さよなら、ワンダーランド

〔9〕帰還

 DINER666に入店(ログイン)する。
 俺の隣にはミツキもおり、安堵の吐息が漏れた。
 横のテーブル席では、コンパスがジーナを相手に積み上げたブロックを崩さないように抜いていくバランスゲームに興じていた。
 俺たちの帰還に気づいたコンパスが相好を崩した。
「おう! 無事に戻ってきたか!」
 兎羽野が「ああ」と頷き返した。
「好きな酒でもドリンクでも頼んでくれ。お礼に奢るよ」
 兎羽野の言葉にコンパスが「じゃあ、お言葉に甘えて」とジーナとカウンターへと向かった。
 安心した俺はソファーの背もたれに寄りかかった。
「疲れただろう」
 俺の様子に兎羽野が微かに笑み、俺は「ああ、無事に戻れてよかったよ」としみじみと呟く。
「ハヤト。助けてくれて、ありがとう」
 ミツキがそっと俺の腕に触れ、「当たり前のことをしただけだ」と頷き返した。
「兎羽野さんも、ほんとうにありがとうございました」
 兎羽野も「ミツキ君が無事でよかった」と微笑する。
「これ以上、ボディとスピリットに負荷をかけるのはよくないから、一度、リアルに戻るか」
 兎羽野に言われ、俺はミツキを見やる。
「僕は、ハヤトのモバイルフォンにアクセスするよ」
「リアルに戻ったら、すぐに確認する」
 ミツキが「うん」と手を振り、俺と兎羽野はDINER666から退店(ログアウト)した。

 ゴーグルの起動画面が視界に広がり、俺は深く息を吐きながらゴーグルを外した。
 天井を見つめ「リアルだ……」と呟く。
 テーブルを挟んでソファーに横たわっていた兎羽野もゴーグルを外して起き上がった。
「体調はどうだ?」
「特に問題はなし」
 俺は身体を起こして、モバイルフォンを操作する。
 キットを起動するとミツキの姿が表示され、彼がにこにこと手を振った。
「おかえり」
 俺が言うと、ミツキが「ハヤトも、おかえり」と微笑んだ。
 彼とこうして会話できることが、心の底から嬉しかった。
 兎羽野が伸びをして、時計を見やった。
「そろそろ昼時だな。なんか食うか」
 そういえば、朝からなにも食べていなかった。途端に腹が減ってくる。
 俺の様子に兎羽野が小さく笑った。
「さっぱり系だと和食か……しっかりと食いたいなら、デリバリーをしてくれる中華で美味い店を知ってる。どっちにする?」
「なんかガッツリと食いたい。メニューはまかせるよ」
 兎羽野が「了解」と行きつけだという中華料理の店に注文をしてくれる。

