわれます。……拓に会わせてあげられなくて、ごめんね」
どうして彼は、こんなにも一生懸命守ってくれるんだろう。
(ねぇ【小夜】。真太郎ではだめなの? 拓のどこがいいの?)
問いかけに、答えが返ってくることはなかった。
□□□
同じころ。白地に赤い刺繍の着物姿のまま塀を越えようとした拓を、見張りの男たちが捕まえた。
「こいつ、まただ!」
襟首を掴まれ、地面に叩きつけられる。そのまま殴りかかろうとした男を、もうひとりの男が手で制した。
「やめろ! こいつは奥様のお気に入りだ。顔に怪我なんてさせたら、俺たちが大目玉を食う」
掴みかかっていた男が、舌打ちをしてから乱暴に拓を離した。反動でまた地面に叩きつけられる。
「夜会のときにしか酒が飲めねぇのに、仕事させやがってこいつは!!」
毎夜、開かれる少年たちの歌会。屋敷の主人とその奥様は夜会にでているため、彼らの目が届くことはない。それをいいことにして、夜会の仕事がない見張りや女中たちは皆、思い思いに過ごしているのだ。
ゆらゆらと起き上がった拓が、鋭い視線で睨みつける。夜闇に浮かび上がる、澄んだ瞳。暗がりでもわかる肌のつやに、男たちの目が眩んだ。
「こいつ……噂には聞いていたが、やけに綺麗だな……。男とも女とも思えない。もはや、この世のものではないような……」
人間離れした美しさと独特な雰囲気を持つ拓は、どんな相手も魅了する。
そのとき、屋敷の背後にいた見張りが「夜会が終わったみたいだぞ! 持ち場に戻れ!」と声を張り上げた。
「……おまえ、二度と抜け出すなんて考えるなよ!」
吐き捨てるように言い放ち、見張りが走り去っていく。
彼らの背中を睨みつけていると、ぱらぱらと雨が落ちてきた。
(涙雨……)
拓にはこれが、小夜の涙に思えてならない。会えなかったことの悲しみ、抜け出せなかったことの不甲斐なさから、思い切り地面を殴る。泥が散り、着物を汚した。
(みんなが部屋に戻ってくる。早く戻らなければ)
拓は立ち上がり、着物についた泥を軽くたたいて払ってから来た道を走っていった。
廊下から騒がしい声が近づいてくる。急いで引き戸を開け、部屋に敷かれた布団に潜り込む。
次の瞬間、再び引き戸が開き、少年たちが入って来た。
皆お揃いの白地に赤い花の刺繍の着物姿で、唇の端が赤く染まっている。夜会が終わるとすぐ、彼らは唇に塗られた紅を拭うのだ。
「拓、大丈夫か?」
盛り上がっている布団に向かって、ひとりの少年が声をかけた。
康平だった。その声は低く、すでに声変わりしているものの、少年のまとめ役として特別に残されている。すべて拓の計らい。奥様のお気に入りの拓が言うことは、大抵の場合は聞き入れられる。
「熱があるのかもしれない。診せて」
「大丈夫だ」
「急に体調が悪くなったと言ったろ? ほら」
拓は仕方なく起き上がり、布団の上に座った。
康平の目が泥のついた着物に留まり、表情を変える。
「……また抜け出そうとしていたの?」
拓の瞳が揺れ、康平から顔を背ける。
「先月、ひどい罰を受けたじゃないか! なのに、なんで」
「会いたい人がいるんだ。どうしても」
「そんなこと言ったって」
「生きていることを証明したい。運命の人なんだ」
「運命の人って、何をもってそんな風に」
「俺には、わかる」
康平を見据える瞳はどこまでも清らかで、その澄んだ瞳に見つめられた者は、不思議と彼の言うことを信じてしまう。それほどまでに強い力があるのだ。
康平は口をつぐんだあと、すこし考えてから「わかった」とつぶやいた。そして、拓と同じくらい強い視線を返す。
「僕に考えがある」
康平は周りを窺ってから、拓にそっと耳打ちする。
拓の目が見開かれ、より一層輝きを増した。
「ぬかるんだ道を歩かせられない」と、中止になりそうだった真太郎の家での食事会は、彼がご両親を説得してくれて予定通り開かれることになった。
「行ってまいります。帰りはまた、僕が責任をもって送りますので」
「ん。あまり遅くならないように」
「大丈夫! 行ってきます!」
どことなく寂しそうな父親に笑顔で手を振る。
