白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 夜の神威邸はとても静かだった。
 婚儀の宴はとうに終わり、笑い声も、祝いの言葉も、すべて遠くへ去っていた。残っているのは、春の夜気と庭に咲く翡翠の桜。そして、芹の胸を打つ鼓動だけ。
 芹は白い装束を纏い、御帳台の前に座していた。
 夢に見た夜。恐れた夜。そして、辿り着こうとした夜。
 かつて何も知らないまま殺された夜に、今度はすべてを知って立っている。
 愁は屋敷の奥で楊憲に付き添われ眠っている。白銀の糸からほどかれた愁は弱っていたが、確かに愁として戻ってきた。
 杏樹はもういない。けれど、櫛の細工が星のように淡く光るたび、彼が「ちゃんと見て」と笑っているような気がした。
 芹は膝の上で手を握る。
(今度こそ、見誤らない)
 襖の向こうで、気配が動いた。
 芹が顔を上げると、静かに襖が開き、そこから天也が姿を現した。
 白い装束。亜麻色の髪。翡翠の瞳。婚儀の夜に見るはずだった夫の姿。しかし今の芹は、あの夜のように無垢な期待だけを抱いてはいない。
 すべてを抱えたまま、天也を見つめていた。
「芹」
 天也が名を呼ぶ。たったそれだけで、胸の奥が震えた。
「怖いか」
 芹は少しだけ笑った。
「怖いです」
「そうか」
「でも、逃げません」
 天也は静かに頷く。
「私も逃げない」
 この人は、いつもそうだった。怖くても前に立ち、悔いても刀を取る。守れなかった痛みを抱えて、それでももう一度守ろうとする。
 芹は立ち上がり、天也の前へ歩み寄った。
「神威様」
「何だ」
「今夜が、あの夜と同じになっても……私は、あなたと共に戦います」
「同じにはさせない。今度は、一人で死なせはしない」
「はい」
 指先が重なる。その温もりに、芹は泣きそうになった。
 だが、その瞬間だった。
 部屋の灯りが、ふっと揺れた。部屋の空気が真冬の川底へ変わっていくような冷たさに変わる。
「――睦まじいことだ」
 天也が芹を背後へ庇う。
 襖の影から、白銀が現れた。
「今度は揃って私を迎えるか」
「白銀」
 天也が刀を抜いた。光を帯びた刃が、夜を裂く。
「ここで終わらせる」
「終わる?」
 白銀は笑った。
「たったの五百年しか封じられなかった私を、お前たち二人だけで終わらせられるとでも?」
「終わらせます」
 芹は天也の背後から一歩出た。
 天也が止めようとしたが、芹は首を振る。
「私も、ここに立ちます」
 白銀の赤い目が、ゆっくりと芹へ向いた。
「よい目だ。……薺によく似ている」
 その名を聞いた瞬間、芹の胸の奥で見えない糸が震えていた。それは白銀の糸だ。遠い昔から絡まり続けていた糸。
「……あなたは、巫女姫を愛していたの?」
 白銀の笑みが止まる。
 芹は白銀を見据えたまま、不思議と浮かんでくる言葉を呟いていった。
「愛していた。けれど、愛されなかった」
「黙れ」
「だから、人の愛に巣食ったのね。すべて歪めて、自分のものにしようとした」
「黙れと言った!」
 白銀が動いた。
 霧が刃のように走る。
 天也が芹の前へ立ち、刀でそれを斬った。火花のように銀の糸が散る。
「芹、下がれ!」
「下がりません!」
 芹は星見の鏡を取り出した。
 鏡面が光り、部屋中に糸が見えた。
 愁の薄桃色。杏樹の金色。天也の翡翠色。そして、白銀の銀。その銀糸は、長い長い年月を越えて、ひとつの場所へ繋がっていた。
 ――五百年前。
 白銀が巫女姫へ手を伸ばしている。だが、巫女姫はその手を取らない。恐れではなく、憐れみでもなく、ただ静かな拒絶で。
 ――あなたのそれは、愛ではありません。
 巫女姫の声が、芹の胸に響いた。
 白銀の糸が悲鳴のように軋む。
「違う……」
 白銀が呟く。
「違う、違う違う違う。私は愛していた。あの女を、誰よりも、何よりも……!」
「愛していたのではなく、欲しかったのね。自分だけを見てほしかった。自分だけのものにしたかった」
 霧が爆ぜ、天也がそれを受け止める。刃と霧がぶつかるたび、翡翠の光と銀の光が散った。
 芹は鏡を握りしめ、白銀の糸に手を伸ばす。
 触れただけで、胸を氷で貫かれるようだった。だが、その奥には確かに、泣き叫ぶような孤独があった。
 愛されたかった。選ばれたかった。ただ、それだけ。
(……だからといって)
 芹は涙をこらえる。
(誰かの愛を奪っていい理由にはならない)
 白銀は芹へ向かって手を伸ばした。
 天也が踏み込み、翡翠の刀が白銀の胸を裂く。だが白銀は笑った。
「甘い」
 その瞬間、白銀の身体が霧となって天也の背後へ回った。
「神威様!」
 叫んだ時には、白銀の銀の刃が天也の胸を貫いていた。
 時間が止まった。
 翡翠刀が畳に落ち、鈍い音が響く。
 白い装束に、赤が広がっていく。
 天也の身体が、ゆっくりと傾いだ。