ハッとして結生が目を覚ますと、目の前には沈んだ面持ちの優斗の姿があった。
「……っ結生!」
目が合った瞬間、優斗は泣きそうな顔で結生の名前を呼んだ。その声を聞いた瞬間、結生は堪らない気持ちになって自身を覗き込む優斗の身体を抱き寄せた。
「ぉわっ」
突然の出来事に優斗はバランスを崩しかけたが、何とか結生の上に倒れ込まずに済んだ。結生に怪我をさせずに済んだことに安堵していると、ふと自身を抱き締める腕が震えている事に気付く。
「結生……?」
優しく問いかけてみるが、返事はない。優斗は幼い子をあやすように、ポンポンとその背中を優しく叩く。
「大丈夫だよ結生、オレはここにいるから」
目の前の結生の身体は自分よりも随分と大きいのに、なぜだか泣き虫だった頃の姿と重なり庇護欲が掻き立てられる。優斗は結生の頭を優しく抱きしめ、軽くキスを落とす。自身の行動に驚くよりも早く、ガバッと結生が顔を上げる。
「ゆ、優斗……?今なにして…………」
「え、えーと…………」
自分の行動に驚き動揺している優斗が、目を泳がせながら頬を染める。その反応は、やはりキスされたのでは……結生の心臓がドキドキと騒ぎ始める。そして、先ほどまでの悪夢が脳裏をよぎる。
(誰かに盗られるくらいなら──)
結生はギュッと拳を握り、意を決したように優斗の顔を見上げる。
「ここから出られたら、さ……聞いて欲しい事があるんだ」
「え……」
今ここでは話せない事なのか、優斗は疑問を口にしようとしたが真剣な眼差しに射抜かれ何も言えなくなる。
「わか、った」
何とか声を絞り出し、優斗が返事をする。結生は優斗の顔を愛おしそうに見つめながら、抱き締めていた手を離し起きあがろうとする。ぱさりと何かが落ち、それがタオルケットだと気付く。それだけでなく、身体の下には毛布も敷かれていた。
「これ……優斗が用意してくれたのか?」
「あ、あぁ。廊下に寝たきりじゃ身体が痛くなると思って……」
優斗の優しさに、じんわりと胸が温かくなる。
「……ありがとう」
ふっと微笑みながら優斗の頬に触れると、ひどく冷えている事に気付く。
「優斗、ずっと廊下にいたのか……?」
「え、うーん……ずっと、なのかな?魘されてる結生を起こそうとしたんだけど、起きなくて……そんなに時間は経ってないと思うけど」
へへっと笑う優斗の肩からタオルケットを掛け、結生が力強く抱き締める。
「え?!結生?!なに?!」
驚いた優斗が腕の中から抜け出そうと力を入れたが、結生の身体はびくともしなかった。
「こんなに冷えて……!そもそもオレのせいだよな、ゴメン……」
優斗の身体を抱き締める力が、更に強くなる。
「ちょ、結生……いたっ……」
「あっ……ご、ゴメン!」
結生が慌てて力を緩め、優斗の身体を優しくさする。
「ごめん本当に……折れてない?」
「いや、そんな簡単に折れないって!」
優斗は思わず吹き出し、おかしそうに笑う。その姿にほっと息を吐き、今度は優しく優斗の身体を抱き締める。
「結生……?」
「オレのせいで冷えたんだから、オレが温める」
「や、笑ったら温まったし!もう大丈夫だって!」
「ダメ」
こういう時の結生は頑固だ。優斗は諦めて黙って結生に温めてもらうことにした。タオルケット越しに結生の体温が伝わり、安心感に包まれる。心に巣食っていた不安も、次第に取り除かれていった。
(結生がいれば、何でもできそうな気がする……)
優斗は温かな結生の背中に手を回し、頬を擦り寄せる。結生の身体がピクリと揺れ小さなうめき声が聞こえた気がしたが、心地よい体温に微睡む優斗はその身体を更に強く抱き締めた────
「はっ!!」
優斗の身体がビクリと揺れる。え、寝てた?!慌てて顔を上げると、結生に抱き締められたままだった。
「ご、ゴメン結生、オレ寝てたかも」
「そうなのか?5分くらいしか経ってないと思うから大丈夫だよ」
あわあわとする優斗に、結生が柔らかく微笑む。
「温かくなって眠くなったのか?ふふ、優斗は本当に可愛いな」
「え、ぁ……お……」
あまりにも甘い視線と声音に、優斗は言葉にならない声を発する。
「さて、それじゃあ3つ目の怪談を確かめに行こうか」
タオルケットを畳みながら結生が立ち上がる。
「あ……そ、そうだな!」
結生に続いて、優斗も慌てて立ち上がる。
「4階に向かう途中の踊り場に黒髪の女が立っている……だっけ」
「そうだね、とりあえず3階まで行ってみようか」
2人は蛍光灯で明るく照らされた廊下を歩き、近くの階段に向かう。依然として窓の外は暗闇に包まれている。
「そういえば……さっきかなり魘されてたけど、嫌な夢でも見てたのか……?」
「嫌な夢…………そうだな……オレにとっては死ぬより辛い悪夢、だったかな」
「そっ……か……」
今にも泣き出しそうな顔で答えてくれた結生に、優斗は何と声を掛けて良いのか分からず俯いたまま階段を上る。
「優斗は大丈夫だったか?」
「オレ……?」
ふいに問いかけられ、優斗は首を傾げる。
「音楽室に入った後、優斗が戻って来なかったんだよ。それで様子を見に入ったんだけど、教室の電気が消えてて……」
「そう、だったんだ……オレは普通に音楽室から出たんだけど、そしたら結生がいなくなってて……」
「えっそうなの?」
結生が驚いて目を見開く。
「トイレかなと思って見に行ったんだけど、いなくて……それで気付いたら目の前にオレたちのクラスがあって──」
優斗は自身に降りかかった不可思議な出来事を結生に説明する。普通に授業を受け、気付くと屋上にいて……そこでの結生とのやり取りを思い出し、優斗の顔がカーッと熱くなる。
「優斗?」
急に黙り込んでしまった優斗を不審に思い、俯いた顔を覗き込む。
「え、熱あるんじゃないか?!」
赤く染まった優斗の顔に、結生が慌てて熱を測ろうと額に手を伸ばす。
「だっだい!だいじょぶ!!」
優斗は伸びてきた手から逃げるように身体を仰け反らせ、大丈夫だと制止する。
「あっほら!この階段じゃないか?!」
タイミングよく3階に到着し、優斗はわざとらしく踊り場を見上げる。
「えーと、そこに黒髪の女が立ってる…のか?」
心なしか薄暗いな……そう思って見ていると、結生にグイッと腕を引っ張られる。
「──わっ何?!」
突然の出来事に驚き、バランスを崩した優斗はそのまま結生の胸に抱き寄せられてしまう。
