波に揺られているような心地だった。時折意識が浮上して、すぐに落ちていく。意識があっても動けない。どのくらいの時間が経ったのかすらわからない。
そんな中で、香澄はいくつかの声を聞いた。
「香澄様、今日は空が綺麗ですよ」
「虎尾がお菓子を差し入れてくれたです!」
「早く起きないと鈴に食べ尽くされてしまいますよ」
楽しそうなやりとりなのに、どこか悲しそうな声色の二人。
「……嫁さん。早く元気になれよ」
短くも、心の底から思ってくれている温かみのある言葉。
「まぁ、お前なら大丈夫だろ。生命力強いしな。……早く起きろよ。起きたらノート貸してやる」
素っ気なくも、香澄自身に向けられた優しさ。
――そして、誰よりも深く心を向けてくれるひとがいた。
「…………まだ目が覚めないか。大丈夫だ、覚めるまで傍にいる。守っている。……早く起きてくれ、言いたいことがある」
その声が聞こえてくる度に、起きなくてはいけないと思う。けれど、体は動かず、意識は不明瞭。
早く、早く。そんな気持ちは強くあっても、それだけで解決する問題ではない。
香澄は霊力を体中に回す。少しでも回復を早めるために。一秒でも早く、大切な人たちにありがとうを言うために。
書類から視線を逸らし、白いベッドで眠る少女を見る。肌もベッドと同化してしまいそうなほど白く、無機質な機械音が彼女がそこにいることを証明していた。
五分に一度、香澄を確認するせいで、彼の仕事は溜まる一方だ。眠らずに進めてはいるが、成果は芳しくない。二つの理由からくる負担は顔にも表れているようで、蘭には眠るように再三言われていた。
蘭本人も、心労を表に出さないようにしているのを、桂は知っている。だから、不必要な心配はかけたくなかった。
しかし上手く眠れず、細切れにしか睡眠を取ることができない。
妖怪は寝なくても生きてはいける。睡眠で疲労を回復させなくとも、妖力で回復させればいい。なので今はそうしている。睡眠の方が効率的だが、できないので仕方ない。
(蘭には苦労をかけてしまってばかりだ。……香澄が起きたら、休暇を取らせよう)
桂は想像する。少し前に当たり前となっていた日常。鈴と蘭、香澄が三人で楽しそうにしている光景。
人間の医者の話では、一時は危うかったものの、現在の香澄の状態は安定している。平助が救急車を呼ぶのが早かったのが功を奏したらしい。その礼は、部下二人を幻術から救うことで支払った。
彼らに憤りがないと言ったら嘘になる。けれど、一番怒りを感じているのは自分自身にだ。
(玉藻の術の気配……あれが罠だと気づけていれば、香澄はこんなにも傷つくことはなかった。俺が、もっと慎重に行動していれば――)
いくら考えても過去には戻れない。愚行をなかったことにはできない。できたとしてもそれは現実ではなく、幻想だ。事実の改変は不可能だ。
意味はないと分かっていても、後悔は消えない。苦しさはのみ込めない。
(今度こそは絶対に……。だから早く起きてくれ。お前の声が聞けないのは、とても寂しい)
気分を変えるために、大きく深呼吸をする。そして書類と向き直る。
この仕事も、目が覚めた後の香澄の負担を減らすために必要なことだ。だから、集中して取り組まなければいけない。
(わかっているのにな。どうしても香澄を気にしてしまう……これが、愛しい人を失う恐怖か)
人間の描く物語。その中で幾度となく見た苦しみ。桂は見る度に、そんなにも苦しむものなのか、と疑問に思っていた。その程度で、苦しむよりもさっさと問題を解決するために行動しろと。
(実際には、そんなにも簡単ではない。自分がその立場になってようやく分かった)
桂は立ち上がる。病室に備え付けられていた机から離れ、眠る香澄の元へ。
白く冷たい手に触れる。
