「百舌鳥さまは……」
「杏樹でいいよ」
「杏樹、さまは……いつもそんなふうに笑っているのですか」
口にしてから、失礼だったかもしれないと思った。けれど杏樹は怒らなかった。むしろ、愉快そうに笑った。
「そう見える?」
「……見えます」
「じゃあ、そうなんじゃないかな」
曖昧な答えだ。つかみどころがない。
「適当ですね」
「よく言われるよ」
「術者なのに、ですか?」
「術者にも色々いるからね。天也みたいに真面目なのもいれば、俺みたいなのもいるよ」
「杏樹」
天也が窘めるような響きで、低く呼ぶ。
杏樹は「はいはい」と笑って、茶を口にした。
その横顔を見ながら、芹はまた小さな違和感を覚えた。
杏樹は軽い。けれど、軽いだけではない。時折、こちらの心の奥を見透かすような目をする。
それが怖いというより不思議だった。まるで、芹が今何に怯え、何を知りたがっているのかを、最初から分かっているような。
「……最近」
ふいに、天也が口を開いた。
芹は思わず顔を上げる。
「鬼の出現が増えている」
静かな声だった。けれど、その一言で場の空気が少し変わる。
「昼にも出るようになっている。今日のように、都の中心近くへ現れる個体もいる」
「やはり……普通ではないのですね」
芹が呟くと、天也は頷いた。
「本来、鬼は日を嫌う。昼間に動く個体がいないわけではないが、多くはない」
「では、なぜ」
「分からない」
杏樹が串の先を軽く揺らす。
「最近の鬼、何かに追われてるみたいなんだよね」
「追われている?」
芹は聞き返した。
「うん。人を喰うために出てきたっていうより、どこかから逃げてきたみたいな動きをする」
「鬼が、逃げる……?」
そんなことがあるのだろうか。
鬼は人を襲うもの。夜に現れ、牙を剥き、命を奪うもの。
芹にとって鬼とは、そういう存在だった。愁が鬼に襲われて死んだと聞いた時から、なおさら。
芹の胸が、ずきりと痛む。
(……愁)
今はまだ生きている。今朝、確かにそこにいた。あたたかい腕で、芹を受け止めてくれた。
けれど一度目の世界では、愁は鬼に襲われて死んだ。それを思い出すと、胸の奥が冷えていく。
「芹ちゃん?」
杏樹の声がした。
「顔色、悪いよ」
「……大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
そう答えたものの、声は少し頼りなかった。
天也の視線が静かに芹を捉えている。何かを問われるかと思ったが、彼は何も言わなかった。
「無理はするな」
その一言に、胸がまた揺れた。
「……はい」
どうしてこの人は、こんなにも静かに気遣うのだろう。
優しいと言い切るには不器用で。けれど冷たいわけではない。むしろ、その不器用さが、かえって真っ直ぐで。
(……困る)
胸の奥が、また温かくなる。
疑わなければならないのに。距離を取らなければならないのに。知れば知るほど、その輪郭があの夜の恐怖から離れていく。
だからこそ、怖かった。自分の中の疑いが、少しずつほどけていくことが。
「芹ちゃんは、縹家の人なんだよね?」
「……はい」
「となると、星見の巫女姫の末裔か」
その言葉に芹は息を呑んだ。天也の視線も杏樹へ向いている。
「杏樹」
「いいじゃん。隠すことでもないでしょ」
杏樹は悪びれもせずに言う。
「縹家って有名だし。五百年前に鬼を封じた巫女姫の血筋」
「……名ばかりです」
芹は俯いた。
「今は星見の力を使える者もおりません。私も、何も知らないのです」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
芹は何も知らない。星見の力が何なのかも、なぜ自分が過去へ戻ったのかも。あの夜、誰が自分を殺したのかも、何ひとつ分かっていない。
「何も知らない、か」
杏樹が小さく呟いた。その声音が妙に耳に残る。
「でもさ、知らないままじゃいられないんでしょ」
芹は顔を上げた。
杏樹は笑っているが、その目は笑っていなかった。
「……どういう意味ですか」
「そのままだよ。芹ちゃんは、知りたがってる顔をしてる」
「……」
「怖いのに、逃げない。逃げたいのに、見ようとしてる」
どくん、と胸が鳴る。
何も言えなかったのは、その通りだったから。
「杏樹さまは」
芹はそっと息を吸った。
「何か、ご存じなのですか」
杏樹は目を瞬かせ、それからゆっくりと笑う。
「さあね」
杏樹は湯呑を置いた。
「でもさ」
杏樹は店の外へ視線を向けた。
春の光が、彼の横顔を淡く照らしている。
「同じ道を歩いてるつもりでも、ほんの少し顔を上げてみると、景色が違って見えることがあるでしょ」
「……何の話ですか?」
「さあ、何の話でしょう?」
天也は黙って二人の会話を聞いていた。その瞳が、ほんのわずかに細められている。
杏樹の言葉を警戒しているのだろうか。あるいは、別の何かを考えているのか。
「杏樹。余計なことを言うな」
「余計かな」
「混乱させている」
「混乱した方が、見えるものもあるよ」
杏樹は笑う。けれど、その言葉には奇妙な重みがある。
天也はそれ以上言わなかった。ただ、静かに杏樹を見ている。その視線に、芹はほんの少しだけ背筋が伸びた。
怖いわけではない。天也が本気で何かを見極めようとしている時の空気は、やはり鋭い。
