話の通じない香澄を、席につかせるまでにかかった時間は実に二十分。桂の生きてきた中で、一番長い二十分だった。
この説得が二十分で済んだのは、鈴のお陰であった。香澄に話がしたいと訴えても、早く処断しろと言われ続け、心が折れかけた桂。だが鈴が発した「蘭がいれてくれたお茶、冷めちゃったのです……」が、香澄の心に届いた。香澄は鈴と蘭に謝ってから、座布団に座ってお茶を飲み始めたのだ。
これには桂もびっくりである。自分の言葉は一切聞かないのに、鈴の言葉は聞くことに。大層驚き、後で鈴にお菓子をあげようと決めたのだった。
桂は香澄の向かいに座る。有能な蘭は桂の前にお茶を置くかどうか悩んでいたが、鈴が「どうぞです」とお茶を置く。もちろん、香澄の飲んでいるものと同じで冷めたお茶だ。蘭は青ざめるが、桂は気にせずにひと口飲んだ。
咳払いをひとつしてから、桂は香澄を真っ直ぐに見つめた。
「倉橋香澄」
「はい。どうかされましたか?」
どうかしているのはどちらだ。そう言いたい気持ちをぐっと堪え、桂はひとつひとつ確認するために口を開く。
「貴様は、今日なぜここに来た。理由も聞かされず来た訳ではないだろう」
「……妖怪と人間の共生のため。国から何かを行えと要請があり、祓い屋たちの集会で上がったのがこの縁談、だと聞いています。なので私は貴方に嫁ぎに来ました。嫁入りですね」
淡々とした言葉は、桂の知っている事情と同じことを告げる。だからこそ、桂は頭を抱えた。
「それで貴様は俺に何をした」
「殺そうとしました」
「なぜ! 和睦のための婚姻に来たのに、そうなるのだ! おかしいだろ!」
至極真っ当である。
一歩間違えればどころか、成功した瞬間に祓い屋と妖狐の戦争が開始されるほどの事件だ。それが巡り巡って人間と妖怪の大戦争になる可能性もある。
なのにその火種となりそうだった人間は「そうですね」と涼しい顔をしてお茶を飲んでいる。桂は頭に痛みを感じ始めた。間違いなく心因性であろう。
「……私は、正直に言えば、人間と妖怪の共生社会に興味は無いんです」
さすがに桂の様子に思うことがあったのだろう。香澄はポつりと言葉をこぼす。
「では何故、俺との縁談を承諾した?」
真意を探るチャンスだと判断した桂は、深く切り込んだ。その質問に、香澄は悩む素振りを見せた。
「…………言いたくないです」
「それは何故だ」
「私は、自分の願いのためにここに来ました。でも願い事って、人に言ったら叶わないっていうじゃないですか。だから言いたくないです」
何とも可愛らしい理由だった。恥ずかしそうに頬を染め、斜め下に視線を向ける香澄。桂はその姿に胸が掴まれるような感覚がした。理解できないと思っていた生物がみせた愛らしさ。一種のギャップとも言える姿に、ときめくのも無理は無い。
桂は自分の胸の内が悟られないように表情を作りつつ「では、俺を祓おうとしたのも願いのためか?」と話を続けた。
「はい」
果たして、妖怪を祓って叶う願いとは何なのか。
気になるが、恐らくはこれ以上のことを喋らないだろう。それがわかっていたので、無闇矢鱈に追求せずに、お茶を飲んだ。
「お聞きしておきたいことがあるのですが……」
「なんだ?」
「婚姻してからも祓い屋としての仕事をするように当主から言われておりまして、問題はなかったでしょうか?」
恐る恐る質問をするものだから、とんでもない質問をされると思っていた桂は疑問に思いつつも「問題ない。それが貴様の仕事だろう。だが一応、依頼が来た時には俺にも教えろ。もちろん秘密にすべき事項は話さなくともよい」と返した。
その返答に面を食らった様子なのは香澄だった。何度か母音を口にしつつ慌てている。桂は首を傾げて、伝えたいことが固まるまで待った。
「良いのですか?」
「それは何についての質問だ?」
「妖怪を祓う……殺すことについてです」
