因習と春一番

 ◇◇◇


 朝起きると、犬塚はもうすでに外出していた。
 どこに行ったんだろうと思っていると、居間のテーブルに書き置きが残されているのに気がついた。ショーマが差し入れの中に入れてくれていた、ノートとボールペンを使って書いたようだ。

 朝のランニングに行ってくる旨が丁寧な字で短く書かれているのを見て、そういえば、と昨夜のことを思い出す。

 昨日の晩、夕飯の席で犬塚が突然、

「七日間もここでだらだら過ごしてたら身体がなまるな」

 と言い出し、朝と夕方の二回ランニングをすることを宣言したのだ。猿千村の外には出られないので、集落をぐるぐると何周か走ってくるという。保科も一緒に走らないかと爽やかに誘われたものの、丁重にお断りしたことは言うまでもないだろう。

 毎日バレー部の練習で身体を動かしているであろう犬塚には、ごろごろだらだら過ごすことのほうが苦痛で耐えがたいことなのかもしれない。僕も少しは見習ったほうがいいんだろうけど、それでもやっぱり僕はごろごろだらだらのほうが好きだ。

 犬塚は昨晩の宣言通りに、早起きをしてランニングに出かけたようである。

 ──僕にはひとりで出歩くなって言うくせに、自分はランニングかよ。そんな風につい文句を言いたくなるけど、一年前まで犬塚はここに住んでたんだし、村の外に出てしまう危険はまずない。対する僕はというと、まだこの村に来たばかり。犬塚が用心しろという気持ちもわかる。

「……今日で春彼岸二日目かぁ」

 縁側に立って大欠伸をしながら、全身で朝日を浴びる。

 三月十八日。天気、晴れ。
 猿千村で朝を迎えるのは今日で二度目。ここで過ごすのは今日を除いてあと五日。

 昨日、犬塚の後輩のショーマから聞いた奇妙な「決まり」の話。そして【なにか】の話は、今もまだ自分の頭の中で完全に整理しきれていない。なんだか夢の中にいるみたいだ。本当の僕は東京のマンションの自室で寝ていて、猿千村のやけにリアルな夢を見ているんじゃないか。
 それでもこれがどうやら正真正銘の現実らしい。時間はどんどん流れていくし、日々は過ぎていってしまう。

 犬塚が戻ってくるまでどうしようかと考えながら部屋に戻ろうとしたとき、門のところに誰かが立っていることに気がついた。
 犬塚のように勝手にずかずかと敷地に入ってくることはせず、遠慮がちに家の中の様子を窺っている。

「──あ、大井さん。おはようございます」

 門のところに立っていたのは、見覚えのある小柄な老人だった。初めて会ったときと同じ野良着姿で、手には何かが入った袋を持っている。

 僕は玄関に回り、靴を履いて外へと出た。変わらずそこで待っている大井さんのところへ小走りに向かう。

 大井さんは初対面のときと同じく不機嫌そうな仏頂面をしているものの、もしかしたら特別機嫌が悪いわけではなく、普段からこういう顔なのかもしれない。

「すみません、犬塚は今ちょっと出かけてて……すぐに帰ってくると思うんですけど」
「犬塚の孫に会いにきたんとちゃう。用があるんはお前のほうじゃ」
「え、僕?」
「差し入れ渡しにな」

 ぐいと押しつけるように差し出された手提げのレジ袋をあわてて受け取る。
 中を覗いてみると、野菜とパン、そしてお菓子が入っているのが見えた。

「うちの畑で採れた野菜と、店で売っとるパンとか駄菓子とかそんなんやな。たいしたもんは入っとらんけどないよりましやろ」
「こんなにいいんですか? お代は……」
「いい、いい。売れ残りや」
「いやそういうわけには」

 お代はいらん、いやそういうわけにはいきません、いらん、いやいや──そんな押し問答の末に根負けしたのは僕のほうだった。
 ありがたく受け取ることにして改めて礼を言う。大井さんはそっけなく頷いて、それから言った。

