拓を取り戻す。
そのためにできることを毎日考えてはいるものの、子どもの小夜にできることは無いに等しかった。父親は一貫して無理だと言うし、他にあたれる親戚も知らなかった。拓の売られた屋敷の情報を得ようとしても、女中たちは皆、おそろしくて口に出せないといった様子で、それ以上尋ねることができなかった。
なにか手がかりはないかと、頭の中で【小夜】との会話を試みたこともあった。しかし何度呼びかけたところで返答はない。それなのに、「拓を取り戻して」と悲痛な叫びを伴う夢を繰り返し見ては、何も状況が変わっていない今に、小夜はひどく落ち込んでいた。
満月の日に見た拓の切ない顔がよぎったとき。小夜は目の前を流れていく人のなかに、あの日拓が着ていたのと同じ着物を見つけた気がして立ち止まった。
「小夜さん? どうかされましたか?」
「あ……」
真太郎の声で我にかえる。見つめた先にいたのは少女で、よく見ると着物の色も柄も違うことに気づく。
「ううん、なんでもない……」
気にしないでと小夜が笑うと、真太郎も首を傾げて微笑んだ。
ふたりの横を、馬車が通り過ぎていく。街には人が溢れていた。
今日は横浜へ買い物に来ていた。真太郎が、母親の誕生日の贈り物を買うために街へ出ると言ったので、一緒に連れて行ってとお願いしたのだ。
何も変わらない状況に向き合い続けていると、気が滅入ってしまいそうだった。
この世界には、スマホもパソコンもテレビもない。友達もいない。気分転換できるものが何ひとつないのだ。
慣れない生活、孤独な日々のなかで、真太郎だけが唯一の救いだった。
時折、祐樹との別れが胸をよぎり、悲しい気分がよみがえることがあったとしても。
いちばん栄えている通りには、和風の屋敷と洋風の建物が入り混じっている。行き交う人の服装もさまざまで、小夜は歩いているだけで楽しいと感動していた。
きょろきょろしながら歓声をあげる小夜。見守る真太郎の視線は、とても優しい。
「楽しいですか?」
真太郎の問いかけに小夜が頷く。
微笑む真太郎と、雑貨の並ぶ店をのぞきながら歩く。彼に祐樹の姿を重ねてしまう。楽しかった思い出と同時に、なぜ終わってしまったのかという悲しみが襲い、うつむいてしまった。
(拓のことも、祐樹のことも、結局はないものねだりなのかな)
小夜がため息をつく。
そんな小夜を心配そうに眺めていた真太郎が辺りを見回す。
かんざしや櫛を並べた店を見つけた。花の形、蝶の形、透かし模様があるもの、繊細に揺れるもの。色鮮やかな髪飾りはどれも、小夜の喜びそうなものだ。
「小夜さん、あの店をのぞいてみましょう。小夜さんなら、どれが欲しいですか?」
「わぁ……綺麗。どれがいいかな……」
途端に表情を明るくした小夜が、黄色い花が繊細に揺れるかんざしを手に取った。鮮やかな黄色に、あの日見た満月を思い出す。
「素敵ですね。小夜さんに似合いそう」
「……この黄色……あの日見た満月みたい……」
無邪気に笑っていた真太郎の顔が、わずかに曇る。
「真太郎、次の満月の日っていつ?」
「満月の日?」
「拓と約束したの。『次の満月の日、また会おう』って」
「……」
「真太郎、言ってくれたよね。拓を忘れられない気持ちもわかるって。会いたいの。ちゃんと会えるかは、わからないけど……」
拓の無事を確かめるには、約束の日に会いに行くしかなかった。以前の言い方から、秘密に抜け出してきていることもわかっていたので、約束通り会えないかもしれない。
けれど「また会おう」と言ってくれた拓の瞳には、不可能を可能にする力が宿っていたのだ。
真太郎は空を仰ぎ、見定めるように目を細めた。
「五日後くらいかな……。正確な日にちを知りたければ、女中に確認したほうがいいですよ」
「女中さんたちに? なんで?」
「だって、小夜さんの地域は満月の日に近所の見回りがあるじゃないですか。終わった後は宴会をされてるみたいですね」
「そう…そうだったね」
(なるほど。みんなに気づかれず、あんな時間に外に出られたのは宴会があったからなのか)
父親は宴会に参加し、女中たちは準備で忙しい。小夜に構う人はおらず、だから家を抜け出すことができたのだった。
「でも……雨が降るかもしれませんね。ここのところずっと雨続きですし」
空を見上げると、灰色に染まった雲に目が留まる。もうすぐ降り出すかもしれない。
「雨が降っていても行くのですか?」
「行く」
拓と会って彼の状況を聞くことで、できることが増えるかもしれない。ならば行くしかない。
「雨が降っても、それが満月の日なら。わたしは拓に会いに行く」
小夜の力強い眼差しと言葉に、真太郎が一瞬ひるむ。戸惑うように瞳が揺れたあと、決意を込めて返す。
「……では僕も行きます。その日は、うちで夕飯を食べましょう。帰り道に拓に会えばいい。そうすれば、前回のように叱られませんから」
「ありがとう!」
ぱあっと明るくなった小夜の顔から視線を外し、目を伏せた真太郎。乾いた笑いが漏れる。
違和感を覚えた小夜が顔をのぞき見ようとすると、ふいと背中を向けられた。
「母への贈り物が決まりましたので買ってきます。待っていてください」
振り向いた真太郎は、いつもの笑顔に戻っていた。
(真太郎……?)
