愁の糸を辿ると、今度は愁の恐れが見えた。
芹が自分の知らない顔で、天也と笑っている。それを愁は遠くから見ており、心を痛めているようだった。
――ほら、奪われる。
――あの娘はお前を捨てる。
――閉じ込めなければ失う。
「違う」
芹は涙をこぼした。
「愁、違うの」
愁が顔を上げる。現実の愁も、糸の中の愁も。
「私はあなたを忘れない。置いていかない。けれど、あなたの中に閉じ込められることもできない」
「姫様……」
「それでも、あなたは私を想っていてくれる……?」
愁の心へ問いかける。白銀に歪められる前の、優しい愁へ。
長い沈黙のあとに、愁の目からころりと涙が落ちた。
「……はい。姫様が、私の知らない場所へ行かれても」
愁は苦しげに笑った。
「私の知らない顔で笑われても。それでも、姫様が幸せなら……私は」
「黙れ!」
銀の糸が愁の首に絡みつき、愁が苦しげに息を詰まらせる。
芹は鈴を握りしめた。ちりん、ともう一度鳴らすと、澄んだ音が響く。
「愁! 私を閉じ込めるのではなく、送り出して!」
愁の瞳に、光が戻った。
「……行ってらっしゃいませ、姫様」
その言葉が、結び目に届いた。
銀の糸が大きくほどけ、白銀が愕然と目を見開いている。
愁の身体から、黒い霧が剥がれていく。
「愁!」
芹は駆け出した。
天也が周囲の鬼を斬り伏せて作った道を駆け、愁へ手を伸ばす。
愁も手を伸ばしていた。
指先が触れる。その瞬間、薄桃色の糸が芹の手元でふわりとほどけた。
縛る形ではなく、柔らかく結び直されるように。
愁の身体が芹の腕の中へ倒れ込んだ。
「愁!」
「……姫様」
愁は息をしている。弱いが、確かに生きている。
「申し訳、ありません」
「謝らないで」
「私は、あなたを」
「戻ってきてくれたから、いいの」
芹は泣きながら愁を抱きしめた。
愁の手が、弱々しく芹の背に触れる。
昔と同じ手だった。優しく、温かい。その温もりに、芹はようやく息を吐いた。
だが、安堵は一瞬だった。白銀が笑っていたのだ。
「見事だ、星見の娘」
愁から剥がれた銀の霧が、人の形へ集まっていく。
白銀は完全には消えていない。むしろ、愁という器を失ってなお、濃く、冷たく存在していた。
「親愛の糸はほどいた。ならば次は」
赤い瞳が天也を見た。
「恋慕の糸だ」
芹の胸が凍る。
天也が前へ出た。
「白銀」
「神威の子。お前の後悔は甘い。守れなかった女を、今度こそ守りたいと願う心は実に濃い」
天也は答えない。ただ刀を構えている。
白銀は愉快そうに笑う。
「だが、守りたいものは弱点でもある」
その瞬間、霧が芹へ伸びた。
天也が反応し、霧を刀で斬る。だが、それは狙い通りだった。白銀の姿が一瞬で天也の背後へ回る。
「神威様!」
天也は振り返りざまに刀を振るい、白銀の肩を裂いた。しかし白銀の手もまた、天也の胸元へ触れていた。
銀の糸が、天也の身体へ入り込む。
「っ……!」
天也の顔が歪んだ。
「神威様から離れて!」
「遅い」
白銀の手が天也の胸元から離れる。
天也は膝をつきそうになりながらも、刀を地面へ突き立てて踏みとどまった。
「神威様!」
「来るな」
星見の鏡に天也の糸が映っている。
深い翡翠色の糸。強く、美しく、真っ直ぐな糸。しかしその中心に、黒く沈んだ結び目があった。
芹の死。血の中に倒れた芹。守れなかった後悔。そこへ、白銀の銀糸が絡みつき始めている。
(……これが)
白銀の狙い。天也の愛を、守りたいという願いを、後悔で縛る。
「だめ」
芹は鏡を握る。
「その糸は、あなたには渡さない」
白銀は笑った。
「では、ほどいてみるか?」
霧が一気に広がる。視界が奪われ、天也の姿が見えなくなる。
「神威様!」
返事はない。代わりに、白銀の声が響く。
「この男を救いたければ、婚姻を結べ」
芹は息を呑んだ。
「何を……」
「星見の巫女姫と翡翠刀を持つ鬼狩り。五百年前も、その二つが私を封じた。ならば再び結べ。愛と契りをもって」
白銀の声は甘く、冷たい。
「ただし、その婚姻の夜、私は迎えに行く」
霧が晴れる。
白銀の姿は消えていた。そこに残されたのは、膝をつく天也と、意識を失った愁、そして震える芹だけだった。
「神威様!」
芹は天也へ駆け寄る。
天也は胸を押さえ、荒く息をしていた。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではありません!」
「騒ぐな」
「騒ぎます!」
涙声で叫ぶと、天也はかすかに目を見開いた。それから、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「……そうか」
「笑わないでください」
「笑っていない」
「嘘です」
芹の手が震える。