道すがら崩れかけた家に目が留まった。見覚えなんてないはずなのに、懐かしい。
小夜の足が止まったことに気づいた真太郎が、視線の先をたどって目を細めた。
「……拓の家ですね」
「すこし見てもいい?」
「ええ。気をつけてくださいね」
門から灯りを照らすと、玄関の戸が破られていて、家の中が見えた。廊下のところどころに水溜まりがあり、腐った木材のにおいがする。割れて転がった花瓶が痛々しかった。
「政府による見世物の取り締まりが厳しくなりましたからね。なにか別の職に就ければよかったのですが……」
「見世物?」
「小夜さんはご存知なかったでしょうか……。まぁ、人前で芸を披露する職業というか」
真太郎が言いよどむ。あまり品のある芸ではないのかなと想像して、うつむいた。
「お父さんはよく認めてたね。わたしとその……見世物をしている家系の拓が遊ぶことを」
「御父上は、家で人を判断されません。小夜さんもよくわかっているでしょう? 御父上自身も藤ヶ谷のような良家の出ではなく、結婚のときは親戚筋に色々と言われたそうですから……。それに拓は養子なので、正式にはこの家の子どもではないですし」
「養子……」
「なにより彼は、人を惹きつける魅力に溢れていましたもんね。小夜さんとの相性も良かった。何でも人並み以上にできて見た目もいい。厳しい環境で育ったはずなのに、なぜあれほど不思議な魅力があるのか……」
真太郎の声はだんだんと小さくなり、最後のほうはひとり言のようになっていた。わずかな陰りを感じて、真太郎の顔をのぞく。
提灯の灯りから逃げるように、ふいと顔を逸らされた。
「さ、行きましょう。遅くなってしまう」
小夜は、歩き出した真太郎の背中を眺めていた。祐樹と同じで、真太郎も小夜との間に線を引くことがある。
引かれた線を越えようとは思わない。けれどすこし寂しくなるのは、この世界でも同じだった。
♦︎
真太郎の家は小夜の家に比べればこぢんまりとしていて、派手な調度品もなく、女中もひとりしかいなかった。ただ、全ての空間に温もりが添えられているようで、とても落ち着いた。
真太郎の両親は、この人たちから彼が生まれたことがとても自然なことだと納得できるほど、穏やかで品があった。
江戸時代から続く医者の家系で、岸川医院という診療所を開いているという。ゆくゆくはひとり息子である真太郎が継ぐ予定だけれど、西洋医学を学ばなければ医者ではないという時代になってしまったため(真太郎の父親は漢方医だった)、日々勉強をしなければならないらしい。
「小夜さんも、お勉強がんばってらっしゃるんでしょう。真太郎も知らない算術の解き方を会得していると聞いたわ」
「すばらしい。わたしはこれからの時代、女性であっても学問を身につける必要があると思っていてね。小夜さんの将来は有望ですね」
「いやぁ、まぁ、どうなんでしょうか」
小夜は曖昧に笑いながら、これからはどんな問題もわからないふりをしようと誓った。これでは、いざ元に戻ったときに【小夜】が困ってしまう。
「真太郎、今日はあまり食べないじゃないか。どうした」
「そんなことありませんよ」
「わかった。小夜さんがいらっしゃるから緊張してるのね!」
「母上……! 小夜さんが反応に困ることをおっしゃらないでくださいっ」
「あらあら。ごめんなさいねぇ」
うふふ、と口元を隠しながら笑う母親が小夜に目配せした。照れる真太郎を見て、父親が豪快に笑う。
(いいなぁ。この感じ)
真太郎と結婚した自分を想像してみる。
真太郎の母親と料理をしたり、父親と話をしたり。彼の家族の一員になっていることが、とても簡単に想像できた。
(なんで【小夜】は、真太郎じゃなくて拓が好きなんだろう。彼はそんなに素敵な人なのかな……)
そう思ったところで、はっとして首を横に振る。
(なに考えてるんだろう。わたしは拓を取り戻すことだけを考えなくちゃ)
「小夜さん、大丈夫ですか?」
真太郎に顔をのぞかれて驚き、目をさまよわせた。
「ごめんなさい。こんなときに考えごとしちゃって」
「いえいえ。このあとのことは、心配しなくても大丈夫です」
