「……先ほどは」
意を決して口を開く。少しだけ息を整えてから、芹はもう一度頭を下げた。
「助けてくださり、ありがとうございました」
あの時の恐怖も、そして救われた安堵も、まだ身体に残っている。
迫る爪。動かなくなった足。死を覚悟した一瞬。そして、それを断ち切るように現れた背中。
天也はしばらく何も言わなかった。沈黙がやけに長く感じられる。
「……当然のことをしたまでだ」
本当にそう思っているのだと分かる声音だった。
そこに偽りはない。
だからこそ――。
(……どうして)
胸が少しだけ温かくなるのを感じる。
疑っている相手なのに。自分を殺したかもしれない人なのに。それでも、目の前にいる彼は真っ直ぐで、誠実な人に見えた。
「芹ちゃん、さっきから顔が忙しいよ」
杏樹がくすくすと笑う。
「怖がったり、安心したり」
「……そんなことは」
「あるって」
楽しそうに言い切られて、芹は言葉を詰まらせた。
否定しきれない自分がいる。
その時だった。
「……怖がらせたか」
天也の声が、ぽつりと落ちた。
芹ははっと顔を上げる。
「え?」
「無用に近づくべきではなかったな」
淡々としているけれど、その奥に気遣いがあるのを感じた。言葉は少ないが、ちゃんと見ていると。
(……違う)
怖いのは、あなたじゃない。
そう言いかけて、言葉が止まる。
怖いのはあの夜だ。だけど、まだ会ったばかりのこの人に言えるはずがない。
あなたは私を殺しましたか、などと。
芹は小さく首を振った。
「助けていただけて……嬉しかったです」
それだけは、嘘ではない。
天也は何も言わなかった。一瞬視線を落とし、それから静かに頷く。その仕草はひどく自然で、胸の奥がじんと熱を帯びていくのを感じる。
(……どうして)
こんなにも、この人は――。
そこへ、団子と茶が運ばれてきた。湯気が立ち上り、甘い香りがふわりと広がる。
「はい、お団子とお茶ね」
「ありがとう」
杏樹が女将に軽く礼を言い、さっそく串を一本手に取った。
「ほら、食べてみて」
芹に差し出す。
「緊張してると、余計疲れるよ」
「……ありがとうございます」
指先がほんの少しだけ震えていることに気づく。自分でも分かるくらい、力が入っていたようだ。
一口かじると、やさしい甘さが口の中に広がった。
「……美味しい」
思わず呟くと、杏樹が満足そうに笑う。
「でしょ? ここのはね、甘すぎないのがいいんだよ。天也も気に入ってるし」
「言った覚えがないが」
「でも前に三本食べてたじゃない」
「腹が減っていただけだ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
二人のやり取りに、芹は思わず目を瞬かせた。天也にもそんな一面があるのかと思ったのだ。
無口で、隙がなく、近寄りがたい人だと思っていた。けれど、杏樹に対する返答は淡々としているようでいて、どこか馴染んでいる。怒っているわけではない。拒んでいるわけでもない。
(……少し、可笑しい)
そう思った瞬間、唇がわずかに緩んだ。それに気づいたのか、天也がこちらを見る。
「……何だ?」
「あ、いえ」
芹は慌てて首を振る。
「ただ、その……仲がよろしいのだなと思って」
「仲良しだって、天也」
「どこがだ」
「実際、俺たち仲良しじゃない。これでも俺、天也のこと結構好きなんだよ?」
「……はあ」
「照れなくてもいいのに」
「照れていない」
芹は今度こそ小さく笑ってしまった。すると、天也の視線がまた芹に向く。咎められるかと思って身構えたが、天也は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を和らげたように見えた。
(……今)
笑った、のだろうか。
はっきりとは分からない。けれど、胸の奥がふわりと浮いた。
ほんの少しだけ、怖さが薄れる。そのことに気づいて、芹は慌てて視線を落とした。
忘れてはいけない。
この人は疑わしい人なのだ。自分は一度、この人の屋敷で殺されたのだ。そう思い直すのに、心は簡単には戻ってくれない。
天也が持つ翡翠の刀。あの夜、自分を斬った刃と同じ色。けれど、今その刀は、鬼から人を守るために振るわれていた。
どちらが本当なのだろう。あの夜の恐怖か、今見ている誠実さか。あるいは、そのどちらも真実なのか。
「芹ちゃん」
杏樹の声に、芹ははっと顔を上げた。
「また考え込んでる」
「……すみません」
「謝ることじゃないけどね」
杏樹は団子を頬張りながら、どこか楽しげに目を細めた。
「でも、考えすぎると分からなくなることもあるよ」
「……考えなければ、分からないこともあります」
杏樹は少しだけ目を丸くし、それからふっと笑った。
「いいね。そういうの、嫌いじゃない」
軽い言い方だったけれど、その奥にほんのわずかな寂しさのようなものが混じっていた気がして、芹は小さく首を傾げた。
