さよなら、ワンダーランド

〔2〕DINER666

 キィンという耳鳴りに似た音とともに、激しい頭痛に襲われる。
 俺は呻き声をあげながら、目元を覆っているゴーグルを外す。
 強制ログアウトによるスピリットの負荷で、微かな眩暈を感じる。
「くそっ……!」
 忌々しさに吐き捨てるように呟いた。
 ダイブ用のリクライニングチェアの上で、俺は仰向けになった状態で症状がおさまるのをじっと待つ。
 ラビット・パンチにタッチするどころか、あいつに拳の一つもお見舞いすることができなかった……!
 埋め込んだMEL用のチップが微かに熱を帯びている気がして、右の耳たぶの後ろに手をやる。
 しばらくすると、ようやく頭痛などがマシになって来て、俺はリクライニングチェアから立ち上がった。
 治安の悪いジャンク地区にある集合住宅の最上階である、五階の一室が俺の根城だ。
 窓を開けて夜が明け始めた薄汚い街を見下ろし、俺は洗面台へと向かう。
 ズキズキと脈打つように痛むこめかみに小さく舌打ちして、冷たい水で顔を洗う。
 少し汚れた鏡には、いかにもジャンク地区出身といった目つきの悪い男がこちらを睨んでいた。
 アッシュシルバーに染めた短く刈った髪に、両耳にいくつも着けたピアス。
 半年前にドラッグの急性中毒で死んじまった母親譲りの顔は、バイト先のバーに来る女たち……たまに男からも褒めそやされる程度には整っているようだ。
 タオルで顔を拭き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取りだす。
『――ハヤト!』
 ミツキの声にはっとなって、リクライニングチェアの横のサイドテーブルに置いてあったモバイルフォンを手に取る。
 液晶画面にはミツキの顔が表示されていた。
『無事にMELからログアウトできたようで安心したよ。気分はどう?』
「強制終了の時よりはマシだが、それでも最悪だな」
 ボトルを傾けながら返すと、ミツキは中性的な顔に苦笑を滲ませた。
『ゴーグルは無事だった?』
「どうかな」
 俺はゴーグルを手に、パソコンデスクに移動した。
 ゴーグルはMEL空間の深層部分にダイブする際には必須アイテムだ。
 発売された当初のゴーグルはヘッドギアタイプや、やたらとそのサイズも大きいのが普通だった。
 しかし、ここ数年は薄型のゴーグルが流通し、俺が使用しているものもレンズ部分が大きめな眼鏡と、その見目はほとんど変わらないものだった。
 眼鏡よりは重量はあるが、そこは精密機械であるゴーグルという特性上、しかたないことかもしれない。
 しかし、その重さもここ数年でだいぶ軽量化されている。
 俺が使っているのは、コニリオ社製の去年発売されたやつで、薄型と軽量を売りにしたスケルトンモデルのものだ。
 ゴーグルはダイブする際には命綱となる。ゴーグルだけは、深層部分でも耐えられるような性能が良く、新しいものを使用している。
 俺はゴーグルをパソコンにケーブルでつないだ。
 もう一つ設置したパソコンのモニターにミツキの顔が表示される。
 ゴーグルにスキャンを掛けながらミツキに言う。
「負荷は掛かっただろうが、ゴーグルは無事のようだな」
『ねえ、道具箱になにか入ってない?』
 ミツキの言うとおり、道具箱を開けると見覚えのない白の四角い封筒があった。
 俺とミツキは顔を見合わせる。
「……レター、だよな?」
『ウィルスが仕込まれてるかも。ちょっと待って』
 ミツキがレターにウィルススキャンをして、こちらに頷いた。
『ウィルスなどのトラップ系は仕掛けられていないみたい』
 俺は液晶画面に表示されたレターを開封する。
 中には『DINER666』で待つ、と電脳アドレスが表示されている。
『ダイナー、スリーシックス……?』
「666、悪魔の数字だな」
『不吉だね』
 ミツキがわずかに眉を寄せる。
「だけど、この差出人はラビット・パンチで間違いないだろう」
 きっと、リング上で俺の道具箱に入れたんだろう。
 そう話すと、ミツキが「たぶん、毒蜂に刺された時だろうね」と眉を下げた。
「しかも、その毒蜂って俺たちが用意したやつだろ? クソったれめ」
 俺はパソコンチェアの背もたれに体重を掛けた。
『ねえ、その怪しげなダイナーにアクセスするの?』
「あっちから招待してくれたんだ。それに奴が『兎』かもしれない、だろ?」
 それに、もう一つ気になることがあった。あの時、ラビット・パンチが俺に言っていたことだ。
 ――お前、ノロイを知っているか?