拓と、ちゃんと会えるから大丈夫。
優しげな瞳から語られた言葉は、温かさを保ったまま小夜に届く。
「そうよ、小夜さん。帰りは真太郎がちゃんと送っていきますから」
「頼りなく思えるだろうが、小さいころから剣道や護身術など習わせているんだ。安心してくれたまえ」
「父上、頼りないは余計ですよ」
真太郎のすねたような言い方に、みんなが笑う。
外は暗く灰色一色でも、ここは明るくて温かい。
この世界に来てからずっと張り詰めていたものが、ゆるやかにほどけていくのを感じた。
帰り支度をしていたところで、真太郎がお母さんに呼ばれ、小夜と真太郎の父親のふたりきりになる。
父親は赤い顔をしながら、酔い覚ましのお茶をすすっていた。
「楽しくて飲みすぎてしまった」
「わたしも楽しかったです」
小夜がそう返すと、父親は昔を懐かしむように天井を見上げた。唇が音もなく動いたあと小夜を見据える。
「小夜さんも、拓くんがいなくなって寂しい思いをしただろう。ずいぶんと塞ぎ込んでしまって、食事もろくに喉を通らないと聞いていた。元気になって本当によかった」
彼が【小夜】だと思っているのは菜々美だ。罪悪感に胸がちくりと痛み、言葉に詰まる。
「当時は、真太郎も相当落ち込んでいて……。わたしも拓くんのことは可愛がっていたから、本当にどうすべきだったのか――」
襖が勢いよく開けられた。「父さん、その話はやめてもらえますか」
突然、話に入ってきた真太郎の勢いに、父親が口をつぐむ。
そのとき、ドクンという心臓の音とともに、視界がぐらりと揺れた。
――その続き。その続きが知りたい。
叫びにちかいほどの強さで【小夜】の声が頭に響く。勢いに押されて口を開いた途端、「小夜さんも僕も、もう大丈夫ですから」と話を切られてしまった。
「さて、そろそろ時間かな?」
「ええ。小夜さん、行きましょう」
「あ、はい……」
(どうしよう。続きが聞きたいのに)
話の切り出し方に意識をとられ、帰りの支度が進まない。
その様子を見ていた真太郎が小夜の近くに寄り、「早く行って待っていないと、会えないかもしれません」と、ささやく。
(……また次の機会に聞くから!)
小夜は急いで荷物をまとめて立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「楽しかったわ。またどうぞ」
「御父上によろしく。真太郎、きちんと送り届けるんだぞ」
「はい、わかりました。行ってきます」
大事なものを忘れてきてしまったような、落ち着かない気持ちを鎮めようと深呼吸した。吐く息が震えている。
横目で見ていた真太郎が、事務的な口調で歩くよう促す。
「雨は止んだみたいですね。行きましょう」
「うん」
(切り替えなきゃ。とりあえず【小夜】を拓に会わせてあげないと)
提灯を握る手に力を込めた。
♦
「以前、会っていたのはこのあたりでしたよね」
両脇を田んぼに囲まれた、開けた場所に出た。以前は綺麗に月が見えたけれど、今日は空一面を灰色の雲が覆ってしまい、輪郭さえわからない。
真太郎が辺りを見渡す。
「座る場所もないですね」
「立ってるから大丈夫。真太郎はどこかで休んでいて」
「大丈夫です。拓が来るまで待ちましょう」
ふたりとも立ったままで、拓が来るのを待つことにした。
風が木々の葉を揺らす。蛙の声が響き渡る。
いくらか時間が経った。
どんなに耳を澄ましても、こちらに向かう足音は聞こえず、暗い森のなかに目を凝らしても、提灯の灯りは見つからない。
向かっている途中なのかもしれない。それか、何かの事情があって出てこられないのかもしれない。
当たり前に相手と連絡を取り合える時代が懐かしい。信じて待つということが、こんなにも苦しいものだと初めて知った。
「ほんとに、この場所だったっけ?」
小夜が痺れを切らしたように言い、真太郎は辺りを見渡す。
「ええ。これだけ開けた場所はここ以外ないですから。間違いないと思いますが……」
「ここ、拓の家からはけっこう遠いの?」
「いえ。拓のいる屋敷は隣町ですが、ここから小夜さんの家までとちょうど同じくらいの距離なので、そこまで遠くはないですよ」