はぐらかされた感じがすると思いつつ、小夜も口元だけで笑った。
♦
帰ろうと駅に向かっていたところで、真太郎が「忘れ物をしました」と言い、小夜は広場で待つことになった。
しばらくすると、灰色に染まった空から、ぽつり、雨粒が落ちてきた。
(降ってきちゃった……)
雨宿りできそうな場所を探すものの、近くに屋根のある建物がない。
仕方なく手で頭を庇っていると、ふいに独特なお香の匂いがして雨が止んだ。
(え……)
見上げると、見知らぬ女性が傘に入れてくれていた。豪華な洋服を大柄な体に纏った、綺麗な女性だった。
けれど視線は鋭く、小夜を刺すように見下ろしている。敵意に満ちた眼差しだった。
ドクン
小夜の心臓が激しく脈打つ。
背筋が凍る。
冷や汗が流れる。
息が苦しくなる。
金縛りにでもあったかのように動けない。
(なんだろう、この感じ。こわい――!)
そのとき、傘を差しながら戻ってきた真太郎の手が小夜の肩に伸びた。守るように小夜を抱く。
「……お久しぶりです」
真太郎の声はかすかに震え、動揺している様が伝わる。
一瞬きょとんとした女性の顔に、不気味な笑みが広がっていく。まとわりつく湿気のように、べたべたとした笑顔だった。
「……岸川先生のとこの坊やだね。お久しぶり。元気そうじゃないの」
濁ってしゃがれた声に驚き、震えた。
まるで魔女のようだ。
「うちの子たちも元気よ。拓も。あの子、すごく美しい顔をしているのね。そのうえ、とても綺麗な声で歌う。うちの人も毎晩楽しそうでねぇ……。でも、もうすぐ声変わりみたい。残念」
(拓が、この人のところに――!)
口を開こうとしたところで、小夜の肩を抱く手の力が強まった。真太郎の胸に頬が触れる。
――今は、何も言わないで
そう聞こえた気がして、小夜は口をつぐんだ。
トクトクトク、早鐘を打つような胸の鼓動が伝わる。
「良さそうな声の子がいたら紹介してちょうだいね。ではまた。先生によろしく」
女性はそう言って、店の立ち並ぶほうへと歩いていった。
姿が見えなくなって、やっと体の力が抜けた。その場に座り込みたいくらいに疲れていた。
小夜の見上げた先に真太郎がいて、まだ肩を抱かれたままに気づく。
赤面したのは真太郎のほうだった。
「失礼っ」
真太郎が手を離した途端、小夜はふらりとしてしまい、彼の腕を掴んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「ごめんごめん。なんか疲れちゃって……」
小夜はえへへと力なく笑うものの、心の中は疑問と不安で溢れかえっていた。
(あの魔女みたいな人のところに拓がいるなんて。歌うってなに? 声変わりしそうだから残念って、どういうこと?)
雨が傘を絶え間なく叩き続ける。
不規則に響く雨音に、予測できない未来を重ねてしまい、小夜の顔が沈んでいく。
どんよりと重い灰色の空には、わずかな光さえ見出すことができなかった。
♦
話し声、足音、雨音。あらゆるざわめきは、小夜と真太郎の意識の外側をすり抜けていった。
ふたりとも無言のままだ。
汽車が駅舎にすべり込んできたときの轟音で我にかえる。
「足元、気をつけてください」
差し出された真太郎の手は冷たく、声にも張りがない。席についてからも、ずっと外を眺めている。汽車がどれだけ揺れても動じず、まるで抜け殻のようだ。
小夜はそんな真太郎を見て、抱き寄せられたときに聞こえてきた、早鐘のような鼓動を思い出していた。
(真太郎の様子もおかしい。あの女の人、確かにこわかったけど、それ以外になにか知ってることがあるような……)
小夜が考えを巡らせていると、ふいに真太郎と目が合った。
「……小夜さんは初めてでしたよね。あの方と会うのは……」
「うん。拓は今、あの人の家にいるんだよね……?」
真太郎が静かに頷く。
「声変わりしたらどうなるの? 何がだめなの?」
真太郎は慌てて周りを確認したあと、小声で答える。
「詳しいことはわかりませんが、声変わりした少年は不要だとされ、その後の行方はわかっていません」
「え……?」
車輪が軋む音が、悲鳴のように響き渡る。
(不要だとされる……? 行方がわかっていない……? それってつまり……)
浮かんだ単語を、唾ごと飲み込む。
「どうしてそんなこと……。歌うことが重要なの?」
真太郎はすぐに答えず、自分を落ち着かせるように震える息を吐いた。
「……小夜さんには、きちんと話したことがなかったですね。あの方、昔はとても美しい声で歌うと有名な方だったのです。資産家の旦那さまが彼女のことを気に入って結婚をしたのですが、病気で声が枯れ、あのような声になってしまいました。旦那さまはもともと気性の荒い方でしたので、彼女のことを責め立て、離縁を迫りました。そこで彼女が考えついたのが、自分の代わりに、声変わり前の少年に歌ってもらう、ということです。その時期だけの少年の声というのは儚げで、ある意味では少女のものより美しい。旦那さまは、次第に少年の声に夢中になっていきました。彼女は、美しい声の少年を必死に集め、旦那さまのために夜ごと歌会を開催しているのです」
連続して汽笛が鳴った。窓の外は薄暗く、汽車は人気のない広大な土地を切り裂いていく。
蒸気を出すときのシュッシュという音が、魔物の吐く息のように不気味だ。
「……真太郎は大丈夫だったの?」
「僕は岸川医院の跡取りということもあり、免れました。けれど同い年の友達は……犠牲になった人もいます……」
小夜は言葉を失った。今はっきりと、父親と真太郎が、拓のことはあきらめろと言った理由がわかったのだった。
(そんなことがあったなんて。拓も声変わりしたら……。それまでに、彼を取り戻すことはできるんだろうか……?)
