因習と春一番

 足元を見ると、遥か下に滝つぼがある。顔を上げると、橋が見える。
 もう一度滝つぼを見て、そしてまた橋を見る。
 ──僕はこれから、この橋を渡らなければならない。

「……冗談だろ」

 思わずそう呟いていた。

 犬塚の言う度胸試しとは、橋渡りだった。
 僕らが猿千村を訪れた初日、滝を撮っていたときに見えたあの橋。十メートル弱のオンボロ橋。それを渡ることで、この村の子どもたちは仲間に自分の度胸と勇気を示してきたのだ。

 家で犬塚から度胸試しの話を聞いたあと、思い立ったが吉日とさっそくふたりでここまで来たわけだけど──。

 べつに高所恐怖症というわけじゃない。それでもこの高さにあるボロボロの橋をすすんで渡る気にはなれない。まぁ、だからこそ度胸試しの試練として使われているんだろうけど。壊れそうにもない立派な橋なら度胸試しにならないし。

 それにしても、けが人が出ていないのが不思議なくらいだ。ここが都会なら事故が起きないように立入禁止のテープが張り巡らされ、赤いコーンが周囲に並べられ、誰も近づけないように対策されているだろう。小さな子どもが遊び半分でこんな橋を渡るなんて言語道断だ。

「渡れる気がしない」
「俺も最初はそう思った。でも実際にやってみるとできたんだ、保科にもできるはずだ」

 度胸試しに立ち会うため、橋渡りの舞台へと同行した犬塚は僕の後ろに立っていた。勇壮な滝を前にして、励ますように頷きながら断言する。
 お前ならできると激励されても安心なんかできない。僕は犬塚のほうを振り返ってじとりと睨みつけた。

「犬塚がここを渡ったのは、もう何年も前のことだろ?」
「まぁな」
「今とは状況が違うんだよ。あれから雨風に晒され続けて、この橋はもう崩壊寸前なわけ。わかる?」
「そんなことはないと思うけどな……。去年も村の子が度胸試しで渡ったって聞いたぞ」
「体重の軽い十歳の子どもは渡れても、一八〇超えた男子高校生はきついって……」

 日々筋トレに励んでいる犬塚よりは軽いだろうが、一般的な男子高校生の平均体重くらいはある。
 今にも音を立てて崩れ落ちそうな頼りない木の橋を前にして、僕たちは押し問答を繰り返した。犬塚は絶対に渡れると言い、僕は絶対に橋が壊れると言う。そのやり取りを何往復かしたところで、やがて「わかった」と犬塚は一歩足を踏み出した。

「それなら、まずは俺が手本として向こう側まで渡ってみせるから──」
「ば、馬鹿言うな。仮に渡りきれたとして、お前みたいなデカいやつが渡ったらそれだけで橋にダメージ与えるだろ」
「じゃあどうしたら……」

 橋を渡ろうとする犬塚を羽交い絞めにして連れ戻す。
 後ろのほうにまでさがらせたあと、僕は一度息を吸い込んでから言った。

「──僕が渡る」

 無理だ危険だと駄々を捏ねたところで、渡りきる以外にもう道はないのだ。

 橋渡りの度胸試しは、この絶望的な状況を変えられるかもしれない、唯一の突破口なんだから。僕が【なにか】に殺されずに済み、なおかつ犬塚が村に戻らずに済むためためには、今のところできることはこれくらいなのだ。

 橋が壊れて滝つぼに落ちて死ぬか、【なにか】に殺されて死ぬかの違いでしかない。

 気を引き締めて歩き出そうとしたとき、後ろから「保科」と呼ぶ声がした。人がようやく腹をくくって挑もうとしているときに、どうして出鼻をくじくような真似をするのか。文句を言おうとして振り返ったが、しかし犬塚は恐ろしく真剣な顔でこちらを見ていたので、思わず口を噤む。

「保科は本当にいいのか?」
「いいのかって、もうこうするしか方法が──」
「そうじゃなくて、これで万に一つうまくいったとしても、村の人間としてカウントされたら、来年もまたこの村に来なきゃならないんだぞ」

 【なにか】に一度でも村人と認識されれば、二度と解除することはできない。
 村を出ても、犬塚は変わらず村人のひとりとして認識されていた。ということは、この計画が成功して僕が村人として認識されると──春彼岸の時期になればまた帰ってこなければならない。
 来年も、再来年も、再々来年も、死ぬまでずっと春彼岸にはここに来ないといけない。
 大井さんが言っていた「厄介事」とは、このことを指していたのだ。

「それは犬塚も一緒だろ?」

 厄介事を背負いこんでいるのは犬塚も同じ。春彼岸に来るときも僕らは一緒だ。

「来年以降のことよりまずは生きて帰れるか、だ。そもそもこのやり方が通用するのかどうかも全然わかんないんだからな」

 そう、一年後の問題に頭を悩ませるよりも、今日を無事に生き延びれるかどうかという差し迫った問題に向き合わなければ。来年のことを言うと鬼が笑うと言うけど、【なにか】にも笑われているかもしれない。

 僕がそう答えると、犬塚は口を開いた。

「──……東京に出ても、どこまで行っても結局村の人間のまま変わらないなら、それならもう村に戻ってこようと思った。正直やけくそだったのもあるけど、でもそれだけが理由じゃない」

 突然何の話かと思えば、五日目の夜、犬塚が突然村に戻ると言い出したことについての話のようだ。自暴自棄になって言ったことかと思っていたが、ほかにも理由があったとは。僕が黙って聞いていると犬塚は続けた。

「保科とこの春彼岸を村で過ごして、ここに住んでた間は気づかなったことにたくさん気づけた。ずっと当たり前すぎて気づかなかったけど、俺の生まれ育ったこの村はすごく綺麗な場所だって」

 改めて気づいたんだと噛み締めるように言う犬塚の目を、僕は橋を背にして見返した。

「──だから戻ってもいいかって心から思えたんだ。あの家に保科と一緒に住むなら、毎日楽しいんだろうなとも思った」

 そう打ち明ける犬塚に、僕は度胸試しのことも忘れて驚き、それから遅れてじわじわと照れ臭いような気持ちが込み上げてきた。

「…………なんか、プロポーズみたいだな」

 恥ずかしさを誤魔化すように僕が冗談めかして言うと、犬塚はきょとんとした顔で瞬いた。そうして自分の言動を振り返るように首を捻り、おかしそうに顔をくしゃりと歪めて笑いながら言う。

「ほんまやな。気づかんかった」

 二度目に聞いた犬塚の方言は、一度目のときとは違って楽しげなものだった。

 ──なんだか気が抜けてしまった。緊張が解けて、肩の力も抜けた気がする。
 僕は今度こそ前を向いて橋に近づいていき、足を踏み出した。
 橋を渡っていく。三途の川を超えて、此岸から彼岸へ渡るみたいに。