君に捧げる愛

「発作です!」

 私のその声が響くと共に、嶺緒さんの病室には医師と看護師が数名入ってきた。

「状態は?」

 看護師が点滴量を多くし、薬を足す。嶺緒さんの顔を伺いながら、凡人の私には理解の到底できない言葉を淡々と並べる。ただ一つわかることは、危ない状態だと言うこと。

「さっき食事を持ってきたとき、苦しそうで、」

 どうしても声に動揺を隠すことはできなかった。私は嶺緒さんと処置をする医師たちを見ることしかできなくて。そんな自分が今更ながら嫌になった。

 バイタルが異常を示す緊張を煽る音や、緊迫し声を張り上げる医師や看護師を目の当たりにすること、いやそれすらもできなかったかもしれない。怖くて。一番怖いのは本人で、本人は、その状態を見てみぬふりはできないのに。

「大丈夫ですかー?聞こえますかー?どこが苦しい?」

 医師はなれた手つきで嶺緒さんの肩をトントンと規則的に何度もたたきながら声かけを続ける。

「血圧回復しません!」
「処置室運ぶぞ。急げ。」

 担架に乗せられ運ばれる嶺緒さんを呆然と眺めることしかできなくて。ただただ、嶺緒さんの命があることを願うしかなかった。

「血圧回復してきました」
「了解。しばらく輸血しとけ。」

 私は嶺緒さんのいないベッドを呆然とみていた。数分後に立ち上がり、業務を再開した。私にできることは嶺緒さんの身の回りのことしかないのだから、少しでも、嶺緒さんの役に立てるように動くことしかできない。

 それは嶺緒さんの命を助けられるほど大きな仕事ではないし、誰でもできるのだから。私には特別なんてない。

 でも、結果的に私は嶺緒さんの特別になれるのかもしれない。それがどんな汚い形であっても。

 翌日の朝、嶺緒さんは何事もなかったかのような顔で病室に帰ってきた。きっと、そう見えるだけで、私が想像できないくらいずっとずっと苦しかったはずなのに。

「おはようございます。嶺緒さん。」

 これと言っていつもと変わらない朝の挨拶。毎朝、タオルと水を届けるために嶺緒さんにお会いする。聞きたいことは数えきれないほどある。正直一年半この仕事をしていても、嶺緒さんの何一つ掴めていない。でもそれを聞いても、嶺緒さんの傷をえぐることしかできないと思った。

「ねえ、あんたさ、人に興味ねぇの?」

 まともな会話を持ちかけられたのはこれが初めてだったと思う。その問いは私の耳を通って頭に留まることなく抜けていった。

「どうしてですか?」

 答えることもできず、質問に質問を返した。

 嶺緒さんはポケットに手を入れて私の顔をまっすぐ見ながら口を動かした。

「俺が何してようと何も聞いてこねえし、ぜってーなんか聞いてくると思ってたのにおはようございます、って。興味ねぇにもなさすぎだろ。」

 嶺緒さんが私について聞いてくるのは初日、だれ?と聞かれて以来初めてだった。人に興味ないのかと聞かれて私はそんなことない、興味がある、そう言える自信は正直なかった。施設ではお互いになぜここにきたのか干渉しないのは暗黙の了解だったし、友達、と言ってもそんな信頼関係なんて正直おままごとでしかなかった。

 私の入った施設は人間関係にうるさくて、男女が関わりを持つ場なんてほとんどないに等しかったし、お互いに踏み込んだ話がしないのがお決まりだったから。

 普通の人から見れば人への興味は薄い方だったのかもしれない。

「いや俺さ、あんたがくる前になんかいっつもくっついてくるメイド?みてぇなやつがいて。そんときはうぜぇくらいいろんな質問されて、発作起こした時なんか心配にも程があるくらい干渉されてさ。」

 嶺緒さんが過去のことを私に話すことは初めてで、こんな踏み込んだ話は初めて嶺緒さんと交わした。私は何と答えるのが一番嶺緒さんにとっていいのかわからなかった。でもわからないなりには言葉を選んで、嶺緒さんの問いに答えた。

「ない、わけではないです。ただ、ある、と胸を張って言える自信はありません。嶺緒さんの負担にならないように聞かなかったことはもちろんですが、それ以上に知ることは業務上必要なかったので。」

 事実を淡々と話した。私の過去は乗せない。必要のない情報だから。隠してるわけでもないけれど、嶺緒さんは聞いたところできっとそんな話耳に入って抜けていくだけだろう。

 部屋に沈黙が落ちてすぐに破られた。嶺緒さんが、へーといって私から視線を外したと思えば、言葉を続けた。

「つまんねぇ生き方してんだな。」

 言葉を切って、部屋には沈黙が落ちた。私にとって施設が今までの人生だったから、確かに人よりはつまんねぇかもななんて妙に納得して。ベッドに腰掛けた嶺緒さんはもう一度口を開いた。