しばらくして、ひときわ大きな汽笛が響いた。速度が遅くなり、ガタガタと音をたてる。
「もうすぐ駅に着きますね。降りる準備をしましょう。すみません、こんなこわい話。小夜さんには黙っておいたほうがいいと思っていましたが……」
「ううん、話してくれてありがとう」
「それなら……良かった」
つくり笑顔にお似合いな、ぎこちない微笑みが返ってくる。
駅舎には人が溢れていた。絶望と人混みに揉まれないように、小夜は手を握りしめ、前を見据えた。
雨は降り続いていた。真太郎の傘に入れてもらい、家への道を歩く。
小夜のほうに大きく傘を傾けているため、真太郎の右肩は着物の色が変わるくらい濡れてしまっている。それでも小夜が濡れていないかどうか、ちらちら目を遣りながら歩いている。
「申し訳ありませんが、もう少し僕のほうへ寄ってくださいませんか。小夜さんが濡れてしまいます」
「あ! ごめんなさいっ」
「いえいえ。もう少し大きい傘を買うべきでしたね」
真太郎を見上げた小夜は、色の変わった彼の右肩を見て表情を変えた。
「ごめんなさい。肩、濡れてしまってる」
「ああ、これですか。このくらい大丈夫。小夜さんが濡れなければいいですよ」
なんでもないと優しく微笑む真太郎に、小夜の胸がきゅっとなる。
――真太郎を婚約者として
父親の言葉が頭に浮かび、頬を紅潮させてうつむいた。
(すべて忘れて、真太郎と結婚できたら……)
小夜は、やさしくてあまいものに包まれている自分を想像してしまう。
立ち向かう勇気が萎んでしまいそうな小夜にとって、真太郎との結婚は、とてつもなく甘く安全な選択に思えるのだった。
(だめだめ! わたしは元の世界に戻らなきゃ。【小夜】に、この体を返してあげないと)
小夜が首を横に振っているとき、真太郎は一面灰色の空を仰いでいた。
「……満月の日、拓と会えるといいですね」
弱々しく呟いた言葉は、雨音にかき消されたけれど。
♦
玄関の引き戸を開ける。雨は降っていないものの、相変わらずの曇り空にため息がこぼれた。
気分転換に散歩でもと思い外に出た途端、ぬかるみに足をとられそうになる。これでは履物も着物も汚してしまいそうだ。あきらめて家の中に戻った。
街へ出かけた日から、降ったり止んだりの天気が続いていた。タイムリープしてしまったのが五月で、そこからひと月経っているので、今は梅雨どきなのだ。
小夜は自分の部屋の襖を背に、ずるずると座り込んだ。
(いつになったら元の世界に戻れるの……)
真っ先に浮かんだのは、菜々美の父親の笑顔だった。次に、京都にいる母方の祖父母の顔。祖父母の家から大学に通う予定で、部屋を整えてくれたのに申し訳ない。別れを惜しみつつ、また会うことを誓ってくれた高校の友達の顔も浮かぶ。
最後に、祐樹の顔が遠のいていった。
ぽつぽつ、と雨が窓を打つ音が聞こえてきた。また降りだしたようだ。
途端に雨脚が激しくなり、くぐもった音に包まれた。世界から切り離されたような不安感が募る。
(ていうか実際に、よくわからないところに飛んできてしまったのだから、ひとりぼっちなことは変わらないか……)
乾いた笑いがこぼれたあと、寂しさがこみ上げてきた。鼻の奥がつんとして、目のあたりが熱くなる。
(泣くな。泣いても変わらない。涙のぶんだけ悲しみが積もって抜け出せなくなる。泣くな。このくらい越えられる。わたしは強い、わたしは強い)
おまじないを唱えるほど、小夜の瞳には涙が溢れ出してくる。
ぐっと堪えて上を見上げたとき、遠くで玄関の開く音がした。続いて女中の足音と声がして、そこに男性の声が混ざる。雨音と一緒に聞き流していると、背後から声がした。
「小夜さん。真太郎さんがみえました」
「え!?」
慌てて目元を拭い、立ち上がる。
(どうして。今日は勉強の予定はなかったはずなのに)
あたふたとしていると、再び声がした。
「開けてもよろしいですか」
「あ! えっと、はい! 大丈夫」
襖から真太郎の顔がのぞいた。いつも通りの笑顔。
「こんにちは。急にすみません。入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
目を伏せながら、ちょこんとおじぎをする。
真太郎は襖の近くに鞄を置き、そのまま正座をした。慌てて小夜もその場に正座する。
「どうかしたの?」
「雨続きですし、落ち込んでいらっしゃるのではと思って。あんなこともありましたし」
首を傾げて微笑む真太郎。そのとき彼は、赤くなった小夜の鼻に気づいてしまったのか、やわらかな笑顔の奥で瞳を揺らした。
「……やっぱり来てよかったな」
ひとり言のように呟いて、正座のまま小夜の近くにすべり寄った。ふわりと頭に触れる。
「昔からそうですよね。小夜さんはいつも、涙を我慢する」
ばれてしまったと、小夜の顔が赤くなる。けれど触れられた部分の温かさに、強く張っていた部分が溶かされていくようで、次第に視界がぼやけていく。
(ああ、だめだ。泣いたら……)
祐樹の顔が浮かぶ。
どんなときも、彼の前で泣いたことはなかった。ふたりの楽しい時間に、悲しい気分を持ち込みたくなかったから。自分の感情は、他人にはどうしようもない。涙を見せることは、悲しい気分の押し付け。
(だめ。わたしは泣かない)
すうっと波が引くように涙が遠のいていった。視界が晴れ、真太郎の顔に焦点が合っていく。
(え……?)
真太郎の苦しげに歪む顔があった。
戸惑い、なぜかと考えたとき、唐突に昔の記憶がよぎった。
(――この顔、見たことがある)
遠距離恋愛が決まったとき。
菜々美と祐樹は、お互い京都の大学を目指していたけれど、祐樹だけが落ちてしまった。彼は悩んだ末、地元の大学に進学することになった。京都市内にある他の大学には受かっていたけれど、そこを蹴っての決断だった。
一緒に過ごせるはずだったのに、なんで。第一志望じゃないけど、受かったところがあるのに。
菜々美は言いたいことも、寂しいという感情もすべて呑み込んで「充実した大学生活を送ってね」と背中を押した。
すると祐樹の顔に影が差して、眉間に皺が寄った。なんでそんなこと言うの、という風に。
今の真太郎に、あの日の祐樹が重なる。
(わたしは……何を言えばよかったの……?)
