因習と春一番

 集落を一周したあと、僕たちはようやく帰路についた。
 途中で大井商店の前も通ったけど、引き戸のガラスの向こうは暗くて何も見えなかった。今日は定休日なのかもしれない。お客さんはおろか店主だというあのおじいさんの姿も見えず、そのまま前を通り過ぎることになった。

 結局、大井商店のおじいさん以外の村の人とは最後まですれ違うことはなかった。滞在していた時間は短かったし、たまたまタイミングが合わなかったんだろうけど、猿千村の話を聞けなかったのは残念だ。

「猿千村の出身ならもっと早く言えよなぁ」

 ふたりで来た道を戻りながら、隣を行く犬塚に向かって言う。
 時刻はそろそろ十六時を過ぎようとしている。犬塚が叔父さんに話してくれたおかげで、集合時間を夕方まで遅らせることができたのだ。
 集落を散策している間、犬塚は影のように僕についてきていた。滝にいたときのように何度も急かすことはなく、表情は暗く、口数はすっかり減ってしまっていた。ひとりでなにか考え込んでいるみたいに。あのおじいさんと会ったことが理由なのかもしれない。

「ここの出身だって知ってたら、最初から犬塚にもっと色々聞いたのに」
「……なかなか言うタイミングがなかったんだ。言おうとは思ってたんだけど」

 犬塚はそう言ったけど、きっと嘘だろうなと思った。思ったけど、そっか、とだけ答えて追及はしなかった。

 これまでにも言い出すタイミングならいくらでもあったのだ。それこそ教室で、猿千村の話をしていたときに言えばよかったのに。実は俺その村の出身なんだって。それでも言わなかったのは、犬塚が言いたくなかったからだろう。

 ──……どこにでもある田舎のさびれた山村だな。
 ──じいさんばあさんばっかりの村だろうから、皆家で寝てるんじゃないか?

 集落に着いたときに犬塚が言った言葉も、あのときはなにも思わなかったが今考えると不自然だ。まるで初めて村に来たような発言をしたのは、僕に出身地だと知られたくなかったからじゃないのか?

 本当は最後まで話すつもりはなかったのかもしれない。犬塚が「大井のじいさん」と呼ぶあの村人と遭遇したことで話さざるをえなくなったが、何事もなければ猿千村の出身だと言わないまま、この旅を終えるつもりだったのかも。そう思うくらいには、犬塚の横顔は暗く、苦々しかった。本当は過去を知られたくなかったのだ。

「あ──あのさ、よかったら猿千村のこと教えてくれないか? どんなことでもいいからさ」

 どうして村を出たのかとか、なんでずっと黙っていたのかとか、犬塚自身の話が本当は聞きたかったけど、きっと触れられたくないだろう。だから話題を変えて村のことを聞いてみることにした。自分自身の話はしにくくても、村の話ならしやすいだろう。

 犬塚はキャップを被り直し、まっすぐ前を向いたまま考え込むように黙っていたが、おもむろに口を開いた。

「……夏になったら、山の緑がもっとあざやかになる。夏空と山が重なった景色は写真に撮るといいかもしれない。あと、山の間にめちゃくちゃデカい入道雲ができる」

 マンガかアニメみたいなやつ、と遠くの山を見ながら言う。
 今、犬塚の頭の中には、子どものころに見た夏の空がきっと広がっているんだろう。それは虫捕りの帰り道で見たものかもしれないし、川遊びの途中でふと顔を上げたときに見たものかもしれないし、冷房のきいた家の窓からたまたま見えたものなのかもしれない。

 僕は本物を見たことがないから想像することしかできないけど、想像よりもずっとその景色は綺麗なんだろう。

「また来たい。夏にも絶対また来る、というか、来年の春にもまた来る!」

 来たい、じゃない。来る、だ。奮起して拳を握りしめながら声高らかに宣言すると、犬塚は僕のほうを向いておかしそうに笑った。

「ずいぶんここが気に入ったんだな」
「そりゃあ好きになるに決まってるだろ! こんなに綺麗なんだ」

 再び歩き出しながら、強調するように両手を広げてみせて言う。
 犬塚は両手をポケットに突っ込んだまま僕の一歩後ろを歩いていた。何も言わずに笑っているだけだったけど、やがてぽつぽつと話し始めた。

