生真面目妖狐と 孤独な祓い屋の 嫁入り婚

 香澄の眼前には高く高く積まれた紙の束。それだけでもうんざりとするのに、蘭は追加の束を机に追加した。

「これは追加分ですか?」
「はい。もう三束あります」
「…………そろそろ腱鞘炎で死にそうです」
「腱鞘炎で人は死なないと思います」

 ペンから手を離し、香澄は手を組み背中を伸ばす。同じ体勢で書き物をしていたせいで、体は凝り固まっていた。
 紙の高層ビルとも言える束の正体。それは倉橋家が国に提出した報告書だった。倉橋篝が書類を偽造していたことが明らかになり、国が次の倉橋家当主に求めたのは、書類の確認と訂正。
 倉橋篝が当主だった頃に提出された報告書全てに目を通し、間違っていれば直せ。それが倉橋家の当主(仮)になった香澄の初仕事だった。

「当主の椅子、他の誰かに渡せませんかね」
「諦めてください」

 ドンッと机に新しいタワーが追加される。どう考えても紙が出していい音ではなかった。

「わかってます。基本的に当主の座は直系が、直系がいなければ分家が継ぎます。そして倉橋家の直系で家を継げるのは私だけ。必然的に私に当主の椅子が回ってくる」

 香澄はペンを弄りながら、淡々と話す。
 手毬は半妖で家を継げない。結果として家を継げる直系は香澄だけになり、病院を退院した次の日には当主となることが決まっていた。
 当主になるのには条件がいくつかある。その中の一つが成人済みであること。国の法律と照らし合わせても、香澄は成人していない。

 しかし香澄以外に同等の後継者がいない。結果として、香澄は倉橋家の暫定当主となった。

「紫風のお父さんが後ろ盾になった暫定当主。……正直これも任せてしまいたいくらいですよ」
「無駄口をたたく暇があったら、さっさとすすめることをお勧めしますよ。……少ししたら千が作ったおやつを持った鈴が突撃してくるので」
「それは、頑張らなくちゃいけないですね」

 香澄は改めて報告書の続きを書く。この作業を続けていくうちに、いつの間にか報告書も書き慣れていた。
 今後、自分で書いていかなくてはいけないのを考えると、慣れておくに越したことはない。この量は多すぎるのだが。

「おやつの時間、ですよー」

 蘭の言葉通りに鈴が部屋に入ってくる。香澄は声に反応して顔を上げて、鈴の隣りにいる人物を見て驚く。

「鈴さんと……桂様? どうしてこちらに」
「時間が空いて暇をしていたら鈴に誘われた」
「なかよしみんなで食べたいな。そうすればきっと嬉しいです」
「……そうなんですけど、本当に大丈夫なんですか。確か明日までに提出しなければ——」
「ほら、千が作った洋菓子を食べるぞ」
「…………夜、確認しに行きますからね」

 お菓子を飲み込んでから諦めたように蘭は譲歩する。それが羨ましくて、視線だけで訴えれば「ダメです」と一言で両断された。

「どうしてですか」
「桂様は、こんなこともたまにありますが、一度も破ったことがないんですよ。今回も大丈夫でしょうから」
「つまり、私たちにないのは……信頼?」
「そうですね」

 悲しみのあまり、お菓子を食べる。もぐもぐと咀嚼し、誤魔化していると「………………まぁ」と聞こえてくる。

「今後、香澄様が……桂様の奥方として、しっかりとするのなら……築いていけるのではないでしょうか……」

 気恥ずかしそうな蘭。その姿が、言葉が嬉しかった。

「はい、精進します」

 桂の相手としてふさわしいように。蘭にも認めてもらえるように。倉橋家の当主の仕事もこなせるようになりたい。

 今までの自分からは考えられないほど、前向きな思考に、香澄自身が驚く。
 以前までの自分なら、誰かのために、なんてことを考えもしなかったはずだ。どこまでも自分の願いのため、愛してくれる人たちと再会するため。そのためにしか生きられなかったから。

 けれど、今はここに、生きている世界に大切な人たちがいる。愛してくれる、愛したいと思う誰かが。
 もしこの場所を失うかもしれないとしても、香澄は諦めて死を望んだりはしないのだろう。それを失わないために、守るために行動できるはずだ。

 そう、変わった。その一番の理由は——

「どうした? 具合でも悪いのか」

 反応がなかったからか、桂は香澄の顔を覗き込む。心配そうに自分を見る桂。それに幸せを感じてしまうのは、不謹慎だろうかと香澄はひっそり思う。

「いいえ、書類の山を思い出していただけです」
「……やる気が出ないか」
「いつ終わるかわからないので」
「なら、終わったら何か褒美をやろう」

 多分、ずっと考えていたのだろう。あからさまにするりと出てきた考えを、さもいま思いついたかのように桂は提案する。

「何か欲しいものはあるか? 何でもいいぞ」
「……そうですね」 

 欲しいものと聞かれても、ぱっと思い浮かぶほど物欲がない。武器も今あるもので足りているし、衣服もいつの間にか増えていて困っていない。

 物以外でもいいのだろうか。それならば、と香澄はチラリと桂を見た。

(提案するだけしてみましょう。何でもと言ったのは桂様です)

 香澄は「では、それに触れる権利を」と桂の頭の上を指差した。

「……それ?」
「桂様の耳と尻尾に触れたいです」
「………………ハァッ!?」

 瞬時に顔をリンゴのように真っ赤にした桂。その様子を見て香澄は落胆する。

「ダメですか?」
「ぐっ……」
「何でもって言ってくれましたよね」
「うっ」
「ずっと触ってみたかったんです」
「……わかった」

 攻防の末に勝ったのは香澄だった。嬉しそうに顔を綻ばせて「約束ですよ」と念を押す。

「二言はない。だからさっさと終わらせろ。お前との時間が少ないのは俺としても本意じゃない」

 香澄は両親が死んでからずっと孤独だった。それに耐えられなくて、両親に会うために生きていた。
 それ以外に望むことはしない。その救いのためだけに生きていた。
 長い長いひとりぼっち。その時間を良しとはできない。ない方が良いに決まっている。

 けれど、その先に。こんなにも自分を愛してくれる妖怪がいる。明けない夜はない。ここが、今が、香澄にとっての夜明けだ。
 もちろん問題はまだまだ山積みだ。逃亡した玉藻に、倉橋家の当主の座にかかる責任。まだ見えてこない問題も数多くあるはず。

 それでもきっと、辛い過程の先に桂はいる。存在を信じるだけで、香澄は走れる。

 今はとりあえず、目に見える問題から。これも大丈夫。桂からのご褒美が確約されているのだから。

「はい、早く終わらせるので絶対に忘れないでくださいね」