◇◇◇
ショーマはそろそろ家に帰らなければならないからと言い、日が暮れる前に縁側から庭へと降り立った。
「ごちそうさまっす。また遊びに来るっす!」
「おー、またな」
犬塚に、そして「東京者」の僕にも親切にしてくれるショーマには本当に感謝してもしきれない。今日は春分の日で学校は休みだったのに、わざわざ差し入れを持って遊びに来てくれたのだ。ほかの友人と遊ぶことも、家でのんびり過ごすこともできただろうに。
「今度来たときは、俺が春一さんに村の案内するけん。色んなオススメスポット連れてくっすよ!」
縁側から犬塚と見送っていると、ふいにショーマがそう提案した。
「えっ、いいのか? 手間じゃないならお願いし──」
「俺が連れて行くからいい」
前のめりでお願いしたいと言おうとしたが、その前にぴしゃりと撥ねつけるように犬塚が言った。冷ややかな声で、口元は笑ってるのに目は一切笑ってない。
ぐいっと後ろから身体を引き寄せられたかと思うと、背中が犬塚にぶつかった。
「ん……っちょ、っと、犬塚……」
後ろから胸の前に犬塚の大きな手が回されて、そのまま胸板をぐっと押し込むように引き寄せられる。もっと自分のほうへ近づけて、ショーマから引き離すみたいに。指の先が食い込んでTシャツにぎゅっと皺が寄るくらいに、強い力で。胸を抑え込まれているせいで頭を犬塚の肩に預けるほかなく、顔の向きも満足に変えられない。
「っいや、連れて行くからいいって、僕の意見は……っ」
「俺が案内するんだからそれでいいだろ」
苛立ちもあらわに、取りつく島もない犬塚の冷淡な態度に、ショーマはあわてて前言撤回を宣言した。
「あー、えーっと、やっぱさっき言ったことは忘れてくださいっす。じゃっ、俺はこの辺で!」
「あっ、ちょっと──」
そう言ってそそくさと退散するショーマに、僕はなにも言えず見送ることしかできなかった。ショーマが去ると胸を押さえていた手はするりと解かれた。
「なんだよ、あの態度。せっかくショーマが案内してくれるって言ってくれたのに……」
「べつに。俺だけじゃ不満か?」
「そういうわけじゃないけど」
文句を言ってもしれっとした顔でのらりくらりとかわすだけ。
犬塚らしくない態度だった。どれくらいらしくないかっていうと、教室で三河と僕の会話に割り込んできたときくらい。いくら昔からよく知っている後輩のショーマが相手とはいえ、あんな言い方しなくてもいいのに。あれではまるでショーマと僕のふたりで出かけさせたくないような──そう、まるでやきもちを妬いてるみたいに聞こえた。
しばらく犬塚と問答したものの成果はなく、どうしてあんな態度を取ったのかはわからずじまい。仕方なく諦めることにして、僕は話を切り上げた。
「──さてと、そろそろ走りに行く時間か?」
まだもう少しだらだらしていたいけど、夕飯の準備をしたり、犬塚は日課のランニングをしたりと夕方はなにかと忙しい時間帯だ。いつまでもゆっくりとはしていられない。
犬塚に声をかけて立ち上がろうとしたものの、ふいに「保科」と呼ばれて動きを止める。
振り返れば、犬塚は畳の上に正座をして、ぴしっと姿勢を伸ばしていた。
「な、なんだよ、急に改まって……」
「巻き込んで悪かった」
そのまま深々と頭を下げるので、僕は大急ぎで顔を上げさせなければならなかった。
「土下座とかやめろってば」
「まだちゃんと謝ってなかっただろ。本当に悪かったと思ってるんだ」
「いいって。泊まれたおかげで写真もいっぱい撮れたし、逆にラッキーだったかもってくらいだし」
むしろ、と僕は続けた。
「……むしろ、巻き込んだのはこっちの方だしさ。犬塚は村には帰りたくなかったのに、僕のせいでついてくる羽目になったようなもんだろ? そのうえ犬塚は早く帰りたがってたのに、僕が引き留めたせいで帰れなくなって……だから犬塚が気に病むことなんかひとつもないんだって」
謝らないといけないのは犬塚じゃない。僕のほうだ。
滝の写真を撮り終えたあと、早く帰ろうという犬塚に駄々を捏ねて集落まで連れてこさせたのは僕だ。あのときに素直に帰っていたら。そのせいで犬塚が帰ってきていることが村の人たちにばれてしまった。犬塚の叔父さんが事故に遭ったのも、犬塚の予想が正しいなら犬塚を引き留めるため。となるとすべての元凶は僕なのだ。
強引に立ち上がらせると、向かい合った体勢のまま犬塚は「なりゆきでこうなったけど」と静かに口を開いた。
「保科がいるなら、この村に帰ってくるのも悪くないなと思った。毎日楽しいから」
犬塚の顔がすぐそばにある。ちょっと手を伸ばせば届く距離だ。その距離でまっすぐに目を見つめながら言われ、僕は思わず狼狽えた。
「お前がこの村に来てくれて本当によかった。ありがとう」
「──……ん? いや、それも逆だろ? 犬塚が案内してくれてなかったら、たぶんだけど村まで辿り行けなかったんだから……」
感謝するのはやっぱり僕のほうだ。ついてきてくれてありがとう、とお礼を言うべきなのはこちらのほうなのだ。謝るのもお礼を言うのも僕のほうで、犬塚に言われる理由なんかない。
そう説明したけど、犬塚は変わらず「ありがとう」と言うだけだった。
……眦を下げて微笑みかけられると、なんだか落ち着かない心地になってしまう。なんだこの感じ。
僕らの間にある距離が少しずつ短くなる。じりじり、じりじりと。そのうちに、とうとう鼻の先が触れ合うんじゃないかと思うくらいに近くなる。注がれる視線に耐えきれなくなって、逃げるように目を逸らそうとしたとき、ふいに犬塚が言った。
「じゃあ、走ってくるから」
至近距離まで近づいていた身体は離れ、犬塚は玄関へと向かった。