「ゆっ結生……?!」
「しっ──何か聞こえる」
「え……」
緊迫した空気に、優斗は身を固くしながら耳を澄ませる。
“ズルッ…………ズッ……ズル…………“
何かを引き摺るような音が、段々とこちらに近付いてくる。
「え、なに……」
優斗は思わず結生のワイシャツを握り締める。すると、階段を伝うようにチョロチョロと水が流れてくる。
「水……?何で……」
異様な光景に2人の心拍数が急激に上がっていく。
“ピチャ──“
かすかに水音が聞こえたかと思うと、天井から滴り落ちてきた雫が結生の肩を濡らし、ワイシャツに吸い込まれていく。驚いて天井を見上げると、そこにはびっしりと髪の毛のようなものが張り付いていた。
「──っ!!」
結生の肩がビクリと跳ね、声にならない悲鳴を上げる。釣られて見上げてしまった優斗も同じ光景を目にし、カタカタと震え始める。
“ズルッ……ズルッ……“
階段から流れてきた水がじわじわと足元に広がっていくと同時に、不気味な音も次第に大きくなっていく。
何か、いる────
心臓がバクバクと警鐘を鳴らすが、足がすくんで動くことができない。すると突然、廊下の全ての窓が風もないのにガタガタと激しく音を立て始める。蛍光灯がチカチカと点滅し、ひんやりとした空気が全身に纏わりつく。
『カカ、カ…………』
蛍光灯の点滅が収まったかと思うと、しんと静まり返った廊下に耳障りな音が響く。ふと優斗が踊り場に目をやると、そこには首が90度に曲がった黒髪の女が立っていた。薄汚れた白いワンピースの裾がゆらゆらと揺れ、ボサボサの髪が膝下まで伸びている。
「ヒッ──」
人ではない目の前のそれに、優斗の膝がガクンと崩れその場に座り込んでしまう。
『カカ……カ、カカカ…………』
女の頭が小刻みに揺れ、不気味な音を発する。その音がどんどんと大きくなり、本能的に身の危険を感じた結生は何とか優斗を立ち上がらせようと腕を回す。すると女の動きがピタリと止まり、辺りは静寂に包まれる。
(な、何だ…………)
取り敢えず、今のうちに逃げよう──そう思った瞬間、女の髪が壁伝いに一気に伸びる。おびただしい量の髪の毛が壁を這い、まるで生き物のように蠢く。そして、そのうちの1束がスルスルと階段を這い下りてきて優斗の足首に巻き付く。
「うっうわぁ!!」
「優斗!!」
何とか振り払おうとするが、髪の毛は離れるどころか物凄い力で優斗の身体を女の方に引き摺り込もうとする。結生は咄嗟に優斗の身体を抱き締め力を入れる。しかし、あまりにも強い力に結生の身体もズルズルと引っ張られてしまう。
「く……このっ…………優斗を離せ!!」
踵に渾身の力を込めて踏ん張り、結生が睨みつける。すると一瞬フッと優斗を引く力が弱まり、結生はすかさず優斗の身体を抱き寄せる。
『カ、カカ…………カ……カカカ………………カカカカガガガガガガァァァ!!!!』
女の頭がまるで威嚇するかのように、激しく上下する。耳を塞ぎたくなるような不快な音が辺りに響き、優斗と結生は思わず顔を顰める。そして壁に張り付いていた女の髪が勢いよく優斗の方に伸び、胴体に巻き付く。先ほどとは比べものにならない力で引っ張られた優斗の身体が結生の腕をすり抜け、そのまま宙を舞う。
──あ、多分このまま死ぬ
優斗の脳裏を、死の予感が過ぎる。結生が自分に聞いて欲しい話とは何だったのだろうか……そんなことを考えながら、必死に手を伸ばしてくれる結生の姿を見下ろす。結生と離れ離れになるのは嫌だな……けど、結生だけでも助かって欲しい……どうか連れて行くのは自分だけにして下さい──そう願い、優斗は静かに目を閉じる。
「優斗……!!!!」
結生の悲痛な叫び声が廊下に響く。すると突然カッと辺りが真っ白な光に包まれ、あまりの眩しさに結生はぎゅっと目を瞑る。
「なん、だ…………」
ほんの数秒で光はおさまり、結生はゆっくりと目を開く。蛍光灯がチカチカと明滅し、やがて何事もなかったかのように静寂が訪れる。先ほどまでの出来事が嘘だったかのように、廊下にはポツンと結生だけが残されていた。
「ゆうと……優斗!」
結生はハッとして、必死に優斗を探し回る。階段を駆け上り4階に向かったが、どこにも優斗の姿はなかった。
「なん、で………………」
全身から力が抜け、結生はストンとその場に座り込んでしまう。
(やっと……会えたのに…………)
優斗の身体が腕の中をすり抜けていく感覚を思い出し、結生は握り締めた拳を床に叩きつける。
──自分がもっとしっかり掴んでいれば
──宙に浮く優斗の手を握ることができていれば
「…………くそ!!!!」
己の不甲斐なさに涙が滲み出る。2度と優斗の側を離れないと決めた矢先に、再び失ってしまった。
(何で……何で優斗だけ連れて行くんだ……)
1人残されるくらいなら、一緒に連れて行かれた方がよっぽどマシだった。優斗さえいれば、そこが地獄だろうと関係ない。優斗と一緒にいられれば、何でも良かった。
「オレから……優斗を奪わないでくれ…………」
か細い声が、しんと静まり返った廊下に消えていった。
***
「う…………」
ふいに真っ白な光に包まれ、優斗は咄嗟に目を閉じ顔を背けた。光は数秒で消え、優斗はゆっくりと瞼を開く。──開いたはずだったが、目の前は真っ暗で何も見えなかった。方向感覚も曖昧で、自分が立っているのか座っているのかさえ分からない。
「どこだよ、ここ……」
優斗は小さく呟き周囲に視線を巡らせたが、どこまでも続く暗闇が広がっているだけだった。
「結生…………」
そうだ、結生は無事だろうか。光に包まれる直前の、必死な結生の表情を思い出し胸が締め付けられる。結生にはいつも笑っていて欲しいのに、その笑顔を守っていたいのに──自分のせいで悲しませてしまった。
「結生、1人で大丈夫かな……」
ポツリと呟く。自分のことはどうだって良い、優斗の頭の中を占めているのは結生のことだけだった。すると突然、背後から温かな光が差し込む。
「何だ──」
振り返った優斗が、その光の中に飲み込まれる。
ゆっくりと目を開けると、心地良い風が吹き抜け優斗の髪を優しく撫でた。一体なにが……辺りを確認すると、そこは優斗と結生が通っていた幼稚園の園庭だった。記憶の中の園舎、遠くから聞こえる楽しそうな子供たちの笑い声。懐かしさに優斗が思わず目を細める。
(過去……思い出か……?)
