白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 芹は駆け寄り、天也を抱きとめる。その身体は熱いのに、指先から命がこぼれていくのが分かった。
「嫌……嫌です、神威様……!」
 天也の唇から血が零れた。それでも、彼は芹を見た。
 翡翠の瞳が、芹だけを映している。
「無事、か」
「どうして、そんなことばかり……!」
「よかった」
「よくありません!」
 芹は傷口を押さえた。
 血が止まらない。星見の力で糸を見ても、天也の翡翠色の糸は今にも途切れそうだった。
 白銀が少し離れた場所で笑っている。
「選べ、星見の娘。その男に縋ってここで終わるか。それとも、すべてをほどくか」
 芹は白銀を睨んだ。だが、身体は動かなかった。
 天也が死ぬ。目の前で。ようやく信じたいと言えたのに。ようやく共に立つと決めたのに。
「……芹」
「はい、ここにいます」
 芹は天也の手を握る。
「どこにも行きません。だから、お願いです。死なないで」
 返事の代わりだろうか。天也が弱々しい力で芹の手を握り返す。
「……芹、これで過去に戻れ」
 天也は震える手で、落ちた刀へ指を伸ばした。
 芹は首を振る。
「嫌です。あなたを置いてなんて」
「おそらくそこに、今の俺はいないだろう」
 天也の声は途切れそうだった。それでも、彼は言葉を紡いだ。
「だが、俺を見つけ出せ」
 天也の手が、翡翠刀を芹へ押し渡す。
 芹は泣きながら首を振った。
「そんなの……そんなの、あまりにも」
「芹」
「また、あなたを知らないところから始めるなんて」
 天也の指が、芹の頬に触れた。
 血に濡れた指は、まだ温かい。
「俺は何度でも、芹に恋をする。きっと」
 その瞬間、芹は泣き崩れた。
 嬉しいのに、苦しい。信じたいのに、離したくない。
 天也を救うためには、天也を手放さなければならない。それこそが、愛をほどくということなのだろうか。
 縛るのではなく、失いたくないと抱きしめるのではなく、もう一度出会うために、手を離すのだ。
「……必ず」
 芹は翡翠刀を受け取った。
 涙で視界がぼやける。瞬きをしても、滲んだ景色はなかなか戻らない。
「必ず、見つけます。神威様」
「……天也、と」
 天也の瞳が、少しずつ光を失っていく。
「……天也様」
 芹は震える声で呼ぶ。
「私は、あなたを――」
 言い切る前に、翡翠の瞳が静かに閉じられた。
 世界が、崩れた。
「……天也様?」
 返事はない。
「天也様」
 芹は彼の身体を抱きしめた。
 温もりはまだ残っている。けれど、命はもう戻らない。
「あ……」
 喉から、壊れたような声が漏れた。
「あああああっ……!」
 叫びが、夜を裂いた。
 白銀が笑っていた。
「また失ったな、星見の娘」
 芹はゆっくり顔を上げた。涙で濡れた瞳には、怒りではなく、静かな決意が宿っている。
「いいえ」
 芹は天也の身体をそっと横たえ、震える手で翡翠刀を握る。
「私は、失ったのではありません」
 白銀の笑みが消える。
「選び直すのです」
 芹の周囲に、糸が現れた。
 愁の薄桃色。杏樹の金色。天也の翡翠。そして、白銀の銀。その銀糸の奥へ、芹は意識を伸ばした。
 遠い昔。雪のように白い花が降る中、ひとりの鬼が巫女姫を見つめている。
 恋焦がれた。求めた。けれど、愛されなかった。その痛みが、五百年かけて歪み、腐り、人を喰らう鬼となった。
「白銀」
 芹は静かに名を呼ぶ。
「あなたの糸を、断ち切ります」
「できるものか」
「できます」
 芹は翡翠刀を構えた。
「私は、愁の親愛をほどいた。杏樹さまの後悔をほどいた。天也様の愛に、手を離す強さを教えられた」
 涙が落ちる。
「だから、あなたの執着もほどきます」
 白銀から伸びる銀の糸が、無数の刃となって向かってくる。
 芹は逃げなかった。天也から託された刀を右手で握り、左手で鏡を構える。すると、芹の糸と天也の糸がするりするりと絡み合い、淡い光で世界を包んでいった。
 その世界の中で、芹は白銀の糸の中心を見た。
 そこにあるのは、愛ではない。愛されたかったという願いと、叶わなかった痛み。手に入らなかったものへの執着。
「あなたは、巫女姫を愛していたのではない」
 刀を握る芹の右手に、ふわりと熱が灯る。
 死してもなお、天也がそばに居てくれている。
「愛してほしかっただけ」
 刀を振るうと、銀の糸が裂けた。
「やめろ……!」
「終わりです」
 芹は涙を流しながら言った。
「その恋を、もう終わらせてあげます」
 翡翠刀が、最後の結び目を断った。
 白銀の姿が崩れる。銀の髪が光にほどけ、赤い瞳が揺らぐ。怒りではなく、悲しみの色が浮かんでいた。
「……私は」
 白銀の声が、初めて弱く聞こえた。
「ただ──」
 その先は、言葉にならなかった。
 銀の糸は光となって散り、白銀は消えた。
 五百年続いた執着が、ようやくほどけたのだ。
 部屋には静寂が戻る。
 芹は翡翠刀を握りしめたまま、穏やかな顔で眠っている天也を見た。
「……行ってきます」
 芹は涙を拭わずに言った。
「必ず、あなたを見つけます」
 翡翠刀を胸に抱く。
 光が溢れる。
 時渡りの力が、芹を包んでいく。
 過去へ。
 今の天也がいない場所へ。
 苦しそうに笑う杏樹がいない場所へ。
 愁が白銀に巣食われる前の場所へ。
 すべてを選び直すために。
(待っていて)
 芹は目を閉じた。
 世界が、ほどけた。