漆黒を 円く くり抜く 黄金色
雲ひとつない夜空に浮かぶ満月。
眩しいほど光り輝くのではなくて、黄金色にくり抜かれたものが静かにそこに「居る」というような。
(綺麗。だけど、なんだか――)
不気味。
そう思ったとき。轟音とともに、菜々美を乗せた新幹線がトンネルに入った。視界から月が消え、車窓に反射した自分と目が合う。沈んだ顔から、そっと目を逸らした。
トンネルは絶え間なく続いた。菜々美は外の景色を眺めることをあきらめて、座席にもたれかかった。ため息が、新幹線のエンジン音に溶けていく。
――ごめん、もう無理。続けられない。
忘れようとすればするほど、鮮やかに再生される言葉。うつむいた祐樹の横顔。
祐樹とは、高校二年のときにつき合った。
明るく穏やかで、優等生だったふたり。周りが憧れる理想的な恋人同士だった。
卒業後は、菜々美は京都、祐樹は地元横浜の大学に進学。
遠距離恋愛になったものの、毎日の連絡は欠かさない。遠く離れた場所で別々の生活をしていても、変わらずに想い合える。
菜々美は彼こそが運命の人だと信じていた。
(それなのに……)
新幹線の混み合うゴールデンウィークを終えた週末、菜々美は地元に戻り、祐樹と会った。
そこで突然、別れを告げられたのだ。
他に好きな人ができたの?
遠距離恋愛に耐えられなくなったの?
聞きたいことは山ほどあった。
けれど理由を聞いたところで何も変わらない。
祐樹もきっと悩んだはずで、痛みを伴いながら出した答えにちがいない。
複雑な想いをぶつけられないまま、代わりに「今までありがとう」と笑顔で別れた。
いつでも笑顔を絶やさない、自分らしい終わり方をしたかったから。
祐樹は開きかけた口をつぐみ、目を伏せた。
さよなら、さえも言ってくれなかった。
(こんな形で終わるなんて……)
菜々美のなかで、思い出のひとつひとつが傷に変わっていく。
鼻の奥がつんとして、目のあたりが熱くなる。
(だめ。わたしは泣かない)
溢れそうな涙を押しとどめる。悲しみに囚われていても、現状は変えられない。
(祐樹のことは、もう忘れる!)
涙を拭い、外の景色に視線を移した。
長いトンネルは抜けたようだった。田んぼが切り絵のように並んでいて、車内の明かりを映してきらめく水面が、暗闇に揺らいでいる。
曖昧に揺らめく光を眺めていると、意識がふわふわとしてきた。自分を受け入れてくれる人と出会い、幸せになる未来を夢見てしまう。
(わたしの運命の人って、どこにいるんだろう……)
そのとき。
――拓!
心臓がドクンと激しく鳴り、視界がぐらりと揺れる。
聞き間違えじゃない。誰かの声が聞こえてきた。
(え、なに……?)
辺りを見回しても、車内に変わったところはない。
通路を挟んだ席に座るスーツ姿の男性は、相変わらずのしかめっ面でパソコンと向かい合っている。電光掲示板はどこかの会社の広告を表示し、背後では缶を開ける軽快な音がした。
おかしいところは、ひとつもない。
気のせいかと思い直して座席にもたれたとき、また視界が揺れた。
――はやく。はやく会いたい。拓、拓!
悲痛な叫びが響き渡る。
自分だけが聞こえている。
背筋がぞくりとする。
心臓が激しく脈打つ。
(なに……なにこれ)
助けを求めるように窓の外を見ると、田んぼの近くに佇むものに目が留まった。
夜の闇に溶け込まない白いもの。
目を凝らしたとき。
――誰か助けて。拓を取り戻して!!
頭が割れるほどの叫びが全身を揺らす。
突然、視界が黒く染まった。
次の瞬間。
菜々美は外にいて、
過ぎゆく新幹線を眺めていた。
♦︎♦︎♦︎
葉擦れの音が、打ち寄せる波のように響き渡る。
右手には提灯が握られていて、辺りをぼんやりと照らしていた。
さっき眺めていた新幹線も、高架橋さえ見当たらない。
(わたし、どうしてここにいるの? ここは……)
突然変わった景色に戸惑うはずなのに、菜々美は落ち着いていた。
暗闇、静けさ、濡れた草木の匂いが、無性に懐かしくて――
「……会いたかった……!」
背後で澄んだ声がした。振り向くと、懐中電灯のようなもので顔を照らされ、眩しさに目を細める。
灯りが下ろされると、途端に辺りが暗くなる。暗闇に白い服だけが浮かび上がり、ゆっくりと近づいてくる。
菜々美は後ずさりしながら、提灯を持ち上げ近づいてくるものを照らした。
(子ども……?)