優斗がゆっくりと足を進めると、園児たちが外に駆け出してくる。卒園した身とはいえ、今は完全に部外者だ。知らない人間がいたら不審がられるに違いない、優斗は慌てて隠れる場所を探す。しかし、あわあわとしている間に園児たちが走ってきてしまう。
「えっどうしよ……!」
咄嗟に言い訳を考えている優斗の横を、園児たちが笑いながら駆け抜けていく。
(あ、あれ……?)
続いて出てきた先生も、優斗のことは全く気にしていない様子だった。もしかして見えてない……?優斗はそろりと園児の側に近づく。やはり誰の目にも優斗の姿は映っていないようで、楽しそうにキャッキャと遊んでいる。
「ユキー!」
一際元気な声が園庭に響き、優斗は声が聞こえた方に目をやる。そこには幼い頃の自分の姿と、にこにこと可愛らしく笑う結生の姿があった。
(エッ可愛すぎない?!)
優斗は思わず叫びそうになり、両手で自身の口元を押さえる。少し長めの黒髪がサラサラと風に吹かれ、まるでお人形さんのようだった。
「天使…………?」
優斗がぽそりと呟き見入っていると、何やら2人でヒソヒソとお喋りを始める。優斗がニカっと笑い、結生がはにかんだような笑みを浮かべる。仲良しだな……自然とそう思える光景だった。するとそこに、よく結生にちょっかいを出していた男児がやってくる。
「なんだよ、ユキと結婚するのはオレなんだからな!」
目の前の優斗がとんでもない事を言い出す。えっオレそんなこと言ってた?!途端に優斗はパニックに陥る。
「男どうしじゃ結婚なんてできねーんだぜ!ママが言ってた!」
男児が腰に手を当て、得意げに告げる。
「え、そうなの……?」
結生が目を瞬かせ、次第にその表情が困惑へと変わっていく。
「じゃあ、ゆーとと一緒にいるにはどうすれば良いの……?」
騒ぎを聞きつけた先生がやってきて、どうしたのかと3人に尋ねる。事の顛末を聞いた先生は柔らかい笑みを浮かべ、結生に優しく語りかける。
「確かに今の日本では男の子同士で結婚はできないけど、結婚しなくてもずっと一緒にいる事はできるんだよ?」
「そう……なの?」
「結生くんと優斗くんは“おさななじみ“っていう、とっても特別なお友達だから心配しなくても大丈夫」
「おさな、なじみ……」
結生と優斗が、互いを見つめる。
「おさななじみ!」「とくべつ!」
2人は嬉しそうにキャッキャとはしゃぐ。
「安心できたかな?」
「うんっ!」
先生に問いかけられ、結生はパァッと花が咲いたような笑みを向ける。隣にいた優斗も特別という言葉が嬉しかったようで、ずっとニコニコと繰り返している。
(そうだ、オレ────)
自分は結生の幼馴染だから、ずっと一緒にいられる……そう思い、幼馴染という関係に強い想いを抱いていた。幼馴染は特別、だから結生にとって自分は特別……そう思ってきた。だけど、今なら分かる。
「オレ……ずっと結生のことが好きだったんだ……」
ストンと、好きという言葉が心に落ちる。名前が付けられた感情が、優斗の中で急激に溢れ出す。
(今すぐ、結生に会いたい──)
結生さえ無事なら、それで良いと思っていた。でも、それは大きな間違いだった。結生を1人になんてさせない、結生の笑顔はずっと自分が守っていく、強い想いが優斗の心を満たしていく。
「結生のことは、オレが幸せにするって決めたんだ──!」
幼い頃に蓋をしてしまった気持ちを口にすると、パリンッという音と共に周りの景色にヒビが入り硝子のように砕け散る。そして無数の破片の奥から、微かに声が聞こえてくる。
『…………と、……優斗!!』
結生が自分を呼ぶ声だ──優斗は振り返り、会いたくて会いたくて堪らない大切な人の名前を叫ぶ。
「結生……!!!!」
パァンと周りの空気が弾け、再び眩しい光と激しい風の中に飲み込まれる。優斗は左腕を顔の前にかざし、何とか耐える。するとフッと光が消え、身体が吹き飛ばされそうだった風もそよ風に変わる。瞼を開くと、こちらに腕を伸ばしている結生と目が合う。
「──っ結生!!!!」
優斗が必死に腕を伸ばし、2人の指先が触れ合う。
「優斗!!!!」
結生が優斗の腕を掴み、そのまま自身の方へ抱き寄せる。ドサッという重たい音と共に、優斗の身体が結生の上に落下する。
「ったぁ…………」
背が低いとはいえ、決して軽いとは言えない人ひとりの体重を受け止めた結生が衝撃に顔をゆがめる。
「ごっゴメン!!大丈夫か?!」
優斗は慌てて結生の上から退き、胸の辺りをさすりながら眉を下げる。
「おおお折れてないか?!び、病院!救急車!!」
「ふはっ大丈夫だよ。そもそも圏外だから繋がらないよ」
慌てふためく優斗の姿に思わず笑いながら、結生が大丈夫だと宥める。
「ほ、本当に大丈夫か……?」
「大丈夫だってば。優斗こそ……優斗こそ、大丈夫?」
結生は優斗の存在を確かめるようにその顔に触れ、親指で優しく頬を撫でる。目の前で消えてしまったはずの優斗が、今ここにいる。掴めなかったはずの腕を掴んで、この手で受け止めることができた。結生の瞳から、ぽろりと涙が零れる。
「や、やっぱり大丈夫じゃないんじゃ……!」
「ちが、違うんだ……また優斗が消えたと思っ……でも、戻って来てくれて……」
ぐすぐすと子供のように泣いてしまい情けないと思うが、次から次に溢れてくる涙を止めることはできなかった。目の前に優斗がいる、その事実に心が震えどうしようもなかった。
「ゴメン、結生……また1人にして……」
目の前で泣きじゃくる姿に心がキュッとして、優斗は結生の身体を優しく抱き締める。
「もう絶対に結生を1人にしないから……泣かないで?」
優しく人差し指で涙を拭うが、ポロポロと零れ落ちる涙は止まるどころか優斗の指先も濡らしていく。どうしたら目の前の愛しい人は泣き止んでくれるのだろうか……優斗は結生の頭を優しく撫でながら考える。ふいに結生の腕に抱き締められ、猫のようにスリスリと頭をすり寄せられる。首元に結生の柔らかい髪が触れ、くすぐったさに思わず身をよじる。
「ふふっくすぐったいよ結生」
「んー……」
甘えるような声に、愛しさが溢れそうになる。
「……なぁ結生、幼稚園の頃の約束って覚えてるか?」
「え……?」