「時間は? 前もこの時間だった?」
懐中時計を確認して真太郎が頷く。「ええ。夜の八時。前と同じです。ただ、拓のほうもそれがわかっていればいいのですが……」
小夜の表情が曇る。
待ち合わせの時間と場所について、拓と認識が違っていたら意味がない。
前に会ったとき、細かく決めておけばよかったと後悔した。満月の夜という曖昧な約束で、ちゃんと会えるなんて奇跡にちかい。
小夜は首を横に振る。今さら後悔しても仕方ないのだ。
時間がゆるすまで、ここで待つことしかできない。
どのくらいの時間、そうしていただろう。いよいよ足がだるくなってしまい、ふたりは座る場所を求めて森に入った。
座れるほどの切り株を見つけて腰掛ける。真太郎が提灯を上のほうの枝に引っ掛けると、辺りがほんのりと明るくなった。
小夜は足を伸ばしながら「あとどれくらいいられそう?」と聞く。
「あと……少しだけなら」
「そう……」
真太郎のためらいに、本当はもう帰らなくてはならない時間だと気づく。
夜空を見上げた。木々の切れ間からのぞく灰色に、ため息が遠のいていく。
「……そういえば、花かるたをしたときに『拓には笛がある』とおっしゃってましたよね。あれは?」
「前に会ったときに拓が言ってたの。歌えなくなったら、わたしが渡した笛を吹くって」
「小夜さんが渡した……?」
「うん」
視線をさまよわせて戸惑っている真太郎に、「どうしたの?」とおそるおそる聞く。
「その笛、御母上の形見ですよね。そんなに大切なものを、拓に渡されたことに驚いていて」
そうなの?という言葉をすんでのところで吞み込んだ。
知らなかった。
母親の形見を渡すなんて、小夜の必死さに胸の奥が苦しくなる。
「……小夜さんは優しいお方ですね」
「そう……だね。拓には生きていてほしいから」
「そうですね。しかし……生きていても、あそこから出られるんでしょうか?」
真太郎が、見定めるように目を細める。
小夜は核心を突かれた気がした。
拓が笛を吹くことで生きながらえていたとしても、引取先が見つからない限り今の家からは出られない。「満月の日に会おう」なんて約束をしていても現に彼は現れないし、仮に今日は会えたとしても、次会えるなんて保証はない。逃げたって、小夜も拓もまだ子どもで、一生身を隠して生きていくなんてできない。
希望を求めても、結局は見渡す限りの深い闇なのだ。
(やっぱり、拓を取り戻すことなんて――)
そのとき、森の深いところで灯りがちらついているのが見えた。
「あ!」
小夜は立ち上がり、飛び跳ねながら手を振る。
「拓! こっち、こっち!」
時折、木々に遮られながらゆっくりと近づいてくる灯り。
先ほどの不安が飛んでいき、なんとかなりそうな予感に溢れていく。
待っていた甲斐があったと、安堵のため息がこぼれたときだった。
「!!」
近づいてくるのは、大きな黒い影。
真太郎が立ち上がる。
(熊? 人? どっちにしても拓じゃない)
目を凝らすと、黒い影の正体は、ぼろぼろな着物を羽織った大柄の男だった。壊れかけた提灯を向け、小夜と真太郎の姿を認めたとき、男はとても満足そうに声を出して笑った。
奇妙に高い笑い声が鼓膜を震わせると同時に、全身をぞくりと撫でていく。
聞きたくない、見たくないのに、小夜の体は動かない。心臓だけが、ばくばくと音を立てて動いている。
「こりゃあ、すんばらしく美しい着物を着とる娘じゃ」
真太郎が小夜を庇うように前に立つ。
「こんばんは」
「これまた痩せっぽっちの兄ちゃんじゃのう。ふたりは兄妹か?」
「いえ。ちがいますが」
ぼさぼさと荒れた長い髪の隙間から、黄色く濁った目がのぞいた。
背筋に冷たいものが走る。
「その娘の着物をくれんか」
びくっとして、思わず襟元をぎゅっと掴む。
男は真太郎よりも大柄で、とてもじゃないけど太刀打ちできない。
背負っている風呂敷包みに目がいく。武器も持っているかもしれない。
(逃げられる? でも小夜の足じゃ追いつかれてしまう。どうしよう、どうしよう……!)