「──俺は本当は二度とここに帰ってくるつもりはなかったんだよ。けど、この村の景色が好きだって言われるのは悪い気はしないな」

 俯きがちな犬塚の目許は帽子のつばに隠れて見えなかった。でも、口許は微笑みの形になっていた。

 二度とここに帰ってくるつもりはなかったんだ、という犬塚の言葉の、「二度と」という部分がやけに強く重々しく聞こえた。

 そこでふと思い出す。集落に着いたとき、村の景色の素晴らしさを伝えると、犬塚はそっぽを向いた。あのとき犬塚はもしかしたら照れていたのかもしれない。自分の生まれた村を褒められて、嬉しいけど照れ臭いような気持ちになって、それを誤魔化そうとしていたのかもしれない。

 どう答えればいいのかわからないまま歩き続けていると、どこからか小さな振動音が聞こえてきた。犬塚がポケットからスマホを取り出した。着信を告げるバイブレーションだったようだ。
 犬塚の叔父さんがしびれを切らして電話をかけてきたのかもしれない。まだ約束の時間にはなっていないけど、ゆっくりし過ぎてしまったかと今更のように焦りが顔を出す。

「──はい、もしもし」

 スマホの画面を見た犬塚は訝しげな顔をしながらも電話に出た。

 通話の邪魔をしないように口を噤んで様子を窺う。犬塚が電話越しに怒られているようだったら、電話をかわって僕が引き留めたのだと説明しようと思っていた。

 しかし、いつまで経っても怒鳴り声が漏れ聞こえてくることはなく、犬塚はだた深刻そうな顔で通話相手の話に耳を傾けていた。どういうことですか、と言ったのを最後にどんどん表情を曇らせていく。

 そのまま十分近く話していたんじゃないだろうか。やっとスマホを下ろしたかと思うと、通話終了のボタンを押して眉間の皺を深くする。

「叔父さんからか?」
「……いや、叔父さんの奥さんからだった」

 そこで一旦言葉を区切り、ちらりと横目に僕のほうを見る。

「……ここに来る途中で、叔父さんの車が事故に遭ったって」
「事故!?」

 まったく予想外の報せに愕然として固まる。
 僕たちの頭上を雲が速い速度で流れていく。雲に遮られて日が翳ったかと思えば、またすぐに明るくなる。

「だ、大丈夫なのか。その、怪我とか……」
「追突事故で、軽いすり傷と打ち身くらいだけど、年も年だし今は病院にいるらしい。車も駄目になったし、叔母さんは免許も持ってないし、今日迎えにいくのは無理だって」

 それはそうだろう。事故の直後には問題なくてもあとから症状が出てくることもあるというし、病院での検査やら警察の事情聴取やらがあるはずだ。迎えにくるどころではないだろう。

 犬塚の叔父さんの安否ももちろん心配だけど、今は自分たちの心配もしなければならない。
 叔父さんの車を頼りにしていたので、それ以外の帰る術を考えていなかった。不測の事態には備えておくべきだと思うけど、だからといって迎えの車が事故に遭う可能性なんて、よっぽど用心深い性格でもない限りふつう考慮しないだろう。

 ──となると、どうやって帰ればいい? 歩いて帰る? もうじき日が暮れてあたりが暗くなってくるのに、来たときと同じようにまた山の中を歩いて帰るのは危ないんじゃないか? タクシーを呼んで駅まで行く? そんなお金は生憎と持ち合わせていないし、駅まで行っても東京に辿り着く前には電車がなくなっている……。

 なりふり構わず頑張れば帰れないこともないだろうが、どのやり方もリスクが大きく、躊躇する。

「──……くそっ、あのたぬきジジイ。嫌がらせのつもりか」

 犬塚が怖い顔でぽつりと漏らしたその悪態の意味するところはよくわからなかった。たぬきジジイとは誰のことだ? 嫌がらせってどういうことだ?

 怪訝に思いつつもそのことについて尋ねられる雰囲気ではなく、重い空気のなか沈黙が続く。

 僕という人間が見えていないみたいに。ひとりで思案に没頭し黙り込んでいた犬塚だったが、苦渋の決断に踏み切るようにやがて言った。

「──……ちょっと電話かけてきていいか?」
「え? お、おぉ、べつにいいけど……」
「悪い。すぐ終わるから」

 叔母さんにまた電話をかけるつもりだろうか。目的がよくわからないままに頷くと、犬塚は僕から少し離れてスマホを耳に当てた。
 すぐに電話が繋がったのか、犬塚はなにごとか喋りはじめた。話の内容まではわからない。まもなくして通話を終えると、スマホをしまって再び僕のほうへとやってくる。