唐突に問いかけられ、結生は顔を上げて優斗の瞳を覗く。
「結婚して、結生を幸せにするって約束」
「──っ忘れるわけないよ!」
大好きな優斗に、ずっと一緒にいようと言われたあの日。世界で1番幸せなのは自分なんじゃないかと思った。けれど、幼い頃の約束なんて普通は記憶に埋もれてしまう。自分だけは忘れないようにしよう……そう思って、大切に大切に心の中にしまっておいた。
「そっか……オレは、さ。実はさっきまで忘れてて……すごく大事な約束だったのに」
優斗が目を伏せる。
「でも……思い出してさ。約束もオレの気持ちも、全部」
優斗が真っ直ぐ結生の瞳を見つめる。真剣な表情に、結生の心臓がドキドキと騒ぎ始める。
「優斗、の……気持ち……?」
「うん…………オレ、小さい頃からずっと結生のことが好きだ」
優斗がはにかんだような笑顔で伝えると、結生の目が大きく見開かれる。そして、止まっていたはずの涙がまたポロポロと零れ落ちる。
「結生には笑っていて欲しいのに、さっきから泣かせてばっかりだな」
はは、と優斗が笑いながら困ったように眉を下げる。けれど、その涙が悲しみからくるものではない事を優斗は理解していた。
「結生は……?ずっと、オレと一緒にいてくれるか……?」
「……っいる、オレも……優斗のこと、ずっと……ずっと好き」
流れる涙をそのままに、懸命に伝えてくれる結生の頭を宝物のように抱きしめる。
「ずっと一緒、約束な──」
2人の視線が重なり、どちらともなくふわりと笑い合う。自然と距離が近づき、優斗はそっと目を閉じる────と、突然カタカタと窓ガラスが震え始める。
「な、何だ……?!」
結生が優斗の身を守るように、両腕でしっかりと抱きかかえる。すると窓だけでなく、校舎全体が大きくガタガタと大きく揺れ始める。
「じっ地震?!」
どこかに避難しないと!優斗が安全な場所はどこかと視線を巡らせていると、窓からバンッと大きな音が聞こえてくる。驚いて音のした方を見ると、窓ガラスに赤黒い手の跡のようなものがびっしりと付いていた。
「──っ!!」
優斗の肩がビクリと跳ねる。咄嗟に窓から視線を外すと、廊下の奥から黒いモヤのようなものが広がっているのが目に入る。反射的に反対側の廊下も確認すると、そちらにも同じように黒いモヤが広がっていた。そして、モヤはじわじわと両側から近付いてきているようだった。
「……嫌な感じがする、1階に下りよう」
結生は優斗の身体を支えて立ち上がらせ、揺れで転ばないように腰をしっかりと抱き寄せて階段に向かう。
「落ちないように気を付けて」
急ぎ足で、しかし注意深く階段を駆け下りる。ゆらゆらと揺れる黒いモヤの先端が細くなり、じわじわと速度を上げて優斗と結生に迫る。踊り場で方向転換した時に、その姿が視界の端に入り込み優斗の心臓が跳ねる。
「や、ヤバイ!すぐ後ろにいる……!」
「…………っ」
2階まで下りたところで、結生が意を決したように優斗を抱き寄せている腕に力を入れる。今なら出られる気がする──根拠のない直感だが、結生はそのまま目の前の窓の鍵に指をかける。
“ガチャンッ“
鍵が動き、結生はそのまま勢いよく窓を開ける。
「優斗!オレが先に下りるから、合図したら優斗も飛び降りて!オレが絶対に受け止めるから!!」
そう言って、窓枠に右足をかける。
──えっここ2階……!
優斗が声を掛ける間もなく、結生が窓から飛び出してしまう。優斗が慌てて窓から顔を出すと、見事に着地した結生の姿があった。
「優斗!!」
立ち上がり、くるりと振り返った結生が両手を開く。
「……っ」
結生が待っている、それだけで優斗には十分だった。同じように窓に手を掛け、窓枠にかけた右足を蹴り出し飛び降りる。黒いモヤが優斗の姿を追っていたが、優斗の身体が校舎から離れると同時にサラサラと霧のように消えていった。
「──っ!」
どさりと2人が地面に倒れ込む。
「いたた……怪我はない、優斗?」
「オレは大丈夫だけど!結生は大丈夫か?!」
「あぁ、何か思ったほどの衝撃じゃなかったよ。不思議だな」
ふわりと笑顔を見せる姿に、優斗はほっと胸を撫で下ろす。そして2人が振り返ると、そこには待ち合わせの時と同じように真っ暗な校舎があった。
「電気……点いてないな……」
「うん──あっ!見て、結生!」
優斗が指差した先には、街灯も建物の明かりも灯ったいつも通りの景色が広がっていた。遠くで車が走る音も聞こえてくる。ふと校舎の時計に目をやると、その針は8時を指していた。
「存在しない空間にいたってことか……?」
「うーん、まぁ非現実的であることは間違いないな」
首を傾げる優斗に、結生は苦笑して答える。すると、ふいに優斗が俯いて黙ってしまう。
「優斗……?」
「さっき、学校の中であったこと……ちゃんと全部覚えてるか……?」
優斗の瞳がわずかに不安に揺れる。
「……覚えてるよ、全部」
一瞬目を見開いた結生が、穏やかな笑みを浮かべる。
「オレたちが両想いってこと」
「りょうっ……まぁ……そう、だな」
「ふふ、何でそこで照れるんだよ」
くすくすと笑い合い、2人は地面に座ったまま見つめ合う。
「さっきは、邪魔されちゃったけど……さ」
「……うん」
恥ずかしそうに告げる優斗の顎を、結生が優しく指先で掬い上げる。ドキドキと2つの鼓動が高鳴り、静かに唇が重なる。
「……そろそろ帰ろうか、優斗のお母さんも心配するだろうし」
「そう、だな…………あっ!!靴!!」
上靴に履き替えたまま出てきてしまった事に気付き、優斗は自分の靴に目をやる。
「あ、あれ……?」
履き替えたはずの靴が、なぜか来る時に履いていたものに戻っていた。
「……何だったんだろう、本当」
背筋がゾワリとして、優斗が不気味そうに呟く。
「まぁ、無事に戻って来られたんだし」
言いながら立ち上がった結生が優斗を引き起こし、ズボンの汚れを払う。
「さ、帰ろうか」
微笑み合い帰路につく2人は、待ち合わせをした時には3人だった事をすっかり忘れていた──……
「……っ結生!」
目が合った瞬間、優斗は泣きそうな顔で結生の名前を呼んだ。その声を聞いた瞬間、結生は堪らない気持ちになって自身を覗き込む優斗の身体を抱き寄せた。
「ぉわっ」
