灯火みたいな恋だった

彼の思い出の家は、海を見下ろす高台にひっそりと佇んでいた。潮風に晒されて少し褪せた壁と、定期的に手入れされているであろう小さな庭。冬枯れの芝生が、夕日の赤に煌めいている。

中に入ると、古い木材とワックスの混じった、どこか懐かしいにおいがした。

彼は手際良く暖炉に火を焚き始めた。私はなにをすればいいかわからず、彼にもらったばかりのマフラーを外せないまま、その背中をじっと見つめていた。

「朱莉。そんなところに突っ立ってないで、そこ、座っていいよ」
「……なんか、変な感じ」
「変な感じって?」
「なんか夢みたいっていうか……世界が違いすぎて、ここは現実なのかなって。明日になったら、全部消えちゃいそう」

私の言葉に、彼は手を止めて振り返る。ゆっくりと私そばに寄り、手を握った。暖炉の炎が、彼の眼鏡の奥でゆらゆらと揺れている。

「消えたりしないよ。僕たちは今、ちゃんとここにいる」

太陽が沈むにつれて、家の中は深い静寂に包まれていった。時計の針がカチカチと音を立てて進んでいく。

「コーヒー淹れてくるね」
「ありがとう」

彼はキッチンへ向かったけれど、私はじっとしていられず、リビングの大きな窓に歩み寄った。

窓ガラスの向こうには海が広がっている。夕日が水面に反射して、まるで砕け散った宝石が波に揺られているようだ。

「……綺麗」

思わず声が漏れる。この景色を、彼は子供の頃から見ていたんだ。そう思うと、胸が締め付けられるほど愛おしい。

「朱莉」

ふいに背後から名前を呼ばれた。振り返ると、カウンター越しに彼が、使い込まれた一眼レフカメラをこちらに向けていた。

「え、ちょっ、なに?」
「いいから、そのまま」

慌てて髪を直そうとする私を制して、彼はファインダーを覗き込む。

「ねえ……私、変じゃない……?」
「大丈夫、綺麗だよ」

さらりと言われて、頬が熱くなるのがわかった。
海風に吹かれて少し乱れた髪、夕日に照らされた横顔。そして、彼から渡されたばかりの、あの真っ赤なマフラー。

カシャ、カシャ。

静かな部屋に、小気味よいシャッター音が響く。
彼は何度かアングルを変えながら、熱心にシャッターを切り続けた。その真剣な目つきに、私は自分が彼の一部として、彼の記憶の破片として切り取られていくような、不思議な感覚を覚えていた。

「よし、上出来」

満足げに彼がカメラを下ろす。

「もう! 急に撮るなんて恥ずかしいよ……!」
「あはは、ごめんごめん」

彼は笑って、カメラをカウンターに置いた。

「……あ、じゃあお詫びと言ってはなんだけど、これでも見る?」

優さんは暖炉横の棚から、少し埃を被った分厚いアルバムを取り出してきた。

「え、なになに!」

二人でソファに並んで座ると、古い紙の匂いがふわりと鼻をくすぐる。

「……これ、優さん?」
「そう。五歳くらいかな。海辺で迷子になって泣いてるところ」

そこには、今の落ち着いた彼からは想像もつかない、鼻を赤くして泣きじゃくる小さな男の子が写っていた。

ページをめくるたび、私の知らない彼が積み重なっていく。泥だらけで笑う少年時代、少し反抗期っぽくカメラを睨む中学生の彼。

「この頃から、いまの面影があるね」
「そうかな。自分じゃよく分からないけど」

彼が穏やかに笑いながら、指先で自分の幼い頃の輪郭をなぞる。その横顔を見ていると、彼のこれまでの人生すべてを愛おしく感じて、胸の奥が熱くなった。

どのくらい二人でアルバムを見ていただろうか。部屋はいつのまにか暗くなり、窓の外を見ると、太陽はもうすっかり沈んでしまっていた。

「暗くなってきたね。電気つけようか」
「待って!」

私は、立ちあがろうとする彼の腕を掴んで引き留める。

「どうしたの?」
「……踊りたい」
「え?」
「一緒にダンスしよう!」
「……ずいぶん突拍子もないこと言うね」
「いいでしょ?」
「……今、ここで?」
「今、ここで!」

