因習と春一番


 夕暮れ前の、柔らかくてどこか気怠いような空気が流れるなか、僕は集落をひとりで歩いていた。
 案内役兼話し相手の犬塚をともなわずにひとりで出歩くのは、春彼岸の一日目以来だ。ひとりでと言ってもあのときはすぐに大井さんに会ったんだっけ。

 その日以降は、常に犬塚が護衛みたいにそばにいた。
 だから僕は今日まで何事もなく過ごすことができていたのかもしれない。

 犬塚はひとりで帰れるのかと心配していたけど、猿千村の道にはもうずいぶんくわしくなった。入り組んだ渋谷の街よりもよっぽどくわしい自信がある。

 ぶらぶらと歩きながら後ろを振り返って見る。結構歩いてきたから、お寺と墓地はもう見えない。犬塚は今頃お墓の前で手を合わせているかもしれない。

 ──犬塚が家に帰ってきたら、今日は走らなくてもいいんじゃないかって言おうかな。たまにはゆっくり過ごそうって提案して、猿千村での犬塚の思い出をもっと聞かせてほしいって頼んでみようか。犬塚がおじいさんとどんな風に暮らしてたのか教えてもらおう。

 そんなことを考えながら、犬塚の家へと続く短い一本道へと入る。ここまでくればあともう一息だ。

 後ろばかり気にしていた僕は、そこで前方に向き直り、足を止めた。
 犬塚家の門の横に、誰か──いや、なにかがいる。

「──────え」

 そこにいたのは、化け物だった。

 全長はせいぜい二メートルくらい。時代劇や歌舞伎で見るような古めかしい服を着て立っている。こういう服をなんと呼ぶんだっけと考えるうちに、(かみしも)だ、と思い出す。ただし、白い袴の裾と袖は引きずるほど長くてどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも続いている。端が見えない。

 頭には編み笠のようなものを被っていて顔は見えない。どこかの地方のお祭りの映像で、これによく似た笠を被った人たちが踊っているのを見たことがある。薄く平らな円形に編んだものを半分に折り畳んだような形だ。
 よくよく見てみると、首の付け根に直接笠がくっついていることに気がつく。笠を頭に被っているのではなくて、頭自体が笠なのだ。

 まっすぐに僕を見ている。
 目はついていないのに、僕を見ているとわかる。
 僕が帰ってくるのを待っていたんだとわかる。
 僕がひとりきりになるのをずっと待っていたんだとわかる。

 怖い。特別大きな図体をしているわけでもないし、目を覆いたくなるようなおぞましい見た目をしているわけでもないのに。大きな牙が生えているとか、ぎょろりとした一つ目を持っているとか、クモのように八本の脚を持っているとか、全身血まみれだとか、そういうわけじゃないのに、すごく怖い。得体が知れなくて、禍々しくて、恐ろしくて、神々しい。腕から首筋、背中まで鳥肌が立つ。高熱が出たみたいに、悪寒がするのに汗が噴き出す。息苦しくなる。相対していると畏怖を感じる。逃げ出すよりも前にひれ伏したくなる。

 これが【なにか】だ。

 【なにか】が僕のほうに向かって前進した。裃の裾がずるっと引きずられる。そのくせ動いても音がしない。無音で、無風で、かすかな空気の振動すらしない。真空状態みたいに。

 ──守らなかった人の前には【なにか】が現われて、殺されて死ぬ。

 犬塚の言葉が蘇る。
 僕の前に【なにか】が現れたということは──これから殺されるということじゃないのか?

 違う。そんなはずない。
 いつのまにか村の境界を超えてしまっていた? そんなはずはない。寄り道なんかしていない。ここは間違いなく猿千村の中で、犬塚の家もすぐそこに見えている。
 昨日より前にしたって同じだ。外出するときにはずっと犬塚がそばにいた。犬塚はとにかく村の境界を超えることを恐れていた。犬塚に限ってそんなミスを犯すはずがない。

 ──じゃあ、いったいどうして?

 僕はたしかによそ者だし、よそ者が春彼岸の間に村に入るのはルール違反だけど。だけど、特別措置が適用されるんだって犬塚たちが言っていた。だから僕は大丈夫なんだと信じていた。

 じゃあなんで【なにか】がここにいるんだ?

 誰かに助けを求めようにも、いつもどおりあたりに人影はまったくない。皆集会所に集まっているのだ。【なにか】が怖いから。

 未知の恐怖に全身を支配され、知らぬ間に首に提げたカメラに手を伸ばしていた。けれど手は空を切り、カメラを犬塚の家に置いてきたことを遅れて思い出す。

 頭がまったく回らない。なにも考えられない。
 どうしよう。編み笠から目が離せない。近づいてくる。なんのために? なんで近づいてくるんだ? ……僕を殺すために?
 わずかに日が傾き始めた時間帯で、外はまだこんなに明るいのに、夜じゃないのに、丑三つ時でもないのに、異形の時間じゃないのに、なんで。

