くれゆくひととせ

 視界の端をふと横切った色に、目を奪われ、それから思わず声をあげそうになった彼女は、慌てて口元を押さえた。

 懐かしいリボンの色だ。

 車窓を流れゆく橙色の光を受けて、少女たちの頬には、うっすらとした影が落ちている。
 無邪気をつむぐ唇は止まることなく囀り、時折半袖のシャツから伸びたすんなりとした腕を大げさに動かす。
 彼女はそこから目が離せなかった。
 途端に沸き起こる侘しさにもどこと無く似た感慨に、胸が引き攣れる。

 しかし、ひとしきり嬌声を上げていた少女たちは、やがて額をひっつけるように囁きあい、そして車内から、喧騒の空気が消えていった。
 この閉ざされた空間内で、一身の注目を受けていた少女たちに向けて、隣に座る草臥れたサラリーマンが剣呑そうな視線を向けているのに彼女が気がついたのは、それから程なくしての事だった。

 彼女は少しだけ残念そうに溜息を落とす。
 無垢の塊、邪心の無い笑みをもっと見ていたかったのかもしれない。
 
 けれども、それなりに分を弁えているのか、少女たちがそれ以降大きな音を発する事はなく、緩やかな振動を伝えていた電車は、定刻どおりに黄昏に染まる駅へと停車し、少女の一人を降ろした。
 残された二人の少女が、外に向ってばいばいと手を振る。

 日常にありふれすぎている、本当になんてことのない光景に、けれども、彼女の胸は柔らかな針で突かれるような感覚を覚えた。

 それでなくても今日は体調が悪かったのだ。
 仕事を午後には切り上げて、半休を取ってしまった。

 少女たちと同じ歳の頃から、月に一度は確実に彼女を悩ませていた体の奥の鈍い痛みは、あれから何年の月日を重ねても、変わらず、毎月訪れる。
 しかし仕事を休まなければいけないほどの痛みというのは、久しぶりだ。

 そのおかげなのか、彼女が少女時代に身に纏っていた制服に、出会えるとは。

 社会人と学生の生活時間帯はずれている。
 彼女の朝は少女たちの朝よりもきっと少しだけ遅いのだろうし、彼女の夜は少女たちの夜よるも、ずっと遅い。

 また一人少女が車内から降りていく。
 残された一人の少女は、扉にもたれかかるようにして、窓向こうを流れる景色に、視線を向けた。
 揺れる瞳は、流れ行く景色を追っているのだろう。

 それなりの速度を出して走る電車は、外の世界を拒絶するように、視線を追えども追えども、景色を振り払ってしまう。
 建物に掲げられた看板の文字を捉えたかと思うと、次の刹那には後ろに流れる。
 車窓に近い場所にあるフェンスの網目などは、小さく空間を切り取る菱形の一つを捉えることさえ難しい。

 その途方も無い作業に疲れたのか、少女はバッグの中からイヤホンを取り出し、機械を操作した後、目を閉じてしまった。

 そんな一連の動きを、息を止めるようにして見守っていた彼女は、内側から彼女を痛めつける鈍痛に、現実へと呼び戻された。
 と同時に、自分もあの少女のようにひとり取り残された事を思い出した。

 煩雑な毎日はあの頃、と然程変わらぬようにも感じる。
 けれども、たった一つだけ違うのは、何かに焦がれるという感覚は既に遠い彼方にあるという事だ。 
 彼が謳う冗談を聞き流していた時間も、泣き疲れて制服のまま寝てしまったあの日も。

 海外に旅立ってしまった彼に向けて毎日送っていたメッセージ、やがて途絶えたテキストで綴られる言葉。
 何もかもが記憶ではなく、記録の領域にしか残されていない。

 そして唯一ともいえた記録さえも、スマホの機種を変更し、PCを新しく買い換えるたび、ハードディスクの中に埋もれて、拾い上げる事さえ叶わなくなった。

 車窓から見える過去は流れ続けるが、スピードを落とし始めた。
 そして電車は緩やかに停車する。

 彼女は立ち上がる。
 扉にもたれかかっていた少女がバッグを抱えなおし降りる。

 構内で遠ざかっていく背中に、彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから顔をあげた。

 そこに、過去と云う名の魔物は最早無かった。