彼は驚いたように笑っていたけれど、私が手を差し伸べると、観念したように立ち上がった。

私はスマートフォンを手に取り、音楽アプリの再生ボタンを押した。流れてきたのは、もう何度もなく車の中で聴いた、切なくて優しいメロディ。

部屋を照らすのは、暖炉で揺らめく真っ赤な炎だけ。その灯りは、優しくてあたたたかいと同時に、脆くて、手で包んで守りたくなるような儚さだった。

私は彼にもらった赤いマフラーを手に取り、広げて軽く羽織る。まるで赤いドレスを身に纏ったような気分だ。彼は私の腰に手を回し、私は彼の首に腕を絡める。

私たちは暖炉の前で、一歩、また一歩とステップを踏み始める。炎の淡い灯りが、二人の影を長く、歪に壁に映し出していた。

「……ちょっと朱莉。僕の足、踏んでる」
「わざとだよ。こうしていれば、もっと近くにいられるでしょう?」

私は彼の足の上に自分の足を重ねて、すべての体重を彼に預けた。彼は「おっと」と声を漏らしながらも、私をしっかりと抱きとめ、リズムに合わせてゆっくりとからだを揺らす。彼の胸元に耳を当てると、トク、トク、と一定のリズムを刻む鼓動が聞こえた。

窓の外では冬の気配を含んだ風が木々を揺らし、海鳴りの音が遠くで響いている。けれど、この瞬間の私にとって、世界は暖炉の灯りと、肩に掛けられたマフラーと、それからなにより、彼の心臓の音で満たされていた。

「……ねえ優さん」
「うん?」
「忘れないでね」
「なにを?」
「今の、この感じ。全部、覚えていてね」

彼はなにも言わず、ただ私の背中をゆっくりとなぞり続けた。

「……朱莉。そろそろ電気つけようか」
「まだだめ! ……もうちょっとだけ」
「あはは。君はいつも止まらないんだね」
「……そうですよ?」
「いや、いいと思うよ」

彼は笑って、私の頭にぽんと手を置いた。言葉と、手のひらの温かさに、胸の奥が満たされていく。

「……ねえ、優さん。さっき撮った写真見たい」
「え? 現像したら渡すよ?」
「いま見たいの! デジタルの画面でいいから!」
「せっかちだなぁ」

彼は暗がりの中手探りに、カウンターに置かれたカメラを持ってきた。暖炉のそばで二人身を寄せ合い、小さな液晶画面を覗き込む。

そこには、夕日の中で笑う私や、真剣な顔で暖炉に薪をくべる彼の横顔、そして――。

「あ、これ!」

私が指さしたのは、カメラを向けられた私が驚いて動いてしまった瞬間であろう、ブレブレの一枚。

「……傑作じゃない?」
「ただの失敗作だよ」

彼は苦笑いしながらも、私の肩を抱き寄せた。
そのブレた写真の中にいる女性は、世界で一番幸せそうに見えた。

「これ、絶対に現像してね」
「わかった。約束するよ」

彼は私の額に優しくキスをして、それからリビングの電気を点けた。
一瞬、眩しさに目を細める。
電気が点いても、魔法は解けなかった。

彼はキッチンからコーヒーを持ってきて、私はソファで彼の上着を膝にかけて待つ。冷え込んできた夜の空気とは対照的に、家の中は暖炉と、コーヒーの香りと、この会えない多幸感に満ちている。

時計の針は深夜を回っていたけれど、私たちはどちらからともなく、次の日の予定を話し始めた。

「明日の朝は、海岸を散歩しようか」
「いいね! 海辺でもう一回写真撮ってよ」
「了解。今度はピントを合わせるよ」

とりとめのない会話の中で、彼が私の手を握り、指先を一本ずつ愛おしそうになぞる。

その夜、私は彼の腕の中で眠りについた。
窓の外で響く海鳴りは、まるで私たちを祝福する子守唄のようで。
「明日になったら、消えちゃいそう」なんて、もう思わなかった。この瞬間が一番幸せだったと、今では思う。