香澄は抜けていることがたまにある。そのたまにが今だった。
昨日来たばかりの家の間取りを把握しているわけがないのに桂に聞くのを忘れ、厨房を探して広い屋敷を歩くことになってしまっていた。
(暇でよかったです)
ある程度あたりをつけなければ、夕食までに間に合わない。とりあえず、朝食を摂った部屋の近くを中心に捜索することにした。
厨房を探すついでにある程度の場所は覚えようと、行く先々で襖を開け中を確認する。けれど、ほとんどの部屋が物があまり置かれていない、覚える必要のなさそうな部屋だった。どうやら、広い屋敷は有効活用されてないらしい。
そうして探索すること数十分。ようやくそれらしい扉を発見した。
いきなり入るのは失礼だろうという常識は香澄にもあるので、ノックをする。
「おう」
中から聞こえてきたのは、香澄の想像とは違う少年のような声だった。
(厨房の責任者……にしては若い声ですね。……いえ、妖怪と人は成長速度も、寿命も違います。声で判断するのはダメですね。そもそもここが厨房であるかもまだわかりませんし)
ともかく実際に見てみないと何もわからない。
香澄は扉を開ける。中に入れば、テーブルに冷蔵庫、コンロに調理台と、どう見ても厨房とわかる景色があった。屋敷の見た目とは対照的に、かなり近代的な厨房だ。薪や窯などはない。
調理台と向き合い、こちらに背を向けていた誰かはくるりと振り返り「誰だ」と包丁を向けてきた。怪しまれているのかもしれない。
「私は――」
「あ、いや。お前が噂の旦那に嫁いできたって人間か」
名乗る前に疑いは晴れたようで、彼は包丁を下げた。
「はい、倉橋香澄といいます」
「おいらは千だ。すまねぇな、疑っちまって」
千、と名乗ったのでやはり彼が調理バカもとい、厨房の責任者で合っているのだろう。その姿は人間で言えば中学生くらいに見える。蘭や鈴は小学校中学年に見えるので、彼女らよりは年上には見えるものの、やはり責任者というのは幼い。
いくら成長速度に差があるとは言っても、幼い容姿なら妖怪の中でも若輩ではあるはずだ。妖怪の中の若輩は人間では中年にあたる。香澄よりは若い見た目でも、みんな年上なのだろう。
(礼を欠かさないようにしなくては)
年上でも年下でも、人間でも妖怪でも。真摯に対応すべきだ。
「大丈夫です。桂様の命を狙ったのは確かなので」
何も大丈夫ではない。大丈夫な要素が見当たらないが、千は「それ、本当だったんだな」と感心した様子だった。
「それにしても、嫁さんはおいらになんの用だ?」
雇い主が嫁いできた人間に襲われている話は、さらっと流してもいい話ではない気がする。いや、食事と直接関係ないから興味がないのかもしれない。何にしろ、変人だというのは本当のようだった。
「食事の件でお願いがありまして」
「……嫌いなもんでもあったか」
ピリッと緊張が走った。先程まで明るかった千の表情が硬くなる。香澄は思わず、短剣に触れた。
もし、ここで嫌いなものがあったと言えば、彼は躊躇なくその手にある包丁を向けてきそうだ。
でも違う。要件はそうではないし、彼は祓うべき妖怪でもない。香澄は短剣から手を離す。
「そうではなくて……少し量を減らしていただきたいと思いまして」
「量? 見たところ、栄養状態はかなり悪そうだが、偏食ではないんだな」
「食にはあまりこだわりがありません。出されれば食べます。ただあまり食べてこなかったので、一般的な量は私には多いんです」
包み隠さず正直に伝えれば、千はじっと香澄を見つめた。上から下へとゆっくり見ていって、それから近づいてきて腕を掴む。
「うーん、無理して食べてもらうのは良くない。けど、この細さ、顔色の悪さを考えると食べさせないのも良くない」
「私は多少食べなくても動けるのですが……」
「駄目だ」
ピシャリと一刀両断された。
「健康な生活を送れるように、食事を作るのがおいらの仕事だ。で、嫁さんはどのくらい食える?」
「どのくらい……」
「いつもどのくらい食ってるか教えてくれ」
