さよなら、ワンダーランド

〔18〕リアルへ

 遠くで波音が聞こえる。
 目蓋を上げると、目の前には大海原が広がっていた。
 俺は砂浜にいて、大きな流木の上に腰を下ろしていた。
「ここ……は――?」
 いったい、どこだろう。
 強制転送がされたなら、DINER666にいるはずなのに……
 さきほどまでの機動隊モデルのアーマースーツは装着しておらず、白のTシャツにデニムパンツという恰好だった。
 少し混乱して周囲を見渡していると、「ハヤト」と呼ばれて肩越しに振り返る。
 そこには白いカジュアルシャツに同じく白いボトムスを身に着けたミツキがいた。
「ミツキ……!」
 反射的に立ち上がって、目の前のミツキがAIのミツキとは雰囲気が違うことに気づく。
「やっと会えたね」
 その言葉に瞠目する。
「まさか……」
 ミツキは唖然とする俺の前に立った。そして、彼はそっと俺の頬に手を滑らせた。
 不思議なことに彼の掌のぬくもりが頬に伝わり、はっと息を呑む。
「もしかして……ミツキのスピリット……なのか?」
「実はね、僕にもよくわからないんだよね」
 ミツキが困ったように小さく首を傾げた。
 久しぶりの再会に、俺たちは自然と抱擁していた。
 彼の身体のぬくもりや、その感触がありありと感じられ、俺は泣きそうになって眉根を寄せる。
「ずっと、ミツキと会いたいと思っていた」
「僕もだよ。でもね……」
 ミツキの背中に回していた腕を解いて彼の顔を見やる。ミツキは少し悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「たまに、AIのミツキと同期しているような時があってね。ハヤトと、AIミツキを通して会話している時があったんだよ」
 目を丸くする俺に、彼は「気づかなかったでしょう?」と微笑む。
「ああ、気づかなかった」
 しかし、言われてみれば思いあたる節がいくつかあった。
 AIミツキとは、電気街に初めて行った時のことなど過去の話していたのだ。
 オリジナルの白幡光希の記憶をAIミツキに憶えさせていたのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
「なんだか、ずっとAIと話しているような気がしなかったんだ。そういうことだったのか……」
 少し茫然として呟くと、ミツキが流木に腰を下ろし、俺も隣に座った。
 白波を眺めながら少しの間、沈黙が下りた。
「AIミツキと同期していたってことは……お母さんのことも知ってるよな?」
 もしかすると、美彩さんの死を伝えた時の反応を思い返すと、AIではなくここにいるミツキと話していたのかもしれない。
「うん。知ってる」
 その横顔は穏やかで、俺は「そうか」と頷いた。
「ここはね、すごく静かで、穏やかで、僕を傷つける人もいない……僕がずっと欲していた安全地帯なんだ」
 広大な砂浜と海……あたりに建物や、もちろん誰かの気配もない。
「寂しくなかったか?」
 ミツキは淡く笑みを浮かべて首を横に振った。
「孤独は感じなかったかな。でもね、ハヤトともう一度、会いたいと思ってた。それが叶って嬉しいよ」
 そこでようやく、俺自身のスピリットも切断されているのかもしれないと気づいた。
 スピリットとなったから、俺はこうしてミツキと再会できたのだろう。
 ようやく彼と会えた。そのことが心の底から嬉しかった。
 でも……
「なあ、ミツキ。リアルに戻らないか?」
 ミツキがはっとしたように目を見開き、俺は彼に頷き返す。
 ミツキの顔が曇り、彼はそっと俯いた。
「ハヤトは、やっぱり……ここに僕といるのは嫌?」
「嫌なわけないだろ! 俺はずっと後悔してたんだ。自分はジャンク地区出身だからと自己卑下して、ミツキと離れようとした。でも、そんなの本心じゃなかった。俺はずっとミツキのそばにいたいって思うんだ。だけどさ……それは、ここじゃない。リアルでなんだよ」
 俺はミツキに身体を向け、悄然とした様子のミツキがこちらを見つめて言った。
「ここにいれば年をとることもないし、辛いリアルな世界で働かないでいいし、嫌な人と出会うこともないし、なにもする必要はないんだよ?」