しばらくして絡んだ視線を解いた真太郎が立ち上がり、背後に置かれた鞄から何かを取り出した。
「小夜さん」
手のひらサイズの箱を差し出して首を傾げる。「やりません? 久しぶりに花かるた」
「花かるた?」
真太郎が箱を開けると、レトロな絵柄の札があらわれた。
赤い花の周りを蝶が舞っている。
「かわいい……これって」
(たしかこれって、花札っていうものじゃ……)
記憶の底から浮かび上がるものをつかむ。
「牡丹の絵……六月の札?」
音の響きを懐かしむように真太郎が目を細める。
「僕のいちばん好きな札です。雨の日によく遊びましたね。久しぶりにやりましょう、"こいこい"」
こいこい?と疑問に思ったと同時に頷いていた。
真太郎が裏返した札をきって山をつくる。「親を決めますよ」と、お互いに札をめくった。
小夜には紅葉が、真太郎には桜に赤い短冊の絵柄がでた。
「紅葉は十月の札。桜に赤い短冊は三月の札。だから……真太郎が親だね」
気がついたら口に出していた。
若い月の札がでたほうが親、つまりは先攻。ふたりの間に置かれた八枚の場札のなかから、自分の手札と同じ月のものを探す。相手より早く、指定の札を合わせて『役』をつくったら勝ち。
花札なんてしたことがないのに、指先が【小夜】の記憶を掘り起こしていく。
しばらくして、取り札に、萩に猪、紅葉に鹿、牡丹に蝶の札が揃った。役ができた。
「猪鹿蝶」
「相変わらず強いですね。あがります?」
「ん~、こいこい!」
「よし! 今度は僕が」
役ができれば、できた役の点数をもらって一回戦を終えるか、さらなる役を期待して継続、つまり「こいこい」するか選べる。ただし、こいこい後に相手が役をつくってしまうと、自分の点数はなくなり、相手の出来た役の合計点が二倍になってしまう。
【小夜】はいつも「こいこい」することが多かった。さらなる役がつくれる期待というより、勝つか負けるかわからないハラハラ感を楽しんでいた。
「うーん、なかなか役ができないなぁ」
札をめくる真太郎の姿が、拓に変わる。"こいこい"は拓とすることが多かったのだ。昼間学校のある真太郎とちがって、拓はいつも【小夜】の隣にいたから。
拓は運も強くて賢くて、こいこいで【小夜】が勝てることは少なかった。役ができると、拓はビー玉のように澄んだ瞳をきらきらさせて笑った。【小夜】は八重歯ののぞく拓の笑顔が大好きだった。
晴れた日は、外で虫捕りやかけっこをした。走る拓の手を握る。手のひらはいつも汗ばんでいてしっとりと柔らかく、薄い茶色の髪は陽の光で金色に透けた。拓といると、毎日が冒険みたいに楽しかった。
お母さんが亡くなったときは、涙を我慢する【小夜】と背中を合わせて座り、優しい歌をうたってくれた。励ましたり、慰めたりするんじゃなくて、顔の見えない位置で寄り添ってくれた。
――俺たちはずっと一緒だよ。出会う前から、これからもずっと。だって、ほら……
拓が、自分の左目尻のほくろを指差す。拓と【小夜】には、目尻の同じ位置にほくろがあった。小夜は右目、拓は左目。ふたりは対称的な位置にあるほくろを、運命的なものだと信じていた。
小夜が山札をめくると、満月にススキの札があらわれた。
「……拓に会えるかな」
札をめくる真太郎の手が止まる。
「不安……ですか」
「うん……。約束どおり会える保証なんて、どこにもないから」
(もし拓が声変わりしていたら、すでにこの世にはいないかもしれない。そうしたら【小夜】はもう――)
最悪な未来を想像したときだった。
――声変わりしたら、この笛を吹く。
暗闇を貫く光のような言葉がよみがえり、小夜は顔を上げた。
真太郎の瞳が驚きに揺れる。
「拓は生きてる。大丈夫」
「どうしました、急に」
「『声変わりしたら笛を吹く』って言ってたの」
「笛……?」
「拓ならきっと、上手に吹くことができるはず。声変わり前と同じくらい、高くて綺麗な音を出すことができる」
(拓ならきっと大丈夫。力強く生きているはず)
たたみかけるように話す小夜に気圧される真太郎。瞬きを繰り返しながら小夜の札に視線を落とす。
「あれ……小夜さん、三光ができてますよ」
「え、うそ」
小夜が取り札を見ると、桐に鳳凰、松に鶴、満月にススキで三光という役ができていた。
拓の無事を確信し、興奮して花札どころではなくなっていたのだ。
「やった! あがり!」
「まいりました」
真太郎が眉をハの字にして頭を下げる。
小夜が「二回戦♪」と張り切って札を切っていると、真太郎と目が合った。
なにかを懐かしむように目を細めて、けれどすこし寂しそうな眼差し。小夜の心が揺れる。
「……どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫です、すみません。ただ……花かるたを教えたのは僕なのに、ずいぶんと強くなったと思って。きっと、拓が教えたんでしょうね。彼は物覚えがすごく良かったから」
「わたしも同じ。拓のことを思い出してた。また三人でできたらいいよね!」
「……ええ」
笑う小夜とは対照的に、真太郎は目を伏せ、無言で手札を揃えている。
二回戦が始まった。小夜が自分の手札をみると、真っ先に目に飛び込んできたのはなぜか、満月のないススキの絵柄だった。
