灯火みたいな恋だった

地下へ続く階段を降り、重い防音扉を開けると、そこは青白い照明のなか紫煙がくゆる別世界だった。

「おーい、萩原が来たぞ! しかも可愛い連れまでいやがる!」

カウンターを占拠していた男女が一斉にこちらを向く。そこには、萩原さんと同じだけの年月を積み重ねてきた人の、完成された社交だった。私は彼らの輪の端っこにそっと腰掛けた。

「そういえば大学二年のとき、お前が海でボロ車エンストさせたの、覚えてる?」
「やめろよ、あれはバッテリーが死んでたんだ」
「あのとき車に置きっぱなしにしてた(たけ)ぇ眼鏡、熱で溶けちゃってさ。お前泣きそうだったよな」

 会話の波が、私の頭上を通り過ぎていく。ほかにも、ゼミの教授の名前や、卒業記念のシンガポール旅行、今はなき伝説のライブハウスのこと、株の値動きがどうだとか、子どものこと、住宅ローンのこと、ここにいないサークル仲間の壮絶な離婚劇──。彼らが共有しているのは、同じ質感を持った思い出や価値観や悩み。私がどれほど想像力を働かせても、同じ温度で語り合うことはできない。

萩原さんは、いつの間にか私のことなんて忘れてしまったように、加藤さんたちと笑い合っている。眼鏡の奥の瞳が、見たこともないほど生き生きと輝いている。

「……結局さ、理想だけじゃ食っていけないんだよな」

萩原さんの大学時代の同期で、岡本と呼ばれた男性が、分厚いグラスを勢いよくテーブルに置いた。

「なあ、萩原。お前も昔は『人の心に語りかけるようなものが撮りたい』なんて熱く語ってたけど、今じゃすっかり数字と金の亡者だもんな」

友人たちがどっと沸く。私は、そんなふうに揶揄される彼が可哀想になって、つい口を挟んでしまった。

「でも、優さ……萩原さんは今でも仕事で誰かを幸せにしたいって、私に話してくれます。それって、すごく素敵なことだと思うんです」

私の声が響いた瞬間、部屋の温度がほんの少し下がったような気がした。友人たちは、もの珍しい生き物を見るような目で私を見ている。

「すごいね、若さって……ま、まぶしい……!! 俺ら、いつからこんなオジサンになっちゃったんだ!!」

男性の自虐的な叫びに、再びその場がどっと沸いた。その中で、私だけが小さく俯く。私はひどく恥ずかしくなって、隣にいる萩原さんの袖を、助けを求めるようにそっと引いた。

彼ならわかってくれる。あの日の帰り際、私の青臭い夢をあんなに愛おしそうに聞いてくれた彼なら、この気まずさから救い出してくれる。けれど、彼は私の方を一度も向かなかった。

「……まあ、そうだよな。俺もあの頃は、若さゆえの万能感に酔ってただけだ」

彼は、困ったように笑った。

二十五歳。
私は、大人の階段を一段上ったつもりでいた。だけど、このカウンターに並ぶ彼らの前では、私の二十五年なんて、ほんのプロローグに過ぎないのだ。

「……萩原さん」

私の小さな声は、彼の横顔まで届かない。

「……すみません、少し失礼します」

誰に言うでもなく呟き、鞄と膝上のマフラーを掴んで、逃げるように店の奥にあるパウダールームへ駆け込んだ。扉を閉めた瞬間、賑やかな笑い声やジャズの音色すべてが遮断され、代わりに心臓のドロドロとした鼓動がの音が耳の奥で鳴り響く。

鏡の中にいたのは、自分でも驚くほど惨めな女だった。
彼のために選んだネイビーのドレスは、この無機質な空間では借り物のように浮いている。そして何より、丁寧に巻いたはずの赤いマフラーが、今は私を絞め殺す鎖のように見えた。

「……っ、ふ、……う」

抑えていたものが、熱い塊となって目から溢れ出した。
私は、こんなところで泣くような人間じゃないはずだった。仕事でミスをしても、どんなに理不尽な締め切りに追われても、トイレに駆け込んで涙を流すような軟弱な生き方はしてこなかった。

それなのに、今の私は、洗面台の冷たい大理石に手をつき、子供のように肩を震わせて泣いている。

「……大丈夫? 気分でも悪い?」

不意に背後で扉が開き、柔らかい声がした。
振り返ると、そこには真由子さんが立っていた。彼女は、私の涙で汚れた顔を見ると、驚いたように大きな瞳を瞬かせ、ハンドバッグからシルクのハンカチを取り出した。彼女の指先には落ち着いたダークピンクのネイルが施されている。外では気付かなかったけれど、定期的に手入れしなければ手に入らないサラサラの黒髪に、シンプルなネイビーのセットアップを着ていて大人っぽい──私の考える、完璧なレディの装いだ。

「いえ、大丈夫です」
「……岡本の言ったことなら気にしないで。あいつ、酔うと自分がなに言ってるかわかんなくなるの。あなたを嘲ったわけじゃないのよ」
「……いえ、私が世間知らずのお子ちゃまでした。空気を乱すようなこと言って、すみません」
「……吉川さんて、いくつ?」
「……二十五です」
「そっかあ。将来希望だらけの、なにやっても新鮮で楽しい時期だ」
「……どうでしょう。空回ったり、失敗することも多くて嫌になります」
「そんなの、あなたの人生の中のほんの一部にすぎないわ。それに、どんな失敗も取り戻せる年齢だし。私たちの歳になると、簡単に後戻りなんてできないもの。あなたの若さが羨ましい」
「私は……早く大人になりたいです」

ほんの少し俯いて、膝の上で赤いマフラーをぎゅっと握りしめた。そのことに気付いたのか、真由子さんも私の膝元に視線を落とす。

「そのマフラー、とっても可愛いね」
「え? あ、ありがとうございます」
「今のあなたにぴったり。……もしかして、萩原君の趣味だったりする?」
「あ……はい」
「やっぱり? でもいいね。若くて可愛い子がつけると、サマになる。萩原君、昔からこういうのが好きなの。自分は似合わないくせにね」

あの日のことが蘇った。
あの日見つけた写真。あの写真に写っていたのは、いま目の前にいる真由子さんだ。そのことに気づいた瞬間、私は恥ずかしくてたまらなくなった。 

「……これ、ありがとうございました!」

押し付けるように、彼女にハンカチを返す。

「あ、吉川さん! 待って!」
「……はい?」
「……誰かのために大人になろうとか、変わらなきゃとか、そんなこと考える必要ないからね」
「え?」
「あなたがほしいものは、いつか、必ず手に入るものだから」
「……失礼します」

彼女に悪意はないのはわかっている。けれど、彼女の言葉は毒みたいに全身に回って、冷たくなっていく。煙に包まれたモノクロームの無機質な空間中で、私の「赤」は、まるで図書館で鳴り響いてしまったアラームのように場違いで、ひどく滑稽だった。

パウダールームを出ると、萩原さんは入り口の近くで時計を眺めていた。私を見つけると、彼は少しだけ眉を寄せて、私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」
「……すみません」
「……目、赤い」
「……なんでもない。少し疲れちゃっただけ」

彼はそれ以上、なにも追求しようとはしなかった。それが優しさではないことに気付かないほど、私はもう愚かではいられなかった。