 ノロイってなんだ? 呪いのことか?
 MELで流行っているスラングでもないし、深層空間にいる奴らの暗号みたいなものか?
 思考に沈む俺をミツキが気遣わしげに見つめる。
『ハヤト、大丈夫?』
「結局、ラビット・パンチから情報をロブ()れなかった。そこに相手から話したいというのなら、乗ったほうがいいんじゃないのか。奴が兎かどうかも分かる」
『そう……だね』
 ミツキが不安げに頷き、俺は「ほんと、ミツキは心配性だな」と笑う。
 すると彼は少しむきになったように眉を(しか)めた。
『ハヤトが無鉄砲なだけだよ』
「ここは、大胆だと言ってほしいね」
『命知らずな行動は控えてくれると、ありがたいよ』
「そんな俺をうまくコントロールしてくれる、だろ?」
 コントロールという言葉に、ミツキの顔が少し曇った。
 失言だったことを気づいて、俺は彼に「悪い」と謝る。
 まったく……俺ってやつは、本当に浅はかな馬鹿野郎だ。自己嫌悪に胸が重くなる。
 ミツキが小さく首を横に振った。
『いや、いいんだ。僕はある意味、猛獣つかいだよ。猪突猛進なハヤトが突っ走って、ケガをしないようにするのが僕の役目』
「だな、頼むぜ。相棒」
 小さく笑うと、ミツキも相好を崩した。
「なあ、ミツキ。ダイナーにアクセスする前に、ちょっと調べてほしいんだが……」
『もちろん、いいよ。なにを調べる?』
「ノロイというワードについて」
『トロイ?』
 ミツキが首を傾げ、俺は「いや、ノロイだ」と伝える。
『なにそれ』
 彼が少し訝る面持ちになり、俺は「俺にもよくわからん」と返した。

 ダイナー666は、MELの深層部分に構築されていた。
 俺とミツキは店内にアクセスする。
 そこは、映画なんかでよく見るようなダイナーだった。黒と白の市松模様の床に、壁には昔の映画のポスターが数枚、貼られている。
 カウンター席やボックス席には幾人かの客がおり、胸元を強調したミニスカートの制服を着たウェイトレスが給仕している。
 店の隅にはジュークボックスが置かれており、これまた古いロックミュージックが流れていた。
 ここの店主は随分と懐古主義(オールドタイプ)のようだ。
 隣のミツキはちょっとわくわくした面持ちで店内を眺めている。
 窓際のボックス席にいた男がこちらに軽く手を振った。
「あれが、ラビット・パンチか……?」
 俺とミツキは互いの顔を見合わせ、彼のもとへと向かう。
「よお、よく来たな」
 座るように促され、俺たちはテーブルを挟んで彼と向かい合うように座った。
 目の前の男は、年は三十代半ばといったところ。少し伸びた髪に精悍な顔立ちで、その体型は均等がとれている。
 見せびらかすためのものではなく、実戦のための筋肉がついているタイプだ。
 とはいえ、ここはMEL空間だ。見た目はリアルとはまったく違うものに変えられる。
 俺が想像していたマッチョな奴とはだいぶ違って、少し面食らう。
「……あんたが、ラビット・パンチ?」
「ああ、そうだ」
 ラビット・パンチが頷き返し、俺は小さく肩を竦めた。
「その見た目って、リアルに近いの? それとも擬態?」