 どこか必死な様子のミツキの手の甲をぎゅっと握る。
「そうだな。リアルって本当にクソみたいな奴がいるし、クソみたいなことが起きるよな。でもさ、俺はそんな世界でもミツキと生きたいんだよ。覚えてるか? 一緒にリアルな海を見に行こうって話したよな? ここの海も綺麗だけどさ、リアルで……二人で旅行の計画をたてて、現地の人と触れ合ったり、旅先で飯を食ったり……俺はさ、そういうのがしたいんだよ」
 俺は立ち上がってミツキの前に立った。
「それだけじゃない。バイト先のバーで、俺が作ったカクテルも飲んでもらいたい。あと、さ……俺、ちょっと挑戦してみたいこともあるんだよ」
「どんなこと?」
 ミツキが首を傾げ、俺は照れくささに頭を掻く。
「それは、リアルで話す」
 ミツキが小さく笑って、俺は肩を竦める。
「ともかく、リアルでミツキと一緒じゃないと、意味がないんだよ。俺一人だけじゃ、クソみたいな人生だ。だけどさ、ミツキがいるなら違うんだよ」
 ミツキの頬に涙が伝い、俺は彼に微笑む。
「なあ……リアルで、ホッパーなジイさんを目指そうぜ? ジイさんになっても、MEL格闘技大会とかに参戦してさ……若い奴らには負けねえ、って賞金を稼ごうぜ」
 途端にミツキが泣き笑いの顔になった。彼が「もう、なにそれ」と眉を下げた。
 俺も笑って「すげえ、ホッパーだろ?」と返す。
 ミツキは頬に伝う涙を拭って、小さく頷いた。
「わかった。僕もハヤトとリアルでしたいことあるんだ」
「どんなこと?」
 ミツキは「リアルで話す」と相好を崩し、俺は「どんなことか、聞けるのを楽しみにしてる」と返す。
「でもさ、どうやってリアルに戻るの?」
 まさに、ミツキの言うとおりである。この砂浜と海しかない空間でどうやって戻るというんだろう。
 ふと俺は、悪夢でみた光景を思い出す。
 砂浜で頭のないおふくろが海を指さし、波間に漂いながら手を振るミツキがいる……あの奇妙な夢だ。
「なあ……ミツキ、ここの海に入ったことは?」
「一度もないよ」
 どうどうと波音が響き、ふと海のほうから聞き覚えのある声がする気がした。
 ――ヤ、ト……! ハヤ……ト……!
 この声は、兎羽野……!?
 俺とミツキは、ハッとなって互いの顔を見合わせた。
 海からリアルへ……確証はない。だけど、試す価値はあるんじゃないか?
 ミツキを見やると、彼も同じことを考えていたのだろう。俺たちは静かに頷きあった。
「行こう、ミツキ」
 俺は彼に手を伸ばす。流木に座っていた彼が、俺の手を握りかえして立ち上がった。
 そのまま、俺たちは海へと向かって歩き出す。
 波打ち際で、俺の手を握るミツキの手に微かに力がこめられた。
「怖いか?」
 ミツキは少し緊張した面持ちで言う。
「うん。少し、怖い」
「じつは俺もだ」
 少し強張った顔で見つめあい、俺は緊張をほぐすように大きく息を吐いた。
「でも……きっと、二人なら大丈夫だ」
「うん、僕もそう思う」
 俺たちは離れ離れにならないように手を繋いだまま、海のなかへと歩き出す。
 少し冷たいが凍えるほどではない海水に足が浸かり、寄せては返す波に揺れながら沖へと進む。
 なぜだろう。体中が温かく、恐ろしさよりも心地よさのようなものが胸のなかに広がっていく。
 肩の辺りまで海に浸かった時だった、足元がすとんと抜けたように二人の身体がいっきに海中に沈んだ。
 青く美しい海中で、二人とも足先から気泡のようになっていく。
 水中にいるのに息苦しさは一切なく、俺とミツキは目を丸くして互いの顔を見合わせる。
 多分、これはスピリットがリアルへと戻っているんだ……
 海のなかに溶けていく俺たちの身体は、水面へ泡沫となって昇っていく。
 海に沈みながらその美しい様子を見つめた。
 それから、引き寄せられるように俺たちは抱擁を交わした。
 大丈夫だ。俺もミツキもリアルに戻れる。
 まるで二人の魂が溶け合うような……スピリットが一つになるような……不思議で心地よい感覚が包み、微笑みあう。
 互いに恐怖や不安は感じていなかった。
 大丈夫――リアルで会えるから。
 俺たちはそっと目を閉じた。