「──保科!」

 正気を取り戻すことができたのは、よく知る声が突如として僕の名前を叫んだからだ。

 振り返ると、血相を変えて犬塚がこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。

 どうして犬塚がここに。墓参りはもう終わったんだろうか。いくらなんでも早すぎる。ゆっくり話してこいって言ったのに。
 早々に切り上げてきたとしても、ここまでずいぶん距離がある。よっぽど急いで戻ってきたのでなければ、犬塚は今ここにいないはずだ。

「犬塚、墓参りは……」
「心配で戻ってきた。嫌な予感がして──……そしたら、道の真ん中に突っ立ってたから……」
「それは……」

 なぜ金縛りに遭ったように突っ立っていたかといえば、理由はひとつしかない。
 その理由を示すために恐る恐る前に向き直ったが、そこにはもう【なにか】の姿はなかった。犬塚家の見慣れた門があり、門の向こうには見慣れた平屋と庭がある。それだけだ。

「…………さっきまで、ここにいたのに……」

 思わず独り言を洩らすと、その言葉だけで、犬塚は僕が見たものがなにかを察したようだった。驚愕した様子で息を呑む。

 犬塚は見たことがないのだろう、と思った。あんなに凄まじいものを見て正気でいられるはずがない。何も手につかなくなるくらい呆然としてしまうだろう、僕みたいに。

「犬塚は、【なにか】を見たことはないんだな」
「……村の人間には近づかないんだ。姿を現すのは……お前に近づいてきたってことは……」

 犬塚はその先を言わなかった。急に唇を閉ざして黙り込む。
 口に出さなくても、なにを言おうとしていたのかはわかる。

 ──お前に近づいてきたってことは、春彼岸の終わりまでに殺されるってことだ。

 犬塚はそう言いたかったんじゃないか?

「だ……大丈夫なんだよな?」

 自分が目にしたものも、この先に待ち受けている悲劇も信じたくなくて、気づけば縋るように犬塚の腕を掴んでいた。

「護家が揃ってれば、殺されないって、犬塚が言ったんだろ」
「……これまではそうだった」
「本当か? 間違いないのか?」
「あぁ。春彼岸の間に、外の人間がうっかり村に入ってきた年はこれまでにもあったんだ。普段から人の出入りはほとんどないが、配達の業者とか、道に迷った登山客とかがな。業者も登山客も春彼岸が終わるまで村に留まってもらった。それがルールだから」
「その人たちはどうなったんだ?」

 犬塚はそこで一度息を吸い込んだ。吸った息を吐き出して、僕のほうを見る。

「無事だった。護家の人間が皆いたから、何も起こらなかった。【なにか】は最後まで現れなかったんだ、よそ者も村の一員だとみなされたから。……でも保科は違った」
「それって、つまり……今年は例の特別措置が適用されてないってことなんじゃないか?」
「それなら、なんで保科の前には現れて、俺の前には現れないんだ? なんで俺が来たらいなくなったんだ? 俺も保科も同じよそ者だろ?」

 顔を見合わせて途方に暮れる。
 犬塚は片手で頭を押さえながら、呻くように言った。

「どうなってるんだ。なにかがおかしい」

 そう、なにかがおかしい。僕が頭の中で思ったことと同じことを犬塚は声に出して言った。なにかがおかしい。異常事態だ。この村で、例年とは違う、なにか異常なことが起こっている。
 そうじゃないなら──村はまったくの例年通りでこれが正常なんだとしたら──僕らのほうがなにかを決定的に間違えているのか?

 そのとき、宗将さん、と呼ぶ声がどこからか聞こえてきた。

 誰かと思えばショーマだ。ジャージにサンダルというラフな出で立ちで、道の先からこちらに向かって一直線に駆けてくる。
 いつものようにふらりと遊びにきたという様子ではない。走っているし、その顔に浮かんだ表情も険しい。

「どうした?」

 犬塚も明るい後輩のただならぬ様相になにかを察したのか、硬い声で言いながら近づいていく。

「それが、ハシバさんとこのおじさんが……」

 ハシバ。ショーマが口にしたその名前を頭のなかで繰り返す。どこかで聞いた覚えがある。どこだっけと記憶を辿るうちに、四日前の出来事を思い出す。
 そうだ。初めてショーマと会った日、西井家の裏庭で立ち聞きをしたときに話に出てきた。
 たしか、親戚の結婚式に出席したものの、飛行機が欠航になって戻れなくなったと言っていたんじゃなかったか。

「ハシバさんがどうしたんだ。もう帰ってきてるんじゃ……」

 犬塚も困惑した様子で尋ね返す。

 ──彼岸明けには間に合うんだよな?
 ──明日には戻れるって聞いてます。

 今日は三月二十一日。ふたりが話をしていたのは十七日だから、予定では十八日に戻ってきていたはず。

「今さっき集会所に寄ったら、じいさんたちの話し声が聞こえてきたんす。ハシバさんとこのおじさん、十八日になっても戻ってこんかったらしいっす。連絡も取れんようになったって言っとって……」