十五、六歳くらいの子どもだった。
白地に赤い花の刺繍の着物姿。肩にとどくくらいの髪が、さらさらと揺れている。
(この子……?)
いつの間にか、後ずさるのをやめていた。子どもだとわかり警戒心が解けただけではない。
なぜだか、目の前の子どもを待っていたような不思議な感覚がしたからだ。
(……わたしたち、どこかで……?)
提灯を持ち上げ、顔を照らす。
浮かび上がる、つるりとした肌と潤んだ瞳。とても美しい少女に見えたが、今にも泣き出しそうだった。
震える口元を見ると、唇の端が薔薇の花を散らしたような真紅で染まっている。
怪我かもしれないと心配したとき、ふっと空気がほどけた。
「『満月の日に会おう』って約束してから、ずっとこの日を夢見てた。ねぇ、見て。もらった笛、これだけはいつも持ってるんだよ」
少女の右手には横笛が握られている。差し出された笛に手を伸ばしたとき、視界に入った自分の腕に驚いて思わず手を引いた。
(なにこれ……着物!?)
手元の提灯で自分の姿を照らす。
仕立ての良さそうな着物姿の自分に、心臓が激しく鳴った。
(なんで!? そもそも、どうして提灯なんて持ってるの!?)
戸惑い慌てている菜々美を見て、子どもは目を伏せた。
「……いいよ、こわがらないで。俺のこんな姿を見て、平静ではいられないよね。ただ、変なことはさせられてないから。昼間は女中の下働き、夜は歌うだけ」
(俺……? 男の子なの?)
暗がりでもわかる綺麗な顔立ちに派手な着物。どうみても少女にしか思えない。
なぜ彼は、こんな姿になっているのか。
なぜ自分は、着物姿でここにいるのか。
彼が後ろを振り返る。
束の間、黙ったあと「やつらがくる。戻らないと」消え入りそうな声で呟く。
そして何度か咳払いをし、真っ直ぐに菜々美を見つめた。
「俺はもうすぐ声変わりする。歌えなくなったら、前に話していたとおり笛を吹く。夜に響く笛の音を耳にしたら、それは俺だよ。俺は生きる。会えてよかった。また次の、満月の日に」
そう告げると、菜々美の返事を待たずに走り出してしまった。
満月の浮かぶ方へと遠ざかる背中を見つめていると、菜々美の目に涙が溢れてきた。
行ってほしくないと、菜々美のなかの誰かが叫んでいる。
(追いかけなきゃ……!)