そのためにできることを毎日考えてはいるものの、子どもの小夜にできることは無いに等しかった。父親は一貫して無理だと言うし、他にあたれる親戚も知らなかった。拓の売られた屋敷の情報を得ようとしても、女中たちは皆、おそろしくて口に出せないといった様子で、それ以上尋ねることができなかった。
なにか手がかりはないかと、頭の中で【小夜】との会話を試みたこともあった。しかし何度呼びかけたところで返答はない。それなのに、「拓を取り戻して」と悲痛な叫びを伴う夢を繰り返し見ては、何も状況が変わっていない今に、小夜はひどく落ち込んでいた。
満月の日に見た拓の切ない顔がよぎったとき。小夜は目の前を流れていく人のなかに、あの日拓が着ていたのと同じ着物を見つけた気がして立ち止まった。
「小夜さん? どうかされましたか?」
「あ……」
真太郎の声で我にかえる。見つめた先にいたのは少女で、よく見ると着物の色も柄も違うことに気づく。
「ううん、なんでもない……」
気にしないでと小夜が笑うと、真太郎も首を傾げて微笑んだ。
ふたりの横を、馬車が通り過ぎていく。街には人が溢れていた。
今日は横浜へ買い物に来ていた。真太郎が、母親の誕生日の贈り物を買うために街へ出ると言ったので、一緒に連れて行ってとお願いしたのだ。
何も変わらない状況に向き合い続けていると、気が滅入ってしまいそうだった。
この世界には、スマホもパソコンもテレビもない。友達もいない。気分転換できるものが何ひとつないのだ。
慣れない生活、孤独な日々のなかで、真太郎だけが唯一の救いだった。
時折、祐樹との別れが胸をよぎり、悲しい気分がよみがえることがあったとしても。
いちばん栄えている通りには、和風の屋敷と洋風の建物が入り混じっている。行き交う人の服装もさまざまで、小夜は歩いているだけで楽しいと感動していた。
きょろきょろしながら歓声をあげる小夜。見守る真太郎の視線は、とても優しい。
「楽しいですか?」
真太郎の問いかけに小夜が頷く。
微笑む真太郎と、雑貨の並ぶ店をのぞきながら歩く。彼に祐樹の姿を重ねてしまう。楽しかった思い出と同時に、なぜ終わってしまったのかという悲しみが襲い、うつむいてしまった。
(拓のことも、祐樹のことも、結局はないものねだりなのかな)
小夜がため息をつく。
そんな小夜を心配そうに眺めていた真太郎が辺りを見回す。
かんざしや櫛を並べた店を見つけた。花の形、蝶の形、透かし模様があるもの、繊細に揺れるもの。色鮮やかな髪飾りはどれも、小夜の喜びそうなものだ。
「小夜さん、あの店をのぞいてみましょう。小夜さんなら、どれが欲しいですか?」
「わぁ……綺麗。どれがいいかな……」
途端に表情を明るくした小夜が、黄色い花が繊細に揺れるかんざしを手に取った。鮮やかな黄色に、あの日見た満月を思い出す。
「素敵ですね。小夜さんに似合いそう」
「……この黄色……あの日見た満月みたい……」
無邪気に笑っていた真太郎の顔が、わずかに曇る。
「真太郎、次の満月の日っていつ?」
「満月の日?」
「拓と約束したの。『次の満月の日、また会おう』って」
「……」
「真太郎、言ってくれたよね。拓を忘れられない気持ちもわかるって。会いたいの。ちゃんと会えるかは、わからないけど……」
拓の無事を確かめるには、約束の日に会いに行くしかなかった。以前の言い方から、秘密に抜け出してきていることもわかっていたので、約束通り会えないかもしれない。
けれど「また会おう」と言ってくれた拓の瞳には、不可能を可能にする力が宿っていたのだ。
真太郎は空を仰ぎ、見定めるように目を細めた。
「五日後くらいかな……。正確な日にちを知りたければ、女中に確認したほうがいいですよ」
「女中さんたちに? なんで?」
「だって、小夜さんの地域は満月の日に近所の見回りがあるじゃないですか。終わった後は宴会をされてるみたいですね」
「そう…そうだったね」
(なるほど。みんなに気づかれず、あんな時間に外に出られたのは宴会があったからなのか)
父親は宴会に参加し、女中たちは準備で忙しい。小夜に構う人はおらず、だから家を抜け出すことができたのだった。
「でも……雨が降るかもしれませんね。ここのところずっと雨続きですし」
空を見上げると、灰色に染まった雲に目が留まる。もうすぐ降り出すかもしれない。
「雨が降っていても行くのですか?」
「行く」
拓と会って彼の状況を聞くことで、できることが増えるかもしれない。ならば行くしかない。
「雨が降っても、それが満月の日なら。わたしは拓に会いに行く」
小夜の力強い眼差しと言葉に、真太郎が一瞬ひるむ。戸惑うように瞳が揺れたあと、決意を込めて返す。
「……では僕も行きます。その日は、うちで夕飯を食べましょう。帰り道に拓に会えばいい。そうすれば、前回のように叱られませんから」
「ありがとう!」
ぱあっと明るくなった小夜の顔から視線を外し、目を伏せた真太郎。乾いた笑いが漏れる。
違和感を覚えた小夜が顔をのぞき見ようとすると、ふいと背中を向けられた。
「母への贈り物が決まりましたので買ってきます。待っていてください」
振り向いた真太郎は、いつもの笑顔に戻っていた。
(真太郎……?)
