さよなら、ワンダーランド

〔19〕生還

 ハッと目を開けると、ゴーグルの起動画面が目に飛び込む。
 リアルだ……! ゴーグルを外すと、見慣れぬ天井が飛び込んだ。
 それだけじゃない、頭上には点滴パックのぶら下がったスタンドがあった。
 ここは、どこだ……?
「ハヤト!」
 横から声がし、兎羽野が俺を覗きこんだ。
「兎羽野……俺――」
「よかった、目が覚めたか……! ここは病院だ。ボディとスピリットが切断された状態になってな。緊急搬送されたんだよ」
「え……どれくらい意識を失ってたの?」
「三時間ほどだ」
 とんでもなく長い時間、意識を失っていたのかと思ったが、そうではなかったようで安堵する。
 俺は、はっとなって上半身を起こす。
「……ミツキ! ミツキは!?」
 兎羽野が目を瞠り、俺は必死に言う。
「ミツキも目を覚ましたはずなんだ……! 彼の病院に連絡を……」
 ベッドから出ようとした俺の肩を兎羽野が「落ちつけ」と押しとどめる。
「頼むから……!」
 必死に言うと、兎羽野が俺を宥めるように頷く。
「分かった、確認しよう。ここは、光希君が入院している病院だ。だが、まずはお前の身体が先だ」
 兎羽野がナースステーションに繋がるコールボタンを押して、俺が目を覚ましたことを伝える。
 すぐさま白衣を着た女性医師と看護師さんがやってくる。
 ショートカットの先生が「担当医の氷室です。さっきはどうも」と歯を見せて笑う。
 目を瞬かせると、兎羽野が「ミス・ショットだよ」と言い、俺は目を丸くしてしまった。
 MELでは妖艶な女性といった雰囲気だったが、目の前の先生は正反対のボーイッシュで爽やかな人といった感じだ。
 ミス・ショットこと氷室先生は、ぽかんとする俺に「そこまで驚く?」と笑った。
 脈や血圧が確認され、目にライトがあてられる。彼女は「脳の状態を確認したいので、念のためにMRI検査をしましょう」と言う。
「あ、あの氷室先生、ミツキ……白幡光希は目を覚ましましたか?」
 すると、氷室先生は少し驚いたよう様子で言う。
「なぜ知っているの? 白幡光希君なら、一時間ほど前に意識を取り戻したわ」
「ミツキと会えますか!?」
 色めき立つ俺に、先生が軽く片手をあげる。
「落ちついて。彼は一年近く寝たきりだったの。だから、いくつか検査を受ける必要があるわ。経過観察も必要で、面会はまだ許可できないの」
「そう……ですよね。あの、後遺症などはあるんですか?」
「それも、これから明らかになってくるわね。いまのところ簡単な会話はできている、とだけ」
 良かった……ほんとうに良かった……! あとは麻痺などがないといいが……大丈夫なことを祈るしかない。
 本音は今すぐにでも、彼の許に駆けつけたかった。
 しかし、ミツキ自身の体調も考慮しないといけない。
 今は、彼が無事にリアルに戻ってこれたことがなにより嬉しかった。
「それと、埋め込んだチップは負荷が掛かり、もう使用はできないので検査前に除去の処置をしましょう」
 俺は反射的にチップの埋め込まれたあたりを撫でた。
 氷室先生と看護師さんが病室を出て、ベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろした兎羽野を見やった。
「色々、迷惑をかけてごめん」
 兎羽野は「あやまるな」と首を横に振った。
「このまま電脳症で目を覚まさなかったら、と焦ったが……無事に戻ってこれてよかったよ。ワンダーランドで転送されたあとに、俺もDINER666に入店(ログイン)したんだ。しかし、お前さんの姿が無くてな。リアルに戻ったら、ボディとスピリットが切断されていたんだ」
「そっか……俺、塔の前で転送されたあと、スピリットのミツキがいる浜辺にいたんだ」
 驚いた様子の兎羽野に、海辺での出来事を話す。
 静かに俺の話を聞いていた兎羽野は、感慨深げに「そんなことが……」と呟いた。
「たぶん、俺がスピリットだけの状態になったからこそ、ミツキのいる浜辺に辿りつけたんだと思う」
「そうかもしれないな……」
 兎羽野がふと思いついたように、こちらに身を乗り出した。
「なあ……ワンダーランドで転送される直前、ハヤトが取り乱した様子だったが、なにを見たんだ?」
 俺は驚いて彼を見つめ返す。あの時、ミツキが塔から飛び降りて、彼の許に駆けつけると母親にすり替わっていたのだ。
 おまけに俺は母親に刺されたのだ。
 そのことを話すと、兎羽野は心底、驚いた様子だった。
「兎羽野には、なにも見えてなかったのか……?」
 俺も驚愕して聞くと、兎羽野は「ああ」と真剣な面持ちで首肯した。
 途端に、俺の背中に戦慄が走った。
 俺が見たのは、なんだったのだろう……?
「あれも……ノロイだったのかな……?」
 恟然とした俺の声が静かな病室に溶けていく。
「まあ……あまり考え込まずに、今は休んだほうがいいな」
 兎羽野が気遣わしげに言い、俺は「うん」と溜息まじりに呟く。
 色々と考えをまとめたかったが、うまく頭が回りそうになかった。
「数日は入院の可能性もあるから、必要な日用品を揃えてまた来るよ」
「ありがと」
 兎羽野が病室を出て、俺はワンダーランドのことや、ミツキのいた浜辺でのことを思い返す。
 しかし、いつの間にか深い眠りのなかに落ちてしまった。