走りだそうとしたときだった。
「だめです。戻りましょう」
うしろから強く腕を掴む者がいた。
見上げたさきにいたのは、別れたはずの彼氏、祐樹と瓜二つの青年だった。
「……なんで」
黒い髪、きりっとした眉、切れ長の目。
菜々美は言葉を失い、祐樹本人としか思えない顔を見つめた。
祐樹とは、ほんの数時間前に別れ話をした。もう二度と会わないはずだった。
それなのに今、袴姿で顔をしかめ、菜々美の腕を掴んでいる。
「『小夜さんが部屋にいない。ここに来てますか』と、遣いの方が僕の家に来ました。拓のいる隣町まで行ったのではと、探し回っていたんです。まさか本当に彼と会っていたとは」
声や話し方、すべて祐樹そのものだった。本人が目の前に現れたとしか思えない。
菜々美は目を見開き、荒い呼吸を繰り返す。
「こんな夜更けにひとりで……襲われたらどうするんです? 御父上が心配しています。早く戻りますよ」
掴まれた腕を強張らせる。
「でも……」
少年の跡を追わなければ。
強い衝動が、菜々美の体を引き止めている。
なぜそう思うのかわからない。まるで自分が、別の誰かに支配されているかのような。
祐樹にしか見えない青年が、ますます顔をしかめる。
「いい加減にしなさい!」
「!」
菜々美の体がびくんと跳ねる。
祐樹には、怒鳴られるどころか言い争いになったことさえない。青年の剣幕に、完全に思考停止してしまった。
それを納得したものと受け取った青年は、菜々美の腕を掴んだまま無言で歩き出した。
菜々美は掴まれた腕を振りほどくことができないまま、彼に従って森に入る。
きっとこの青年が全く知らない顔であれば、ここまで素直について行けなかった。祐樹にしか見えないため、菜々美にもどこか気を許すところがあったのだ。
冷たい風が頬をかすめていく。草履越しに湿った土の感触がする。
夢ではなく、たしかにここにいることが実感できている現実に、菜々美の頭はパンク寸前だった。
(ここはどこ……? わたしは、どうして……)
ふいに腕がほどかれた。
青年が足を止め、振り返る。
「今日のことは、月の観察、ということにしておきましょう。先日勉強した月の満ち欠けを思い出し、あまりにも月が綺麗だったので外に出てしまった。よく見える場所を求めるうちに、あそこまで行ってしまった。御父上には、僕がそのように説明します。いいですね?」
「あ、はい……」
どうやら彼は、この騒ぎをうまく収めようとしてくれているらしい。
菜々美が頭を下げると、ふっと微笑んでから歩き出す。
(僕が教えた……? ていうことは、彼は先生? しかも『御父上』って時代劇じゃないんだから……)
時代劇。
心の内で繰り返し、改めて前を歩く青年の袴を眺める。あながち間違っていない気がして、背筋に冷たいものが流れた。
思い切って、青年の背中に声をかける。
「あの、先生、うかがいたいことがあるのですが……」
「先生?」
青年が再び足を止め、菜々美に向き直る。
そして優しく微笑み、口調を一層やわらかくして言った。
「もう怒ってないですから。先生ではなく、いつものとおり『真太郎』と呼んでください。僕は小夜さんに勉強を教えているだけで、先生ではないと言ったでしょう? 敬語使いも結構」
(真太郎っていうんだ……! それで、わたしの家庭教師……)
菜々美は今の状況をもっと知りたくなった。今の時代やさっき会った少年との関係など、聞きたいことはたくさんある。
「祐……えっと、真太郎。今って何時代なの? まさか大正とか……」
「大正? なんですかそれ。小夜さん、今の時代の名前も忘れてしまったんですか?」
怪訝な顔をされたので、菜々美は笑ってごまかし、話を切り上げようとした。
「あはは、うっかりしちゃった! まさか明治――」
「そうですよ。まったく、そんなことじゃ――」
「ええええ!」
大声を上げて後ずさると、真太郎の肩がびくっと跳ねた。
(明治って……冗談でしょ)
適当に話を合わせたつもりが、まさか言い当ててしまうなんて。想定外の現実を突きつけられ、言葉が続かない。
驚きと絶望で押し黙った菜々美を見て、真太郎が首を傾げる。
「なんだか様子がおかしいですよ。疲れてますか? 早く家に帰りましょう」
「うん……」
疼くこめかみを押さえる。
森を抜け、家々の灯りが見えてきた。現代とはかけ離れている民家の造りに、菜々美は絶句した。
結局、拓という少年との関係は聞けないまま、家に着いてしまった。
大げさな門構えと大きな屋敷を、口を開けたまま見上げる。
(ここがわたしの家……?)
こわごわと門をくぐる菜々美を、真太郎は父親に怒られることに怯えていると勘違いしたのか、「さっきの段取りで。僕がいるから大丈夫ですよ」と耳打ちする。
菜々美が頷いたあと、静かに玄関の引き戸を開けた。
「こんばんは、真太郎です。夜分遅くに失礼します。小夜さんを連れて参りました」
大勢の人の足音が近づいてくる。
「小夜! おまえは!」
(お父さん……!)
現れたのは紛れもなく菜々美の父親……が、明治時代にいたらこんな感じ、という姿だった。縞柄の和服姿で腕を組み、こちらを睨みつけている。続いて割烹着姿の女性たちが、口々に無事を喜ぶ。
「宴会の席におまえを呼ぼうと思ったら部屋にいないと言われて……どこに行ってたんだ!?」
「僕から説明させてください。実は……」
真太郎が頭を下げて、打ち合わせたとおりのことを説明している。
ふと横を見ると、鏡越しに自分と目が合った。
(なにこれ……中学生のわたし!?)