「──車の事故のことは……村のもんがすまんかったな。そのせいでお前まで帰れんようになって。内輪のいざこざに巻き込んでしもた」

 村の人間を代表して謝ると言い、大井さんは深々と頭を下げた。こちらがあわてててしまうくらいの恐縮ぶりで、僕は何度も頭を上げてくださいと繰り返さなければならなかった。

 ──車の事故、というのはすなわち犬塚の叔父さんの件を指しているんだろう。事故のことは大井さんの耳にも入っていたのだ。
 そして、明言はしなかったが「村のもんがすまんかった」という言葉から、事故になんらかの形で村人が関わっているであろうことが読み取れる。複雑な村の事情も。猿千村に住んでいる誰かが、犬塚を村に足止めするために妨害したんだろう。
 やはり、大井さんは犬塚の叔父の件には関わっていなかったのだ。

「犬塚はどうかわからないけど、少なくとも僕は全然大丈夫ですよ。一週間もこの村にいられてむしろ嬉しいっていうか」
「こんな田舎にか? 東京から来たんやったら、こんななんもないとこ退屈でしゃあないやろ」
「なんもないことないです。滝もあるし、小川もあるし、山もあるし、畑もあるし。ないどころかありまくりです」
「それは……それやったらあるな。あるけどもやな」

 大井さんは難しい顔をして唸りながら考え込んでしまったが、やがて少しだけ笑った。いつも険しい顔ばかりの大井さんが柔らかい表情を見せたのはこれが初めてで、僕もつられるように笑っていた。

 せっかくだから上がっていってもらおうと思い、でも僕の家でもないのにお客さんを勝手にあげてもいいのかと躊躇する。そうこうしているうちに、道の先から歩いてくる犬塚の姿が見えてきた。

「犬塚だ。おかえりー」

 呼びかけながら手を振ると、遠くのほうで犬塚も手を振り返す。
 大井さんも顔だけ振り返って、こちらに向かってやってくる犬塚の姿を確認すると、そのままくるりと踵を返して歩き始めた。

「ほな帰るわ」
「あ、はい。差し入れありがとうございます」

 引き返していく途中で犬塚と大井さんがすれ違ったが、犬塚の挨拶が聞こえなかったのか、聞こえたうえで無視をすることにしたのか、大井さんはすたすたと何も言わずに通り過ぎていってしまった。

 犬塚はやれやれとばかりに肩を竦めるだけで文句は言わず、そのまま僕のところまでやってきた。

「ただいま。あのじいさん何しに来てたんだ?」
「差し入れ持ってきてくれたんだよ、ほら。一緒に食べようぜ」

 ふたりで家に戻りながら、受け取ったばかりの袋を広げて中を見せる。
 犬塚は中身を一瞥してから「いや」と首を振った。

「これは保科が全部食べていい。俺たちに、っていうより保科に持ってきたんだと思うから」

 苦笑しながら犬塚は言った。

「そんなこと……」

 そんなことはないだろうと反論しかけて、ふたりの様子が険悪だったことを思い出す。たぶん、なんらかの確執があるんだろう。

 僕が何も言えずに黙っていると、犬塚は玄関の上がり框に腰を下ろした。困ったような顔で笑いながら「大した話じゃないけど」と口を開く。

「うちのじいちゃんと大井のじいさんは、昔っからうまが合わなくて仲悪くてさ」
「へぇ……そうだったんだ」

 後ろ手に玄関の扉を閉めつつ、犬塚の話に耳を傾ける。

「そのせいで俺にまで当たり強いんだよ、あのじいさん。俺がじいちゃんにそっくりだとか言いがかりつけてさ。勘弁してくれっって」

 犬塚の祖父も、犬塚と同じく頑固なタイプだったのかもしれない。大井さんも一度決めたことはちょっとやそっとのことでは変えなさそうに見えるし、たしかに拗れると長引きそうな組み合わせだ。似たもの同士とも言えるから、わかりあえそうな気もするけど。

「根は悪い人じゃないってことはわかるけどな」
「うん、僕もそう思う」