 翌日。
 兎羽野が、彼の事務所に置きっぱなしだった俺のモバイルフォンや、入院に必要な日用品を届けてくれた。
 そういえば、強制転送され……俺がスピリットのミツキと再会していたとき、AIのミツキはどうしていたんだろう?
 そのことを聞くと、兎羽野は「それがな……」と、胸の前で腕を組んだ。
「DINER666に俺が戻ると、お前さんの姿と一緒にAIミツキ君もその場から消えていたんだ。コンパスに聞くと、ハヤトの強制転送が開始されたのとほぼ同時だったそうだ」
 俺はモバイルフォンからAIミツキを起動する。しかし、エラーメッセージだけが表示された。
「AIミツキがいなくなった……?」
 驚愕しながら液晶画面を兎羽野に見せると、彼が小さく唸った。
「AIミツキ君に関しては、実は前から気になっていたんだ。AIにしては、オリジナルの光希君そのものといった感じだった。なので、彼はAGI……汎用人工知能だと思っていたが……」
「汎用人工知能?」
「人間に近い知能を持ったAIだ。しかし、運用されているのは一部の公的機関のみだ。無論、AIと違って一般向けのキットもない。光希君にMELの構築技術があっても、そこまで専門の知識があるのか……ずっと、不思議に思っていたんだ」
 俺は苦笑しながら頭を掻く。
「俺……AIミツキが、AIであることを忘れるくらい、リアルに近いことに疑問を抱かなかったよ」
「それはAIというより、光希君の分身としてハヤトが捉えていたからじゃないか?」
 言われてみればそうかもしれない。
「それに、ミツキが浜辺で言っていたんだ。たまにAIミツキと同期しているような感覚があって、俺と会話をしていたって……」
「なんとも不思議な話だよな……」
 俺も頷き返して、少し引っかかっていたことを兎羽野に打ち明ける。
「あのさ……ヘイダルゾーンでの光希の母親に似た化け物のことなんだけど……」
 兎羽野が目顔で先を促し、俺は少し戸惑いながら続ける。
「あの時、ミツキがKATANAで化け物を刺した後……彼が『やっと、自由になれた』って言ったんだ」
 あの時は、化け物から解放されたという安堵の言葉だと思った。
 あれはAIではなく、スピリットのミツキの言葉だとしたら……
 よくよく考えると、それは違う意味だったのかもしれない――そう思えるのだ。
「ミツキは、MEL空間にまで母親が自分を追いかけてくるかもしれないと、考えていたんじゃないかな。そして不可解なノロイという現象で、実際に彼は囚われてしまった……」
「セーフハウスの侵入者をヘイダルゾーンに転送するというトラップは、光希君が電脳症になる直前に設定されていた」
 兎羽野の言葉に俺がはっと息を呑むと、彼は髪をかきまぜるようにして頭を掻いた。
「光希君は、侵入者に対してスピリットに負荷を掛けるような……最悪、電脳症を引き起こすような危険なトラップを仕掛けていたのは確かだ。そして、彼の母親がいつかやってくるかもしれない、と危惧していたのは確かだろう……」
 兎羽野は「これは、あくまでも俺の想像だが……」と言葉を継ぐ。
「光希君は、母親に内緒で電脳学科のある大学に通おうとしていた。無事に合格したら、彼は黙って家を出るつもりだったのかもしれない。しかし、支配的で過干渉な母親のことだ。光希君を必死に探し出すだろう。それだけじゃない。電脳学科のある大学の入学を阻止しようとするんじゃないか? 光希君にとって、白幡美彩の存在は脅威でしかないだろう。そこで、MEL空間にトラップを仕掛けた……こうも考えられないか?」
 俺の背中に、ぞくりとしたものが走った。
 兎羽野の言うとおり、追い詰められてトラップを仕掛けた可能性はある。
 ミツキが家を出て、ゴーグルが部屋に残されていたら……きっと母親は彼の手がかりを掴もうとセーフハウスに辿りつくだろう。
 しかしセーフハウスは招待されない限り、事前に埋め込みチップの番号が登録されていない者はログインできず、トラップが発動するように設定され……スピリットが危険にさらされる。
 もし、白幡美彩がヘイダルゾーンに転送されても、ボディに異常があれば強制ログアウトとなるはずだ。
 なので、必ずしも電脳症を発症するとは限らない。
「光希君自身は危険性を承知しながらも、専用のゴーグルやチップを使用せずに、ヘイダルゾーンに潜ってトラップ空間を構築していたかもしれない。だとするとチップに負荷が掛かっていたはずだ。それに加えて、不具合のあるゴーグルが原因で電脳症を発症してしまった。彼に母親を殺害しようとしていた意図があったかは分からない。だけど、結果として白幡美彩はボディとスピリットが切断されて死んでしまった」
 ショックを受ける俺に、兎羽野は「あくまでも俺の想像だ」と宥めるように笑みを浮かべる。
「もし……ミツキに殺意があったとしても……俺は、彼を責めることはできないよ。ミツキがずっと酷い環境で耐えてきたのを知っているから……」
「そうだな。それに、白幡美彩の死亡は事件性はないと処理されている。真相は光希君にしか分からないんだ」
 そう……本当のことはミツキにしか分からない。
 そして、俺はそのことを彼に聞くつもりはなかった。
 兎羽野にそう告げると、彼はゆっくりと頷いた。
「俺も、それでいいと思うぞ」
 俺はそっと首筋に手をやる。負荷の掛かったチップが除去され、ガーゼが貼られていた。ここ最近、悩まされていた悪夢のことが脳裏を過った。
 そうか、もしかしたら……! はっとなって兎羽野を見やった。
「俺……ノロイの発生する原因がわかっちゃったかも……」
 兎羽野が驚いた様子で目を瞬かた。