鏡に映っているのは、幼さの残る十五歳の自分。
髪は長く、綺麗な橙色の着物姿で、いかにも良家のお嬢様風だが自分に間違いない。
菜々美はショックのあまり、父親からの小言が一切頭に入ってこなかった。
♦︎
自分の部屋だと言われた和室は広く、小さな机と行燈、敷かれた布団以外に物は何もなかった。寝間着だと渡された白い着物に着替えた菜々美は、所在なげに布団の上に座る。
膝の上に置かれた手を広げる。両手で頬をぱちんと叩く。手の甲をつねってみる。
何度やっても変わらない。痛いという感覚だけがリアルで、それはこの世界こそが現実だという証。
ため息が、がらんとした部屋に吸い込まれていく。
遠くで「おやすみなさい」と声がして、戸が閉まる音がした。
菜々美は立ち上がり、硝子窓を開けた。
真太郎が気づき、菜々美に向かって手を振り頭を下げる。
菜々美は頬を紅潮させながら、勇気を出して声をかけた。
「お……おやすみなさい」
「おやすみなさい。また明日」
遠ざかる背中を見つめながら、また明日という言葉に、明日も会えるんだという期待と、明日も会うのかという落胆が絡み合う。
祐樹のことは忘れて、新しく始まる大学生活を楽しもうとした矢先、明治時代へと戻ったうえ、祐樹そっくりの真太郎と関わることになる。
(まるで引き止められてるみたい……)
夜の風が、菜々美の頬を撫でていく。漆黒の空を黄金色にくり抜いた満月が、静かにこちらを見下ろしていた。
高台に建つこの家からは、遠く離れた景色がよく見える。山間にほのかに光る集落を見つけた。
(あの子……あそこに帰っていったのかな……)
――拓を取り戻して!
叫び声が蘇る。
あれはきっと【乗り移る前の小夜】のものだ。
(拓はどこかに捕まってるの? せっかく出られたのなら、そのまま逃げればいいのに。取り戻してってどういうこと?)
菜々美には、どれだけ考えても今の状況がわからない。
窓を閉める。
菜々美、いまでは小夜が、窓に反射した自分の顔を見つめる。右目尻のほくろに目が留まる。ほくろの位置さえも同じ。
これは夢なのか。
それとも、前世というものなのか。
(前世の姿って、顔は同じなの? 自分の祖先ってわけでもなさそうだし……)
今日で何度目かのため息をつく。
答えの出ないことを、いつまでも考えていても仕方ない。
(寝たらなんか変わるかな……)
布団に向かおうとしたとき、ふと、小机の上にある箱に目が留まった。
近寄って箱を開けると、一冊の本が入っていた。
「これ……日記帳?」
表紙をめくる。ところが。
「なにこれ。読めない……」
現代とは仮名遣いがちがうらしく、全く読むことができない。外見は小夜を引き継いでいるのに、小夜の身につけていた知識などは、今の自分には抜けてしまっているらしかった。
その悲惨さに胸が潰れそうになりながらも、小夜は必死に目を凝らし、かろうじて「拓」という文字を見つけた。
(拓……あの男の子のことだよね……)
それはどの頁にも書かれていて、小夜のそばにいつも拓がいたことがわかる。
最後の頁に書かれた文字をなぞっていたら、心臓がドクンと鳴り、視界が揺れた。
続けて、頭のなかで声がする。
――拓 わたしの いとしい人
――わたしの かたわれ。わたしの いのち
――このままでは 売られてしまう
――おねがいだから 拓をかえして
――真太郎の家なら 拓をもらってくれるかもしれないのに
――わたしのおねがいをきいてくれない
――どうして?