男をじっと見つめていた真太郎が、またひとつ前に出た。
「申し訳ないですが、この子の着物はお渡しできません」
「欲しい、欲しいのじゃ。くれ」
「お受けできません」
「着物だけが欲しいのじゃ。娘はいらぬ」
「お受けできません」
「……仕方ないのう。その着物、剥ぎ取ることにするか」
にやにやと笑いながらにじり寄ってくる。
真太郎が顔を半分向けて「後ろに下がって」とささやいた。
小夜は言われたとおり後ずさる。
すると、竹刀を抜いた真太郎が男に飛びかかっていった。
「真太郎!?」
男の腹に向かって竹刀を振る。
「いてっ!!」
男が痛みにもだえて転がったとき、背負っていた風呂敷がするりと落ちた。金物が転がる音に驚いた動物たちが走り去る気配がする。
男が起き上がったとき、手には包丁が握られていた。わずかな明かりを吸い込んで、刃が不気味に光っている。喉の奥でひゅっと音がして、足が震えた。
真太郎は振り下ろされた包丁を避け、腕に向かって竹刀を振り下ろした。衝撃で包丁が飛んだあと、男を思い切り蹴飛ばす。そして倒れた男に馬乗りになった。
「これ以上やりますか? 今すぐ立ち去るのであれば、どうぞ。そうでなければ、この短刀で切りつけます」
短刀を首に突き立てながら問う。
男が悔しげに唾を吐いたのを合図に、真太郎が上からどいた。そして散らばったものを風呂敷にかき集めたあと、大急ぎで去って行った。
「小夜さん、大丈夫ですか?」
汗を拭いながら微笑む真太郎に走り寄る。
「真太郎こそ大丈夫? 竹刀なんて、いつ……」
「出かけに、念のためと母に持たされていたのです。羽織のなかに隠していました」
帰り際、たしかに母親に呼ばれていた。けれど、こんなことまで考えてくれていたとは思わなかった。
「剣道は得意なんですよ。でも、人を殴ったり乱暴をしたことはないので……こんなときは先手必勝ですね。とりあえず先に仕掛けなきゃと無我夢中でした。正当防衛じゃないと責められるかもしれないけど、仕方ないかなと。こわかったですか? もう大丈夫ですよ」
「わたしのことより……どこか怪我とか……」
肩が一部切れているのが見えた。「これ……大丈夫!?」
「着物が切れているだけです。大丈夫ですよ」
真太郎が小夜の頭を撫でる。どうしようもない気持ちになって、思わず抱きついてしまった。着物から香る真太郎の家のにおいが妙に切ない。
足元に、高価そうな金色のかんざしが転がっていた。あの男は泥棒だったんだろうか。
真太郎の手が小夜の背中に伸びる。
「こわい思いをさせてしまい、すみませんでした。今日はもう帰りましょう」
小夜は、自分のなかの【小夜】に耳を澄ませた。
(もういいよね? 今日は仕方ないよね?)
