灯火みたいな恋だった

彼と出会う前の私の世界は、どこか彩度の低い、書きかけのスケッチのようなものだった。

大学を卒業して小さな編集プロダクションで働き始めてから、毎日慣れない業務とタスクの消化に追われ、窓の外を流れる季節の移ろいなんて、傘が必要か、厚手のコートが必要か、という指標でしかなかった。

あの日もそうだった。

十一月の、冷たい雨が降り始めた午後。取材予定だったカメラマンが急病で来られなくなり、私は代役として紹介された人のスタジオへ向かっていた。

代官山の路地裏にある、古いレンガ造りの建物。慌ただしくバサバサと傘を閉じ、重い扉を押し開けたその瞬間、雨のにおいを打ち消す、深いコーヒーの香りが私の鼻を掠めた。

「すみませーん……先ほどお電話しました、編集の吉川と……申しますが……」

誰もいない空間に、私の言葉尻ががじんわりと消えていく。控えめに足を踏み込むと、奥から足音が聞こえきた。現れたのは、黒縁眼鏡にグレーのタートルネックを着た男の人だった。

それが、萩原(はぎはら)(ゆう)だった。
彼は私を一目見て、少しだけ意外そうに目を細めた。その視線の鋭さに、私は自分がひどく子どもっぽく見えているのではないかと、急に不安になる。

「萩原です。雨、ひどかったでしょう。ひとまず、そこに掛けてください」

彼の声は低くて、耳の奥に心地よく残るチェロのような、柔らかい響きをしていた。
彼が差し出してくれたマグカップを両手で包んだとき、凍えていた指先がじわりと熱を持っていくのがわかった。ただ飲み物を淹れてくれたというだけで、それまで溜まっていた疲労や焦りが和らぎ、からだが熱を取り戻していくのを感じた。

「きみ、いい目をしているね」

打ち合わせが始まって数分後、彼は私の顔を覗きこみながら、ふとそう言った。それまで順調に仕事の話をしていたはずなのに、その一言で私の思考は完全にフリーズしてしまった。

「……え?」
「いや、この企画の意図を話すきみの目が、すごくまっすぐだったから。いいものが撮れそうだなって思ったんだ」

彼は、少しだけ口角を上げて笑った。それは、大人が子どもをあやすような微笑みではなく、一人の表現者として私を認めてくれたような、対等で、深く、あたたかい光を宿した表情(かお)だった。

その瞬間、無機質だったスタジオに色が差し込んだ。

棚に並ぶカメラの黒。彼の眼鏡に反射する白い光。窓の外で雨粒に煌めく、木々の赤や、銀杏の黄金色。すべてが輝いている。

心臓が、不規則に脈打つのを感じた。
二十年以上当たり前に呼吸してきたはずなのに、このときばかりは、うまく息ができなかった。

この人と、もっと話をしたい。
この人の瞳に映る自分を、もっと見たい。

スタジオを出たとき、雨はすっかり上がっていた。私の足取りも、来たときとはまったく違う。私の世界に、彼という光が差し込んできた瞬間だった。