「小夜……?」
辺りを見回しても誰もいない。
でも、たしかに聞こえてきた。
これは【小夜】の記憶なのか、それともこの体のなかに彼女が閉じ込められているのか。
わからない。けれどいま聞こえてきたことが、書かれていることなら。
小夜は日記帳を置き、腕組みをしながら考える。
この時代には、まだ子どもの売買があった。
何らかの理由で拓は売られることになり、真太郎の家ならば彼を買い取ってもらえると思って、そう頼んだ。
けれども断られ、拓は売られてしまった。
真太郎のことを思い浮かべた。
祐樹によく似た真太郎。彼もまた、前世での祐樹なのだろうか。
「『明日も勉強をみます』って言ってたよね! よし! わたしからもお願いしてみよう!」
彼女の願いなんて、叶えてもどうしようもないかもしれない。
ただ、その声に呼ばれるようにして、ここに連れてこられたのは確か。では拓を取り戻せば、元の世界、つまり現世に戻れるかもしれない。
元に戻りたい小夜にとっては、何にでもすがりたい気分だった。根拠はないとわかっていても、できることは何でもしたい。
どんな状況でも希望の光を見つけようとする。
絶望に負けたくない。
いつでも強くあろうとする心は、外見が子どもに戻っても変わっていないのだった。
日記帳を閉じる。もう眠ろうと思い、灯りを消して布団に横たわる。布団はうすく、慣れない畳の感触とにおいに顔をしかめた。
(お父さん、悲しんでるかな……)
小学一年生のころに母親を病気で亡くして以降、父親と二人三脚でやってきた。ひとり娘をそばに置いておきたいはずなのに、京都の大学への進学を喜んでくれた父親の姿が浮かぶ。
滲む涙を拭い、小夜は大きく息を吐いた。
(泣くもんか。このくらい越えられる。わたしは強い、わたしは強い。)
心が砕けそうなとき、自分を強くしてくれた言葉。
いつもこうして、自分自身を保っているのだった。
やがて、ゆるやかに眠気がやってきた。
夢の世界に足を踏み入れるとき、月のほうへと走る、拓の後ろ姿が見えた気がした。
◻︎◻︎◻︎
同じころ。
拓は窓に腰掛け、小夜の家のある方角を眺めていた。
抜け出した罰として、見張りの男に鞭打たれた背中の傷が痛み、顔をゆがめる。ほつれて色褪せた着物の上からそっと撫でた。
色素の薄い茶色い髪の隙間から、左目尻のほくろがのぞく。
風になびく髪をおさえ、「小夜……」と呟いた。
♦
夢のなか。
小夜は、揺れながら色を変える、ぬるい水の中をたゆたっていた。
――……。
音が聞こえてきた。
よく響くのに、くぐもっていて掴めない。
もどかしい気持ちで耳を澄ます。
――……けて。
声らしきものが聞こえてきた。
――たすけて。拓のこと、助けて。
(拓? 誰のこと?)
――拓。わたしの愛おしい人。運命の人。
(運命の……人?)
――拓を返して。わたしのところに。そうしたら、きっと……。
(何を言ってるの? 意味がわからない。あなた、誰……?)
手を伸ばす。けれど、ぶくぶく……と泡だけが上へのぼっていき、自分は深く沈んでいくような心地がした。
やわらかな光と鳥の声に呼ばれるように目を覚ます。見慣れない天井に驚き、飛び起きた。きょろきょろと辺りを見回す。
(そうだった。わたし、明治時代に飛んで行っちゃったんだった……)
手のひらを見つめて、小夜は深いため息をついた。
ふいに、夢の内容を思い出す。
(あれは【小夜】からのメッセージだったんだろうか。拓を取り戻せば、わたしは元の世界に戻れるの?)
