◇◇◇
家に戻ると、僕は布団を敷いている部屋を覗いた。犬塚はまだ寝ている。
さすがにそろそろ起こさなければ。今日はやることがいっぱいある、忙しくなると言っていたのは犬塚なんだから。
なにより、明日すべて話すという約束を早く守ってもらわなければならないし。
「犬塚ー」
廊下から声をかけると布団がわずかに動いたが、なかなか目を覚まさない。渋々部屋の中へ入って近づく。敷布団のそばに膝をつき、軽く身体を揺らしてみる。
「いーぬーつーかー」
そこまでやってようやく犬塚は獣が唸るような低い声を出し、しかめ面で瞼を開けた。
気怠そうに半身を起こすクラスメイトの顔を上から覗き込むと、あからさまに怪訝な表情に変わる。
「……なんで保科が家に……」
「お前が七日間ここで暮らせって言ったからだよ。ほら、寝惚けてないで起きて顔洗ってこいよ」
犬塚を無理やり起き上がらせ、洗面所へと引っ張っていく。
顔を洗って、覚醒した犬塚とともに朝食がわりの菓子を貪るように食べ、僕たちはさっそく家を出発した。行き先はどこなのかと尋ねれば、昨日「あてがある」と話していた例の「あて」のところに行くという。
「今日は朝早くに目が覚めてさ、散歩に行ってたんだ。いい天気だったし」
「散歩って、どこまで行ってたんだ? あんまりひとりで遠くまで行くなよ」
「この辺ぐるっと回っただけだって」
散歩の途中で大井さんに会ったことは言わないでおくことにした。昨日の犬塚と大井さんのやり取りを見れば、誰だってふたりが仲が悪いことがわかるだろう。よく思っていない相手の話題を出すのはなんとなく気が進まなかった。
話しながら歩くことおよそ五分、犬塚は一軒の家の前で立ち止まった。
「着いたぞ。ここだ」
「ひょえー……すっご……」
目の前にそびえる立派なお屋敷を見上げる。
これぞ日本家屋といった佇まいの立派な家に、立派な門に、立派な庭。豪邸だ。高級料亭みたいだ。ここが犬塚の「あて」らしい。
圧倒されてしまい、思わず口をぽかんと開けたまま見入っている間に、犬塚は門をくぐってさっさと中に入っていってしまった。
「っえ、ちょっ、インターホン……」
僕が門の前で慌てふためいている間にも、勝手にずかずかと入り込み、玄関アプローチの飛び石をひとりで進んでいく。
仕方なくついていくことにし、お邪魔します、と一応言いながら門をくぐる。
犬塚は一足先に玄関へと辿り着き、扉を躊躇なくがらりと開けた。
「ショーマ! いるか?」
よく通る大きな声で中に向かって呼びかける。「ショーマ」なる人物からの返事はなく、しんとしたままの豪邸に犬塚の声がこだまするばかりだった。そのこだまもなくなると、今度は時計の針がチクタクとなる音が響くようになった。
「い、田舎は玄関の鍵閉めないって本当だったんだ……」
「家によるとは思うけどな。ちなみにうちも鍵はかけてない」
「不用心過ぎるだろ……今度からちゃんと閉めよう。あ、でも鍵がないのか、そもそも」
広い玄関でふたり待っていたが、そのまましばらくしても誰も来ることはなかった。
「駄目だな」
「留守なんじゃないか?」
「庭に回ろう」
犬塚は玄関を後にすると、今度は庭のほうへと回り込んだ。日本的な庭園の玉砂利を踏みながらあとをついていく。
「ショーマ!」
再び犬塚が声を上げると、二階の窓が突然勢いよく開いた。かと思うと、髪を赤く染めた青年がひょこっと顔を覗かせた。
髪の根元は地毛の黒髪が覗いている。眉毛はなく、口許にはシルバーのボディピアスが光り輝いている。いかつい見た目ながらその表情は明るく人懐っこいもので、庭に立った犬塚を見つけると目を丸くした。
「──うおっ、ほんまに宗将さんじゃ」
そう言って顔を引っ込めるとぴしゃりと再び窓が閉められた。それから二十秒ほど経った頃、庭に面した窓の向こうにさきほどの人物が見え、縁側へと出てきた。
「ちーっす」
「元気そうだな」
「いやーこの前までインフル罹っとって大変だったんすよねー。病み上がりっす」
飛び跳ねるようにつっかけを履いて庭に下りてくると、嬉しそうな顔で犬塚のもとへと駆け寄っていく。
「玄関から呼んでも全然出てこないから留守かと思っただろ」
「さーせん、ヘッドホンで音楽聴いとったけん。昨日は急に電話かかってきてびっくりしたっすよー」
その発言から、どうやら昨日犬塚が電話をかけた相手が「ショーマ」だったらしいことを知る。どんな用で電話をしたのかはわからないけど、叔母にかけていたのではなかったのだ。
家の敷地に勝手に入ってきたときの慣れた様子といい、「ショーマ」なる人物の犬塚への気安い態度といい、ふたりはお互いのことをよく知る間柄のようだ。きっと子供のころからこんな風に家に遊びに行っていたんだろう。
一通り話が済んだところで犬塚は僕のほうへと向き直り、現れた赤髪の人物を紹介した。