天也の胸元に触れると、そこは冷たかった。
完全には入り込んでいないが、白銀の糸が絡みついている。このまま放置すれば危険だ。
「白銀は婚姻を結べと言いました。五百年前と同じように、縁を結べと」
天也の表情が険しくなる。
「あいつの誘いだ」
「分かっています」
「ならば」
「でも、手がかりでもあります」
芹は天也を見つめる。
「婚姻が、白銀を封じる鍵になるのなら」
「危険だ」
「それでも」
「芹」
名を呼ばれ、芹は息を止めた。
天也は苦しそうにしながらも、まっすぐ芹を見ている。
「あの夜を、繰り返すことになるかもしれない」
恐怖が胸を掴む。それでも、芹は目を逸らさなかった。
「今度は、何も知らない私ではありません」
声は震えている。でも、想いははっきりしていた。
「神威様も、一人ではありません」
天也の瞳が揺れる。
「私たちは、杏樹さまのことも、愁のことも、白銀のことも知っています。だから、同じ夜にはしません」
芹は天也の手を取った。
「二人で、選び直しましょう」
天也は長い間、何も言わなかった。
風が吹き、祠の周囲に残った霧を散らしていく。
愁は木に身体を預けるようにして、静かに息をしている。
杏樹の櫛が、芹の髪で淡く光っていた。
やがて、天也はふっと息を漏らした。
「……お前は、本当に無茶を言う」
「神威様に似たのかもしれません」
「俺はそんな無茶は言わない」
「言います」
芹が即答すると、天也は少しだけ目を伏せた。
そして、静かに芹の手を握り返す。
「分かった」
その一言に、芹の胸が震えた。
「婚姻を結ぼう」
天也は言った。
「だが、白銀の望む形にはしない」
「はい」
「今度は、俺がお前を守るだけではない」
天也の手に力がこもる。
「共に戦う」
芹は涙を浮かべながら頷いた。
「はい」
その瞬間、星見の鏡が淡く光った。
鏡の中に、三本の糸が映る。
薄桃色の愁の糸。金色の杏樹の糸。そして、翡翠色の天也の糸。それらが、芹の星の糸へ静かに繋がっている。
縛るのではなく、支えるように。
芹は櫛へそっと触れた。
(見ていてください、杏樹さま)
そして、愁を見た。
(待っていて、愁)
最後に、天也を見つめる。
この人を失いたくない。その気持ちは、確かに愛なのだと思う。
けれどそれは、閉じ込めるためのものではなく、共に立つためのものだ。
芹は胸の奥で、その糸を強く握った。
芹が自分の知らない顔で、天也と笑っている。それを愁は遠くから見ており、心を痛めているようだった。
――ほら、奪われる。
――あの娘はお前を捨てる。
――閉じ込めなければ失う。
「違う」
芹は涙をこぼした。
「愁、違うの」
愁が顔を上げる。現実の愁も、糸の中の愁も。
「私はあなたを忘れない。置いていかない。けれど、あなたの中に閉じ込められることもできない」
「姫様……」
「それでも、あなたは私を想っていてくれる……?」
愁の心へ問いかける。白銀に歪められる前の、優しい愁へ。
長い沈黙のあとに、愁の目からころりと涙が落ちた。
「……はい。姫様が、私の知らない場所へ行かれても」
愁は苦しげに笑った。
「私の知らない顔で笑われても。それでも、姫様が幸せなら……私は」
「黙れ!」
銀の糸が愁の首に絡みつき、愁が苦しげに息を詰まらせる。
芹は鈴を握りしめた。ちりん、ともう一度鳴らすと、澄んだ音が響く。
「愁! 私を閉じ込めるのではなく、送り出して!」
愁の瞳に、光が戻った。
「……行ってらっしゃいませ、姫様」
その言葉が、結び目に届いた。
銀の糸が大きくほどけ、白銀が愕然と目を見開いている。
愁の身体から、黒い霧が剥がれていく。
「愁!」
芹は駆け出した。
天也が周囲の鬼を斬り伏せて作った道を駆け、愁へ手を伸ばす。
愁も手を伸ばしていた。
指先が触れる。その瞬間、薄桃色の糸が芹の手元でふわりとほどけた。
縛る形ではなく、柔らかく結び直されるように。
愁の身体が芹の腕の中へ倒れ込んだ。
「愁!」
「……姫様」
愁は息をしている。弱いが、確かに生きている。
「申し訳、ありません」
「謝らないで」
「私は、あなたを」
「戻ってきてくれたから、いいの」
芹は泣きながら愁を抱きしめた。
愁の手が、弱々しく芹の背に触れる。
昔と同じ手だった。優しく、温かい。その温もりに、芹はようやく息を吐いた。
だが、安堵は一瞬だった。白銀が笑っていたのだ。
「見事だ、星見の娘」
愁から剥がれた銀の霧が、人の形へ集まっていく。
白銀は完全には消えていない。むしろ、愁という器を失ってなお、濃く、冷たく存在していた。
「親愛の糸はほどいた。ならば次は」
赤い瞳が天也を見た。
「恋慕の糸だ」
芹の胸が凍る。
天也が前へ出た。
「白銀」