憶測だと思っていたことが現実味を増してきたとき、襖の前に誰かが座る気配があった。
「おはようございます。小夜さん、起きてますか」
「はぁい、起きてます」
答えると襖が開けられた。割烹着姿の女性が座っている。この時代には、彼女たちのことを女中と呼ぶらしい。
「今日は早いのですね。お布団をたたみに参りました」
「たたみにって……これくらい自分でやります」
「え?」
女中があたふたとしているのを横目に、小夜は掛け布団と敷布団をたたむ。
「これ、どこに仕舞うの?」
「ええっと、ここですが……」
ひょいと持ち上げ、指定された押し入れに仕舞う。
「あの……これは、わたしたちの仕事なので……」
「いやいや……。小夜ってどんだけお嬢様なのよ」
「え?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないです」
(危ない。わたしは【小夜】なんだった)
なんでも自分でやることが当然の環境だったので、当たり前のように済ませてしまった。冷や汗を拭う。
切り替えて着替えようとするが、着る物がどこにあるのかわからない。
すると、女中が着物を差し出した。
「今日のお着物はこちらです。朝ごはんのあとは、いつもどおり真太郎さんとのお勉強になりますので」
「そういえば、なんで真太郎と勉強するの? 学校とかは行ってないの?」
「え? それは小夜さんのご希望ですよね? 女学校には通わずに真太郎さんから教わりたいと……」
「そうでしたっ! あははは。今日はなんだか忘れっぽいなぁ」
(危ない、危ない。わたしは【小夜】なんだった)
笑ってごまかしながら、またも冷や汗を拭う。
女中に着物を着せてもらい、大きな屋敷のなかを食堂へと向かった。すれ違う女中たちと挨拶を交わす。
屋敷の大きさと女中の多さに面食らいながら歩いていると、いいにおいが流れてきた。しばらくして、ひときわ大きな部屋につきあたる。
長いテーブルの端に、父親が座っていた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
(お父さんに思えて、お父さんじゃない……)
妙に威厳のある父親を前に、自然と敬語になってしまう。
(そういえば、お母さんはいないのかな? 昨日は見かけなかったけど……)
父親との二人暮らしが長いため、母親の姿がないことに疑問を覚えなくなっていた。
【小夜】の父親が菜々美の父親にそっくりなら、母親だってそうであるはず。
(お母さんに会える……?)
期待に胸を膨らませながら、女中が引いた席についた。
「眠れたか?」
「えっと、はい。それなりには……」
「それはよかった。昨晩のことは、もう怒っていないから」
「はい……」
ぎこちない会話でも満足したのか父親が頷くと、それを合図のようにして朝ごはんが運ばれてきた。
時代もあってかひとつひとつは質素なものだったが、高そうな器に綺麗に盛り付けられている。
ごくり、と唾を飲み込む。
母親が現れないことが気になったものの、小夜は無言のまま夢中で食べた。どうやらとてもお腹が空いていたらしい。
「……」
父親に何か言いたげな顔で見つめられ、小夜は箸を置く。
「あの……なにか……」
「……いや、朝食の席で言うことではないが……真太郎くんのこと、どうだ」
「真太郎のこと?」
遠回しな言い方に、怪訝な顔で聞き返す。
父親がひとつ、覚悟を決めたように咳払いした。
「ああ。小夜の婚約者として、正式に考えておくれ」
「ええええ!!」
小夜の大声を聞きつけ、女中たちが集まってきてしまった。父親が慌てて制す。
「こらこら、落ち着きなさい」
「はい……すみません……」
あやまりつつ、小夜の心は落ち着いてなどいられるものか、という気持ちが渦巻いている。
(まだ子どもなのに結婚話だなんて……。それに、小夜は拓が好きなんだよね? 真太郎と結婚できるはずないじゃない……!)
「拓くんとのことは、残念だがもう忘れなさい」
小夜の気持ちを見透かしたうえで、拓との未来はないと断言されたことに疑問と怒りが湧いた。前のめりになって訊く。
「うちでは引き取れないんですか」
「その件については説明しただろう」
ぴしゃりと遮られ、言葉に詰まった。「でも」と食い下がろうとしたところで、またも遮られる。
「わたしは説明をした。この件については終わりだ。とりあえず真太郎くんなら、拓くんと小夜の仲もよく知ってる。おまえの心の傷もわかってくれるだろう。真太郎くんの家は代々医者の家系だし、家柄もいい。小夜の婚約者として申し分ない」
小夜の眉間には皺が寄り、納得できないというふうに唇を結んだ。
ただ【小夜】と菜々美の父親の性格が同じなら、これ以上拓のことを言っても無駄だ。一度終わりにした議論を、再び持ち上げることは不可能にちかい。
「なんだ、不満なのか?」
「……」
小夜が黙っていると、父親が大げさにため息をついた。