香澄が困っていたからだろう。千は答えやすいような言い方をする。けれど、それこそ香澄にとっては答えにくい。
「言えないか?」
困っているのがわかったのか、優しげな口調で気遣うように聞く千。香澄はその声を聞いて、この妖怪なら大っぴらに言いふらしたりはしないと思った。
「朝は基本食べてません。お昼は購買でパンを一つ。夜もパンを一つ……任務がある日は二つです」
「それは……」
「それが私のいつもです」
何か言いたげだったが、千はそれを飲み込み「そうか」とだけ呟く。
(千さんが、こういう妖怪でよかった)
例え、彼が怒っても過去の自分も、今の自分も救われない。彼が哀れんでもそうだ。彼からどんな言葉を貰ったところで、今も過去も何も変わらない。変える必要もない。
香澄には今更、倉橋家の人たちを糾弾する気はなかった。彼らが香澄に酷くあたる理由もわかる。当然なのだ。彼らにとって、香澄がどれだけ邪魔な存在か。
(私がいなければ、きっと姉さんも……)
責める気もない。改めてほしいとも思わない。香澄は彼らに何も望まない。ある一つの願い以外、すべてを望まないともう決めているからだ。
「わかった。なら、量は減らす。だけど、少しづつ増やしていくぞ。妖怪と違って、人間は栄養をきちんと摂らないと簡単に死ぬからな」
「そうですね、それは良くない」
香澄の言い方の違和感に千は何も気づかず、机の引き出しからノートを取り出す。どうやらレシピノートのようだ。
「まずはバランスのよく栄養がとれる食事作りからだな。今日は仕込みを終えちまったし……っと、そうだ。嫁さんはアレルギーとかはあるか?」
「妖怪にもアレルギーの概念があるんですね」
「いんや、今のところ妖怪にアレルギーはないぞ。人間と妖怪は構造が違うからな。人間に無害な物が有害だったりもする」
それに関しては香澄もよく知っていた。人間に無害で妖怪にだけ害を及ぼす毒薬なども存在するからだ。
香澄は基本的に物理、しかも接近戦をするので、あまり毒薬づくりは得意ではない。一応、頭に知識としてはあるのでそのうち試そうとは考えている。
「アレルギーは、ないんですね」
「あぁ。免疫システム自体はあるが、今のところアレルギーが出たという話は聞かない。そのうち出てくるかもしれないがな」
妖怪を祓うために知識は身につけてきたつもりだったが、まだ知らないことが多くある。アレルギーの有無の知識が妖怪祓いの役に立つかについては、置いておくとして。単純にもっと知るべきだと香澄は思った。知識があって困ることはそうそうないのだから。
「よくアレルギーについて思い至りましたね」
「普通は思いつかねぇかもな。おいらは昔、人間に混じって料理修行してたこともある。そこら辺の妖怪よりは詳しい自信があるぞ」
「妖怪が人に紛れて修行、ですか」
「ここら辺だとあまりないがな。東の方だとそれなりにな」
妖怪と人間の争いの中心だったこの辺りでは想像がつかないが、東の方だというのなら確かにそういう事もできるのかもしれない。
西とは違い、東では危険な妖怪も、祓い人の人数も少ないと聞いたことがあった。目立った対立もなく、治安も安定していると。
(そういう事も出来るんですね。そりゃあ、国も共生のための動きが活発になるわけです。東でできつつあることが、西でできてないでは困りますし)
意外ななところで裏側を知ってしまった。知ったところで何かが変わるわけでもないので、別に構わないとは思うというのが本音だった。
「それで、嫁さんはアレルギーあるのか」
自分が質問で返してしまったせいで、少し話がズレてしまっていた。香澄は慌てて「特にないと思います」と答えた。
「そうか、なら……」
真剣な表情でノートをめくりながらブツブツ言い始めてしまう。声をかけてもいいのかわからなかったので、近くにあったふせんとペンを借りて、お礼とお弁当が美味しかったと書き残しておく。
でもやはり、言わないと香澄の気が済まない。相手に聞こえてなかったとしても。ただ香澄自身のために、ひと言を声にした。
「ありがとうございます」
香澄はペコリと頭を下げ、邪魔にならないうちに厨房から立ち去った。