はぐらかされた感じがすると思いつつ、小夜も口元だけで笑った。
♦
帰ろうと駅に向かっていたところで、真太郎が「忘れ物をしました」と言い、小夜は広場で待つことになった。
しばらくすると、灰色に染まった空から、ぽつり、雨粒が落ちてきた。
(降ってきちゃった……)
雨宿りできそうな場所を探すものの、近くに屋根のある建物がない。
仕方なく手で頭を庇っていると、ふいに独特なお香の匂いがして雨が止んだ。
(え……)
見上げると、見知らぬ女性が傘に入れてくれていた。豪華な洋服を大柄な体に纏った、綺麗な女性だった。
けれど視線は鋭く、小夜を刺すように見下ろしている。敵意に満ちた眼差しだった。
ドクン
小夜の心臓が激しく脈打つ。
背筋が凍る。
冷や汗が流れる。
息が苦しくなる。
金縛りにでもあったかのように動けない。
(なんだろう、この感じ。こわい――!)
そのとき、傘を差しながら戻ってきた真太郎の手が小夜の肩に伸びた。守るように小夜を抱く。
「……お久しぶりです」
真太郎の声はかすかに震え、動揺している様が伝わる。
一瞬きょとんとした女性の顔に、不気味な笑みが広がっていく。まとわりつく湿気のように、べたべたとした笑顔だった。
「……岸川先生のとこの坊やだね。お久しぶり。元気そうじゃないの」
濁ってしゃがれた声に驚き、震えた。
まるで魔女のようだ。
「うちの子たちも元気よ。拓も。あの子、すごく美しい顔をしているのね。そのうえ、とても綺麗な声で歌う。うちの人も毎晩楽しそうでねぇ……。でも、もうすぐ声変わりみたい。残念」
(拓が、この人のところに――!)
口を開こうとしたところで、小夜の肩を抱く手の力が強まった。真太郎の胸に頬が触れる。
――今は、何も言わないで
そう聞こえた気がして、小夜は口をつぐんだ。
トクトクトク、早鐘を打つような胸の鼓動が伝わる。
「良さそうな声の子がいたら紹介してちょうだいね。ではまた。先生によろしく」
女性はそう言って、店の立ち並ぶほうへと歩いていった。
姿が見えなくなって、やっと体の力が抜けた。その場に座り込みたいくらいに疲れていた。
小夜の見上げた先に真太郎がいて、まだ肩を抱かれたままに気づく。
赤面したのは真太郎のほうだった。
「失礼っ」
真太郎が手を離した途端、小夜はふらりとしてしまい、彼の腕を掴んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「ごめんごめん。なんか疲れちゃって……」
小夜はえへへと力なく笑うものの、心の中は疑問と不安で溢れかえっていた。
(あの魔女みたいな人のところに拓がいるなんて。歌うってなに? 声変わりしそうだから残念って、どういうこと?)
雨が傘を絶え間なく叩き続ける。
不規則に響く雨音に、予測できない未来を重ねてしまい、小夜の顔が沈んでいく。
どんよりと重い灰色の空には、わずかな光さえ見出すことができなかった。
♦
話し声、足音、雨音。あらゆるざわめきは、小夜と真太郎の意識の外側をすり抜けていった。
ふたりとも無言のままだ。
汽車が駅舎にすべり込んできたときの轟音で我にかえる。
「足元、気をつけてください」
差し出された真太郎の手は冷たく、声にも張りがない。席についてからも、ずっと外を眺めている。汽車がどれだけ揺れても動じず、まるで抜け殻のようだ。
小夜はそんな真太郎を見て、抱き寄せられたときに聞こえてきた、早鐘のような鼓動を思い出していた。
(真太郎の様子もおかしい。あの女の人、確かにこわかったけど、それ以外になにか知ってることがあるような……)
小夜が考えを巡らせていると、ふいに真太郎と目が合った。
「……小夜さんは初めてでしたよね。あの方と会うのは……」
「うん。拓は今、あの人の家にいるんだよね……?」
真太郎が静かに頷く。
「声変わりしたらどうなるの? 何がだめなの?」
真太郎は慌てて周りを確認したあと、小声で答える。
「詳しいことはわかりませんが、声変わりした少年は不要だとされ、その後の行方はわかっていません」
「え……?」
車輪が軋む音が、悲鳴のように響き渡る。
(不要だとされる……? 行方がわかっていない……? それってつまり……)
浮かんだ単語を、唾ごと飲み込む。
「どうしてそんなこと……。歌うことが重要なの?」
真太郎はすぐに答えず、自分を落ち着かせるように震える息を吐いた。
「……小夜さんには、きちんと話したことがなかったですね。あの方、昔はとても美しい声で歌うと有名な方だったのです。資産家の旦那さまが彼女のことを気に入って結婚をしたのですが、病気で声が枯れ、あのような声になってしまいました。旦那さまはもともと気性の荒い方でしたので、彼女のことを責め立て、離縁を迫りました。そこで彼女が考えついたのが、自分の代わりに、声変わり前の少年に歌ってもらう、ということです。その時期だけの少年の声というのは儚げで、ある意味では少女のものより美しい。旦那さまは、次第に少年の声に夢中になっていきました。彼女は、美しい声の少年を必死に集め、旦那さまのために夜ごと歌会を開催しているのです」
連続して汽笛が鳴った。窓の外は薄暗く、汽車は人気のない広大な土地を切り裂いていく。
蒸気を出すときのシュッシュという音が、魔物の吐く息のように不気味だ。
「……真太郎は大丈夫だったの?」
「僕は岸川医院の跡取りということもあり、免れました。けれど同い年の友達は……犠牲になった人もいます……」
小夜は言葉を失った。今はっきりと、父親と真太郎が、拓のことはあきらめろと言った理由がわかったのだった。
(そんなことがあったなんて。拓も声変わりしたら……。それまでに、彼を取り戻すことはできるんだろうか……?)