(……っ! 変な人間だとばかり思っていたが――)
桂から見た香澄の最初の印象は、大人しそうで可哀想な人間。次はイカレ女。そして今は、真面目な人間。
(そうだな。先程もこの女は俺を殺すと言った。コイツは、妖怪を同じ生き物と見ているのか)
祓い屋。文字通り、祓い屋達は妖怪を祓うと言う。彼らにとって妖怪は、罪であり不浄の存在。
だから祓う、という言葉を使う。妖怪はいてはならない存在。生前に罪を犯した人間が転生するとの伝承が残る、罪の象徴。祓い屋達は妖怪を同じ生き物として見ていないのだ。
けれど香澄は殺すと言った。それは妖怪を同じ生き物として尊重し、自分の行いは罪であると公言しているも同然だ。
香澄は間違いなく桂を殺そうとした。自分の願いを叶えるために。本来果たすべき責務を殴り捨て、私欲のための殺し。それは許されるべきではない。だが、彼女の真面目さは本当のことだろう。
(変な女だな)
少しだけ、本当に少しだけ、桂は香澄に興味が湧いた。真面目な女が自分を殺して叶えられる願いとはなんなのか。それについても気になっていた。
懐から短刀と、暗器を取りだした桂は本来の持ち主である香澄にそれを渡した。
「……どうしてですか?」
「なに、これから貴様とは夫婦になるのだ。妻の持ち物を勝手に持っておくのは良くない」
桂の真意が分からずに顔を顰める香澄だったが、武器は無いと困るので受け取った。なにか仕込まれていないかを確認するが、特に異常はなかったので机の上に置いておく。暗器を仕込む姿を出会ったばかりの妖怪――さらに言えば男性――に見せるのは抵抗があった。
「あの、その結婚についてなのですが……」
「問題があるのか?」
「そもそも私は十五なので、結婚ができないです」
「なんだそんなことか」
(そんなこと……? 重要なことだと思うのですが。……もしかして、私は何かを勘違いしてる?)
良く考えれば、妖怪に戸籍はあるのか。戸籍がなければ籍を入れられない。もしかしたら人間と妖怪の結婚は違う形なのかもしれない。
そんなことを考えていたせいで、香澄はそれに反応するのが遅れた。香澄が気づいた時には、桂の顔はすぐ近くまで迫っていた。
「桂さ……」
それ以上は言葉にならなかった。続きは桂の口に吸い込まれ、音としてこの世に存在することは叶わなかったのだ。
驚きで目を見開く香澄。対して桂はそんな香澄を面白そうに見つめていた。部屋の隅の方に控えていた鈴の目を蘭が塞ぐ。
口の中をさんざん弄ばれた末に、桂は香澄から離れた。ペロリと唇を舐める姿は蠱惑的であり、香澄は反射的にカッと顔を赤くした。
「ウブな反応だな。流石にこういうことには慣れていないか」
香澄は無言で机の上の短刀を手に取り、桂に斬りかかるが、簡単に伏せがれる。予測されていたのと、最初に見せたような素早さが一連の動作にはなかったせいだ。それだけで桂の心の内の溝が満たされる。
「……今の行動になんの意味があるのか、説明していただけますよね」
「仮だが、今ので婚姻が完了した」
「詳しく説明してください」
「妖怪にとっての婚姻は、人間達のように届け出を出し、神に誓い、といったものではない。力と力の結びつきを作るものだ」
桂は人差し指を香澄の胸に軽く当てる。
「貴様の霊力と俺の妖力を繋げた。これで妖怪としては結婚をしたと言える」
「それは、大丈夫なのですか」
人間の持つ霊力と、妖怪の持つ妖力は似て非なる力だ。同一の性質を持つが、その強さが違う。簡単に言えば妖力にとっての一は、霊力にとっては百なのだ。
そのぐらいの力の差があるものを、流し込めば当然器は壊れる。そのことを香澄は尋ねているのだ。
「あくまでも繋がりを作っただけだ。俺がお前に妖力を流し込むのはマズイが、そうしなければなんら問題はない」
「流し込まないのですか?」