昨日来たばかりの家の間取りを把握しているわけがないのに桂に聞くのを忘れ、厨房を探して広い屋敷を歩くことになってしまっていた。
(暇でよかったです)
ある程度あたりをつけなければ、夕食までに間に合わない。とりあえず、朝食を摂った部屋の近くを中心に捜索することにした。
厨房を探すついでにある程度の場所は覚えようと、行く先々で襖を開け中を確認する。けれど、ほとんどの部屋が物があまり置かれていない、覚える必要のなさそうな部屋だった。どうやら、広い屋敷は有効活用されてないらしい。
そうして探索すること数十分。ようやくそれらしい扉を発見した。
いきなり入るのは失礼だろうという常識は香澄にもあるので、ノックをする。
「おう」
中から聞こえてきたのは、香澄の想像とは違う少年のような声だった。
(厨房の責任者……にしては若い声ですね。……いえ、妖怪と人は成長速度も、寿命も違います。声で判断するのはダメですね。そもそもここが厨房であるかもまだわかりませんし)
ともかく実際に見てみないと何もわからない。
香澄は扉を開ける。中に入れば、テーブルに冷蔵庫、コンロに調理台と、どう見ても厨房とわかる景色があった。屋敷の見た目とは対照的に、かなり近代的な厨房だ。薪や窯などはない。
調理台と向き合い、こちらに背を向けていた誰かはくるりと振り返り「誰だ」と包丁を向けてきた。怪しまれているのかもしれない。
「私は――」
「あ、いや。お前が噂の旦那に嫁いできたって人間か」
名乗る前に疑いは晴れたようで、彼は包丁を下げた。
「はい、倉橋香澄といいます」
「おいらは千だ。すまねぇな、疑っちまって」
千、と名乗ったのでやはり彼が調理バカもとい、厨房の責任者で合っているのだろう。その姿は人間で言えば中学生くらいに見える。蘭や鈴は小学校中学年に見えるので、彼女らよりは年上には見えるものの、やはり責任者というのは幼い。
いくら成長速度に差があるとは言っても、幼い容姿なら妖怪の中でも若輩ではあるはずだ。妖怪の中の若輩は人間では中年にあたる。香澄よりは若い見た目でも、みんな年上なのだろう。
(礼を欠かさないようにしなくては)
年上でも年下でも、人間でも妖怪でも。真摯に対応すべきだ。
「大丈夫です。桂様の命を狙ったのは確かなので」
何も大丈夫ではない。大丈夫な要素が見当たらないが、千は「それ、本当だったんだな」と感心した様子だった。
「それにしても、嫁さんはおいらになんの用だ?」
雇い主が嫁いできた人間に襲われている話は、さらっと流してもいい話ではない気がする。いや、食事と直接関係ないから興味がないのかもしれない。何にしろ、変人だというのは本当のようだった。
「食事の件でお願いがありまして」
「……嫌いなもんでもあったか」
ピリッと緊張が走った。先程まで明るかった千の表情が硬くなる。香澄は思わず、短剣に触れた。
もし、ここで嫌いなものがあったと言えば、彼は躊躇なくその手にある包丁を向けてきそうだ。
でも違う。要件はそうではないし、彼は祓うべき妖怪でもない。香澄は短剣から手を離す。
「そうではなくて……少し量を減らしていただきたいと思いまして」
「量? 見たところ、栄養状態はかなり悪そうだが、偏食ではないんだな」
「食にはあまりこだわりがありません。出されれば食べます。ただあまり食べてこなかったので、一般的な量は私には多いんです」
包み隠さず正直に伝えれば、千はじっと香澄を見つめた。上から下へとゆっくり見ていって、それから近づいてきて腕を掴む。
「うーん、無理して食べてもらうのは良くない。けど、この細さ、顔色の悪さを考えると食べさせないのも良くない」
「私は多少食べなくても動けるのですが……」
「駄目だ」
ピシャリと一刀両断された。
「健康な生活を送れるように、食事を作るのがおいらの仕事だ。で、嫁さんはどのくらい食える?」
「どのくらい……」
「いつもどのくらい食ってるか教えてくれ」
香澄が困っていたからだろう。千は答えやすいような言い方をする。けれど、それこそ香澄にとっては答えにくい。