しばらくして、ひときわ大きな汽笛が響いた。速度が遅くなり、ガタガタと音をたてる。
「もうすぐ駅に着きますね。降りる準備をしましょう。すみません、こんなこわい話。小夜さんには黙っておいたほうがいいと思っていましたが……」
「ううん、話してくれてありがとう」
「それなら……良かった」
つくり笑顔にお似合いな、ぎこちない微笑みが返ってくる。
駅舎には人が溢れていた。絶望と人混みに揉まれないように、小夜は手を握りしめ、前を見据えた。
雨は降り続いていた。真太郎の傘に入れてもらい、家への道を歩く。
小夜のほうに大きく傘を傾けているため、真太郎の右肩は着物の色が変わるくらい濡れてしまっている。それでも小夜が濡れていないかどうか、ちらちら目を遣りながら歩いている。
「申し訳ありませんが、もう少し僕のほうへ寄ってくださいませんか。小夜さんが濡れてしまいます」
「あ! ごめんなさいっ」
「いえいえ。もう少し大きい傘を買うべきでしたね」
真太郎を見上げた小夜は、色の変わった彼の右肩を見て表情を変えた。
「ごめんなさい。肩、濡れてしまってる」
「ああ、これですか。このくらい大丈夫。小夜さんが濡れなければいいですよ」
なんでもないと優しく微笑む真太郎に、小夜の胸がきゅっとなる。
――真太郎を婚約者として
父親の言葉が頭に浮かび、頬を紅潮させてうつむいた。
(すべて忘れて、真太郎と結婚できたら……)
小夜は、やさしくてあまいものに包まれている自分を想像してしまう。
立ち向かう勇気が萎んでしまいそうな小夜にとって、真太郎との結婚は、とてつもなく甘く安全な選択に思えるのだった。
(だめだめ! わたしは元の世界に戻らなきゃ。【小夜】に、この体を返してあげないと)
小夜が首を横に振っているとき、真太郎は一面灰色の空を仰いでいた。
「……満月の日、拓と会えるといいですね」
弱々しく呟いた言葉は、雨音にかき消されたけれど。
♦
玄関の引き戸を開ける。雨は降っていないものの、相変わらずの曇り空にため息がこぼれた。
気分転換に散歩でもと思い外に出た途端、ぬかるみに足をとられそうになる。これでは履物も着物も汚してしまいそうだ。あきらめて家の中に戻った。
街へ出かけた日から、降ったり止んだりの天気が続いていた。タイムリープしてしまったのが五月で、そこからひと月経っているので、今は梅雨どきなのだ。
小夜は自分の部屋の襖を背に、ずるずると座り込んだ。
(いつになったら元の世界に戻れるの……)
真っ先に浮かんだのは、菜々美の父親の笑顔だった。次に、京都にいる母方の祖父母の顔。祖父母の家から大学に通う予定で、部屋を整えてくれたのに申し訳ない。別れを惜しみつつ、また会うことを誓ってくれた高校の友達の顔も浮かぶ。
最後に、祐樹の顔が遠のいていった。
ぽつぽつ、と雨が窓を打つ音が聞こえてきた。また降りだしたようだ。
途端に雨脚が激しくなり、くぐもった音に包まれた。世界から切り離されたような不安感が募る。
(ていうか実際に、よくわからないところに飛んできてしまったのだから、ひとりぼっちなことは変わらないか……)
乾いた笑いがこぼれたあと、寂しさがこみ上げてきた。鼻の奥がつんとして、目のあたりが熱くなる。
(泣くな。泣いても変わらない。涙のぶんだけ悲しみが積もって抜け出せなくなる。泣くな。このくらい越えられる。わたしは強い、わたしは強い)
おまじないを唱えるほど、小夜の瞳には涙が溢れ出してくる。
ぐっと堪えて上を見上げたとき、遠くで玄関の開く音がした。続いて女中の足音と声がして、そこに男性の声が混ざる。雨音と一緒に聞き流していると、背後から声がした。
「小夜さん。真太郎さんがみえました」
「え!?」
慌てて目元を拭い、立ち上がる。
(どうして。今日は勉強の予定はなかったはずなのに)
あたふたとしていると、再び声がした。
「開けてもよろしいですか」
「あ! えっと、はい! 大丈夫」
襖から真太郎の顔がのぞいた。いつも通りの笑顔。
「こんにちは。急にすみません。入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
目を伏せながら、ちょこんとおじぎをする。
真太郎は襖の近くに鞄を置き、そのまま正座をした。慌てて小夜もその場に正座する。
「どうかしたの?」
「雨続きですし、落ち込んでいらっしゃるのではと思って。あんなこともありましたし」
首を傾げて微笑む真太郎。そのとき彼は、赤くなった小夜の鼻に気づいてしまったのか、やわらかな笑顔の奥で瞳を揺らした。
「……やっぱり来てよかったな」
ひとり言のように呟いて、正座のまま小夜の近くにすべり寄った。ふわりと頭に触れる。
「昔からそうですよね。小夜さんはいつも、涙を我慢する」
ばれてしまったと、小夜の顔が赤くなる。けれど触れられた部分の温かさに、強く張っていた部分が溶かされていくようで、次第に視界がぼやけていく。
(ああ、だめだ。泣いたら……)
祐樹の顔が浮かぶ。
どんなときも、彼の前で泣いたことはなかった。ふたりの楽しい時間に、悲しい気分を持ち込みたくなかったから。自分の感情は、他人にはどうしようもない。涙を見せることは、悲しい気分の押し付け。
(だめ。わたしは泣かない)
すうっと波が引くように涙が遠のいていった。視界が晴れ、真太郎の顔に焦点が合っていく。
(え……?)
真太郎の苦しげに歪む顔があった。
戸惑い、なぜかと考えたとき、唐突に昔の記憶がよぎった。
(――この顔、見たことがある)
遠距離恋愛が決まったとき。
菜々美と祐樹は、お互い京都の大学を目指していたけれど、祐樹だけが落ちてしまった。彼は悩んだ末、地元の大学に進学することになった。京都市内にある他の大学には受かっていたけれど、そこを蹴っての決断だった。
一緒に過ごせるはずだったのに、なんで。第一志望じゃないけど、受かったところがあるのに。
菜々美は言いたいことも、寂しいという感情もすべて呑み込んで「充実した大学生活を送ってね」と背中を押した。
すると祐樹の顔に影が差して、眉間に皺が寄った。なんでそんなこと言うの、という風に。
今の真太郎に、あの日の祐樹が重なる。
(わたしは……何を言えばよかったの……?)