ふと、真っ白い肌で眠る姫が出てくる物語を思い出す。姫の前に現れた王子は、姫に口づけて目を覚ます。
この話の元となった作品では、こんなにもロマンチックではないが、多くの人に伝わるのはこの物語。真実の愛で目を覚ます。なんて美しく、残酷なのだろうか。
「俺が、触れても……お前は目を覚ましてくれるのだろうか」
指先で軽く唇に触れる。思い出すのは初めて会った日。あの頃は何も思わなかった触れ合いに躊躇してしまうのは、残酷な物語にしたくはないからだ。
おとぎ話ならめでたしめでたしで終わる。人が望むのはハッピーエンドだからだ。しかし、現実は必ずハッピーエンドで終わらない。
「……お前は、なんて答えようとしてくれていたんだろうな」
約束を守ると言ってくれた。応えようとしてくれた。けれど、香澄が出した答えは分からない。自分と同じものなのか。そうではないのか。
不安は心の奥底から芽を出し、枝が絡みつく。身動きを阻害し、前へ一歩進むのを阻害してくる。
瞼を閉じて眠る香澄を見る。香澄の姿だけでなく、彼女の霊力の流れも見えた。全身にくまなく霊力を回し、回復しようとしているのが分かる。
――その理由は考えなくとも分かった。
「愚かだな、俺は。恐れるばかりでは意味はない。香澄が同じ気持ちでないのなら、同じ気持ちにすればいい。この愛を、彼女にも抱かせればいい。ハッピーエンドは与えられるものではなく、自分で道を切り開いて作るものだ」
スッと顔を近づけ、香澄の唇にキスを落とす。それは目覚めさせるものでなく、自身の中の決意の証しだった。
――そしてそれは、果たして偶然か、必然か。
香澄から離れる桂の目に映るのは、ゆっくりと瞼を開く香澄。
「……っ?」
「なっ……!」
お互いに驚きでうまく言葉が出ずに、数秒見つめ合う。
「えっと……おはよう、ございます……?」
「あぁ」
ぎこちない会話に、二人は思わず笑い合う。
おとぎ話のように感動的な目覚めではない。けれど二人にとっては、この上なく相応しい目覚めだった。
そんな中で、香澄はいくつかの声を聞いた。
「香澄様、今日は空が綺麗ですよ」
「虎尾がお菓子を差し入れてくれたです!」
「早く起きないと鈴に食べ尽くされてしまいますよ」
楽しそうなやりとりなのに、どこか悲しそうな声色の二人。
「……嫁さん。早く元気になれよ」
短くも、心の底から思ってくれている温かみのある言葉。
「まぁ、お前なら大丈夫だろ。生命力強いしな。……早く起きろよ。起きたらノート貸してやる」
素っ気なくも、香澄自身に向けられた優しさ。
――そして、誰よりも深く心を向けてくれるひとがいた。
「…………まだ目が覚めないか。大丈夫だ、覚めるまで傍にいる。守っている。……早く起きてくれ、言いたいことがある」
その声が聞こえてくる度に、起きなくてはいけないと思う。けれど、体は動かず、意識は不明瞭。
早く、早く。そんな気持ちは強くあっても、それだけで解決する問題ではない。
香澄は霊力を体中に回す。少しでも回復を早めるために。一秒でも早く、大切な人たちにありがとうを言うために。
書類から視線を逸らし、白いベッドで眠る少女を見る。肌もベッドと同化してしまいそうなほど白く、無機質な機械音が彼女がそこにいることを証明していた。
五分に一度、香澄を確認するせいで、彼の仕事は溜まる一方だ。眠らずに進めてはいるが、成果は芳しくない。二つの理由からくる負担は顔にも表れているようで、蘭には眠るように再三言われていた。
蘭本人も、心労を表に出さないようにしているのを、桂は知っている。だから、不必要な心配はかけたくなかった。
しかし上手く眠れず、細切れにしか睡眠を取ることができない。
妖怪は寝なくても生きてはいける。睡眠で疲労を回復させなくとも、妖力で回復させればいい。なので今はそうしている。睡眠の方が効率的だが、できないので仕方ない。