意を決して口を開く。少しだけ息を整えてから、芹はもう一度頭を下げた。
「助けてくださり、ありがとうございました」
あの時の恐怖も、そして救われた安堵も、まだ身体に残っている。
迫る爪。動かなくなった足。死を覚悟した一瞬。そして、それを断ち切るように現れた背中。
天也はしばらく何も言わなかった。沈黙がやけに長く感じられる。
「……当然のことをしたまでだ」
本当にそう思っているのだと分かる声音だった。
そこに偽りはない。
だからこそ――。
(……どうして)
胸が少しだけ温かくなるのを感じる。
疑っている相手なのに。自分を殺したかもしれない人なのに。それでも、目の前にいる彼は真っ直ぐで、誠実な人に見えた。
「芹ちゃん、さっきから顔が忙しいよ」
杏樹がくすくすと笑う。
「怖がったり、安心したり」
「……そんなことは」
「あるって」
楽しそうに言い切られて、芹は言葉を詰まらせた。
否定しきれない自分がいる。
その時だった。
「……怖がらせたか」
天也の声が、ぽつりと落ちた。
芹ははっと顔を上げる。
「え?」
「無用に近づくべきではなかったな」
淡々としているけれど、その奥に気遣いがあるのを感じた。言葉は少ないが、ちゃんと見ていると。
(……違う)
怖いのは、あなたじゃない。
そう言いかけて、言葉が止まる。
怖いのはあの夜だ。だけど、まだ会ったばかりのこの人に言えるはずがない。
あなたは私を殺しましたか、などと。
芹は小さく首を振った。
「助けていただけて……嬉しかったです」
それだけは、嘘ではない。
天也は何も言わなかった。一瞬視線を落とし、それから静かに頷く。その仕草はひどく自然で、胸の奥がじんと熱を帯びていくのを感じる。
(……どうして)
こんなにも、この人は――。
そこへ、団子と茶が運ばれてきた。湯気が立ち上り、甘い香りがふわりと広がる。
「はい、お団子とお茶ね」
「ありがとう」
杏樹が女将に軽く礼を言い、さっそく串を一本手に取った。
「ほら、食べてみて」
芹に差し出す。
「緊張してると、余計疲れるよ」
「……ありがとうございます」
指先がほんの少しだけ震えていることに気づく。自分でも分かるくらい、力が入っていたようだ。
一口かじると、やさしい甘さが口の中に広がった。
「……美味しい」
思わず呟くと、杏樹が満足そうに笑う。
「でしょ? ここのはね、甘すぎないのがいいんだよ。天也も気に入ってるし」
「言った覚えがないが」
「でも前に三本食べてたじゃない」
「腹が減っていただけだ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
二人のやり取りに、芹は思わず目を瞬かせた。天也にもそんな一面があるのかと思ったのだ。
無口で、隙がなく、近寄りがたい人だと思っていた。けれど、杏樹に対する返答は淡々としているようでいて、どこか馴染んでいる。怒っているわけではない。拒んでいるわけでもない。
(……少し、可笑しい)
そう思った瞬間、唇がわずかに緩んだ。それに気づいたのか、天也がこちらを見る。
「……何だ?」
「あ、いえ」
芹は慌てて首を振る。
「ただ、その……仲がよろしいのだなと思って」
「仲良しだって、天也」
「どこがだ」
「実際、俺たち仲良しじゃない。これでも俺、天也のこと結構好きなんだよ?」
「……はあ」
「照れなくてもいいのに」
「照れていない」
芹は今度こそ小さく笑ってしまった。すると、天也の視線がまた芹に向く。咎められるかと思って身構えたが、天也は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を和らげたように見えた。
(……今)
笑った、のだろうか。
はっきりとは分からない。けれど、胸の奥がふわりと浮いた。
ほんの少しだけ、怖さが薄れる。そのことに気づいて、芹は慌てて視線を落とした。
忘れてはいけない。
この人は疑わしい人なのだ。自分は一度、この人の屋敷で殺されたのだ。そう思い直すのに、心は簡単には戻ってくれない。
天也が持つ翡翠の刀。あの夜、自分を斬った刃と同じ色。けれど、今その刀は、鬼から人を守るために振るわれていた。
どちらが本当なのだろう。あの夜の恐怖か、今見ている誠実さか。あるいは、そのどちらも真実なのか。
「芹ちゃん」
杏樹の声に、芹ははっと顔を上げた。
「また考え込んでる」
「……すみません」
「謝ることじゃないけどね」
杏樹は団子を頬張りながら、どこか楽しげに目を細めた。
「でも、考えすぎると分からなくなることもあるよ」
「……考えなければ、分からないこともあります」
杏樹は少しだけ目を丸くし、それからふっと笑った。
「いいね。そういうの、嫌いじゃない」
軽い言い方だったけれど、その奥にほんのわずかな寂しさのようなものが混じっていた気がして、芹は小さく首を傾げた。