「言えないか?」
困っているのがわかったのか、優しげな口調で気遣うように聞く千。香澄はその声を聞いて、この妖怪なら大っぴらに言いふらしたりはしないと思った。
「朝は基本食べてません。お昼は購買でパンを一つ。夜もパンを一つ……任務がある日は二つです」
「それは……」
「それが私のいつもです」
何か言いたげだったが、千はそれを飲み込み「そうか」とだけ呟く。
(千さんが、こういう妖怪でよかった)
例え、彼が怒っても過去の自分も、今の自分も救われない。彼が哀れんでもそうだ。彼からどんな言葉を貰ったところで、今も過去も何も変わらない。変える必要もない。
香澄には今更、倉橋家の人たちを糾弾する気はなかった。彼らが香澄に酷くあたる理由もわかる。当然なのだ。彼らにとって、香澄がどれだけ邪魔な存在か。
(私がいなければ、きっと姉さんも……)
責める気もない。改めてほしいとも思わない。香澄は彼らに何も望まない。ある一つの願い以外、すべてを望まないともう決めているからだ。
「わかった。なら、量は減らす。だけど、少しづつ増やしていくぞ。妖怪と違って、人間は栄養をきちんと摂らないと簡単に死ぬからな」
「そうですね、それは良くない」
香澄の言い方の違和感に千は何も気づかず、机の引き出しからノートを取り出す。どうやらレシピノートのようだ。
「まずはバランスのよく栄養がとれる食事作りからだな。今日は仕込みを終えちまったし……っと、そうだ。嫁さんはアレルギーとかはあるか?」
「妖怪にもアレルギーの概念があるんですね」
「いんや、今のところ妖怪にアレルギーはないぞ。人間と妖怪は構造が違うからな。人間に無害な物が有害だったりもする」
それに関しては香澄もよく知っていた。人間に無害で妖怪にだけ害を及ぼす毒薬なども存在するからだ。
香澄は基本的に物理、しかも接近戦をするので、あまり毒薬づくりは得意ではない。一応、頭に知識としてはあるのでそのうち試そうとは考えている。
「アレルギーは、ないんですね」
「あぁ。免疫システム自体はあるが、今のところアレルギーが出たという話は聞かない。そのうち出てくるかもしれないがな」
妖怪を祓うために知識は身につけてきたつもりだったが、まだ知らないことが多くある。アレルギーの有無の知識が妖怪祓いの役に立つかについては、置いておくとして。単純にもっと知るべきだと香澄は思った。知識があって困ることはそうそうないのだから。
「よくアレルギーについて思い至りましたね」
「普通は思いつかねぇかもな。おいらは昔、人間に混じって料理修行してたこともある。そこら辺の妖怪よりは詳しい自信があるぞ」
「妖怪が人に紛れて修行、ですか」
「ここら辺だとあまりないがな。東の方だとそれなりにな」
妖怪と人間の争いの中心だったこの辺りでは想像がつかないが、東の方だというのなら確かにそういう事もできるのかもしれない。
西とは違い、東では危険な妖怪も、祓い人の人数も少ないと聞いたことがあった。目立った対立もなく、治安も安定していると。
(そういう事も出来るんですね。そりゃあ、国も共生のための動きが活発になるわけです。東でできつつあることが、西でできてないでは困りますし)
意外ななところで裏側を知ってしまった。知ったところで何かが変わるわけでもないので、別に構わないとは思うというのが本音だった。
「それで、嫁さんはアレルギーあるのか」
自分が質問で返してしまったせいで、少し話がズレてしまっていた。香澄は慌てて「特にないと思います」と答えた。
「そうか、なら……」
真剣な表情でノートをめくりながらブツブツ言い始めてしまう。声をかけてもいいのかわからなかったので、近くにあったふせんとペンを借りて、お礼とお弁当が美味しかったと書き残しておく。
でもやはり、言わないと香澄の気が済まない。相手に聞こえてなかったとしても。ただ香澄自身のために、ひと言を声にした。
「ありがとうございます」
香澄はペコリと頭を下げ、邪魔にならないうちに厨房から立ち去った。