「擬態は苦手でな。ほぼリアルと一緒だよ。そっちこそ、リアルのまんまだな。(あかつき)隼人(はやと)君に、白幡(しらはた)光希(みつき)君」
 俺たちの本名(リアルネーム)を知っている……!? ぎょっとすると、ラビット・パンチは俺たちの前に名刺を置いた。
 そこには『便利屋 兎羽野(とわの)(しのぶ)』とある。
「便利屋?」
 ミツキが呟くと、ラビット・パンチ……いや、兎羽野は「ああ。電脳空間専門のな」と相槌を打つ。
「便利屋だから俺たちのリアルネームを調べて、知っているのか?」
「対戦前に相手の情報を集めるのは普通だろ? 地下格闘技で荒稼ぎしてたハヤトとミツキというコンビは界隈じゃ有名だ」
「でも、僕たちの個人情報は何重にもロックを掛けて、ロブ(盗難)対策も完璧なはずです」
 MEL技術には自信のあるミツキが身を乗り出し、兎羽野は少し皮肉っぽく唇の端を上げた。
「ミツキ君、あんた地下格闘場の電脳事務所に侵入して、俺の登録情報をロブろうとしただろ?」
 ミツキがハッとした様子になり「まさか……」と呟く。
「番犬botが起動したので、用心して引き返したんです。でも……足跡(ログ)は残してなかったはず……空間にアクセスしたら逆追跡されるようなトラップを仕掛けていた?」
「ご名答。ミツキ君がアクセスした空間は、俺が構築した偽のものだ」
「マジかよ……あんたが構築したっていうのか?」
 信じられねえ……思わず呟くと、兎羽野は涼しい顔で頷いた。
「便利屋という職業柄、ダイブと空間構築の技術は必須だからな。このダイナーも、俺がキットを使わずゼロから構築(コーディング)した店だ」
 格闘技だけじゃなく、構築の能力もあるなんて……こいつ、只者じゃない。
「キットを使わずにコードから、ここまでリアルに近く作り上げるとは……まるで芸術だ」
 ミツキが感動した面持ちで店内を見回し、兎羽野がメニュー表を俺たちの前に置いた。
「なんか飲むか? ここの電脳系ドリンクは、リアルに近いものを揃えている。味は保証するぞ。奢るから好きなものを頼め。ジーナ、注文を」
 兎羽野が軽く手をあげ、ジーナと呼ばれた赤毛のウェイトレスがこちらにやってきて、俺たちに「ハーイ! ご機嫌いかが?」とウィンクする。
 店をゼロからコーディングするくらいの能力があるなら、妙にセクシーな彼女は、AIウェイトレスの可能性が高そうだ。
 俺はコークを注文し、ミツキは「僕は大丈夫です」と言う。
「ここの珈琲は、天然物に近い味を再現してるぞ。うちの人気メニューだ」
「じゃあ……珈琲をお願いします」
「ジーナ、俺にも珈琲を」
 ジーナが「はーい」とフリルのついミニスカートの裾を揺らすようにカウンターへと向かった。
 すぐにドリンクが運ばれてくる。兎羽野が言うように、炭酸が弾ける感触や味はリアルのコークそのものだ。
 兎羽野がマグカップを傾け、俺をじっと見つめた。
「で? どうして俺のリアル情報を嗅ぎまわっていたんだ?」
 そう言う兎羽野の二重の目はすべてを見透かすような光を帯び、俺とミツキは顔を見合わせた。
 こいつに嘘をついても、きっとすぐにバレてしまうだろう。
 俺は小さく溜息をついた。
「俺とミツキは『兎』を探しているんだ」
 兎? と、兎羽野が軽く片方の眉を上げた。