白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 翌朝、芹は杏樹の櫛を髪に差した。
 鏡の中の自分は、昨日までとは少し違って見えた。強くなったわけではない。怖さも悲しみも、胸の奥にある。それでも、目だけは逸らしていなかった。
「……行ってきます」
 鏡越しに櫛へそう告げる。
 今ここに杏樹が居たならば、きっと笑うだろう。
 ――行ってらっしゃい、と。その声を想像しただけで胸が痛んだが、芹は泣かなかった。
 今日は泣くための日ではない。愁を迎えに行く日だ。
 部屋を出ると、廊下の先に天也が立っていた。
 黒い装束に翡翠の刀。いつもと同じ姿なのに、その佇まいはどこか張り詰めている。
「支度は」
「できました」
 芹が頷くと、天也の視線が一瞬、髪の櫛に向いた。
「似合っている」
 昨日と同じ言葉。けれど今日は、少しだけ声音がやわらかかった。
 芹は胸が熱くなるのを感じながら、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「行くぞ」
「はい」
 庭へ出ると、父の楊憲が待っていた。手には護符と、古い鈴がある。
「父様、その鈴は?」
「縹家に伝わるものだよ。その昔、巫女姫が使われたと聞いている。役に立つかは分からないが、持っていきなさい」
 芹は両手で鈴を受け取った。
 揺らすと、澄んだ音が鳴った。その音が胸の奥まで届いた瞬間、星見の鏡が懐で微かに震える。
「……反応しています」
「なら、持っていくといい」
 楊憲は穏やかに言った。
「芹。怖いかい」
「怖いわ」
 楊憲は少し驚いたように目を瞬かせ、それから優しく笑う。
「そうか」
「でも、行くわ。愁を連れて帰るから」
 楊憲は芹の頭にそっと手を置いた。
「行っておいで」
 その言葉に、胸が詰まる。
 愁が言ってくれた「帰ってきてください」とは違う。杏樹が言った「ただいま」とも違う。父の「行っておいで」は、芹を信じて送り出す言葉だった。
 芹は頷き、天也とともに裏山へ向かった。

 山道は静かだった。木々の間から朝の光がこぼれ、足元に淡い模様を落としている。だが、奥へ進むほど空気は冷えていった。
 裏山の祠。愁との結びの記憶が眠る場所。母を亡くして泣き続けていた幼い芹に、愁が教えてくれた場所。
 泣いてもいい。でも、泣き終わったら帰りましょう。あの時の愁の声は、今も胸の奥に残っている。
 白銀に歪められる前の、愁の本当の愛。芹を閉じ込めるためではなく、ひとりにしないための優しさ。
(……必ず、思い出してもらう)
 芹は懐の鏡に手を添えた。
 祠が見えてきた。苔むした小さな石の祠だ。周囲には薄い霧が立ち込めていおり、朝の霧にしては冷たい。肌を撫でる空気が、ぞくりと背筋を這う。
 天也が芹を庇うように一歩前へ出る。
「離れるな」
「はい」
 芹が鈴を握りしめると、霧の向こうから声が響いた。
「姫様」
 愁の声だった。
 芹の胸が大きく鳴る。
 祠の前に、愁が立っていた。以前より痩せたように見える。顔色は青白く、目元には疲労が滲んでいる。けれど、その瞳にはまだ愁の色があった。
「愁……!」
 駆け寄りたい気持ちを抑え、芹は足を止めた。
 愁の背後に、白銀の影が立っていたからだ。風など吹いていないのに、銀の髪がたなびいている。
「来たか、星見の娘」
「愁から離れて」
 震える声で言った芹を見て、白銀は愉快そうに目を細める。
「離す? これは自ら私を呼んだのだ」
「違うわ」