「保科」
「おう」
「ここに泊まろう」
「は?」

 先ほどまであんなに早く帰ろう帰ろうと急かしていたのに、あっさりと犬塚が諦めたことに驚く。リスクを承知で歩いて山を下りようと言い出すものと思っていたのに。

「一泊するくらいなら、まぁ……でも、犬塚はいいのか? あんなに帰りたがってたのに」

 帰れないなら泊まっていけばいい、という考えはべつに間違ってはいない。だけど、それは本当にどうしようもなくなったときの最終手段じゃないのか?
 なんとかして帰る手段を絞り出すのではなく、ここに泊まるという決断を下したことにも驚かされたが、続けざまに犬塚はさらに驚くべきことを口にした。

「一泊だけじゃない。明日から七日間、俺たちは村から出られなくなる」
「………………は?」
「だから今日を入れると八泊九日になる」

 出られなくなる? それも七日間も? 八泊九日? なんで?
 頭の中に大きな疑問符が浮かび上がり、消えることなくふわふわと漂い続ける。

「な、なんで」
「そういう決まりだからだ、保科。くわしいことは明日ちゃんと話す」

 次から次へと話が進んでいき、僕は見事に置いてけぼりを食っていた。もう何がなんだかわからない。なんでそうなる?

 近付いてきた犬塚の両手が僕の肩へと触れる。左右の肩を力強くも温かい手が励ますみたいに包み込む。
 誠実そのものの顔をした犬塚に、まっすぐに目を見ながら言われると、なんだかうっかり信じて頷いてしまいそうになる。けど、いやいや待てよと正気を取り戻す。

「い、犬塚の叔父さんが事故に遭って来られなくなったのは聞いたけど、ほかに帰る方法はあるだろ? 今日はもう暗くなるから無理にしてもだ、朝になってから歩いて山を下りればなんとか……」
「明日の朝じゃもう遅いんだ」
「なんでだよ。遅くないだろ」
「全部明日話すから」

 またそれか。明日じゃなくて今、この場で話してほしいところだけど、犬塚は明日話すからと言って断固として譲ろうとしない。

「とにかく決まってることなんだ。七日間は村を出ちゃいけない」
「出ちゃいけないって……」

 聞いていいんだろうか。
 ──じゃあ、出たらどうなるんだよ、と。

 じゃあ、と聞こうとした瞬間、犬塚の両手に力が籠った。ぎゅっと痛いくらいの握力で肩を握り込まれて、意識がそちらに逸れた。痛みに顔が歪む。その一瞬の隙を突くように犬塚が話し始める。

「悪いがあとで親御さんに連絡してくれ。もし必要なら俺がかわりに事情を話してもいい。学校にも欠席の連絡入れてもらうように頼んでおいたほうがいいな」

 あまりにもてきぱきと的確な指示を出す犬塚に、外堀を埋められていくような心地がした。なんで犬塚はこんなに落ち着ていられるんだろう?

 今日は三月十六日の土曜日。明日から七日間ということは、十七日から二十三日まで。日曜日の明日と、春分の日の水曜日、そして最後の二十三日は土曜日なので学校は休みだが、それ以外の四日間は平日なのでいつも通り授業が行われる。
 そもそも今日中に帰るつもりで親にも話をしていたのに、七日間も滞在するとなればひと悶着どころではない騒ぎになるだろう。うちは割と放任タイプの親だけど、怒られるだろうし、迎えに行くと言い出すかもしれない。

「そういうわけだから──」
「待て待て待て。ちょっと待てって!」

 強引に犬塚の手を引き剥がして距離を取る。このなにもかも全部ひとりで決めて全部ひとりで進めようとしている頑固なクラスメイトに、一旦ストップして冷静になってくれと伝えるために。

「もうこの際だから今日ここに泊まるのはいい。そんでもって百歩譲って一週間泊まることになるのもいい。よくはないけど。母さんたちにもなんとかうまく話せばわかってもらえるかもしれない。──問題は、僕らは七日間もどこで過ごすのかってことだ」

 僕は周囲をぐるりと見渡した。美しくてのどかな田舎だ。そう、田舎なのだ。

「でかい街ならビジネスホテルくらいあるだろうけど、こんなに小さな村だぞ。さっき村を一回りしたときにはホテルも旅館も見当たらなかった。店はあのおじいさんがやってるっていう小さい商店くらいで、コンビニもネカフェもカラオケもファミレスもなんにもない」

 猿千村の出身なら、言われるまでもなくわかっていることだろうけど。
 昼間はまだいい。問題は夜だ。宿泊施設も二十四時間営業の店もないのに、いったいどこで夜を明かせばいいのか。春先といっても夜は冷え込むし、何日も野宿をするのはつらい。

 文句を言うと、犬塚はなんてことはないように「あぁ、それなら」と表情を和らげて言った。

「それなら大丈夫だ。俺が住んでた家が残ってるから、そこで寝泊まりすればいい」