白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 軽やかな声音が耳に残っている。あの場で断る理由を見つけられなかったのは、杏樹の言い方があまりにも自然だったからか、それとも――。
(……断りたく、なかったから)
 その考えに至って、芹は小さく眉を寄せた。
 自分の気持ちがよく分からないのだ。怖いはずなのに、疑っているはずなのに、それでもあの場から離れたくないと思ってしまった。
 あの時、背を向けてしまえば、それで終わりだったはずだ。関わらなければ、余計な感情を抱かずに済んだかもしれない。神威天也という人間を知ろうとしなければ、あの夜の恐怖だけを頼りに疑い続けることもできたかもしれない。
 けれど、芹は頷いていた。それはきっと、杏樹の笑顔が押しつけがましくなかったからだろう。
 誘いを拒むでもなく、受け入れるでもなく、ただ静かにそこに立っていた天也の横顔も気になった。
 胸の奥が、落ち着かないままざわついている。
 気づけば三人で、都の通り沿いにある茶屋へと足を運んでいた。
 軒先には白い暖簾がかかり、風でやわらかく揺れている。布が擦れる微かな音とともに、ほの甘い香りが流れてきた。
 暖簾をくぐると、空気が変わる。
 外の喧騒が一歩遠のき、代わりに静かな温もりが広がった。磨かれた木の床。低く整えられた卓。障子越しに差し込むやわらかな光。茶葉の香りが、ゆるやかに空気を満たしている。
(……落ち着く)
 思わず、そう思った。だがしかし、胸の奥だけはまったく落ち着かない。
 理由は分かっている。すぐそばにいる、その人のせいだ。
 視線を向けなくても分かる。そこにいるだけで、空気が少し違う。凛としていて、静かで、手を伸ばせば触れられる距離にいるはずなのに、どこか遠く感じる。
「いらっしゃいませ」
 穏やかに微笑む女将に、杏樹は慣れた様子で手を挙げていた。
「三人、空いてる?」
「ええ、どうぞこちらへ」
 案内されるまま奥へと進んでいくが、芹は少し遅れて歩いていた。 
 意識してしまうのだ。距離が近づくほど、胸の鼓動が忙しなくなる。
「芹ちゃん?」
 杏樹が振り返る。
「どうしたの、来ないの?」
「……今、行きます」
 杏樹の後ろを歩いていた天也も足を止め、芹を見ている。
 翡翠の瞳と視線が絡まった時、心の臓が大きく跳ねた。
 息が詰まる。逸らしたいのに、逸らせない。ほんの一瞬のはずなのに、その時間だけが引き延ばされたように感じられた。
 どうして、こんなにも意識してしまうのだろうか。
 杏樹に座るよう促された席は、天也の向かいだった。杏樹は彼の隣でくつろいだ様子で肘をついている。
「ここの団子、美味しいんだよ」
 そう言って、勝手に注文を決めてしまう。
「三つとも同じでいい?」
「……はい」
「構わない」
 二人の返答を聞いて、杏樹は満足そうに頷いた。
 沈黙が落ちるが、重くはない。外のざわめきは遠く、店の中は穏やかで、茶の香りがゆるやかに満ちている。
 それなのに、心だけが落ち着かない。向かいにいる天也は何も言わない。ただ静かに座っているだけなのに、その存在がやけに大きく感じる。
 視線を上げれば、すぐに目が合ってしまいそうで、なかなか顔を上げられなかった。
(……何か、話さなければ)
 そう思うのに、言葉が見つからない。
 何を言えばいいのだろう。初めまして、と言えばいいのだろうか。
 けれど芹は彼を知っている。婚儀の席で隣に並んだことも、手の甲に口づけられたことも、その翡翠の瞳に見上げられたことも覚えている。
 だが、天也は知らない。彼にとって、芹は鬼に襲われかけたところを助けたばかりの娘にすぎないのだ。
 どうしたものかと悩んでいると、杏樹が何かを閃いたような声を上げた。
「それじゃあ、改めて自己紹介をしようか」
「自己紹介、ですか?」
「だって、せっかく可愛い女の子と出会えたんだから、名前以外のことも知りたいじゃん」
 はあ、と芹は気のない返事をする。天也が何か言いたそうにしていたが、呆れたように肩をすくめていた。
「俺の名前は百舌鳥杏樹。まあ見ての通り、術者だよ」
「術者……」
 術者とは、悪霊や物の怪を祓ったり、邪気や災いの侵入を防ぐ結界を設置することができる、特殊な力を持った人のことだ。彼らは常に鬼狩りと共に在り、鬼狩りを補佐する役割を担っている。
「で、こっちにいる色男さんは天也ね。女泣かせで有名なあの人だよ」
「何の話だ」
「朝から晩まで鬼退治、暇さえあれば素振りばかり、好きなものは刀とお茶、もらった恋文を燃やして芋を焼いていた天也の話だよ」
「最後は身に覚えがないんだが」
「だって、燃やしたのは俺だもん」
 二人の距離は思っていたよりも近そうだ。上下関係があるわけでもなく、かといって友人同士のように気安いだけでもない。杏樹が軽く投げた言葉を、天也が必要な分だけ受け止める。そんな不思議な均衡がある。
「……神威天也だ」
 芹は慌てて姿勢を正し、杏樹の顔を見ながら口を開いた。
「縹芹、と申します」
 軽く一礼し、緊張しながらも顔を上げると、天也と目が合った。
 逃げられない。逃げてはいけない気がする。
(……この人が)
 胸の奥が、じくりと痛む。
 あの夜、自分を斬ったかもしれない人。けれど同時に、今こうして向かい合っているのは、何も知らない“今”の彼だ。その事実が、余計に心を揺らす。