「当たり前だ」
「流し込めば、多分死ぬと思うのですが」
香澄の思惑がわかった桂は「しない」と強く言った。
油断も隙もない。すぐに桂に殺させようとしてくる女。種族が違う。思考回路は意味不明。だが真面目に妖怪を見ている。生き物として、同じ世界を生きるべき存在として、妖怪を扱う。
真っ当な婚姻関係を継続できるかは不明だが、きっと飽きはしない。
ナイフを掴む香澄の手を机に押し当て、桂は顔を寄せた。それだけで赤く染まる頬にニヤリと満足そうに微笑む。
「蘭、鈴」
「はい」
「はいです!」
「鈴、こういう時は、ですはいらない」
「はい!」
「香澄を部屋に案内してやれ。俺は自室に戻る」
「……良いのですか?」
改めて、確認をしてくる蘭に「あぁ」とだけ告げて、桂は客間から出ていく。
不安そうに主の背中を見つめていた蘭だったが、頭を振って不安を外に押し出す。それから香澄の方を見れば、香澄は机に突っ伏していた。鈴は香澄の頭を撫でている。
「香澄様、どうされましたか?」
「どうもしないので……少しだけ、時間を……」
「大丈夫? 頭熱いです」
「ダイジョブです……」
どうやら桂とのやり取りで照れているようだった。
(桂様に危害を加える不届き者ではありますが……。こういうところを見ると、なんというか可愛らしい方ですね)
自分の主を襲った不敬で、おかしな人間。恐怖を覚えていた蘭だったが、少しだけ恐怖心が和らいだ。
(妖怪だけじゃない。人間も多面的なのですね。一面だけを見て知った気になってはいけない。私は、この方にもお仕えするのだから。きっちり知っていかなければ)
心の中でそう決心をする蘭のことなど知らない香澄は、先程のことで頭がいっぱいだった。
(初めて……触れられたことない……なのにあんなに普通に。しかも、口の中に……)
ファーストキス。それに夢を見ていたつもりは無いが、つもりがなかっただけなことを自覚した香澄。今の彼女の頭から願い事についてが完全に消え失せていたことを知る者はいないのだった。
この説得が二十分で済んだのは、鈴のお陰であった。香澄に話がしたいと訴えても、早く処断しろと言われ続け、心が折れかけた桂。だが鈴が発した「蘭がいれてくれたお茶、冷めちゃったのです……」が、香澄の心に届いた。香澄は鈴と蘭に謝ってから、座布団に座ってお茶を飲み始めたのだ。
これには桂もびっくりである。自分の言葉は一切聞かないのに、鈴の言葉は聞くことに。大層驚き、後で鈴にお菓子をあげようと決めたのだった。
桂は香澄の向かいに座る。有能な蘭は桂の前にお茶を置くかどうか悩んでいたが、鈴が「どうぞです」とお茶を置く。もちろん、香澄の飲んでいるものと同じで冷めたお茶だ。蘭は青ざめるが、桂は気にせずにひと口飲んだ。
咳払いをひとつしてから、桂は香澄を真っ直ぐに見つめた。
「倉橋香澄」
「はい。どうかされましたか?」
どうかしているのはどちらだ。そう言いたい気持ちをぐっと堪え、桂はひとつひとつ確認するために口を開く。
「貴様は、今日なぜここに来た。理由も聞かされず来た訳ではないだろう」
「……妖怪と人間の共生のため。国から何かを行えと要請があり、祓い屋たちの集会で上がったのがこの縁談、だと聞いています。なので私は貴方に嫁ぎに来ました。嫁入りですね」
淡々とした言葉は、桂の知っている事情と同じことを告げる。だからこそ、桂は頭を抱えた。
「それで貴様は俺に何をした」
「殺そうとしました」
「なぜ! 和睦のための婚姻に来たのに、そうなるのだ! おかしいだろ!」
至極真っ当である。
一歩間違えればどころか、成功した瞬間に祓い屋と妖狐の戦争が開始されるほどの事件だ。それが巡り巡って人間と妖怪の大戦争になる可能性もある。
なのにその火種となりそうだった人間は「そうですね」と涼しい顔をしてお茶を飲んでいる。桂は頭に痛みを感じ始めた。間違いなく心因性であろう。
