因習と春一番

 地図アプリの一点に、赤いピンを立てる。ここが目的地だ。
 ピンの周りに表示されているのは、山の標高を示す緑色の線ばかり。蛇行する川を表す青い線も少しある。山間に存在する小さな村と滝の名前は、ピンの真横に小さく書かれていた。

「滝が撮りたくてさ。猿千村(えんせんむら)ってところの滝が綺麗なんだって」

 スマホから顔を上げて、僕・保科春一(ほしなはるいち)は窓の外に目を向けた。
 眼鏡の薄いレンズと教室の窓ガラスの向こうに広がるのは、無味乾燥な都会の街並みと、今にも雪がちらつきそうな寒々しい曇り空。三月も半ばを過ぎて、三学期も終盤だっていうのに、東京は真冬並みの冷え込みが続いている。
 土曜までにはなんとか天気が持ち直してほしい。よく晴れた青空をバックに美しい滝をカメラに収めたいから。撮影日和になることを祈りつつ、惣菜パンの味を噛み締める。

 暖房がきいた昼休みの教室には、クラスの誰かが昼飯に食べたであろうカレーパンの匂いと、ホットドッグの匂いが充満している。皆が思い思いに机を移動させて昼食を食べ進めるなか、僕もまた仲のいいクラスメイトと向かい合い売店のパンにかじりついていた。

「へぇー。全然聞いたことないけど」
「知る人ぞ知る秘境なんだよ。週末はカメラ持って遠出してくるわ」
「ふーん。いやーあと二週間で春休みかぁ。あっという間だったな、この一年」
「……もうちょっと僕の話に興味持ってほしいんだけど」
「興味持ってるって」

 前のめりで文句を言うと、逃げるように同じ写真部の三河(みかわ)は若干後ろに身体を退いた。相変わらず僕の話にはかけらも興味がなさそうな顔で焼きそばパンを一口食べ、しばらくして飲み込んだかと思うと首を捻る。

「滝、氷瀑(ひょうばく)してんじゃない?」
「もう溶けたはず。やっぱスローシャッターで撮りたいよなぁ」
「俺もなんか撮りに行こうかな。買い物がてら渋谷でも行って、スクランブル交差点とか」
「渋谷なんか行ったって人しかいないだろ。そんなのより自然を撮りに行けよ、自然を。今の時期なら桜とか菜の花とか……これだから都会っ子は」
「お前だって東京生まれ東京育ちのくせに」
「うるさいな」

 生まれてこのかたアスファルトに囲まれた大都会で暮らしてきたせいか、豊かな自然やのどかな田舎への憧れが尽きない。週末の撮影に思いを馳せるだけで期待に胸が膨らみ、思わず顔がほころんでしまうくらいには。

「つかそのナントカ村? ってどこ?」
「猿千村。えーっと、電車とバスを乗り継いでいくんだけど──」

 メタルフレームの眼鏡を押し上げて、再びスマホの画面を見下ろす。下を向くとセンターパートの前髪が落ちてきて視界に少し被さるので、指で払い除ける。地図アプリのルート検索機能を使って経路を表示させようとしていると、

「──猿千村?」

 ふいに頭上から声がした。
 ──え、と固まる。三河の声じゃない。三河はちょっとびっくりしたような顔で僕の背後に釘付けになっている。
 ゆっくりと振り返りながら友人の視線の先を追っていくと、いつのまにかそばに立っていた背の高い男子生徒へと行き着いた。

「今、猿千村って言ってなかったか」

 犬塚宗将(いぬつかむねまさ)
 両サイドを刈り上げた短髪に、意志の強そうな凛々しい眉と、鋭い目。一歩間違えると強面のヤンキーだが、いつも着崩さずに制服をきちんと着ているし、なにより全身から誠実そうな雰囲気がにじみ出ている。
 実際、犬塚は不良とはほど遠く、男子バレー部の次期エースと目されている真面目なやつだ。
 クラスメイトとして今日まで一年間同じ教室で過ごしてきたから、顔も名前も知ってるし、グループ学習なんかで同じ班になれば話をすることはある。とはいえ犬塚は同じバレー部の部員と過ごしていることが多いし、昼休みに昼食をとる相手もやっぱり同じ部活仲間だ。