「神威の子。お前の後悔は甘い。守れなかった女を、今度こそ守りたいと願う心は実に濃い」
天也は答えない。ただ刀を構えている。
白銀は愉快そうに笑う。
「だが、守りたいものは弱点でもある」
その瞬間、霧が芹へ伸びた。
天也が反応し、霧を刀で斬る。だが、それは狙い通りだった。白銀の姿が一瞬で天也の背後へ回る。
「神威様!」
天也は振り返りざまに刀を振るい、白銀の肩を裂いた。しかし白銀の手もまた、天也の胸元へ触れていた。
銀の糸が、天也の身体へ入り込む。
「っ……!」
天也の顔が歪んだ。
「神威様から離れて!」
「遅い」
白銀の手が天也の胸元から離れる。
天也は膝をつきそうになりながらも、刀を地面へ突き立てて踏みとどまった。
「神威様!」
「来るな」
星見の鏡に天也の糸が映っている。
深い翡翠色の糸。強く、美しく、真っ直ぐな糸。しかしその中心に、黒く沈んだ結び目があった。
芹の死。血の中に倒れた芹。守れなかった後悔。そこへ、白銀の銀糸が絡みつき始めている。
(……これが)
白銀の狙い。天也の愛を、守りたいという願いを、後悔で縛る。
「だめ」
芹は鏡を握る。
「その糸は、あなたには渡さない」
白銀は笑った。
「では、ほどいてみるか?」
霧が一気に広がる。視界が奪われ、天也の姿が見えなくなる。
「神威様!」
返事はない。代わりに、白銀の声が響く。
「この男を救いたければ、婚姻を結べ」
芹は息を呑んだ。
「何を……」
「星見の巫女姫と翡翠刀を持つ鬼狩り。五百年前も、その二つが私を封じた。ならば再び結べ。愛と契りをもって」
白銀の声は甘く、冷たい。
「ただし、その婚姻の夜、私は迎えに行く」
霧が晴れる。
白銀の姿は消えていた。そこに残されたのは、膝をつく天也と、意識を失った愁、そして震える芹だけだった。
「神威様!」
芹は天也へ駆け寄る。
天也は胸を押さえ、荒く息をしていた。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではありません!」
「騒ぐな」
「騒ぎます!」
涙声で叫ぶと、天也はかすかに目を見開いた。それから、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「……そうか」
「笑わないでください」
「笑っていない」
「嘘です」
芹の手が震える。
天也の胸元に触れると、そこは冷たかった。
完全には入り込んでいないが、白銀の糸が絡みついている。このまま放置すれば危険だ。
「白銀は婚姻を結べと言いました。五百年前と同じように、縁を結べと」
天也の表情が険しくなる。
「あいつの誘いだ」
「分かっています」
「ならば」
「でも、手がかりでもあります」
芹は天也を見つめる。
「婚姻が、白銀を封じる鍵になるのなら」
「危険だ」
「それでも」
「芹」
名を呼ばれ、芹は息を止めた。
天也は苦しそうにしながらも、まっすぐ芹を見ている。
「あの夜を、繰り返すことになるかもしれない」
恐怖が胸を掴む。それでも、芹は目を逸らさなかった。
「今度は、何も知らない私ではありません」
声は震えている。でも、想いははっきりしていた。
「神威様も、一人ではありません」
天也の瞳が揺れる。
「私たちは、杏樹さまのことも、愁のことも、白銀のことも知っています。だから、同じ夜にはしません」
芹は天也の手を取った。
「二人で、選び直しましょう」
天也は長い間、何も言わなかった。
風が吹き、祠の周囲に残った霧を散らしていく。
愁は木に身体を預けるようにして、静かに息をしている。
杏樹の櫛が、芹の髪で淡く光っていた。
やがて、天也はふっと息を漏らした。
「……お前は、本当に無茶を言う」
「神威様に似たのかもしれません」
「俺はそんな無茶は言わない」
「言います」
芹が即答すると、天也は少しだけ目を伏せた。
そして、静かに芹の手を握り返す。
「分かった」
その一言に、芹の胸が震えた。
「婚姻を結ぼう」
天也は言った。
「だが、白銀の望む形にはしない」
「はい」
「今度は、俺がお前を守るだけではない」
天也の手に力がこもる。
「共に戦う」
芹は涙を浮かべながら頷いた。
「はい」
その瞬間、星見の鏡が淡く光った。
鏡の中に、三本の糸が映る。
薄桃色の愁の糸。金色の杏樹の糸。そして、翡翠色の天也の糸。それらが、芹の星の糸へ静かに繋がっている。
縛るのではなく、支えるように。
芹は櫛へそっと触れた。
(見ていてください、杏樹さま)
そして、愁を見た。
(待っていて、愁)
最後に、天也を見つめる。
この人を失いたくない。その気持ちは、確かに愛なのだと思う。
けれどそれは、閉じ込めるためのものではなく、共に立つためのものだ。
芹は胸の奥で、その糸を強く握った。