すると、声の代わりに水滴が頭に垂れた。
見上げると、雨が降ってきていた。ぱらぱらと、まるでこぼれ落ちたみたいに。
「涙雨かな」
「涙雨?」
「涙のように細い雨です。悲しみが化けた雨ともいわれます。……拓に会わせてあげられなくて、ごめんね」
どうして彼は、こんなにも一生懸命守ってくれるんだろう。
(ねぇ【小夜】。真太郎ではだめなの? 拓のどこがいいの?)
問いかけに、答えが返ってくることはなかった。
□□□
同じころ。白地に赤い刺繍の着物姿のまま塀を越えようとした拓を、見張りの男たちが捕まえた。
「こいつ、まただ!」
襟首を掴まれ、地面に叩きつけられる。そのまま殴りかかろうとした男を、もうひとりの男が手で制した。
「やめろ! こいつは奥様のお気に入りだ。顔に怪我なんてさせたら、俺たちが大目玉を食う」
掴みかかっていた男が、舌打ちをしてから乱暴に拓を離した。反動でまた地面に叩きつけられる。
「夜会のときにしか酒が飲めねぇのに、仕事させやがってこいつは!!」
毎夜、開かれる少年たちの歌会。屋敷の主人とその奥様は夜会にでているため、彼らの目が届くことはない。それをいいことにして、夜会の仕事がない見張りや女中たちは皆、思い思いに過ごしているのだ。
ゆらゆらと起き上がった拓が、鋭い視線で睨みつける。夜闇に浮かび上がる、澄んだ瞳。暗がりでもわかる肌のつやに、男たちの目が眩んだ。
「こいつ……噂には聞いていたが、やけに綺麗だな……。男とも女とも思えない。もはや、この世のものではないような……」
人間離れした美しさと独特な雰囲気を持つ拓は、どんな相手も魅了する。
そのとき、屋敷の背後にいた見張りが「夜会が終わったみたいだぞ! 持ち場に戻れ!」と声を張り上げた。
「……おまえ、二度と抜け出すなんて考えるなよ!」
吐き捨てるように言い放ち、見張りが走り去っていく。
彼らの背中を睨みつけていると、ぱらぱらと雨が落ちてきた。
(涙雨……)
拓にはこれが、小夜の涙に思えてならない。会えなかったことの悲しみ、抜け出せなかったことの不甲斐なさから、思い切り地面を殴る。泥が散り、着物を汚した。
(みんなが部屋に戻ってくる。早く戻らなければ)
拓は立ち上がり、着物についた泥を軽くたたいて払ってから来た道を走っていった。
廊下から騒がしい声が近づいてくる。急いで引き戸を開け、部屋に敷かれた布団に潜り込む。
次の瞬間、再び引き戸が開き、少年たちが入って来た。
皆お揃いの白地に赤い花の刺繍の着物姿で、唇の端が赤く染まっている。夜会が終わるとすぐ、彼らは唇に塗られた紅を拭うのだ。
「拓、大丈夫か?」
盛り上がっている布団に向かって、ひとりの少年が声をかけた。
康平だった。その声は低く、すでに声変わりしているものの、少年のまとめ役として特別に残されている。すべて拓の計らい。奥様のお気に入りの拓が言うことは、大抵の場合は聞き入れられる。
「熱があるのかもしれない。診せて」
「大丈夫だ」
「急に体調が悪くなったと言ったろ? ほら」
拓は仕方なく起き上がり、布団の上に座った。
康平の目が泥のついた着物に留まり、表情を変える。
「……また抜け出そうとしていたの?」
拓の瞳が揺れ、康平から顔を背ける。
「先月、ひどい罰を受けたじゃないか! なのに、なんで」
「会いたい人がいるんだ。どうしても」
「そんなこと言ったって」
「生きていることを証明したい。運命の人なんだ」
「運命の人って、何をもってそんな風に」
「俺には、わかる」
康平を見据える瞳はどこまでも清らかで、その澄んだ瞳に見つめられた者は、不思議と彼の言うことを信じてしまう。それほどまでに強い力があるのだ。
康平は口をつぐんだあと、すこし考えてから「わかった」とつぶやいた。そして、拓と同じくらい強い視線を返す。
「僕に考えがある」
康平は周りを窺ってから、拓にそっと耳打ちする。
拓の目が見開かれ、より一層輝きを増した。