突然の出来事に優斗はバランスを崩しかけたが、何とか結生の上に倒れ込まずに済んだ。結生に怪我をさせずに済んだことに安堵していると、ふと自身を抱き締める腕が震えている事に気付く。
「結生……?」
優しく問いかけてみるが、返事はない。優斗は幼い子をあやすように、ポンポンとその背中を優しく叩く。
「大丈夫だよ結生、オレはここにいるから」
目の前の結生の身体は自分よりも随分と大きいのに、なぜだか泣き虫だった頃の姿と重なり庇護欲が掻き立てられる。優斗は結生の頭を優しく抱きしめ、軽くキスを落とす。自身の行動に驚くよりも早く、ガバッと結生が顔を上げる。
「ゆ、優斗……?今なにして…………」
「え、えーと…………」
自分の行動に驚き動揺している優斗が、目を泳がせながら頬を染める。その反応は、やはりキスされたのでは……結生の心臓がドキドキと騒ぎ始める。そして、先ほどまでの悪夢が脳裏をよぎる。
(誰かに盗られるくらいなら──)
結生はギュッと拳を握り、意を決したように優斗の顔を見上げる。
「ここから出られたら、さ……聞いて欲しい事があるんだ」
「え……」
今ここでは話せない事なのか、優斗は疑問を口にしようとしたが真剣な眼差しに射抜かれ何も言えなくなる。
「わか、った」
何とか声を絞り出し、優斗が返事をする。結生は優斗の顔を愛おしそうに見つめながら、抱き締めていた手を離し起きあがろうとする。ぱさりと何かが落ち、それがタオルケットだと気付く。それだけでなく、身体の下には毛布も敷かれていた。
「これ……優斗が用意してくれたのか?」
「あ、あぁ。廊下に寝たきりじゃ身体が痛くなると思って……」
優斗の優しさに、じんわりと胸が温かくなる。
「……ありがとう」
ふっと微笑みながら優斗の頬に触れると、ひどく冷えている事に気付く。
「優斗、ずっと廊下にいたのか……?」
「え、うーん……ずっと、なのかな?魘されてる結生を起こそうとしたんだけど、起きなくて……そんなに時間は経ってないと思うけど」
へへっと笑う優斗の肩からタオルケットを掛け、結生が力強く抱き締める。
「え?!結生?!なに?!」
驚いた優斗が腕の中から抜け出そうと力を入れたが、結生の身体はびくともしなかった。
「こんなに冷えて……!そもそもオレのせいだよな、ゴメン……」
優斗の身体を抱き締める力が、更に強くなる。
「ちょ、結生……いたっ……」
「あっ……ご、ゴメン!」
結生が慌てて力を緩め、優斗の身体を優しくさする。
「ごめん本当に……折れてない?」
「いや、そんな簡単に折れないって!」
優斗は思わず吹き出し、おかしそうに笑う。その姿にほっと息を吐き、今度は優しく優斗の身体を抱き締める。
「結生……?」
「オレのせいで冷えたんだから、オレが温める」
「や、笑ったら温まったし!もう大丈夫だって!」
「ダメ」
こういう時の結生は頑固だ。優斗は諦めて黙って結生に温めてもらうことにした。タオルケット越しに結生の体温が伝わり、安心感に包まれる。心に巣食っていた不安も、次第に取り除かれていった。
(結生がいれば、何でもできそうな気がする……)
優斗は温かな結生の背中に手を回し、頬を擦り寄せる。結生の身体がピクリと揺れ小さなうめき声が聞こえた気がしたが、心地よい体温に微睡む優斗はその身体を更に強く抱き締めた────
「はっ!!」
優斗の身体がビクリと揺れる。え、寝てた?!慌てて顔を上げると、結生に抱き締められたままだった。
「ご、ゴメン結生、オレ寝てたかも」
「そうなのか?5分くらいしか経ってないと思うから大丈夫だよ」
あわあわとする優斗に、結生が柔らかく微笑む。
「温かくなって眠くなったのか?ふふ、優斗は本当に可愛いな」
「え、ぁ……お……」
あまりにも甘い視線と声音に、優斗は言葉にならない声を発する。
「さて、それじゃあ3つ目の怪談を確かめに行こうか」
タオルケットを畳みながら結生が立ち上がる。
「あ……そ、そうだな!」
結生に続いて、優斗も慌てて立ち上がる。
「4階に向かう途中の踊り場に黒髪の女が立っている……だっけ」
「そうだね、とりあえず3階まで行ってみようか」
2人は蛍光灯で明るく照らされた廊下を歩き、近くの階段に向かう。依然として窓の外は暗闇に包まれている。
「そういえば……さっきかなり魘されてたけど、嫌な夢でも見てたのか……?」
「嫌な夢…………そうだな……オレにとっては死ぬより辛い悪夢、だったかな」
「そっ……か……」
今にも泣き出しそうな顔で答えてくれた結生に、優斗は何と声を掛けて良いのか分からず俯いたまま階段を上る。
「優斗は大丈夫だったか?」
「オレ……?」
ふいに問いかけられ、優斗は首を傾げる。
「音楽室に入った後、優斗が戻って来なかったんだよ。それで様子を見に入ったんだけど、教室の電気が消えてて……」
「そう、だったんだ……オレは普通に音楽室から出たんだけど、そしたら結生がいなくなってて……」
「えっそうなの?」
結生が驚いて目を見開く。
「トイレかなと思って見に行ったんだけど、いなくて……それで気付いたら目の前にオレたちのクラスがあって──」
優斗は自身に降りかかった不可思議な出来事を結生に説明する。普通に授業を受け、気付くと屋上にいて……そこでの結生とのやり取りを思い出し、優斗の顔がカーッと熱くなる。
「優斗?」
急に黙り込んでしまった優斗を不審に思い、俯いた顔を覗き込む。
「え、熱あるんじゃないか?!」
赤く染まった優斗の顔に、結生が慌てて熱を測ろうと額に手を伸ばす。
「だっだい!だいじょぶ!!」
優斗は伸びてきた手から逃げるように身体を仰け反らせ、大丈夫だと制止する。
「あっほら!この階段じゃないか?!」
タイミングよく3階に到着し、優斗はわざとらしく踊り場を見上げる。
「えーと、そこに黒髪の女が立ってる…のか?」
心なしか薄暗いな……そう思って見ていると、結生にグイッと腕を引っ張られる。
「──わっ何?!」
突然の出来事に驚き、バランスを崩した優斗はそのまま結生の胸に抱き寄せられてしまう。
「ゆっ結生……?!」
「しっ──何か聞こえる」
「え……」
緊迫した空気に、優斗は身を固くしながら耳を澄ませる。
