その年の私の誕生日は、昼過ぎから雪になった。
二十五歳。
四半世紀、なんとなくキリのいい数字で、私は自分がなんとなく、優さんの立っている「大人の世界」の入り口に爪先だけでもかけられたような気がしていた。大学を出たての子どもではなく、社会を知り、少しだけ分別を身につけたひとりの女性として、彼の隣に並びたい。その一心で、私は少し背伸びした値段のツイードの優しいピンクのワンピースを新調し、鏡の前で何度も笑顔の練習をした。
「二十五歳、おめでとう。今夜は、予約した店で落ち合おう。僕の名前で予約しているよ。楽しみだね」
朝、彼から届いたその短いメッセージを、私は何度も読み返した。
彼が選んでくれたのは、西麻布にある、看板のないイタリアンだった。重厚な扉、落とされた照明、特別感のある革のソファ。そこはまさに、彼が普段から呼吸しているであろう夜の一部だった。
約束の十九時。少しだけ遅れるから先に入っていてと連絡があり、私はいつものようにマフラーを丁寧に折りたたんで店に入った。席に着き、スパークリングワインを頼んで、ちびちびと飲んでいるうちに時計の針は十九時半を指して、やがて二十時を回っても、目の前の席は空いたままだった。
スパークリングワインの泡は、もうない。周囲のテーブルからは、楽しげな笑い声や、グラスの触れ合う高い音が聞こえてくる。その華やかな音は、ひとりで座る私の存在を際立たせていた。
二十時十五分。スマートフォンが、テーブルの上で小さく震えた。
「ごめん、仕事のトラブル。しばらくかかりそう」
心臓の奥が、ぎゅっと冷たくなる。仕事、クライアント、予期せぬトラブル。そのどれもが、私の誕生日よりも遥かに重い。それは、わかっているつもりだけれどーー。
「仕事入れないって、言ったのに……」
目の前の前菜に手をつけた。
上質な生ハムも、濃厚なチーズも、私の喉を通り抜けるときにはもうなんの味も残っていない。
彼が店に現れたのは、約束の時間を二時間過ぎたころだった。濡れたコートを脱ぎながら私の前に座ると、短く「すまない」とだけ言った。その声には、一日の仕事を終えたあとの、隠しようのない疲労が色濃く滲んでいた。
「……お仕事お疲れさま」
「……ああ。誕生日おめでとう、朱莉」
彼は、鞄から水色の小さな箱を取り出して、テーブルに置いた。開けると、そこにはシルバーのバングルが入っていた。センスが良くて、高価で、無機質な美しさ。彼らしいと思った。
「……ありがとう」
耐えがたい沈黙が私たちを包み、私は慌てて笑顔を作り、口を開く。
「私、二十五になりました」
「ああ。知ってるよ」
「私、もう子どもじゃないですよね。少しは、優さんに近づけているのかな」
それは、切実な願いだった。精一杯笑顔を作った。
けれど、その言葉を口にした瞬間の、彼の瞳に差したわずかな影を、私は見逃さなかった。それは喜びでも愛おしさでもない、深い、深い倦怠だった。
「きみがひとつ歳を重ねるごとに、僕もひとつ歳をとる。年齢の差は、決して縮まらないんだよ」
彼は笑っていたけれど、言葉尻の絶妙なニュアンスが、私の胸に、今まで見たどの赤よりも濃い、深い傷を刻みつけた。
二十五歳。
四半世紀、なんとなくキリのいい数字で、私は自分がなんとなく、優さんの立っている「大人の世界」の入り口に爪先だけでもかけられたような気がしていた。大学を出たての子どもではなく、社会を知り、少しだけ分別を身につけたひとりの女性として、彼の隣に並びたい。その一心で、私は少し背伸びした値段のツイードの優しいピンクのワンピースを新調し、鏡の前で何度も笑顔の練習をした。
「二十五歳、おめでとう。今夜は、予約した店で落ち合おう。僕の名前で予約しているよ。楽しみだね」
朝、彼から届いたその短いメッセージを、私は何度も読み返した。
彼が選んでくれたのは、西麻布にある、看板のないイタリアンだった。重厚な扉、落とされた照明、特別感のある革のソファ。そこはまさに、彼が普段から呼吸しているであろう夜の一部だった。
約束の十九時。少しだけ遅れるから先に入っていてと連絡があり、私はいつものようにマフラーを丁寧に折りたたんで店に入った。席に着き、スパークリングワインを頼んで、ちびちびと飲んでいるうちに時計の針は十九時半を指して、やがて二十時を回っても、目の前の席は空いたままだった。
スパークリングワインの泡は、もうない。周囲のテーブルからは、楽しげな笑い声や、グラスの触れ合う高い音が聞こえてくる。その華やかな音は、ひとりで座る私の存在を際立たせていた。
二十時十五分。スマートフォンが、テーブルの上で小さく震えた。
「ごめん、仕事のトラブル。しばらくかかりそう」
心臓の奥が、ぎゅっと冷たくなる。仕事、クライアント、予期せぬトラブル。そのどれもが、私の誕生日よりも遥かに重い。それは、わかっているつもりだけれどーー。
「仕事入れないって、言ったのに……」
目の前の前菜に手をつけた。
上質な生ハムも、濃厚なチーズも、私の喉を通り抜けるときにはもうなんの味も残っていない。
彼が店に現れたのは、約束の時間を二時間過ぎたころだった。濡れたコートを脱ぎながら私の前に座ると、短く「すまない」とだけ言った。その声には、一日の仕事を終えたあとの、隠しようのない疲労が色濃く滲んでいた。
「……お仕事お疲れさま」
「……ああ。誕生日おめでとう、朱莉」
彼は、鞄から水色の小さな箱を取り出して、テーブルに置いた。開けると、そこにはシルバーのバングルが入っていた。センスが良くて、高価で、無機質な美しさ。彼らしいと思った。
「……ありがとう」
耐えがたい沈黙が私たちを包み、私は慌てて笑顔を作り、口を開く。
「私、二十五になりました」
「ああ。知ってるよ」
「私、もう子どもじゃないですよね。少しは、優さんに近づけているのかな」
それは、切実な願いだった。精一杯笑顔を作った。
けれど、その言葉を口にした瞬間の、彼の瞳に差したわずかな影を、私は見逃さなかった。それは喜びでも愛おしさでもない、深い、深い倦怠だった。
「きみがひとつ歳を重ねるごとに、僕もひとつ歳をとる。年齢の差は、決して縮まらないんだよ」
彼は笑っていたけれど、言葉尻の絶妙なニュアンスが、私の胸に、今まで見たどの赤よりも濃い、深い傷を刻みつけた。