「……私は、正直に言えば、人間と妖怪の共生社会に興味は無いんです」
さすがに桂の様子に思うことがあったのだろう。香澄はポつりと言葉をこぼす。
「では何故、俺との縁談を承諾した?」
真意を探るチャンスだと判断した桂は、深く切り込んだ。その質問に、香澄は悩む素振りを見せた。
「…………言いたくないです」
「それは何故だ」
「私は、自分の願いのためにここに来ました。でも願い事って、人に言ったら叶わないっていうじゃないですか。だから言いたくないです」
何とも可愛らしい理由だった。恥ずかしそうに頬を染め、斜め下に視線を向ける香澄。桂はその姿に胸が掴まれるような感覚がした。理解できないと思っていた生物がみせた愛らしさ。一種のギャップとも言える姿に、ときめくのも無理は無い。
桂は自分の胸の内が悟られないように表情を作りつつ「では、俺を祓おうとしたのも願いのためか?」と話を続けた。
「はい」
果たして、妖怪を祓って叶う願いとは何なのか。
気になるが、恐らくはこれ以上のことを喋らないだろう。それがわかっていたので、無闇矢鱈に追求せずに、お茶を飲んだ。
「お聞きしておきたいことがあるのですが……」
「なんだ?」
「婚姻してからも祓い屋としての仕事をするように当主から言われておりまして、問題はなかったでしょうか?」
恐る恐る質問をするものだから、とんでもない質問をされると思っていた桂は疑問に思いつつも「問題ない。それが貴様の仕事だろう。だが一応、依頼が来た時には俺にも教えろ。もちろん秘密にすべき事項は話さなくともよい」と返した。
その返答に面を食らった様子なのは香澄だった。何度か母音を口にしつつ慌てている。桂は首を傾げて、伝えたいことが固まるまで待った。
「良いのですか?」
「それは何についての質問だ?」
「妖怪を祓う……殺すことについてです」
(……っ! 変な人間だとばかり思っていたが――)
桂から見た香澄の最初の印象は、大人しそうで可哀想な人間。次はイカレ女。そして今は、真面目な人間。
(そうだな。先程もこの女は俺を殺すと言った。コイツは、妖怪を同じ生き物と見ているのか)
祓い屋。文字通り、祓い屋達は妖怪を祓うと言う。彼らにとって妖怪は、罪であり不浄の存在。
だから祓う、という言葉を使う。妖怪はいてはならない存在。生前に罪を犯した人間が転生するとの伝承が残る、罪の象徴。祓い屋達は妖怪を同じ生き物として見ていないのだ。
けれど香澄は殺すと言った。それは妖怪を同じ生き物として尊重し、自分の行いは罪であると公言しているも同然だ。
香澄は間違いなく桂を殺そうとした。自分の願いを叶えるために。本来果たすべき責務を殴り捨て、私欲のための殺し。それは許されるべきではない。だが、彼女の真面目さは本当のことだろう。
(変な女だな)
少しだけ、本当に少しだけ、桂は香澄に興味が湧いた。真面目な女が自分を殺して叶えられる願いとはなんなのか。それについても気になっていた。
懐から短刀と、暗器を取りだした桂は本来の持ち主である香澄にそれを渡した。
「……どうしてですか?」
「なに、これから貴様とは夫婦になるのだ。妻の持ち物を勝手に持っておくのは良くない」
桂の真意が分からずに顔を顰める香澄だったが、武器は無いと困るので受け取った。なにか仕込まれていないかを確認するが、特に異常はなかったので机の上に置いておく。暗器を仕込む姿を出会ったばかりの妖怪――さらに言えば男性――に見せるのは抵抗があった。
「あの、その結婚についてなのですが……」
「問題があるのか?」
「そもそも私は十五なので、結婚ができないです」
「なんだそんなことか」
(そんなこと……? 重要なことだと思うのですが。……もしかして、私は何かを勘違いしてる?)
