バーの扉を背にすると、夜の底を這う冷たい風が容赦なく私たちの間を吹き抜けた。入り組んだ路地は、数時間前ほどの華やかさはない。古びたレンガの壁は街灯の光に青白く照らされ、アスファルトの上に落ちる私たちの影は、細長く、頼りなく伸びていた。
「……雪」
顔を上げると、漆黒の空に迷い込んだ白い粒が、スローモーションで視界を横切った。
初雪だ。
彼のボルボの助手席で何度も聴いた、暖炉の前でふたり口ずさんだあの曲。あのあたたかい旋律が恋しい。あのとき私たちは「雪が降ったらどこへ行こうか」なんて、無邪気に話していた私の姿は、もうそこにはなかった。
隣を歩く優さんは、空を見上げることもなかった。コートの襟を立て、私が隣にいることなど忘れてしまったように正面を見つめて、険しい表情で歩いている。
「……朱莉」
駅へと続く緩やかな坂道の途中で、彼は足を止めた。私は彼の二歩後ろで立ち止まる。
逃げ出したかった。このまま雪がすべてを白く塗りつぶして、彼の喉元まで出かかっている言葉を凍らせてしまえばいいのに。
「……ごめん」
「……なんのこと?」
「……なにもかも」
「……約束の時間に遅れたことなら、もう全然──」
「それもそうなんだけど……」
彼はゆっくりと私のほうへ向き直った。
「僕は……きみといると、自分がひどく……老いさらばえた人間に思えるんだ」
彼は遠慮がちに言った。
「……さっきの店で、君もわかっただろう? あれが、大人の世界だ」
「……私がまだまだ子どもだってことですか?」
「……ああ」
「それは……そうかもしれません。でも追いつこうとしてます! 二十五になったから……優さんに追いつけるようにもっともっと頑張ろうって、私本気で──」
彼は私の言葉を遮るように、首を振った。
「そうじゃないんだ、朱莉。きみにもっと努力しろと言っているんじゃない。……むしろ、僕のほうがきみについていけていないんだ。きみは僕と肩を並べられるようにと頑張っているけど、僕はそんなに立派なもんじゃない。退屈な男だよ。マフラーひとつで大はしゃぎしたり、急にダンスをしようなんて言ってみたり、二十五の節目をすごく特別なもののように捉えていたり、僕との将来を、本気で考えていたり──なにをするにもキラキラ輝いて、これからのために必死なきみを見ていると、なんていうか……羨ましいと同時に、すごく怖いんだ」
「怖い……?」
「きみのその輝きを、どう守ればいいか、わからないんだ。僕は、失われていく過程を知りすぎている。きみには、僕みたいに金や社会的地位、他人の苦労話や上司の愚痴ばかりになってほしくないんだよ。……このままだと僕は、いまのきみの良さ奪ってしまうことになるかもしれない」
「……そんなのどうだっていい。いまの私があなたと一緒にいたいって言ってるんだから」
「……きみのためでもある」
「嘘! 私のためなんて、思ってもいないくせに! ただ面倒になったんでしょう? 私があなたを愛するのと同じ熱量で私を愛し続ける自信がなくなったから、年齢のせいにして逃げてるだけじゃない」
一瞬、彼の眉がぴくりと動いた。
「……そう思いたければ思えばいい。でも、これが僕の限界なんだ。君の真っ直ぐな瞳に見つめられるたび、自分のずるさを見透かされているようで息が詰まる。きみは、今の僕には眩しすぎる。だからといって、光を失っていくきみを見るのも耐えられないんだ」
彼は最後まで、私と目を合わせようとはしなかった。
「……だから、もっと『ふさわしい誰か』を見つけてくれ」
それが、彼の最後の言葉だった。
「……ずるいです」
私はするすると自分の首からマフラーを外した。一瞬ためらいながらも、手を離す。マフラーが地面に落ちると同時に、私は彼に背を向け歩き出した。私は涙を流しながらも、私は、彼がそれを持って追いかけて来てくれることを、この期に及んでなお期待していた。