「杏樹でいいよ」
「杏樹、さまは……いつもそんなふうに笑っているのですか」
口にしてから、失礼だったかもしれないと思った。けれど杏樹は怒らなかった。むしろ、愉快そうに笑った。
「そう見える?」
「……見えます」
「じゃあ、そうなんじゃないかな」
曖昧な答えだ。つかみどころがない。
「適当ですね」
「よく言われるよ」
「術者なのに、ですか?」
「術者にも色々いるからね。天也みたいに真面目なのもいれば、俺みたいなのもいるよ」
「杏樹」
天也が窘めるような響きで、低く呼ぶ。
杏樹は「はいはい」と笑って、茶を口にした。
その横顔を見ながら、芹はまた小さな違和感を覚えた。
杏樹は軽い。けれど、軽いだけではない。時折、こちらの心の奥を見透かすような目をする。
それが怖いというより不思議だった。まるで、芹が今何に怯え、何を知りたがっているのかを、最初から分かっているような。
「……最近」
ふいに、天也が口を開いた。
芹は思わず顔を上げる。
「鬼の出現が増えている」
静かな声だった。けれど、その一言で場の空気が少し変わる。
「昼にも出るようになっている。今日のように、都の中心近くへ現れる個体もいる」
「やはり……普通ではないのですね」
芹が呟くと、天也は頷いた。
「本来、鬼は日を嫌う。昼間に動く個体がいないわけではないが、多くはない」
「では、なぜ」
「分からない」
杏樹が串の先を軽く揺らす。
「最近の鬼、何かに追われてるみたいなんだよね」
「追われている?」
芹は聞き返した。
「うん。人を喰うために出てきたっていうより、どこかから逃げてきたみたいな動きをする」
「鬼が、逃げる……?」
そんなことがあるのだろうか。
鬼は人を襲うもの。夜に現れ、牙を剥き、命を奪うもの。
芹にとって鬼とは、そういう存在だった。愁が鬼に襲われて死んだと聞いた時から、なおさら。
芹の胸が、ずきりと痛む。
(……愁)
今はまだ生きている。今朝、確かにそこにいた。あたたかい腕で、芹を受け止めてくれた。
けれど一度目の世界では、愁は鬼に襲われて死んだ。それを思い出すと、胸の奥が冷えていく。
「芹ちゃん?」
杏樹の声がした。
「顔色、悪いよ」
「……大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
そう答えたものの、声は少し頼りなかった。
天也の視線が静かに芹を捉えている。何かを問われるかと思ったが、彼は何も言わなかった。
「無理はするな」
その一言に、胸がまた揺れた。
「……はい」
どうしてこの人は、こんなにも静かに気遣うのだろう。
優しいと言い切るには不器用で。けれど冷たいわけではない。むしろ、その不器用さが、かえって真っ直ぐで。
(……困る)
胸の奥が、また温かくなる。
疑わなければならないのに。距離を取らなければならないのに。知れば知るほど、その輪郭があの夜の恐怖から離れていく。
だからこそ、怖かった。自分の中の疑いが、少しずつほどけていくことが。
「芹ちゃんは、縹家の人なんだよね?」
「……はい」
「となると、星見の巫女姫の末裔か」
その言葉に芹は息を呑んだ。天也の視線も杏樹へ向いている。
「杏樹」
「いいじゃん。隠すことでもないでしょ」
杏樹は悪びれもせずに言う。
「縹家って有名だし。五百年前に鬼を封じた巫女姫の血筋」
「……名ばかりです」
芹は俯いた。
「今は星見の力を使える者もおりません。私も、何も知らないのです」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
芹は何も知らない。星見の力が何なのかも、なぜ自分が過去へ戻ったのかも。あの夜、誰が自分を殺したのかも、何ひとつ分かっていない。
「何も知らない、か」
杏樹が小さく呟いた。その声音が妙に耳に残る。
「でもさ、知らないままじゃいられないんでしょ」
芹は顔を上げた。
杏樹は笑っているが、その目は笑っていなかった。
「……どういう意味ですか」
「そのままだよ。芹ちゃんは、知りたがってる顔をしてる」
「……」
「怖いのに、逃げない。逃げたいのに、見ようとしてる」
どくん、と胸が鳴る。
何も言えなかったのは、その通りだったから。
「杏樹さまは」
芹はそっと息を吸った。
「何か、ご存じなのですか」
杏樹は目を瞬かせ、それからゆっくりと笑う。
「さあね」
杏樹は湯呑を置いた。
「でもさ」
杏樹は店の外へ視線を向けた。
春の光が、彼の横顔を淡く照らしている。
「同じ道を歩いてるつもりでも、ほんの少し顔を上げてみると、景色が違って見えることがあるでしょ」
「……何の話ですか?」
「さあ、何の話でしょう?」
天也は黙って二人の会話を聞いていた。その瞳が、ほんのわずかに細められている。
杏樹の言葉を警戒しているのだろうか。あるいは、別の何かを考えているのか。
「杏樹。余計なことを言うな」
「余計かな」
「混乱させている」
「混乱した方が、見えるものもあるよ」
杏樹は笑う。けれど、その言葉には奇妙な重みがある。
天也はそれ以上言わなかった。ただ、静かに杏樹を見ている。その視線に、芹はほんの少しだけ背筋が伸びた。
怖いわけではない。天也が本気で何かを見極めようとしている時の空気は、やはり鋭い。