しばらくして絡んだ視線を解いた真太郎が立ち上がり、背後に置かれた鞄から何かを取り出した。
「小夜さん」
手のひらサイズの箱を差し出して首を傾げる。「やりません? 久しぶりに花かるた」
「花かるた?」
真太郎が箱を開けると、レトロな絵柄の札があらわれた。
赤い花の周りを蝶が舞っている。
「かわいい……これって」
(たしかこれって、花札っていうものじゃ……)
記憶の底から浮かび上がるものをつかむ。
「牡丹の絵……六月の札?」
音の響きを懐かしむように真太郎が目を細める。
「僕のいちばん好きな札です。雨の日によく遊びましたね。久しぶりにやりましょう、"こいこい"」
こいこい?と疑問に思ったと同時に頷いていた。
真太郎が裏返した札をきって山をつくる。「親を決めますよ」と、お互いに札をめくった。
小夜には紅葉が、真太郎には桜に赤い短冊の絵柄がでた。
「紅葉は十月の札。桜に赤い短冊は三月の札。だから……真太郎が親だね」
気がついたら口に出していた。
若い月の札がでたほうが親、つまりは先攻。ふたりの間に置かれた八枚の場札のなかから、自分の手札と同じ月のものを探す。相手より早く、指定の札を合わせて『役』をつくったら勝ち。
花札なんてしたことがないのに、指先が【小夜】の記憶を掘り起こしていく。
しばらくして、取り札に、萩に猪、紅葉に鹿、牡丹に蝶の札が揃った。役ができた。
「猪鹿蝶」
「相変わらず強いですね。あがります?」
「ん~、こいこい!」
「よし! 今度は僕が」
役ができれば、できた役の点数をもらって一回戦を終えるか、さらなる役を期待して継続、つまり「こいこい」するか選べる。ただし、こいこい後に相手が役をつくってしまうと、自分の点数はなくなり、相手の出来た役の合計点が二倍になってしまう。
【小夜】はいつも「こいこい」することが多かった。さらなる役がつくれる期待というより、勝つか負けるかわからないハラハラ感を楽しんでいた。
「うーん、なかなか役ができないなぁ」
札をめくる真太郎の姿が、拓に変わる。"こいこい"は拓とすることが多かったのだ。昼間学校のある真太郎とちがって、拓はいつも【小夜】の隣にいたから。
拓は運も強くて賢くて、こいこいで【小夜】が勝てることは少なかった。役ができると、拓はビー玉のように澄んだ瞳をきらきらさせて笑った。【小夜】は八重歯ののぞく拓の笑顔が大好きだった。
晴れた日は、外で虫捕りやかけっこをした。走る拓の手を握る。手のひらはいつも汗ばんでいてしっとりと柔らかく、薄い茶色の髪は陽の光で金色に透けた。拓といると、毎日が冒険みたいに楽しかった。
お母さんが亡くなったときは、涙を我慢する【小夜】と背中を合わせて座り、優しい歌をうたってくれた。励ましたり、慰めたりするんじゃなくて、顔の見えない位置で寄り添ってくれた。
――俺たちはずっと一緒だよ。出会う前から、これからもずっと。だって、ほら……
拓が、自分の左目尻のほくろを指差す。拓と【小夜】には、目尻の同じ位置にほくろがあった。小夜は右目、拓は左目。ふたりは対称的な位置にあるほくろを、運命的なものだと信じていた。
小夜が山札をめくると、満月にススキの札があらわれた。
「……拓に会えるかな」
札をめくる真太郎の手が止まる。
「不安……ですか」
「うん……。約束どおり会える保証なんて、どこにもないから」
(もし拓が声変わりしていたら、すでにこの世にはいないかもしれない。そうしたら【小夜】はもう――)
最悪な未来を想像したときだった。
――声変わりしたら、この笛を吹く。
暗闇を貫く光のような言葉がよみがえり、小夜は顔を上げた。
真太郎の瞳が驚きに揺れる。
「拓は生きてる。大丈夫」
「どうしました、急に」
「『声変わりしたら笛を吹く』って言ってたの」
「笛……?」
「拓ならきっと、上手に吹くことができるはず。声変わり前と同じくらい、高くて綺麗な音を出すことができる」
(拓ならきっと大丈夫。力強く生きているはず)
たたみかけるように話す小夜に気圧される真太郎。瞬きを繰り返しながら小夜の札に視線を落とす。
「あれ……小夜さん、三光ができてますよ」
「え、うそ」
小夜が取り札を見ると、桐に鳳凰、松に鶴、満月にススキで三光という役ができていた。
拓の無事を確信し、興奮して花札どころではなくなっていたのだ。
「やった! あがり!」
「まいりました」
真太郎が眉をハの字にして頭を下げる。
小夜が「二回戦♪」と張り切って札を切っていると、真太郎と目が合った。
なにかを懐かしむように目を細めて、けれどすこし寂しそうな眼差し。小夜の心が揺れる。
「……どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫です、すみません。ただ……花かるたを教えたのは僕なのに、ずいぶんと強くなったと思って。きっと、拓が教えたんでしょうね。彼は物覚えがすごく良かったから」
「わたしも同じ。拓のことを思い出してた。また三人でできたらいいよね!」
「……ええ」
笑う小夜とは対照的に、真太郎は目を伏せ、無言で手札を揃えている。
二回戦が始まった。小夜が自分の手札をみると、真っ先に目に飛び込んできたのはなぜか、満月のないススキの絵柄だった。