 宅配された、赤を基調にしたテイクアウトボックスがテーブルに並べられる。
「なにこれ、すげえ美味い……!」
 チリソースを絡めた甘辛のチキンを食べた俺は感動して声をあげた。
「この店、一番の人気メニューだそうだ」
「へえ……これ、ミツキも好きそうな味つけだ」
 思わず口をついており、俺はハッとする。
 この美味さを彼にも味わってもらいたいと思ったが、病床で意識を失っている彼には無理だと気づいて箸が止まった。
 ふとした瞬間に、彼がリアルではボディとスピリットが切断された状態だと忘れている自分がいた。
 食事中なのでAIのミツキはスリープ状態になっており、俺のうかつな言葉が聞かれなかったことに、ほっとしてしまう。
 中華風焼きそばの入った箱を手にしていた兎羽野が、静かに言う。
「彼の意識が戻るといいな」
「……うん。電脳型遷延性意識障害で意識を取り戻す割合は、五割だと聞いたことがある」
「新しい治療薬なども開発されて、意識を回復する割合も徐々に上がっているらしい。希望はまだあると思うぞ」
 彼の説得力のある言葉に、救われた気がして首肯する。俺はチャーハンの箱を手にとりながら呟く。
「……なんかさ、兎羽野と話していると、親父がいたらこんな感じなのかな……って思うんだ」
 兎羽野は驚いたように目を瞬かせ「おいおい」と苦く笑った。
「お前さんのようなでっかい息子をもった覚えはないぞ。せめて、そこは兄貴と言ってくれよな」
 兎羽野は「ものすごく年をとった気分になる」と情けない声で呟き、俺は思わず笑ってしまった。
 食後の珈琲を味わいながら、兎羽野が切り出す。
「二番目のドアを開けた時、襲い掛かってきたやつだが……」
 公営住宅の古びたダイニングキッチン……そこに立つ母親の姿……
「あれは、ドラッグ中毒になる前の母親の姿だった」
 俺は深く息を吐いて、革張りのソファーの背もたれに体重を掛けた。
「おふくろってさ、ろくに料理なんかできないし、すぐにダメな男に惚れちまうような、だらしない人だった。挙句につきあった男の影響で、ドラッグにハマっちまってさ。でも……ヤク中になる前には、俺の誕生日にはいつもカレーを作るんだ。隼人が好きだから、って言うけど……べつに好物ってわけでもなかった。」
 思わず自嘲的な笑みが浮かんで軽く肩を竦めた。
「そのカレーっていうのも、スパイスを調合するとか、手の込んだものじゃないんだ。市販のルーで作っているはずなのに、野菜に火が通ってなくて硬いこともあったし、薄味で水っぽいこともあったな。別に美味いカレーじゃなかったけど、ガキの頃は俺のために腕を奮ってくれているんだ、って嬉しかったな……」
 静かに俺の話に耳を傾けていた兎羽野が「そうか」と頷く。
「あのまま、母親と食卓を囲んでいたら……俺のスピリットが消失(デリート)する可能性や、なにか他に悪影響があったかもしれない。あの幻想の世界こそ、ノロイだったのかな?」
「その可能性は高いな。あの漆黒の化け物もノロイという存在なのかもしれない」
 人の心の隙間に入り込む黒い影……それがノロイなのだろうか。
 どうして、そんな存在がMEL空間に存在するんだろう?
「ミツキ君は、化け物に連れ去られた時のことをなにか覚えているのかな?」
 そういえば……と、俺はモバイルフォンのキットを起動する。
 AIのミツキが画面に表示された。
「なあ、ミツキ。セーフハウスから、ヘイダルゾーンに転送された時の状況をおぼえているか?」
 ミツキは少し眉を下げて、首を横に振った。
『さらわれた瞬間にスリープ状態になったみたい。気づいたら、ハヤトと兎羽野さんが助けにきてくれていたんだ』
「オリジナルの光希君は、どうして侵入者をヘイダルゾーンに転送するトラップを仕掛けていたんだ? ハヤトも知らなかったようだが……」
 ミツキは困ったように笑みを浮かべる。
『あのセーフハウスは、ハヤトと構築した大切な空間だから、侵入者は徹底的に排除しておきたかったんだと思う』
 ヘイダルゾーンに転送するトラップはAIミツキではなく、オリジナルのミツキが設定したのだ。
 目の前のAIミツキに聞いても、リアルのミツキの真意は憶測でしか語れない。
 兎羽野も同じことを考えているのだろう。彼は胸の前で腕を組んで「なるほどな」と呟いた。
「そういえばさ、兎羽野はノロイについて調べるきっかけが、なにかあったのか?」
「前にも話したが、俺がノロイという存在を知ったのは、深層空間にいるダイバーの間で語られる噂だった。その時は、ほぼ信じてはいなかった。具体的な被害の事例も聞いていなかった。しかし、実際にMELでノロイによる現象が起きるかもしれないだろ? だとすると、ノロイというものがなにかを調査して、場合によっては未然に防げるかもしれない、そう思ってな」
 兎羽野は珈琲の入ったカップを傾けて続ける。
「そして、とうとう実際にノロイと思わしき現象を目の当たりにしたわけだ」
 ノロイの正体や、不可解な現象が起きる原因はわからない。
 しかし、それはMELにアクセスする誰しもに降りかかるかもしれないことなのだ。
 頭部を吹っ飛ばされ、握った包丁を振り回しながら襲い掛かる母親に似た化け物……その姿が脳裏に浮かび、ぞっと背中に戦慄が走った。
「ノロイの被害が広がるかもしれない。それって結構、ヤバイよな……」
 俺が呟くと、兎羽野も真剣な面持ちで「そうだな」と相槌をうった。
「なあ、ハヤト……あの部屋で、お前さんは偽者であっても、母親に似たやつを撃ったんだ。トラウマになってもおかしくない。こういうのは、後から心にきてしまうこともある。フラッシュバックがある、ずっと気持がふさぐ場合は……俺でもいいから、すぐに相談しろよ」
 正直、ヘイダルゾーンで起きた現象はどこか現実味のない、まるでゲームや映画のワンシーンのようだった。
「わかった」
 俺が軽い調子で返すと、兎羽野は少し心配そうに眉根を寄せた。
『ノロイの発生と因果関係があるかわからないけれど……』
 ミツキが口を開き、俺と兎羽野はテーブルに置いたモバイルフォンに視線をやった。
『僕、ノロイについて深層空間、それこそヘイダルゾーンに近いところまでダイブして、捜索していたんだよね。そこでなにかトリガーになるようなものに触れてしまった……とか?』
「だとすると……ミツキ君、なにかウィルスに感染していないか?」
 兎羽野の言葉にぎょっとすると、ミツキは首を横に振った。
『自己スキャンをさっきしてみたんだけど、特に感染はしていないみたい』
「……よかった」
 ほっとして呟くが、兎羽野は難しい顔で言う。
「しかし、検知されにくいウィルスや、発動すると消滅するウィルスもあるからな……」
 ノロイ……それは、新たなウィルスなんだろうか……?
 今後、ミツキになにか悪い影響はないだろうか。
 俺は不安になって、ミツキを見やる。彼は俺の視線に気づいて、淡く笑みを浮かべながら首を傾げてみせた。