「こいつは中学のときの後輩。歳は一個下だから、今は中三」
「へぇ、そうなんだ」
今年から高校に上がる歳ということか。世慣れた雰囲気をしているせいか、大学生と言っても通用してしまいそうな佇まいだ。何も言われずに対面していたら年上だと思ったかもしれない。
灰色のスウェット上下に身を包んだその犬塚の後輩は、初対面の相手にも臆することなく「どもっす」と笑顔で頭を下げた。
「西井正真っす。ショーマって呼んでください。宗将さんの後輩っちゅーか、舎弟っす。パシリっす」
「語弊があるだろ」
「冗談っすよー」
続けて僕も、名前と犬塚と同じクラスの同級生であることを伝える。
お互いの自己紹介が済んだところで、僕はショーマに顔を向けた。
「ショーマは犬塚のことずいぶん慕ってるんだな」
「中学んとき、宗将さんは皆の憧れだったんすよ。高校ではどんな感じなんすか?」
「高校でも変わらないかなぁ。犬塚は皆から一目置かれてるから」
「……それも語弊があるだろ」
しかめっ面をして明後日の方向に顔を向ける。その反応が犬塚が照れているときのものだということはすでにわかっている。
「にしてもほんまに久しぶりすね。去年の夏も戻ってこんかったし。春彼岸の間は村におるんすよね?」
「あぁ。ただ、色々あって泊まるための準備が全然ないんだ。適当なものでいいから、着替えを何着か貸してくれないか?」
そう、本題はこれだ。
寝床は無事に確保できたが、必要なものはほかにもたくさんある。一泊だけなら多少の飢えや寒さ暑さは我慢できるけど、それが七日間も続くとなるとなかなかつらい。
村で唯一の店と思しき大井商店のラインナップは望み薄。そこで犬塚は、昔馴染みの後輩であるショーマを頼ることにしたようだ。
つまり、あてというのはショーマのことだったのだ。先輩後輩のよしみで頼み事もしやすいのだろう。
「あとはなんでもいいから食べ物も少し分けてほしい。今は手持ちがそんなにないんだが、東京に戻ったら分けて貰った分の代金は支払う」
「そんなん気にせんでいいすよ、家族みたいなもんやし。レトルトがいっぱい余ってるんでそれ持ってってください。着替えは兄貴の服なら合うと思うんで持ってくるっす。ほかにいるもんあったらなんでも言ってください」
「あー、タオルを何枚かと……歯ブラシとか、トラベルセットかなんかがあればそれも」
「探してみるっす。ホテルでもらったアメニティがまだあったかなぁ」
「春彼岸の七日間だけ過ごせればいいから、そんなにたくさんはいらないぞ」
「了解っす」
「──保科はなにかあるか? 必要なものとか」
トントン拍子で話が進んでいくなか、僕は置いてけぼりでふたりのやり取りを聞いていた。
そんなときにふいに犬塚から話を差し向けられ、はっとしつつ「必要なものはないけど……」と切り出す。
「えーっと、その、春彼岸っていうのは……」
ふたりの話のなかに何度か出てきたその単語。たぶん、日本の暦に関わる言葉だろう。犬塚もショーマも当たり前のように口にしているその言葉は、僕にとってはあまりなじみのないものだった。聞いたことはあるけど、意味はなにかと聞かれると答えに詰まってしまう。
よくいえば先進的な、悪く言えば情緒のないドライな両親のもとで育った自覚がある。父も母も昔ながらの季節行事──節分や七夕、お月見など──には無頓着で、短冊に願い事をかいて笹の葉に吊るすだとか、鬼のお面を被った父に豆を投げるだとか、そういったことを家でやった記憶はまったくない。
知識として基本的なことは知っているものの、正直そういった方面にはかなり疎い。お盆になったらご先祖様のお墓参り、くらいのことはわかるが、春彼岸なるものが具体的にどういうものなのかはわからない。
家の中に戻りかけていたショーマは、僕の疑問に「あぁ、それやったら」と足を止めて振り返った。
「そのまんまっすよ、春のお彼岸っす。春分の日の前後三日間が春彼岸の期間っす」
年下の、それもいかにも不良然としたショーマがすらすらと答えてみせたことに驚く。伝統的な行事や古くからの慣習を大事にしている土地柄なのだろうか。おばあちゃんやおじいちゃんと呼ばれる世代ならまだしも、十代の若者が普通こんな風に答えられるものだろうか?
驚くと同時に、自分の無知加減が少し恥ずかしくなる。
「フツーはまぁ墓参りしに行ったりとか、仏壇綺麗にしたりとかする感じなんすけど──」
「……フツーは?」
フツーじゃないケースを知っているみたいな言い方だ。
わずかに引っ掛かるその物言いに尋ね返したが、ショーマはなんとも言えない複雑そうな表情を浮かべるだけだった。着替え取りに行ってくるっす、と明るい声で言って家の中へと戻るショーマの背中を、僕は何も言えずに見送ることしかできなかった。