良く考えれば、妖怪に戸籍はあるのか。戸籍がなければ籍を入れられない。もしかしたら人間と妖怪の結婚は違う形なのかもしれない。
そんなことを考えていたせいで、香澄はそれに反応するのが遅れた。香澄が気づいた時には、桂の顔はすぐ近くまで迫っていた。
「桂さ……」
それ以上は言葉にならなかった。続きは桂の口に吸い込まれ、音としてこの世に存在することは叶わなかったのだ。
驚きで目を見開く香澄。対して桂はそんな香澄を面白そうに見つめていた。部屋の隅の方に控えていた鈴の目を蘭が塞ぐ。
口の中をさんざん弄ばれた末に、桂は香澄から離れた。ペロリと唇を舐める姿は蠱惑的であり、香澄は反射的にカッと顔を赤くした。
「ウブな反応だな。流石にこういうことには慣れていないか」
香澄は無言で机の上の短刀を手に取り、桂に斬りかかるが、簡単に伏せがれる。予測されていたのと、最初に見せたような素早さが一連の動作にはなかったせいだ。それだけで桂の心の内の溝が満たされる。
「……今の行動になんの意味があるのか、説明していただけますよね」
「仮だが、今ので婚姻が完了した」
「詳しく説明してください」
「妖怪にとっての婚姻は、人間達のように届け出を出し、神に誓い、といったものではない。力と力の結びつきを作るものだ」
桂は人差し指を香澄の胸に軽く当てる。
「貴様の霊力と俺の妖力を繋げた。これで妖怪としては結婚をしたと言える」
「それは、大丈夫なのですか」
人間の持つ霊力と、妖怪の持つ妖力は似て非なる力だ。同一の性質を持つが、その強さが違う。簡単に言えば妖力にとっての一は、霊力にとっては百なのだ。
そのぐらいの力の差があるものを、流し込めば当然器は壊れる。そのことを香澄は尋ねているのだ。
「あくまでも繋がりを作っただけだ。俺がお前に妖力を流し込むのはマズイが、そうしなければなんら問題はない」
「流し込まないのですか?」
「当たり前だ」
「流し込めば、多分死ぬと思うのですが」
香澄の思惑がわかった桂は「しない」と強く言った。
油断も隙もない。すぐに桂に殺させようとしてくる女。種族が違う。思考回路は意味不明。だが真面目に妖怪を見ている。生き物として、同じ世界を生きるべき存在として、妖怪を扱う。
真っ当な婚姻関係を継続できるかは不明だが、きっと飽きはしない。
ナイフを掴む香澄の手を机に押し当て、桂は顔を寄せた。それだけで赤く染まる頬にニヤリと満足そうに微笑む。
「蘭、鈴」
「はい」
「はいです!」
「鈴、こういう時は、ですはいらない」
「はい!」
「香澄を部屋に案内してやれ。俺は自室に戻る」
「……良いのですか?」
改めて、確認をしてくる蘭に「あぁ」とだけ告げて、桂は客間から出ていく。
不安そうに主の背中を見つめていた蘭だったが、頭を振って不安を外に押し出す。それから香澄の方を見れば、香澄は机に突っ伏していた。鈴は香澄の頭を撫でている。
「香澄様、どうされましたか?」
「どうもしないので……少しだけ、時間を……」
「大丈夫? 頭熱いです」
「ダイジョブです……」
どうやら桂とのやり取りで照れているようだった。
(桂様に危害を加える不届き者ではありますが……。こういうところを見ると、なんというか可愛らしい方ですね)
自分の主を襲った不敬で、おかしな人間。恐怖を覚えていた蘭だったが、少しだけ恐怖心が和らいだ。
(妖怪だけじゃない。人間も多面的なのですね。一面だけを見て知った気になってはいけない。私は、この方にもお仕えするのだから。きっちり知っていかなければ)
心の中でそう決心をする蘭のことなど知らない香澄は、先程のことで頭がいっぱいだった。
(初めて……触れられたことない……なのにあんなに普通に。しかも、口の中に……)
ファーストキス。それに夢を見ていたつもりは無いが、つもりがなかっただけなことを自覚した香澄。今の彼女の頭から願い事についてが完全に消え失せていたことを知る者はいないのだった。