 この昼休みも、僕たちとは離れたところで、男子バレー部の四人と一緒に食べていたはずだけど。がやがやと賑やかな教室の中で、犬塚たちのいるところまで僕らの話している声が聞こえていたとは。ついヒートアップして大きな声になってたかもな、と反省しつつ少し恥ずかしくなる。

 ──と同時に、違和感を覚える。犬塚は目立つしクラスで一目置かれているけど、目立ちたがりのタイプではない。クラスメイトとの距離感を正しくはかり、必要以上にぐいぐいくることもない。

 要するに、別のグループの話題に、こんな風に強引に割って入ってくるのはらしくないってことだ。

「動物の猿に、数字の千に村って書いて猿千村、で合ってるか?」
「え、と……あ、あぁ、うん。そう、猿千村の滝が撮りたくて、今週行こうと思ってて」
「今週って? 具体的にいうといつ? 何日?」
「週末の土曜だよ。三月十六日」

 尋問するような口調にたじろぎながらも正直に言う。

 特別仲がいいわけじゃないけど、犬塚がいいやつだってことは知ってる。僕に限らずクラス全員の共通認識だろう。

 ぶっきらぼうなところはあるけど誰にでも親切で、おだやかで、女子相手でもおどおどしなくて、かといって無理してかっこつけることもなくて、同級生とは思えないくらい余裕があって、飄々としていて。
 ──そんな犬塚が、今は不気味なくらいに真顔だ。余裕はまったくない。ろくに話も聞いていない三河と違って、ものすごく真剣に僕の話を聞いてくれている。興味を持って聞いてもらえるのは嬉しいけど──真剣過ぎて、少し怖い。

 普段と違うクラスメイトの様子に三河もたじろいでいる。犬塚の友人たちも、離れた場所から一体何事だとこちらの様子を窺っているのがわかる。

「やめとけよ。遠いし、行きにくいだろ」

 真顔のままにべもなく言う犬塚に、唖然とするあまりとっさに言葉が出なかった。冗談で言っているわけではないようだ。そもそも犬塚は変なタイミングで変な冗談を言って変な空気にさせるタイプじゃない。

「……え」
「本当にやめておいたほうがいい」

 僕は目を瞠った。
 突然割り込んできたかと思えば行くのはやめたほうがいいと言う。その突拍子のなさにも驚いたけど──何より驚いたのは、犬塚が猿千村の存在を知っていたことだ。

 手許のスマホを見下ろせば、アプリ上に猿千村の位置と移動ルートが表示されていた。
 関東近県の山深い場所にある限界集落で、観光地とは言い難い村である。
 僕が猿千村を知ったのもたまたまだ。地元の図書館に行ったとき、全国の滝を特集した古い冊子に小さく載っていたのを偶然見つけたのだ。

 地域の観光資源と呼べそうなものはその滝くらいのもので、それも致命的にアクセスが悪いせいで、多くの観光客を呼び寄せるのは難しそうだった。

 三河はもちろん知らないようだし、ほかのクラスメイトや写真部の部員に聞いても知らないと答えるだろう。まさに知る人ぞ知る、だ。

 犬塚は猿千村という地名に反応しただけじゃない。猿千村の場所や交通の便の悪いところにあることまで知っているようだった。よほどの滝マニアか過疎地マニアでもなければまず辿り着けない土地なのに。いや、可能性はかなり低いけど、あとひとつ考えられるとすれば──。

 考えに耽っていると、三河に腕をつつかれた。我に返って再び犬塚と向き合う。

「……そりゃまぁ遠いけど、なんとか日帰りで行けないことはない距離だし」

 かろうじてそう言い返す。

 旅程はもう考えてある。山奥の辺鄙なところにある村なので時間はかかるが、それでも朝一で行けばなんとかその日のうちに東京に戻ってこられるはずだ。夜遅くにはなるだろうけど、次の日は日曜日なんだから多少の夜更かしは許容範囲だ。
 両親にも、逐一連絡が取れるようにしておくことを条件に許可を得ている。