“ズルッ…………ズッ……ズル…………“
何かを引き摺るような音が、段々とこちらに近付いてくる。
「え、なに……」
優斗は思わず結生のワイシャツを握り締める。すると、階段を伝うようにチョロチョロと水が流れてくる。
「水……?何で……」
異様な光景に2人の心拍数が急激に上がっていく。
“ピチャ──“
かすかに水音が聞こえたかと思うと、天井から滴り落ちてきた雫が結生の肩を濡らし、ワイシャツに吸い込まれていく。驚いて天井を見上げると、そこにはびっしりと髪の毛のようなものが張り付いていた。
「──っ!!」
結生の肩がビクリと跳ね、声にならない悲鳴を上げる。釣られて見上げてしまった優斗も同じ光景を目にし、カタカタと震え始める。
“ズルッ……ズルッ……“
階段から流れてきた水がじわじわと足元に広がっていくと同時に、不気味な音も次第に大きくなっていく。
何か、いる────
心臓がバクバクと警鐘を鳴らすが、足がすくんで動くことができない。すると突然、廊下の全ての窓が風もないのにガタガタと激しく音を立て始める。蛍光灯がチカチカと点滅し、ひんやりとした空気が全身に纏わりつく。
『カカ、カ…………』
蛍光灯の点滅が収まったかと思うと、しんと静まり返った廊下に耳障りな音が響く。ふと優斗が踊り場に目をやると、そこには首が90度に曲がった黒髪の女が立っていた。薄汚れた白いワンピースの裾がゆらゆらと揺れ、ボサボサの髪が膝下まで伸びている。
「ヒッ──」
人ではない目の前のそれに、優斗の膝がガクンと崩れその場に座り込んでしまう。
『カカ……カ、カカカ…………』
女の頭が小刻みに揺れ、不気味な音を発する。その音がどんどんと大きくなり、本能的に身の危険を感じた結生は何とか優斗を立ち上がらせようと腕を回す。すると女の動きがピタリと止まり、辺りは静寂に包まれる。
(な、何だ…………)
取り敢えず、今のうちに逃げよう──そう思った瞬間、女の髪が壁伝いに一気に伸びる。おびただしい量の髪の毛が壁を這い、まるで生き物のように蠢く。そして、そのうちの1束がスルスルと階段を這い下りてきて優斗の足首に巻き付く。
「うっうわぁ!!」
「優斗!!」
何とか振り払おうとするが、髪の毛は離れるどころか物凄い力で優斗の身体を女の方に引き摺り込もうとする。結生は咄嗟に優斗の身体を抱き締め力を入れる。しかし、あまりにも強い力に結生の身体もズルズルと引っ張られてしまう。
「く……このっ…………優斗を離せ!!」
踵に渾身の力を込めて踏ん張り、結生が睨みつける。すると一瞬フッと優斗を引く力が弱まり、結生はすかさず優斗の身体を抱き寄せる。
『カ、カカ…………カ……カカカ………………カカカカガガガガガガァァァ!!!!』
女の頭がまるで威嚇するかのように、激しく上下する。耳を塞ぎたくなるような不快な音が辺りに響き、優斗と結生は思わず顔を顰める。そして壁に張り付いていた女の髪が勢いよく優斗の方に伸び、胴体に巻き付く。先ほどとは比べものにならない力で引っ張られた優斗の身体が結生の腕をすり抜け、そのまま宙を舞う。
──あ、多分このまま死ぬ
優斗の脳裏を、死の予感が過ぎる。結生が自分に聞いて欲しい話とは何だったのだろうか……そんなことを考えながら、必死に手を伸ばしてくれる結生の姿を見下ろす。結生と離れ離れになるのは嫌だな……けど、結生だけでも助かって欲しい……どうか連れて行くのは自分だけにして下さい──そう願い、優斗は静かに目を閉じる。
「優斗……!!!!」
結生の悲痛な叫び声が廊下に響く。すると突然カッと辺りが真っ白な光に包まれ、あまりの眩しさに結生はぎゅっと目を瞑る。
「なん、だ…………」
ほんの数秒で光はおさまり、結生はゆっくりと目を開く。蛍光灯がチカチカと明滅し、やがて何事もなかったかのように静寂が訪れる。先ほどまでの出来事が嘘だったかのように、廊下にはポツンと結生だけが残されていた。
「ゆうと……優斗!」
結生はハッとして、必死に優斗を探し回る。階段を駆け上り4階に向かったが、どこにも優斗の姿はなかった。
「なん、で………………」
全身から力が抜け、結生はストンとその場に座り込んでしまう。
(やっと……会えたのに…………)
優斗の身体が腕の中をすり抜けていく感覚を思い出し、結生は握り締めた拳を床に叩きつける。
──自分がもっとしっかり掴んでいれば
──宙に浮く優斗の手を握ることができていれば
「…………くそ!!!!」
己の不甲斐なさに涙が滲み出る。2度と優斗の側を離れないと決めた矢先に、再び失ってしまった。
(何で……何で優斗だけ連れて行くんだ……)
1人残されるくらいなら、一緒に連れて行かれた方がよっぽどマシだった。優斗さえいれば、そこが地獄だろうと関係ない。優斗と一緒にいられれば、何でも良かった。
「オレから……優斗を奪わないでくれ…………」
か細い声が、しんと静まり返った廊下に消えていった。
***
「う…………」
ふいに真っ白な光に包まれ、優斗は咄嗟に目を閉じ顔を背けた。光は数秒で消え、優斗はゆっくりと瞼を開く。──開いたはずだったが、目の前は真っ暗で何も見えなかった。方向感覚も曖昧で、自分が立っているのか座っているのかさえ分からない。
「どこだよ、ここ……」
優斗は小さく呟き周囲に視線を巡らせたが、どこまでも続く暗闇が広がっているだけだった。
「結生…………」
そうだ、結生は無事だろうか。光に包まれる直前の、必死な結生の表情を思い出し胸が締め付けられる。結生にはいつも笑っていて欲しいのに、その笑顔を守っていたいのに──自分のせいで悲しませてしまった。
「結生、1人で大丈夫かな……」
ポツリと呟く。自分のことはどうだって良い、優斗の頭の中を占めているのは結生のことだけだった。すると突然、背後から温かな光が差し込む。
「何だ──」
振り返った優斗が、その光の中に飲み込まれる。
ゆっくりと目を開けると、心地良い風が吹き抜け優斗の髪を優しく撫でた。一体なにが……辺りを確認すると、そこは優斗と結生が通っていた幼稚園の園庭だった。記憶の中の園舎、遠くから聞こえる楽しそうな子供たちの笑い声。懐かしさに優斗が思わず目を細める。
(過去……思い出か……?)