「違わぬ。お前を失いたくない。お前が他の男のもとへ行くのが苦しい。お前が知らない顔で笑うのが許せない。そう願っていた」
「愁の願いを歪めたのは、あなたでしょう」
 芹は一歩前へ出る。隣にいる天也が刀に手をかける。
「愁は私を閉じ込めたいわけじゃない。ひとりにしたくなかっただけ」
 愁の瞳が揺れた。
「姫様……」
「覚えている? ここで、私が泣いていた時のこと」
 芹は鈴を握る手に力を込める。
「母様が亡くなって、私は帰りたくないって泣いていた。愁は困った顔をして、それでもそばにいてくれたわ」
「……覚えて、います」
「あなたは言ってくれた。泣き終わったら一緒に帰りましょうって」
「…………」
「私を閉じ込めようとしたんじゃない。一緒に帰ろうとしてくれたの」
 白銀の手が、愁の肩を強く掴んだ。
「聞くな」
 白銀が低い声で囁きかけると、愁の顔が苦痛に歪んだ。
「姫様、私は……」
「思い出して!」
 芹は鈴を鳴らした。
 ちりん、と澄んだ音が響く。星見の鏡が光り、芹の視界に糸が現れた。
 愁の薄桃色の糸。その周りに絡みつく銀の糸。昨日よりも強く、深く絡まっている。
 けれど、薄桃色は消えていない。愁は、まだ愁のままだ。
「神威様、見えました。愁の糸を辿ります」
「俺が守る」
 その一言で、芹は頷いた。鏡を掲げ、愁の糸へ意識を伸ばす。
 銀の糸がすぐに反応した。白銀の声が頭の中へ入り込む。
 ――触れるな。
(触れるわ)
 芹は心の中で答えた。
(これは、愁の糸よ。あなたのものではない)
 銀の糸が襲いかかる。同時に、白銀の後方から鬼が現れた。
 即座に天也が動き、翡翠の刀が朝の光を裂いた。鬼の爪を弾き、足を払い、一閃で斬り伏せる。その背中を感じながら、芹は愁の糸へ触れた。
 次の瞬間、目の前に広がったのは、幼い日の祠だった。
 小さな芹が泣いている。肩を震わせ、ぽろぽろと涙を零していた。
 その隣には愁がいる。まだ幼い愁は、困ったように眉を下げながらも、必死に芹を慰めようとしていた。不器用な手つきで背を撫で、何度も話しかけている。
 ――姫様が帰りたくなるまで、私はここにいます。
 ――ずっと?
 ――はい。ずっと。
 その「ずっと」は、閉じ込めるためのものではなかった。
 泣き止むまで。歩き出せるまで。一緒に帰れるまで。寄り添うための「ずっと」だった。
(愁)
 芹はその記憶に向かって呼びかける。
(あなたの愛は、私を縛るものじゃない)
 銀の糸が軋み、白銀が笑った。
「綺麗ごとだ。人は皆、愛する者を縛りたい。失いたくないと願うなら、結局は同じだ」
「違う!」
 芹は声を張った。
「失いたくないと思うことと、相手の道を奪うことは違う!」
 愁の糸が震える。
「愁は、私を送り出すこともできる人です」
「嘘だ。これはお前を渡したくない」
「それでも、愁は私を傷つけたくないと思っている」
 芹は涙を堪えながら言う。
「その心が残っているから、あなたに抗っている!」
 愁が苦しげに呻いた。白銀の手を振り払おうとしている。
「姫様……私は」
「帰りましょう、愁」
 芹は手を伸ばす。
 現実では届かない。けれど、星見の鏡の中の世界でなら届く。
 愁の薄桃色の糸に、そっと手を重ねる。
「一緒に帰りましょう」
 その瞬間、愁の糸が強く光った。
 銀の糸が一本するりとほどけ、白銀の表情が歪んだ。
「小娘……!」
 鬼が続々と現れ襲いかかってくるが、天也が芹の前に立ち、次々と斬り伏せていく。
「鬼は俺が引き受ける。だからお前は為すべきことを成せ」
 芹は頷き、さらに意識を凝らした。