(蘭には苦労をかけてしまってばかりだ。……香澄が起きたら、休暇を取らせよう)
桂は想像する。少し前に当たり前となっていた日常。鈴と蘭、香澄が三人で楽しそうにしている光景。
人間の医者の話では、一時は危うかったものの、現在の香澄の状態は安定している。平助が救急車を呼ぶのが早かったのが功を奏したらしい。その礼は、部下二人を幻術から救うことで支払った。
彼らに憤りがないと言ったら嘘になる。けれど、一番怒りを感じているのは自分自身にだ。
(玉藻の術の気配……あれが罠だと気づけていれば、香澄はこんなにも傷つくことはなかった。俺が、もっと慎重に行動していれば――)
いくら考えても過去には戻れない。愚行をなかったことにはできない。できたとしてもそれは現実ではなく、幻想だ。事実の改変は不可能だ。
意味はないと分かっていても、後悔は消えない。苦しさはのみ込めない。
(今度こそは絶対に……。だから早く起きてくれ。お前の声が聞けないのは、とても寂しい)
気分を変えるために、大きく深呼吸をする。そして書類と向き直る。
この仕事も、目が覚めた後の香澄の負担を減らすために必要なことだ。だから、集中して取り組まなければいけない。
(わかっているのにな。どうしても香澄を気にしてしまう……これが、愛しい人を失う恐怖か)
人間の描く物語。その中で幾度となく見た苦しみ。桂は見る度に、そんなにも苦しむものなのか、と疑問に思っていた。その程度で、苦しむよりもさっさと問題を解決するために行動しろと。
(実際には、そんなにも簡単ではない。自分がその立場になってようやく分かった)
桂は立ち上がる。病室に備え付けられていた机から離れ、眠る香澄の元へ。
白く冷たい手に触れる。
ふと、真っ白い肌で眠る姫が出てくる物語を思い出す。姫の前に現れた王子は、姫に口づけて目を覚ます。
この話の元となった作品では、こんなにもロマンチックではないが、多くの人に伝わるのはこの物語。真実の愛で目を覚ます。なんて美しく、残酷なのだろうか。
「俺が、触れても……お前は目を覚ましてくれるのだろうか」
指先で軽く唇に触れる。思い出すのは初めて会った日。あの頃は何も思わなかった触れ合いに躊躇してしまうのは、残酷な物語にしたくはないからだ。
おとぎ話ならめでたしめでたしで終わる。人が望むのはハッピーエンドだからだ。しかし、現実は必ずハッピーエンドで終わらない。
「……お前は、なんて答えようとしてくれていたんだろうな」
約束を守ると言ってくれた。応えようとしてくれた。けれど、香澄が出した答えは分からない。自分と同じものなのか。そうではないのか。
不安は心の奥底から芽を出し、枝が絡みつく。身動きを阻害し、前へ一歩進むのを阻害してくる。
瞼を閉じて眠る香澄を見る。香澄の姿だけでなく、彼女の霊力の流れも見えた。全身にくまなく霊力を回し、回復しようとしているのが分かる。
――その理由は考えなくとも分かった。
「愚かだな、俺は。恐れるばかりでは意味はない。香澄が同じ気持ちでないのなら、同じ気持ちにすればいい。この愛を、彼女にも抱かせればいい。ハッピーエンドは与えられるものではなく、自分で道を切り開いて作るものだ」
スッと顔を近づけ、香澄の唇にキスを落とす。それは目覚めさせるものでなく、自身の中の決意の証しだった。
――そしてそれは、果たして偶然か、必然か。
香澄から離れる桂の目に映るのは、ゆっくりと瞼を開く香澄。
「……っ?」
「なっ……!」
お互いに驚きでうまく言葉が出ずに、数秒見つめ合う。
「えっと……おはよう、ございます……?」
「あぁ」
ぎこちない会話に、二人は思わず笑い合う。
おとぎ話のように感動的な目覚めではない。けれど二人にとっては、この上なく相応しい目覚めだった。