優斗がゆっくりと足を進めると、園児たちが外に駆け出してくる。卒園した身とはいえ、今は完全に部外者だ。知らない人間がいたら不審がられるに違いない、優斗は慌てて隠れる場所を探す。しかし、あわあわとしている間に園児たちが走ってきてしまう。
「えっどうしよ……!」
咄嗟に言い訳を考えている優斗の横を、園児たちが笑いながら駆け抜けていく。
(あ、あれ……?)
続いて出てきた先生も、優斗のことは全く気にしていない様子だった。もしかして見えてない……?優斗はそろりと園児の側に近づく。やはり誰の目にも優斗の姿は映っていないようで、楽しそうにキャッキャと遊んでいる。
「ユキー!」
一際元気な声が園庭に響き、優斗は声が聞こえた方に目をやる。そこには幼い頃の自分の姿と、にこにこと可愛らしく笑う結生の姿があった。
(エッ可愛すぎない?!)
優斗は思わず叫びそうになり、両手で自身の口元を押さえる。少し長めの黒髪がサラサラと風に吹かれ、まるでお人形さんのようだった。
「天使…………?」
優斗がぽそりと呟き見入っていると、何やら2人でヒソヒソとお喋りを始める。優斗がニカっと笑い、結生がはにかんだような笑みを浮かべる。仲良しだな……自然とそう思える光景だった。するとそこに、よく結生にちょっかいを出していた男児がやってくる。
「なんだよ、ユキと結婚するのはオレなんだからな!」
目の前の優斗がとんでもない事を言い出す。えっオレそんなこと言ってた?!途端に優斗はパニックに陥る。
「男どうしじゃ結婚なんてできねーんだぜ!ママが言ってた!」
男児が腰に手を当て、得意げに告げる。
「え、そうなの……?」
結生が目を瞬かせ、次第にその表情が困惑へと変わっていく。
「じゃあ、ゆーとと一緒にいるにはどうすれば良いの……?」
騒ぎを聞きつけた先生がやってきて、どうしたのかと3人に尋ねる。事の顛末を聞いた先生は柔らかい笑みを浮かべ、結生に優しく語りかける。
「確かに今の日本では男の子同士で結婚はできないけど、結婚しなくてもずっと一緒にいる事はできるんだよ?」
「そう……なの?」
「結生くんと優斗くんは“おさななじみ“っていう、とっても特別なお友達だから心配しなくても大丈夫」
「おさな、なじみ……」
結生と優斗が、互いを見つめる。
「おさななじみ!」「とくべつ!」
2人は嬉しそうにキャッキャとはしゃぐ。
「安心できたかな?」
「うんっ!」
先生に問いかけられ、結生はパァッと花が咲いたような笑みを向ける。隣にいた優斗も特別という言葉が嬉しかったようで、ずっとニコニコと繰り返している。
(そうだ、オレ────)
自分は結生の幼馴染だから、ずっと一緒にいられる……そう思い、幼馴染という関係に強い想いを抱いていた。幼馴染は特別、だから結生にとって自分は特別……そう思ってきた。だけど、今なら分かる。
「オレ……ずっと結生のことが好きだったんだ……」
ストンと、好きという言葉が心に落ちる。名前が付けられた感情が、優斗の中で急激に溢れ出す。
(今すぐ、結生に会いたい──)
結生さえ無事なら、それで良いと思っていた。でも、それは大きな間違いだった。結生を1人になんてさせない、結生の笑顔はずっと自分が守っていく、強い想いが優斗の心を満たしていく。
「結生のことは、オレが幸せにするって決めたんだ──!」
幼い頃に蓋をしてしまった気持ちを口にすると、パリンッという音と共に周りの景色にヒビが入り硝子のように砕け散る。そして無数の破片の奥から、微かに声が聞こえてくる。
『…………と、……優斗!!』
結生が自分を呼ぶ声だ──優斗は振り返り、会いたくて会いたくて堪らない大切な人の名前を叫ぶ。
「結生……!!!!」
パァンと周りの空気が弾け、再び眩しい光と激しい風の中に飲み込まれる。優斗は左腕を顔の前にかざし、何とか耐える。するとフッと光が消え、身体が吹き飛ばされそうだった風もそよ風に変わる。瞼を開くと、こちらに腕を伸ばしている結生と目が合う。
「──っ結生!!!!」
優斗が必死に腕を伸ばし、2人の指先が触れ合う。
「優斗!!!!」
結生が優斗の腕を掴み、そのまま自身の方へ抱き寄せる。ドサッという重たい音と共に、優斗の身体が結生の上に落下する。
「ったぁ…………」
背が低いとはいえ、決して軽いとは言えない人ひとりの体重を受け止めた結生が衝撃に顔をゆがめる。
「ごっゴメン!!大丈夫か?!」
優斗は慌てて結生の上から退き、胸の辺りをさすりながら眉を下げる。
「おおお折れてないか?!び、病院!救急車!!」
「ふはっ大丈夫だよ。そもそも圏外だから繋がらないよ」
慌てふためく優斗の姿に思わず笑いながら、結生が大丈夫だと宥める。
「ほ、本当に大丈夫か……?」
「大丈夫だってば。優斗こそ……優斗こそ、大丈夫?」
結生は優斗の存在を確かめるようにその顔に触れ、親指で優しく頬を撫でる。目の前で消えてしまったはずの優斗が、今ここにいる。掴めなかったはずの腕を掴んで、この手で受け止めることができた。結生の瞳から、ぽろりと涙が零れる。
「や、やっぱり大丈夫じゃないんじゃ……!」
「ちが、違うんだ……また優斗が消えたと思っ……でも、戻って来てくれて……」
ぐすぐすと子供のように泣いてしまい情けないと思うが、次から次に溢れてくる涙を止めることはできなかった。目の前に優斗がいる、その事実に心が震えどうしようもなかった。
「ゴメン、結生……また1人にして……」
目の前で泣きじゃくる姿に心がキュッとして、優斗は結生の身体を優しく抱き締める。
「もう絶対に結生を1人にしないから……泣かないで?」
優しく人差し指で涙を拭うが、ポロポロと零れ落ちる涙は止まるどころか優斗の指先も濡らしていく。どうしたら目の前の愛しい人は泣き止んでくれるのだろうか……優斗は結生の頭を優しく撫でながら考える。ふいに結生の腕に抱き締められ、猫のようにスリスリと頭をすり寄せられる。首元に結生の柔らかい髪が触れ、くすぐったさに思わず身をよじる。
「ふふっくすぐったいよ結生」
「んー……」
甘えるような声に、愛しさが溢れそうになる。