「でも、別の場所のほうが──西脇は? 西脇の滝って有名だよな」

 犬塚は難しい顔で絞り出すようにそう提案した。猿千村の滝ではなく西脇の滝に行き先を変更してはどうか、といいうことらしい。
 西脇の滝はかなり有名なスポットだ。国内の滝の名所を挙げろと言われれば多くの人がその名前を口にするだろう。しかも東京からのアクセスも悪くない。

「西脇の滝は夏にもう撮りに行ったから」

 生憎だけど、去年の夏休みに写真部の友人とともにすでに撮影に行っていた。犬塚の思惑がわからないまま左右に首を振る。
 そのとき同行していた仲間のひとりである三河へ横目に視線を送ると、同意するように友人は小さく頷いてみせた。

「んじゃ、あー……」

 犬塚は片手で頭を搔きむしり、ポケットからスマホを引っ張り出したかと思うと、片手で素早く操作し始めた。検索ボックスに何かを入力しているようだ。
 再び三河と顔を見合わせて、この訳のわからない状況への困惑を共有する。

「ここならどうだ? ここの滝なら東京からでも割と行きやすいし、穴場っぽい感じだけど」

 犬塚はスマホの向きをくるりと一回転させてこちらに差し出した。どうも近場の滝を検索していたらしい。
 画面に映し出されているのは、動画配信サイトの映像だった。清廉な滝の映像とともに、滝の場所やアクセスについてのナレーションが流れる。

「ここも悪くはないと思うけど……」
「だろ?」

 高低差のある岩壁を勢いよく流れ落ちる滝はたしかに写真映えしそうだし、猿千村に行くのに比べれば移動時間は短く済みそうだ。

 けど、僕が惹かれたのは猿千村の滝だ。ここじゃない。西脇の滝でもない。時間がかかってもいいから行ってみたい、撮ってみたいと思ったのだ。人から勧められて行くのとは違う、自分で見つけ出したんだ、という特別感もある。

 困惑が次第にもやもやとした気持ちへと変わっていく。
 なんで犬塚に口を挟まれないといけないんだ。教師や親でもないのに。友達とも呼べないほどのいちクラスメイトに。
 なんのつもりか知らないけど、こちらはもう撮影にむけて準備万端だ。楽しみにしてるのに水を差すような真似はやめてほしい。

「──……こっちはまた今度撮りに行くわ、悪いけど。今回は猿千村にする」

 動画を見終わる前にスマホを手で押し返すと、犬塚は途端に焦った顔になって「でも」と縋るように口を開いた。その必死さに思わずほだされそうになってしまうけど、もう決めたことだ。

「わざわざ調べてくれてありがとな、犬塚」
「あ、いや……誤解しないでほしいんだが、べつに嫌がらせで言ってるわけじゃないんだ。本当に、よかれと思って俺は──」
「とにかく、僕はもう猿千村に行くって決めたから。何と言われようと」

 追いつめられた様子で口早になる犬塚を遮ってきっぱりと言う。
 思いきって椅子から立ち上がると犬塚と正面から向かい合った。

 三河は小声で「やめとけよ」と言い、椅子に座らせようと手を伸ばしてきた。でも関係ない。
 運動部の奴らに文化部が逆らってはいけない、なんてルールもないし。力の差は歴然としているけど。

 犬塚はしっかりと鍛えられたアスリート体型、対する僕はヒョロリとしたもやし体型。ケンカも百メートル走も持久走も体育祭の球技も全部敵わないけど、身長なら負けてない。背の順で並べば犬塚は僕のひとつ後ろ、身長差はゼロか、せいぜい一センチか二センチといったところだ。

 梃子でも動かないぞという気持ちで挑むように相手を見る。すると、犬塚はいよいよ参ったとばかりに項垂れてため息をついた。