灯火みたいな恋だった

その日を境に、私のスマートフォンの通知音は、特別な意味を持つようになった。

仕事の連絡に混ざって届く、彼からの短い言葉。

『今日の空、いい色だね』
『今夜は冷え込むみたいだから、気をつけて』
『この前の企画書、面白かったよ。少し修正したけど』

たった一行の文字が、私の心臓を不規則に跳ねさせる。二十三年間、自分の心は自分だけのものだと思っていたのに、いつの間にか、その鍵を彼に預けてしまったような、心細くて、でもたまらなく甘い感覚だった。

本格的に距離が縮まったのは、十二月に入る直前、冷たい雨が雪に変わりそうなほど冷え込んだ夜のこと。打ち合わせが長引き、スタジオを出る頃には街灯の灯りが滲んでいた。

「送っていくよ。この時間この天気じゃ、タクシーも捕まらない」

断る間もなく、彼は自身の古いボルボの鍵を指先で回した。
車内は外と変わらないくらい寒かったけれど、それよりも、ダッシュボードに置かれた小さな革の小物や、使い込まれたシートのにおい、彼のプライベートな空間に閉じ込められたという事実に、私は身を固くした。

「緊張してる?」

ハンドルを握る彼の横顔は、街灯の光を規則的に浴びて、美しく浮き上がっていた。

「……少し。萩原さんの車、萩原さんのにおいがするので」
「えー、変なにおいじゃない?」
「違います! 全然!」
「あはは、よかった。コーヒーと、あとは古い機械のにおいかな」

彼は可笑しそうに笑って、カーステレオのボリュームを上げた。流れてきたのは、カントリー調の、私の知らない洋楽。柔らかいギターの旋律が、狭い車内を優しく満たしていく。

「吉川さんは、なんで編集の仕事をしようって思ったの?」
「……え?」
「さっきも言ったけど、仕事の話をするきみ、いつもいい顔してるから。よほど楽しいんだろうなって。なにがそんなにモチベーションになってるのかなって、気になって」
「あ、えっと……」

少し考えて、私は口を開く。

「……誰かを元気づけられるようなコンテンツの制作に携わりたかったんです。視覚的な面白さや美しさだけじゃなくて、メッセージ性の強さで、誰かの心を動かしたい、新しい価値を作っていきたいと思って……それで、編集者になったんです」
「……すごい、アツイ夢があるんだね」
「え! あ! す、すみません!」
「あはは! なんで謝るの。全然いいんだよ。きみのまっすぐな思いが痛いほど伝わってきた」
「そ、それならよかったです」
「……僕も、人の心に語りかけるようなものが撮りたいんだ。……まだまだ夢の途中だけどね」
「……そうなんですね」
「うん。だから、仕事にひたむきなきみを同志として尊敬するよ」

顔が熱くなって、全身がむず痒くて、私は俯くしかできない。

「本当に、素敵だなって思うよ」

信号待ちで車が止まったその瞬間、彼はふと助手席に手を伸ばした。私の髪に触れるか触れないかの距離に迫る。

「……きみは、自分の魅力に無頓着すぎる」

心臓が口から飛び出しそうだった。彼の指先が、私の耳にかかった髪に触れた。そのわずかな接触が、火傷しそうなほど熱い。

「……ごめん」
「……え?」
「きみがあまりにも可愛かったから、つい……でもだめだね。きみはもっと大事にされるべきだ。僕みたいなおじさんに、安売りしちゃいけないね」

彼の手が、すっと離れていく。
彼の言葉は、私に向けられたものというより、自分への戒めや、あるいは、祈りのように、私には思えた。いま彼が見ているのは、仕事相手としての私ではなく、ただの「私」だとわかった。

「……萩原さんは?」
「え?」
「萩原さんは、私を大事にしてくれないんですか?」

口にした瞬間、恥ずかしくてたまらなくなった。なんて厚かましい、子どもじみた質問だろう。

彼は驚いたように目を見開いたあと、ふっと力を抜いて笑った。そして、震える私の手をそっと包み込んだ。

「……いいのかな。僕なんかで」
「……はい」
「……大事にする。……少なくとも、僕が僕でいられる間は、ずっと」

その言葉の余白に気付くほど、私は大人ではなかった。

その夜、私たちははじめてキスをした。
優しい音楽と、あたたかい車内。
重なった唇からは、微かにコーヒーの味がした。