「まったく……美代の遺言で『結婚については、絶対に小夜の意向を尊重すること。藤ヶ谷家が途絶えても構わない』と言われているから選択肢は多いのに……今まであった縁談話はすべて気に入らない。そのうえ、幼なじみの真太郎くんでもだめなのか? わたしは藤ヶ谷に婿入りした立場だから、家の存続の意向は美代に従う。ただ、いろいろと複雑な思いはあるんだよ。だからせめて早く結婚を――」
美代の遺言。
その意味に凍りつく。話の内容から、美代とは【小夜】の母親のことだろう。この世界なら再び会えると期待した母親は、すでに亡くなっていた。
小夜はこみ上げる悲しさを堪えながら、冷静さを保って言った。
「真太郎のこと、今はそういう存在として考えられないです」
今の小夜に、真太郎との結婚を承諾できるはずもない。
「そうか……。わかった。しかし、ゆっくりでいいから考えてみてほしい」
「はぁ……」
小夜は重い気持ちでいっぱいになってしまい、それ以上朝ごはんを食べることができなくなってしまった。
♦︎
(どうしよう、どうしよう……)
自分の部屋で、ああでもない、こうでもないと考えてうろついていると、部屋の外から名前を呼ばれた。
「真太郎さんがみえました」
「あ!……はい」
髪を整えて、着物の裾をなおす。
そろそろと襖が開かれ、真太郎が顔を覗かせた。
「小夜さん、おはようございます」
明るいなかで見る真太郎は、祐樹そのものだった。
真太郎がにっこりと微笑む。祐樹が最後に見せた顔は苦しげに歪んでいたため、懐かしい微笑みに胸の奥がきゅっと痛んだ。
「おはようございます……」
震える声に気づかないでと祈りつつ、挨拶を返す。
小夜は部屋の真ん中に突っ立ったまま、真太郎の顔を上目遣いに見つめた。
「……どうかされましたか?」
真太郎が顔を近づけたとき、父親の声がよぎった。
――真太郎くんを、婚約者として
小夜の顔と体が熱くなっていく。
(わたしったら、意識しすぎだから……!)
「気分が悪いですか? 女中を呼んできましょうか」
「いや、なんでも! なんでもないです!」
小夜はますます顔を赤くして、ぶんぶんと首を横に振り、あははと笑ってごまかした。
首を傾げて微笑む真太郎。
祐樹もよくしていた仕草に胸がときめいたあと、すうっと冷えていった。
算術だといって真太郎が教えたのは、いわゆる算数だった。やはり文字が読めず、真太郎に読んでもらいながら問題を解く。計算をするために必要だとそろばんを渡されたものの、小夜が筆算や暗算で解くと、真太郎は目を丸くして驚いた。
【小夜】の身につけた知識が抜けてしまっている代わりに、菜々美の知識はそのままで失われてはいなかった。
「そんなことができるなんて……まるで別人だ……」
「まさか~! なんだか今日は調子がいいみたい♪」
疑わしい目を向けられ、ぎくりとしたのをごまかすように大げさに笑ってみせる。
「文字が読めなくなったという不思議はあるけれど、算術の勉強において、僕はもう必要ないかもしれません」
真太郎は微笑みながらも、どこか寂しげに呟く。
(本当は【小夜】が解いてるんじゃないんだけど……)
罪悪感に胸がざわついた小夜は、何か言わなきゃと口を開いた。
「真太郎は、小夜のことどう思ってる?」
「え?」
真太郎の瞳が戸惑って揺れるのを見て、小夜は自分が言ってしまったことの意味に気がついた。
「いえ、あの、ごめんなさい! 今朝、お父さんが『真太郎のことを婚約者として考えてくれ』なんて言うから、真太郎のほうは小夜のことをどう思ってるのかな?って」
「……」
しどろもどろになりながら説明するも、真太郎は黙っている。
(話せば話すほど墓穴を掘ってる気がする……!)
真太郎が、あきらめたような視線を投げかける。
「僕は岸川家を継ぐ予定なので、小夜さんの家に養子に入ることはできません。御父上も、それはご存知のはずですが……」
「お母さんの遺言で、結婚については家の存続より、わたしの意向を尊重してほしいって」
「お母さん……? 遺言って、御母上の遺言ということですか?」
この時代はまだ、母親のことをお母さんと呼ばないのかもしれない。小夜が頷くと、真太郎が瞬きを繰り返す。
「……そうなんですか。それは、また……」
真太郎はとても驚いた様子で、「たしか御母上の結婚も大変だったと聞いたことが……その影響か?」などと、ぶつぶつ言っている。
結婚については、本人の意思よりも家同士の相性が重視される時代に【小夜】の母親のような考え方は珍しいのだろう。母親も結婚には苦労したのだろうか。
「しかし小夜さん、あなたはまだ拓のことを想っているのでは?」
それは疑問ではなく、確信に満ちた言い方だった。そうであるにちがいない、というような。
「それは……そう、です。好きなのは拓で――」
「じゃあ、僕との結婚など無理でしょう」
かぶせるように言われ、話は終わりだというように鞄の中から教科書を取り出す。
(待って。まだ話すことがあるの……!)