「……雪」
顔を上げると、漆黒の空に迷い込んだ白い粒が、スローモーションで視界を横切った。
初雪だ。
彼のボルボの助手席で何度も聴いた、暖炉の前でふたり口ずさんだあの曲。あのあたたかい旋律が恋しい。あのとき私たちは「雪が降ったらどこへ行こうか」なんて、無邪気に話していた私の姿は、もうそこにはなかった。
隣を歩く優さんは、空を見上げることもなかった。コートの襟を立て、私が隣にいることなど忘れてしまったように正面を見つめて、険しい表情で歩いている。
「……朱莉」
駅へと続く緩やかな坂道の途中で、彼は足を止めた。私は彼の二歩後ろで立ち止まる。
逃げ出したかった。このまま雪がすべてを白く塗りつぶして、彼の喉元まで出かかっている言葉を凍らせてしまえばいいのに。
「……ごめん」
「……なんのこと?」
「……なにもかも」
「……約束の時間に遅れたことなら、もう全然──」
「それもそうなんだけど……」
彼はゆっくりと私のほうへ向き直った。
「僕は……きみといると、自分がひどく……老いさらばえた人間に思えるんだ」
彼は遠慮がちに言った。
「……さっきの店で、君もわかっただろう? あれが、大人の世界だ」
「……私がまだまだ子どもだってことですか?」
「……ああ」
「それは……そうかもしれません。でも追いつこうとしてます! 二十五になったから……優さんに追いつけるようにもっともっと頑張ろうって、私本気で──」
彼は私の言葉を遮るように、首を振った。
「そうじゃないんだ、朱莉。きみにもっと努力しろと言っているんじゃない。……むしろ、僕のほうがきみについていけていないんだ。きみは僕と肩を並べられるようにと頑張っているけど、僕はそんなに立派なもんじゃない。退屈な男だよ。マフラーひとつで大はしゃぎしたり、急にダンスをしようなんて言ってみたり、二十五の節目をすごく特別なもののように捉えていたり、僕との将来を、本気で考えていたり──なにをするにもキラキラ輝いて、これからのために必死なきみを見ていると、なんていうか……羨ましいと同時に、すごく怖いんだ」
「怖い……?」
「きみのその輝きを、どう守ればいいか、わからないんだ。僕は、失われていく過程を知りすぎている。きみには、僕みたいに金や社会的地位、他人の苦労話や上司の愚痴ばかりになってほしくないんだよ。……このままだと僕は、いまのきみの良さ奪ってしまうことになるかもしれない」
「……そんなのどうだっていい。いまの私があなたと一緒にいたいって言ってるんだから」
「……きみのためでもある」
「嘘! 私のためなんて、思ってもいないくせに! ただ面倒になったんでしょう? 私があなたを愛するのと同じ熱量で私を愛し続ける自信がなくなったから、年齢のせいにして逃げてるだけじゃない」
一瞬、彼の眉がぴくりと動いた。
「……そう思いたければ思えばいい。でも、これが僕の限界なんだ。君の真っ直ぐな瞳に見つめられるたび、自分のずるさを見透かされているようで息が詰まる。きみは、今の僕には眩しすぎる。だからといって、光を失っていくきみを見るのも耐えられないんだ」
彼は最後まで、私と目を合わせようとはしなかった。
「……だから、もっと『ふさわしい誰か』を見つけてくれ」
それが、彼の最後の言葉だった。
「……ずるいです」
私はするすると自分の首からマフラーを外した。一瞬ためらいながらも、手を離す。マフラーが地面に落ちると同時に、私は彼に背を向け歩き出した。私は涙を流しながらも、私は、彼がそれを持って追いかけて来てくれることを、この期に及んでなお期待していた。