「なぁ、名前なんだっけ。」

「暁月翠と申します。」

 嶺緒さんに向かって一年半ぶりに言う私の名前はどこか浮いていた。そんな呑気な思考は一気に白く塗りつぶされた。いや、塗られたというより、大量の絵の具が入ったバケツをひっくり返されて無理やり上書きするみたいに。

「翠、ね。じゃあさ、俺の話し相手になってよ。」

 一体どんな心境の変化か。私には理解が到底できない。あんた、と私を呼ぶのさえ珍しかった嶺緒さんが翠、と名前を呼んでいる。学校にまともに通うことのなかった嶺緒さんにとって名前を呼ぶと言うのは別に特別なことではないだけかもしれないが。



___多分、これがきっかけだったと思う。


 嶺緒さんは毎日ぼーっと飯食って健診して生きてる心地がしない、つまんねぇ人生だったと、私にそういった。だから、話し相手になれと。私が話すことなんてほとんどないんだけどさ。

「話し相手と言いましても、私は面白い話できませんよ。」

 嶺緒さんは少し考えてから口を開いた。

「別に期待してねぇよ。俺に向けられてればそれでいい。」

 その一言がなぜだか頭から離れなかった。

「翠のことについて、教えてよ。俺、何もしらねぇじゃん。」

 嶺緒さんが人に興味を持った歴史的瞬間といえば凄さが伝わるだろうか。それくらい、前の嶺緒さんからは考えられないような言葉だった。

「私も嶺緒さんのこと大して知りませんよ。」

 俺のことはいいの、とはぐらかして、淡々とした質疑応答が始まった。

「何歳?」

「もうすぐ17です。」

「誕生日は?」

「11月13日です。」

「一ヶ月後じゃん。えーと、家族構成」

「両親は亡くなって一人っ子」

「地元は?」

「地元っていうのかわかりませんが施設が栃木にあったので栃木です。」

「何でこんな仕事してんの?」

「お父様からのスカウト」

「なんで?」

「知らない」

「へー、俺翠のこと何もしらねぇんだな」

 質問をやめ、感嘆していた。まともに会話を交わさなかった私たちの間にお互いの知識もくそもないだろう。両親を亡くして施設暮らしだった、ということに反応せずに質問を続けるところが嶺緒さんらしい。

 何の音もない病室にふと嶺緒さんの声が響いた。

「人と話すのってわるくねぇんだな。17だっけ?勉強教えてくんね?この教師意味わかんなくて。」

 嶺緒さんは基本リモートで授業を受けているのもあって質問もできる状況ではない。ただ嶺緒さんの成績がいいのは何となく聞いたことがあった。

「あーえと、二時間後に休憩あるのでその時でよければ。」

 ああ、と返事をしていつものようにベッドに横になった。

 部屋を出ようとして足を止めた。

「どうして、私と話そうと思ったんですか。」

 その一つの問いがずっと引っかかっていた。なぜ急に言葉を受け取ってくれたのか、言葉を返してくれたのか。

「あんたは楽そうだったから。」

 前に話してくれたメイドの話が脳裏に浮かんだ

__うぜぇくらいしつこくて。

 私はそんなしつこさがないとでも思ったのか。なんともいえない気持ちになった。『必要以上には踏み込むなよ』といわれている気がして。

「そうですか。では、また後ほど。」

 いつものように掃除、洗濯、ご飯の準備、お父様への状況報告を済ませる。でも今日は少しいつもより足が軽かった。

「失礼します。」

 病室にはいると机に教科書とノートを広げた嶺緒さんが映った。なにやらペンをカチカチと鳴らしていてイライラしているようだった。

「このさ、なに、きもちわりぃグラフ。ここから座標出せとかいみわかんね。絶対必要ないでしょ。」

 入試レベルの応用問題。中1の段階では解く能力なんて必要ないに近いだろう。

 嶺緒さんの机の向かい側に座り、身を乗り出した。ここなんだけどさ、とペンで指を指す。嶺緒さんのこんな近くに来たことは初めてで、白く、細いのにゴツゴツとした男らしい手だということを初めて知った。

「えーとまず、このわからん座標を仮にaと置いて、aをこの式に代入すると、」

 ふと、頭がぶつかった。さらさらの黒髪がすぐそこに垂れていて、シャンプーの香りがした。

「すみません。えーと、そうするとx座標が、」

 嶺緒さんの手の動きがぎこちなくなったのはきっと気のせいだ。

 何やかんや入試レベルの問題を10問ほど解かされたところで就寝時間になった。

「じゃあそろそろ。おやすみなさい。」

「明日も教えてくれる?次は英語。」

 そう言って嶺緒さんはベッドに潜った。