「お願いがあるの! 真太郎の家で、拓を引き取ってください!」
真太郎の動きが止まる。
「事情があって、うちでは引き取れないみたいなの。お父さん、一度決めたことは曲げないし……。子どもを引き取れなんて、簡単に言うべきことじゃないことわかってる。でも、真太郎しかお願いする人がいないの」
しばらく動きを止めて小夜を見つめていた真太郎だが、やがて教科書を開き、ぱらぱらとめくり始めた。小夜の願いを受け入れるつもりはないらしい。
小夜は一瞬ひるんだものの、いま自分は【小夜】ではなくて、菜々美なのだと奮い立たせる。
顔を上げた。子どもの【小夜】じゃできなかったことが、今の自分ならばできるかもしれないと信じて。
「拓のあの格好、見たでしょ? 男の子なのに、まるで芸者みたいな着物姿で怯えてた。『やつらが来る。戻らないと』って走って行った。あんなところに置いておけない。真太郎も、拓と仲が良かったんでしょ? 放っておけない、なんとかしたいって思うよね? お家の人にお願いしてみてくれない? お願いします」
そう言って、深く頭を下げた。
真太郎は手を止め、小夜をちらりと見た。感情のない冷たい視線で。
しばらくの間のあと、真太郎が静かに口を開く。
「……今日は随分と大人びた口調ですね」
これでも中身は十八歳ですから、と内心思う。
真太郎が短いため息をついた。
「彼を想うのは、もうやめたほうがいい」
温度のない冷めた声に顔を上げる。
「どういうこと……?」
真太郎は、問い詰めるような小夜の視線から逃げるように、手元の教科書へと視線を移す。
「一度連れて行かれたら、あそこから出るのは不可能なんだよ。いまさら僕が、僕の家がどうのこうのって話じゃない。それに――」
言いかけて、はっとした顔つきに変わる。うつむき、首を横に振ったあと、再び小夜のほうを見たときには微笑みに変わっていた。
「失礼。小夜さん、拓のことは僕も胸が痛い。弟のように思っていたからね。でも、この世の中には理不尽なこと、正常じゃないことはあり得るんだよ。小夜さんが拓のことを忘れられないのは、よくわかる。だから僕との結婚なんて考えなくていい。わかったかな?」
「……」
真太郎の言葉に言い返す隙がなく、でもわかりましたと言いたくなくて、小夜は黙っていた。それを納得したものと捉えた真太郎が、小夜の目の前に教科書を開く。
「次はこの問題だよ。少し難しいけれど、解けるかな?」
(やっぱりだめか……)
唇を引き結んでうつむく小夜の頬に、真太郎の指が触れた。
「……拓のことを忘れられなくて悲しいときは言ってください。いつでも話を聞きます。お願いだから、ひとりで泣かないで」
――菜々美。ひとりで泣かないで。俺がいるよ。
デジャブだ。
想いを寄せていた先輩にふられたとき、祐樹がかけてくれた言葉。この言葉がきっかけで、彼を意識するようになった。
真太郎が、あの日の祐樹に重なる。
その優しい微笑みと、温かい手に身を委ねたくなる。もう戻らないとあきらめた日に、帰れるかもしれない。
(なに考えてるんだろ、わたし……)
真太郎は祐樹ではない。
拓を取り戻せなければ、元の世界には戻れそうにない。
けれど戻ったところで祐樹はいない。
どこも塞がっていて、光の道が見えない。
深く沈んでいきそうになるのを堪えて筆を握り直し、問題に集中しようとした。
一方、真太郎は小夜の頬に触れた手を固く握っていた。そして複雑な眼差しを、拓のいる屋敷の方角へと向けていた。