「……なぁ結生、幼稚園の頃の約束って覚えてるか?」
「え……?」
唐突に問いかけられ、結生は顔を上げて優斗の瞳を覗く。
「結婚して、結生を幸せにするって約束」
「──っ忘れるわけないよ!」
大好きな優斗に、ずっと一緒にいようと言われたあの日。世界で1番幸せなのは自分なんじゃないかと思った。けれど、幼い頃の約束なんて普通は記憶に埋もれてしまう。自分だけは忘れないようにしよう……そう思って、大切に大切に心の中にしまっておいた。
「そっか……オレは、さ。実はさっきまで忘れてて……すごく大事な約束だったのに」
優斗が目を伏せる。
「でも……思い出してさ。約束もオレの気持ちも、全部」
優斗が真っ直ぐ結生の瞳を見つめる。真剣な表情に、結生の心臓がドキドキと騒ぎ始める。
「優斗、の……気持ち……?」
「うん…………オレ、小さい頃からずっと結生のことが好きだ」
優斗がはにかんだような笑顔で伝えると、結生の目が大きく見開かれる。そして、止まっていたはずの涙がまたポロポロと零れ落ちる。
「結生には笑っていて欲しいのに、さっきから泣かせてばっかりだな」
はは、と優斗が笑いながら困ったように眉を下げる。けれど、その涙が悲しみからくるものではない事を優斗は理解していた。
「結生は……?ずっと、オレと一緒にいてくれるか……?」
「……っいる、オレも……優斗のこと、ずっと……ずっと好き」
流れる涙をそのままに、懸命に伝えてくれる結生の頭を宝物のように抱きしめる。
「ずっと一緒、約束な──」
2人の視線が重なり、どちらともなくふわりと笑い合う。自然と距離が近づき、優斗はそっと目を閉じる────と、突然カタカタと窓ガラスが震え始める。
「な、何だ……?!」
結生が優斗の身を守るように、両腕でしっかりと抱きかかえる。すると窓だけでなく、校舎全体が大きくガタガタと大きく揺れ始める。
「じっ地震?!」
どこかに避難しないと!優斗が安全な場所はどこかと視線を巡らせていると、窓からバンッと大きな音が聞こえてくる。驚いて音のした方を見ると、窓ガラスに赤黒い手の跡のようなものがびっしりと付いていた。
「──っ!!」
優斗の肩がビクリと跳ねる。咄嗟に窓から視線を外すと、廊下の奥から黒いモヤのようなものが広がっているのが目に入る。反射的に反対側の廊下も確認すると、そちらにも同じように黒いモヤが広がっていた。そして、モヤはじわじわと両側から近付いてきているようだった。
「……嫌な感じがする、1階に下りよう」
結生は優斗の身体を支えて立ち上がらせ、揺れで転ばないように腰をしっかりと抱き寄せて階段に向かう。
「落ちないように気を付けて」
急ぎ足で、しかし注意深く階段を駆け下りる。ゆらゆらと揺れる黒いモヤの先端が細くなり、じわじわと速度を上げて優斗と結生に迫る。踊り場で方向転換した時に、その姿が視界の端に入り込み優斗の心臓が跳ねる。
「や、ヤバイ!すぐ後ろにいる……!」
「…………っ」
2階まで下りたところで、結生が意を決したように優斗を抱き寄せている腕に力を入れる。今なら出られる気がする──根拠のない直感だが、結生はそのまま目の前の窓の鍵に指をかける。
“ガチャンッ“
鍵が動き、結生はそのまま勢いよく窓を開ける。
「優斗!オレが先に下りるから、合図したら優斗も飛び降りて!オレが絶対に受け止めるから!!」
そう言って、窓枠に右足をかける。
──えっここ2階……!
優斗が声を掛ける間もなく、結生が窓から飛び出してしまう。優斗が慌てて窓から顔を出すと、見事に着地した結生の姿があった。
「優斗!!」
立ち上がり、くるりと振り返った結生が両手を開く。
「……っ」
結生が待っている、それだけで優斗には十分だった。同じように窓に手を掛け、窓枠にかけた右足を蹴り出し飛び降りる。黒いモヤが優斗の姿を追っていたが、優斗の身体が校舎から離れると同時にサラサラと霧のように消えていった。
「──っ!」
どさりと2人が地面に倒れ込む。
「いたた……怪我はない、優斗?」
「オレは大丈夫だけど!結生は大丈夫か?!」
「あぁ、何か思ったほどの衝撃じゃなかったよ。不思議だな」
ふわりと笑顔を見せる姿に、優斗はほっと胸を撫で下ろす。そして2人が振り返ると、そこには待ち合わせの時と同じように真っ暗な校舎があった。
「電気……点いてないな……」
「うん──あっ!見て、結生!」
優斗が指差した先には、街灯も建物の明かりも灯ったいつも通りの景色が広がっていた。遠くで車が走る音も聞こえてくる。ふと校舎の時計に目をやると、その針は8時を指していた。
「存在しない空間にいたってことか……?」
「うーん、まぁ非現実的であることは間違いないな」
首を傾げる優斗に、結生は苦笑して答える。すると、ふいに優斗が俯いて黙ってしまう。
「優斗……?」
「さっき、学校の中であったこと……ちゃんと全部覚えてるか……?」
優斗の瞳がわずかに不安に揺れる。
「……覚えてるよ、全部」
一瞬目を見開いた結生が、穏やかな笑みを浮かべる。
「オレたちが両想いってこと」
「りょうっ……まぁ……そう、だな」
「ふふ、何でそこで照れるんだよ」
くすくすと笑い合い、2人は地面に座ったまま見つめ合う。
「さっきは、邪魔されちゃったけど……さ」
「……うん」
恥ずかしそうに告げる優斗の顎を、結生が優しく指先で掬い上げる。ドキドキと2つの鼓動が高鳴り、静かに唇が重なる。
「……そろそろ帰ろうか、優斗のお母さんも心配するだろうし」
「そう、だな…………あっ!!靴!!」
上靴に履き替えたまま出てきてしまった事に気付き、優斗は自分の靴に目をやる。
「あ、あれ……?」
履き替えたはずの靴が、なぜか来る時に履いていたものに戻っていた。
「……何だったんだろう、本当」
背筋がゾワリとして、優斗が不気味そうに呟く。
「まぁ、無事に戻って来られたんだし」
言いながら立ち上がった結生が優斗を引き起こし、ズボンの汚れを払う。
「さ、帰ろうか」
微笑み合い帰路につく2人は、待ち合わせをした時には3人だった事をすっかり忘れていた──……
